赤心と舌とを、我が君に捧ぐ
五色ひいらぎ
赤心と舌とを、我が君に捧ぐ
おいしい料理――という言葉の意味が、僕にはずっとわからなかった。
とれたての果実や野菜はおいしい。歯ごたえがさくさくしていて、たっぷりの汁気も瑞々しい。
汲みたての鉱泉水もおいしい。水にも味があるんだと、良い水を飲むとよくわかる。水瓶の中で臭くなった水とは全然違っていて、清らかな中にコクのようなものさえ感じる。
みんな、神様が作ったそのままだ。とりたての新鮮な食材は、おいしい。
けれど、人の手が入った料理は、全然そんなことない。
例えば、いま目の前にあるサラダ。キャベツ、ほうれん草、クレソンの上に、オリーブ油と酢のドレッシングがかかっている。でも葉っぱはしなびているし、酢の酸っぱさがきつい。オリーブ油も古くて変質しかかっている。
どうして、こんな風に台無しにしてしまうんだろう。これなら、葉をそのまま食べた方がずっとましだ。
いやな味のサラダを仕方なく口に入れていると、テーブルの向こうからお父様とお母様ににらまれた。
「少しは笑え、レナート。我が家の食卓では大目に見てもやれる、だがお前ももう大人だ」
「王宮の宴で、そのような顔をしてはなりませんよ。おいしそうに食べるのが、招かれた者としての礼儀です」
ああ、またいつものお小言だ。
兄さんや姉さんたちはおいしそうに食べるのに、どうして僕はそうじゃないのか。物心ついた頃から、ずっとそう言われて
でもしかたがない。おいしくないものはおいしくないんだから。焼きすぎた肉も、鮮度の落ちた魚も、何も考えずにたくさん混ぜられた香辛料も。
僕もがんばったんだ。がんばって、おいしいと思おうとしたんだ。それでもだめだったんだよ。
「……わかりました」
「なんだ、その気のない返事は。まったくわかっていないな」
お父様が冷たく僕を見る。
わかってる、下級貴族の四男なんて邪魔なだけの存在だ。居ても役に立たないのに、王宮でへまをして家名に傷を付けられたら困る――そう、態度に書いてある。
お父様が、これみよがしに深く溜息をついた。
「……おまえの仏頂面、今更どうにかしろとは言わん。だが外では、発言だけは厳に慎め。出された食事に不満を言うな。黙って食し、食後には礼を言え」
「はい」
父さんはまだ何か言おうとしている。それを遮るように、僕は目の前のしなびた葉っぱを口に運んだ。
歯に張り付くようなべったりした食感に、古びた油の臭いが混じる。吐き出しそうになりながら、僕はどうにか、サラダを口に押し込んだ。
デリツィオーゾの王宮では、年に一度「成年の宴」が開かれる。
その年に十五歳、すなわち成人になる貴族の子供を集め、国王陛下が食事と酒を振舞ってくださるのだ。僕も今年十五歳だから、招待状が届いている。成人として初の晴れ舞台――のはずなのだけれど、僕の心は晴れなかった。
王宮の料理も、やっぱりおいしくないんだろうか。
城の大広間には、白いテーブルクロスのかかった長机が何脚も並んでいる。一番出口に近い所――末席に、僕は腰を下ろした。入ってきた他の子弟たちも、身分に応じた席に次々着席していく。皆、目が輝いていた。
……こんなにどんよりした気持ちになっているのは、僕だけかもしれない。
「皆さん、着席されましたね。それでは、フェルディナンド国王陛下からのお言葉をいただきます」
言い終わった侍従さんが促すと、豪華なローブに身を包んだ恰幅の良い中年男性がやってきた。国王陛下、遠目には見たことがあったけれど、この距離で拝見するのは初めてだ。
陛下のお言葉は、聖典の内容を引いた模範的な……悪く言えばあたりさわりのないものだった。陛下に非礼はできないから聞いているけれど、そうでなければ多くの新成人は寝てしまっていただろう。
退屈なお言葉が終わり、陛下の手元のグラスにワインが注がれた。居並ぶ新成人のグラスにも、次々と赤い飲物が注がれていく。末席の僕らの所までグラスが満ちたのを確かめ、王様は杯を掲げた。
「それでは若人たちの前途と、デリツィオーゾの更なる繁栄を祈念して――」
居並ぶ若者たちも、右手にグラスを掲げる。
「乾杯!」
陛下の声に応えて、一斉に多くの声があがる。
「乾杯!」
「乾杯」
「乾杯ー!」
皆が一斉に、グラスに口を付ける。
僕も、赤い液体を口に含み――気持ち悪くなった。
おいしくない。
たぶん、糖蜜じゃなくて蜂蜜。それもあまり質は良くない。
グラスを手にしたまま動けずにいると、陛下の声がした。
「そこの若人よ、どうかしたかね」
僕のことを言われていると、気付くまでにしばらくかかった。
「ワインは口に合わなかったかな」
「いえ……そういう、わけでは」
どう答えようか迷ううちに、上座の方から声があがる。
「家柄のない者には、良いワインの味もわからないのでしょう。安い舌には、混ぜ物だらけの安酒が似合いですよ」
潜めた笑いが、さざめくように広がる。
……でもそれで、言う気になった。
「このお酒……混ぜ物が入っています。たぶん、甘味を増すための蜜です」
上座の笑いが、大きくなった。
