08.クリスさんとキスがしたいです。

 仲良くなったと思っていたのは、クリストフがスヴィのことを妹のように思っていたから。

 それが嬉しくないというわけじゃない。

 しかしこれは、友達から進んでいるのか、それとも後退してしまっているのか……。

 なんとしても前に進みたいスヴィは、キッと声を上げた。


「クリスさん……私のことを本当に妹だと思ってるんなら、おやすみのキスくらいしてください!」

「今、妹はいやって言ったよな?!」

「いやですけどー! どさくさに紛れます! キスしてくれるなら、妹でもいいです!!」

「いいんだ!」


 スヴィは目を瞑ると、ただただ驚いているクリストフに向かって顔を上げた。


「ス、スヴィ……」

「妹になら、できますよね? おやすみのキスくらい」


 妹と言ったのは、クリストフの方だ。ここで躊躇するなら、本当は妹と思っていないということになる。


「……わかった」


 了承の言葉が聞こえて、スヴィの緊張は高まった。

 スヴィはクリストフに両肩を掴まれ、そして──


 ちゅ、と音がした。


「……クリスさん」

「なに?」

「おでこじゃないですかーー!! 唇にしてください、唇に!!」

「普通、唇にキスはしないだろ?! 妹に向かって!」

「本当は妹じゃないからオッケーです!」

「それはそうだけどさ?! なんか言いくるめられそうだからやめて?!」


 残念ながら、どさくさ紛れに言いくるめる作戦はうまくいかなかったようだ。

 ちぇ、とスヴィは口を尖らせる。


「第一、スヴィは誰かとキスしたことあるのか?」

「いえ、ないです。だからもらってください」

「ファーストキスじゃないか。責任重大だよ、まったく……」


 クリストフは頭を抱えながら、ベッドの上に腰掛けている。

 スヴィは手に台本を持ったまま、その隣にストンと座った。


「私はいつでも準備オッケーです!」

「いや、僕が準備オッケーじゃないから」


 拒否するように手のひらを向けられて、スヴィは少し唇を噛んだ。


「私とするの、そんなにいやですか……」

「いやというわけじゃないよ。ただ、もっと大切にした方がいいんじゃない?」


 スヴィは、ずっと大切にしてきた。だからこその、今だ。

 どさくさ紛れにキスしてもらおうとはしたが、けっして誰でも良かったわけじゃない。

 クリストフだから言えたのだ。クリストフでなければいやなのだ。

 なのに、彼には逃げられてしまった。もっと大切にした方がいいと。


「私、ファーストキスはクリスさんが良いんです……どうしたらキスしてくれますか……?」

「スヴィ……」

「それとも、キスしたくないくらい私のことが嫌いですか?」


 喉の奥で涙を堰き止めて、クリストフに訴える。

 彼はなにを言うべきか悩んだようにしばらく息を止めて、そして言葉と共に吐き出した。


「嫌いだったら休みごとに会ったりしないし、家にも呼ばないし、ましてや部屋になんて入れないよ。スヴィは可愛いし、仕事も一生懸命だし、見ていても話していても飽きない……好きだよ」


