09.クリスさんのことが、好きです。
しばらくの間そうしていたかと思うと、クリストフはゆっくりとスヴィから離れていった。
その顔は役のシウリスではなく、いつもの優しい瞳のクリストフだった。
「スヴィ、大丈夫かい? 魂抜けかけてない?」
「はふーー、クリスさんの鎖骨から胸筋にかけて、見るだけじゃなく触れられて幸せです! もう一回触らせてください!」
「いやだよっ!」
「ちぇーっ」
口を尖らせていると、クリストフが落とした服を拾い上げている。
服を着る前にせっかくだからと、スヴィはその体を凝視した。
「……そんなに見られると、恥ずかしいんだけど」
「だって、もうすっごくいい体で!!」
「どこがだよ。騎士はもっといい体してるだろ? リカルドさんなんて無駄な肉なんかひとっつもなくて、細身でガチガチのすごい筋肉してるよ」
「騎士の筋肉なんて見られたもんじゃありません!! 馬鹿みたいに筋肉ばっかりでゴツゴツですよ?! その点クリスさんの筋肉はしなやかで手触りも良くて──」
「声が大きいよ! ここには僕の家族もいるんだから!」
「むぐっ」
バフっと口を手で押さえられて言葉が遮られる。服を羽織っただけのクリストフの体はスヴィから丸見えで、眼福眼福と心で涎を垂らした。
「静かにしてくれる?」
ちょっと怒った双眸がスヴィの心をズバンと撃ち抜き、こくこくと承諾の頷きを見せる。
それを確認したクリストフはほっと息を吐いて、口元から手を離してくれた。
「演技、最初は酷かったけど、なかなか上手くできてたよ、スヴィ。まさか、本当に泣くとは思ってなかった」
「あれは──なんだかよくわからなくなっちゃって」
「よくわからなく?」
スヴィはこくりと頷いて、自分の頭の中を整理しながら話す。
「私、クリスさんとキスできて嬉しくて……でも、こんな形でしかクリスさんとキスできないのかと思うと、悲しくて……」
「……そっか」
スヴィの腰掛けているベッドの隣に、クリストフも腰を掛けながらボタンを締めている。
そんな服を着る姿を見るだけで、スヴィの想いは溢れてきた。
「私、やっぱりクリスさんが好きです」
「うん……ありがとう」
「少しは、嬉しいですか?」
「もちろん。めちゃくちゃ嬉しいよ」
嬉しいと言ってくれているのに切なくなる。嬉しいというならば、どうして受け入れてくれないのかと、悔しさが顔を出す。
「クリスさんは私のことを好きって言ってくれましたけど、それってどういう意味の好きです?」
やはり、妹としての好きなのだろうか。断言されるのは怖かったが、スヴィは思い切って聞いてみた。するとクリストフは、少し困ったように眉を下げている。
「一つには絞れないよ。スヴィのことは友達としても好きだし、妹のように好きでもあるし、恋愛感情としての好きもあると思う」
「ほ、本当ですか?!」
恋愛感情としての好きもあると言われて、スヴィは飛び上がった。ゼロかもしれないと思っていた可能性が、一気に膨らんでいく。
「そんなに! 好きがあるなら! 付き合ってくれてもいいんじゃないかと思うんですが! そしてゆくゆくは結婚ー!!」
「相変わらずだねぇ」
スヴィの勢いに慣れたクリストフは、あははと軽く笑っている。
「ダメですか……?」
「うーん、スヴィと結婚したら、毎日が楽しいだろうなと思うよ」
「だったら!」
「ごめん。まだ決断はできないんだ」
少し目を沈ませたクリストフに、スヴィは眉を寄せた。
「どうして、ですか?」
「スヴィに関わらずだけど、誰かと付き合うとなったり、ましてや結婚となると……僕は、諦めなきゃいけないことが出てきてしまう」
「諦める?」
スヴィは首を傾げた。どうして人と付き合ったり結婚することで、なにかを諦めなければいけないのか、意味がわからない。
「えーと、ウハウハハーレムをですか?」
「そんなの望んでないよ!」
「独身貴族?」
「いや、どちらかというと結婚願望はある方なんだ」
「じゃあ……」
他にはなにがあるだろうかと、スヴィはない頭で考え抜いた。
「もしかして、演劇ですか? 私、クリスさんが女優さんとキスしてたからって、怒ったりやめろと言ったりなんかしませんよ。クリスさんの演劇の大ファンですから。今までも、これからもずっと」
スヴィが真っ直ぐに伝えるも、クリストフは少し切なそうに顔を歪めている。
「当たり、ですか?」
「半分ね」
それしか応えてくれなかった。残りの半分が気になったが、教えてくれる様子はない。
「僕の心に決着がつけば、ちゃんとスヴィにも答えを出すつもりでいる」
「答え……付き合える確率は、どれくらいですか?!」
「うーん、半々……かなぁ」
半々。多いような少ないような中途半端な確率は、体になにかを這われるようなもぞもぞとした感覚がして気持ち悪い。
「スヴィも若いとはいえ、もう結婚を考える年だし、早く答えを出さなきゃとは思ってる。けど、今の関係が終わると思うと、答えを引き伸ばしてしまってるんだ」