陛下の側で、侍従さんが咳払いをして僕をにらんだ。
「王室御用達の醸造所が、そのようなことをするわけがない……酒の良し悪しも分からぬ身で、妄言を吐くものではないぞ」
「でも確かに、このお酒には葡萄じゃない何かの甘味があります。自然に混ざった味じゃありません」
なおも何かを言おうとする侍従さんを、陛下が手で制した。
「慎め、今は宴のさなかだ。……そこの者。名をなんという」
怖れていたことが、起きてしまった。
おそらく僕は、宴を乱した咎で罰せられるだろう。そして、名乗ってしまえば、累は家に及ぶ。
けれど陛下に訊ねられて、黙っていることもできない。
「レナート・ランベルティーニです」
「ほう。ランベルティーニ家か……すまんが、今はめでたい宴の席。話はあとで聞くゆえ、しばし下がっておってはくれぬかな」
陛下の言葉と同時に、衛兵が僕の脇に立つ。
促されるままに、僕は宴の席から引き離されてしまった。
通された先は狭い部屋だった。けれど調度品は立派で、罪人を留め置く部屋には見えない。
やわらかな椅子に座った僕の前に、薄切り肉の皿が置かれた。香ばしい脂の香りをさせる肉に、給仕さんが赤黒いソースをかける。
「どうぞ」
促されるままに、僕は肉をひと切れ口に運んだ。
……うちの食事よりは、ずっと良い味だ。でも、焼きすぎた肉が少し固い。火を通すのを短くすれば、もっと柔らかくできるのに。
ソースの方は……悪くない。赤ワインにニンニクや玉葱を混ぜてあって、渋味と強い香気が肉の風味には合っている。少々ニンニクが強すぎるきらいはあるけれど。
けど僕の舌には、かすかな違和感もあった。ソースにほんの少し、変な味が混じっている。
はじめは、このワインにも混ぜ物がされているのだと思った。でも、さっきの蜜とは明らかに違う。甘いのだけれど、甘さそれ自体が目的ではないような……変にひねくれた甘味を、わずかに感じる。
なんだろう、これは?
「おいしいかね」
いつのまにか、目の前に陛下がいらしていた。あわてて頭を下げると、頭上から声が降ってくる。
「よいよい、頭を上げよ。……して、その肉はおいしかったかね、レナート・ランベルティーニ君」
「はい。家で食べるものとは、比べ物にならないほどに」
「ほう、そうか。それはなにより」
僕は迷った。言ってしまってもいいのだろうか。ソースのかすかな違和感を。
「……何か、言いたいことがあるようだな?」
見抜かれた。それはそうだ、王様はこの国を統べる御方。齢十五の若造の表情を読むなど、たやすいはず。
僕は、諦めた。
「ソースに……かすかに変な味がありました。甘いけれど甘ったるくはない、奇妙にひねくれた甘味が」
言えば、陛下は破顔一笑した。そして、傍らにいた侍従さんを振り向いた。
「聞いたか。やはりこの者、見立て通りだ」
「これは……驚きましたな」
何のことだろうか?
いぶかる僕の目を、陛下の瞳がまっすぐに見つめてくる。
「すまぬな。そのソースに、ベラドンナを少量混ぜさせた」
「……毒、ですか!?」
「心配ない、致死量にはほど遠いわずかな量だ。だが、たったあれだけの異物をみごと見抜くとはな……君はまさしく『神の舌』と呼ぶべき才の持ち主だ」
陛下の言葉に、頭が真っ白になる。
才? まさか? どんな料理もおいしいと感じられない、この厄介なだけの舌が!?
けれど陛下は、僕から目を離さないまま、続けてくださった。
「レナートよ、私のために働く気はないか。毒見人として」
息が止まるほど、驚いた。
「無論、無理にとは言わん。食物に毒が入れられれば、毒見人は私の代わりに命を落とす。いわば生ける盾だ……それでいて、戦場の兵士のような名誉はない。君が落命した時、死者を英雄として讃えるのは、命を救われた私ただ一人だろう」
喉が、からからに渇いていくのがわかる。
怖れじゃない、むしろ逆だ。僕はこの時、確かに興奮していた。
父さんにも母さんにも疎まれ続けた。いや、ランベルティーニ家の皆に煙たがられていた。
どんな料理も、おいしいと思えない舌。こんなものいらないと、ずっと思っていた。
でも、今……目の前に、僕の舌を欲しがっている人がいる。それも、この国を統べる御方。
涙が、滲む。
「だが、もし来てくれるなら……約束しよう。君には、できる限りおいしいものを食べさせる。なに、君の食べるものは私の食べるものだ。国王の美食に文句を言う者は、この国にはおるまい」
決めた。
僕はこの人に、一生ついていく。
この人を、命を賭けて守り抜く。
生まれて初めて、僕の舌を……僕を、欲しがってくれた御方。
僕は深く頭を下げた。
この命を捧げることで、僕があなたの英雄となれるのなら……喜んで
あなたもまた、僕を絶望の淵から救い出してくれた――僕の英雄、なのですから。
【終】
赤心と舌とを、我が君に捧ぐ 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki
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