 好き。

 そのたった一言はものすごい破壊力だった。

 この上ない喜びが湧き上がってくると同時に、地獄に突き落とされたような気分にもなる。

 その〝好き〟は、スヴィの気持ちとは違う〝好き〟なのだろうということがわかってしまって。


「スヴィのことを本当に大切に思ってる。だからこそ、心のこもらないキスはできないよ」


 心臓が、悲しみという鉛に潰されて死ぬかもしれない。

 大切に思ってくれているなら、キスしてくれてもいいのにとも思う。


「……でもクリスさんは、舞台の上で女優さんとキスすること、ありますよね?!」

「えっ」

「私、がっちり見てました!! フリじゃなくて、しっかりばっちり唇が合わさってたのを!!」

「いや、まぁ、角度によっては本当にやらなきゃいけない時もあるわけで……」

「それは、心のこもってないキスじゃないんですか?!」

「〝役〟としての心はこもってるよ」


 役であれば、本当は心がその人になくても、キスできるということだろうか。

 ならば、とスヴィは手の中の台本を広げた。


「じゃあ、これを一緒に演じてください!!」

「……え?」


 スヴィはペラペラとページをめくって、その部分を見つけた。


「ここの! ページを! 私と一緒に演じてください!」

「……いや、ここはちょっと……」

「え、できないんですか? 俳優なのに? ああ、本職は営業でしたもんね!」

「やるよ。このページだろ」


 一瞬だけムッとしたクリストフはさらさらと台本に目を走らせると、すっくとベッドから立ち上がった。

 その一瞬で、優しかった顔が鋭く変わる。


「『気に食わんな。俺をうろたえさせて楽しいか?』」


 目の前で、自分のためにだけされる演技。どきんと胸が鳴って思わず魅入ってしまう。

 しかし次はヒロインのセリフだったと、慌てて台本を見た。


「『ハイ、トテモ楽シイデス』」

「いや、演技ひどすぎるから!!」

「だ、だって演技なんてやったことないんですもんー!」

「やり直し。せめてもっと心を込めてくれ。じゃないと僕も役に入りきれない」

「はいぃ……」


 演劇のスイッチが入ってしまったのか、クリストフは真剣そのものだ。ヒロインのセリフを何度もチェックされ、立ち位置や表情、この時のヒロインの感情までも考察させられる。

 何回も何回もやり直しさせられるうちに、なんとか耐え得るくらいの演技はなってきたようだ。


「じゃあ、通しでやってみよう」


 そういうとクリストフは物語のヒーローが乗り移ったかのように雰囲気が変わった。


「『気に食わんな。俺をうろたえさせて楽しいか?』」

「『はい、とても楽しいです』」


 ここはクスクスと笑うような仕草で、と思い出しながらセリフを言う。

 クリストフがツカツカと歩いてくると、スヴィの顎をくいっと持ち上げた。


「『俺はお前の取り乱した姿が見たい』」


 その真剣な瞳に、頭が白く飛びそうになる。


「『シ、シウリス様……』」


 台本にあったようにクリストフは上着を脱いだ。しかしそれ一枚しか着ていなかったので、素肌が丸見えだ。

 驚く間もなく、スヴィはベッドの上へと押し倒される。


「『アンナ……俺は確かめたい。確かめ……合いたい』」


 どこかつらく苦しそうなその表情に、スヴィまでも胸を締め付けられた。


「『はい、私も……です』」


 ゆっくりと迫ってくるクリストフ。そのまま受け入れてしまいたいが、スヴィはそっとその胸板を押さえた。


「『優しく……してください……ね?』」


 上目遣いでクリストフを見ると、彼は優しく目を細めて微笑んでくれる。


「『ああ、わかった』」


 その言葉を聞くと、クリストフを押さえていた手が勝手にするりと外れた。


 心臓がバクンバクンと脈打って、ゆっくり近づいてくる唇を見つめる。


 わ、本当に……っ!


 ゆっくり……ゆっくりと、クリストフの唇が、スヴィの唇に重なった。

 身体中が熱くなって焼け焦げそうだ。


 唇の端から端を往復され、頭がぼうっとしている。近すぎて見えなかったクリストフの顔が、だんだんと視界に入ってくる。

 優しい顔。優しい笑み。

 キスしてしまうと、だめだ。

 ますますクリストフしか見えなくなってしまう。


「『俺たちは、愛を確かめ合えたんだな……』」

「『はい、シウリス様……』」


 ぽろりと涙が溢れてきた。好きという感情が泉のように湧き出てきて止まらない。


「『嬉し涙……か?』」

「『はい……』」


 ヒロインは、本当に嬉し涙だったのだろう。けれど、スヴィはなぜ自分が泣いているのかわからなかった。演技で泣けるほど、器用ではない。


 クリストフは最後の仕上げとばかり、スヴィを強く抱きしめてくれて。

 スヴィもまた、彼の体をギュッと抱きしめた。

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