「関係が……え、終わっちゃうんですか?! 私、振られちゃったら、友達にも戻れないんですか?!」
「んー、それはスヴィ次第かな。僕が近くにいることでスヴィが前に進めないのなら、すっぱりと縁を切った方がいいと思う。それがスヴィのためだから」
「う! 引きずりそうです!」
「はは、じゃあダメだな」
ぽんと背中を叩かれながら笑われ、スヴィはそうなった時のことを考えた。
「でも、多分、どっちも引きずると思います。そのまま友達を続けてくれても、すっぱりと縁を切られたとしても。だって、こんなに好きになった人、生まれて初めてですから」
クリストフを見上げてにっこり笑って見せる。上手く笑えていたかどうかは、わからないが。
「……そっか。それは、嬉しいような、申し訳ないような気がするよ」
先ほど背中を叩いていた手で、今度は頭を撫でてくれる。
これは、妹への扱いかもしれない。けど、それでも嬉しい。
「えへへ……クリスさん、大好きです」
そう言った瞬間、クリストフの顔が一瞬にして耳まで赤くなった。
何度も告白しているので、もうわかっていることだろうのにと、スヴィは首を傾げる。
「クリスさん?」
「やばい……」
「え?」
クリストフは顔を真っ赤にしたまま、口元を隠すように手で隠している。
「その顔、反則だよ。めちゃくちゃ、かわいい……っ」
一体、どんな顔をしていたというのだろうか。自分の顔を確認できないスヴィは、今の顔を再現したくても上手くできない。
「そんなに、かわいかったですか?」
「かわいいよ。スヴィはいつでもかわいいけど、今のは特別かわいかった」
「どんな顔してました?! こんな顔??」
「……いや、それもかわいいけども」
「かわいくないって顔してますー!!」
「いやいや、かわいいよ! ほんとかわいい!」
むーっと頬を膨らませて口を尖らせると、クリストフが上から覗き込んでくる。
「あー、もうやばいよ、スヴィ」
「なにがですか?」
「かわいすぎて……キスしたくなってきた」
「っえ? い、いい、ですよ?」
予想していなかった言葉を言われ、スヴィの頬に熱が帯びる。
ドキドキという音を紛らわせるために、クリストフの服のすそをキュッと握った。
「僕の理性を試さないでくれ……」
「た、試してないですよ! 私だってしたいですし……!」
「スヴィ……」
「もう二度目ですし! 遠慮なく、こうブチュっとひとおもいにやっちゃってください!」
「そんな魔物倒すみたいに言われても!」
「ほら、ブチュッと! ぜひ、えいやっとどうぞ! カモン!!」
「っぷ、あははは!! ックク、ほんっと最高だよ、スヴィは!」
真剣にキスをしてと訴えたのだが、クリストフは腹を抱えて笑ってしまった。なにが悪かったのだろうか。もうキスをする体勢ではなくなってしまっている。
「え、ちゅ、ちゅーは……」
「しなーいよ」
ちゅーっと唇をすぼめて訴えるも、ピシッとデコピンを食らってしまっただけだった。
だけど、その目は誰よりも優しく細められていて。
スヴィは少しだけ痛かったおでこを両手で押さえながら、クリストフを見上げた。
「スヴィ、僕も君が大好きだよ」
「クリスさ……」
スヴィの手首がクリストフにギュッと握られた。おでこを隠していたスヴィの両手は、クリストフによって左右に開かれる。
「デコピンして、ごめんね?」
そういうとクリストフはぐんっと近づき。
「っえ……?」
温かい唇が、スヴィのおでこに一瞬だけ乗った。
ナイトテーブルの上にあるランプだけが、その様子をちらちらと灯していた。
「おやすみ、スヴィ。いい夢を」
それはただのおやすみのキスだったかもしれない。
けれど、スヴィが要求したわけではない、クリストフの意思でしてくれたキスだった。
「この部屋、使っていいよ。僕が向こうで寝るから」
ゼロだった距離が、少しずつ遠ざかっていく。
「また、明日ね」
爽やかでいてセクシーな笑顔を見せたクリスは、そのままパタンと部屋を出ていった。
その扉をしばらくぼうっと見つめてから、ようやくなにが起こったのか理解が追いついてくる。
クリスさんが私のこと、好きって……大好きって言ってくれたぁ!!
身体中から力が集まってくるようで、スヴィは胸の前でぎゅっと手を握る。
最後のキスは、きっと、心が、こもっていた。
嬉しすぎて、そこらじゅうを走り回りたいような、叫びたいような衝動に駆られる。
どうしよう、好き、好き!!
もう私には、クリスさんしかいないよーっ!!
ばふんとベッドに頭をつけて悶えてから、狼の遠吠えのように上体を上げて。
「はぁぁあ!! クリスさぁぁあああん、だいすきぃぃいいいい!!」
「ちょ、筒抜けだから!!」
「一緒に寝たかったですーーーーっ!!」
「家族がいるからホントやめて!!?」
どこからか聞こえてきたクリストフの声にほっとしたスヴィは、そのままベッドに倒れ込むと、あっという間に眠りに落ちた。
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