第261話 プロローグ:サン・ピエトロ大聖堂に埋葬されし女性

 1645年 天国への扉前 マティルデ・ディ・カノッサ


 色のない、無色透明の魂がただよっている。


 あちらにポツリ、こちらにもポツリ。などというまばらな数ではない。


 開園時間直前のテーマパーク入り口を彷彿ほうふつとさせるほど、隙間もなく魂がひしめきあい、開門の時間をまだかまだかと待っている。


 開門? 


 そう、開門。


 なぜなら、ここは天国へと繋がる門である。


 葡萄とオリーブの蔦で飾られたその門は、見るものを圧倒する宗教的荘厳さを備えていた。


 その門前で待っている者の数も、テーマパークで入場を待つ者の数と比べ桁違いに多い。

 なにせ、生前キリスト教徒だった者の魂は全て、門前に集合しているのだ。


 彼らの興味はたった2つに集約される。


「天使のラッパはいつ鳴り響くのか」

 そして、

「聖ペテロに名前を呼ばれるだろうか」


 この世界が終わる最後の審判の時、七人の天使がラッパの音を高らかに響かせる。そのラッパを合図に、天国の扉が静かに開く。


 門番である聖ペテロは、煉獄に向かう者を呼ばず、天国に迎え入れる者の名前だけを静かに告げる。


 それが、死後の世界の真理。

 生前にキリスト教徒であった魂は皆、固唾を飲みつつ最後の審判の時をただひたすらに待っている。


 その緊張感あふれる中、場の雰囲気にそぐわない案内チャイムが鳴り響いた。


「ピン・ポン・パン・ポーン♪」


 一体なんだ、何が起こったのだ? どよめき中、魂たちへの呼びかけが始まった。


「聖ペテロからのお呼び出しの連絡です。マティルデ様、マティルデ・ディ・カノッサ様、至急天国への門へとお越しください。他の魂たちは、移動の邪魔をしてはなりません」


「な、名前が呼ばれたのか?」

「つまり、最後の審判が始まっただろうか」

「だが、まだ天使のラッパは鳴っていないぞ」


 ざわめく魂たちが、モーゼの海割りの如く2つに割れた。


 割れ目の端にはひとつの魂が浮かび、その先は天国の門へと続いている。


 そして、割れ目の一本道を、魂がゆらゆらと進んでいく。


 進むにつれて、魂は人の形を取り戻し、ついには妙齢の女性となった。


 その人こそ、聖ペテロに呼び出されたマティルデ・ディ・カノッサである。


「聖ペテロ様。お召しに従いマティルデ・ディ・カノッサ、御前に参りました」


 上級貴族であった生前を彷彿とさせる綺麗なカーテシーで挨拶するマティルデを、白髪の老人が破顔して迎え入れた。


「マティルデ・ディ・カノッサ嬢よ、おめでとう! 死後530年を経てそなたは本日、ローマのサンピエトロ大聖堂へと埋葬された」


 聖ペテロの名をかんするサン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の中心であり、全キリスト教徒の信仰の象徴である。その理由をあえて言うならば、ここが聖ペテロの墓なのである。


 聖ペテロと共に眠る墓所、そこに埋葬されるという事は、キリスト教最高の栄誉えいよであり、天国行きを約束されたも同然といえよう。


 このような栄誉を賜ったにもかかわらず、マティルデの顔には困惑が浮かんでいた。


「聖ペテロ様、最上級の栄誉を賜りました事、たいへん光栄にございます。しかし、私は女なのですが、聖ペテロ様のおそばに埋葬されて本当によろしかったのでしょうか」


 サン・ピエトロ大聖堂の地下には、聖ペトロ、そして聖人たちが安らかに眠っている。


 そして過去、女性がサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されたことはない。聖ペテロの言葉が本当ならば、マティルデが初の女性埋葬者となる。


 だが、考えても見てほしい。カトリックは聖職者の妻帯を禁じているのだ。

 遺骸いがいとはいえ、女性であるマティルデが隣に横たわるのは如何いかがなものであろう。


 しかしながら、聖ペテロは一瞬目を丸くした後、「うわっはっは」とマティルデの懸念を豪快に笑い飛ばした。


「なぁに、心配には及ばんよ。魂は天国の扉前にいるのじゃ。男女の遺体が枕を共にしたとて、間違いが起きるはずもなかろうて」


 その言葉に安堵の息をらしたマティルデを、聖ペトロは穏やかな目で見つつ言葉を続けた。


「マティルデよ、そなたに褒美をつかわそうと思うのじゃが、何か望みはあるか?」


 カトリックで初めてサン・ピエトロ教会に埋葬される女性となったマティルデに、その栄誉に相応しい賜物たまものを授けると聖ペトロが言う。


希望のぞみ、ですか?」


 ふたたび困惑顔になったマティルデに、聖ペテロがうなずき返す。


「広大なトスカーナ辺境伯領は、そなたの死後、教皇庁の所有となった。それがキリスト教の布教に大いなる貢献を果たしたことは疑いようもない」


 後継者のいなかったマティルデの領土は紆余曲折の後、全て教皇領となった。これが教皇庁の財政に大いにうるおした。その事に言及されたマティルデは頬を赤らめる。


「ただ継嗣けいしに恵まれなかっただけの結果に過ぎません。ですが、聖ペテロにお褒めいただき光栄に存じます」


「その結果が450年後の埋葬というわけじゃが、それだけでは報いるところが少ないと思っての。女性初という栄誉をたたえるためにも、お主の希望なんでも一つ、かなえてしんぜよう」


「本当に、よろしいのですか?」


 驚きの声を上げるマティルデに対し、聖ペテロは誇らしげに胸を張って答えた。


「ああ、儂が言うもなんじゃが、神より授かった我が権能は、非常に大きなものなのじゃぞ」


 マティルデはすこし考えた後、願いを口にした。


「私は前世で成し遂げられなかった事に心残りがあります。願わくば、もう一度、人生をやり直したいと存じます」


 緊張のあまりか、強く握られたマティルデの手が震えている。


「理由を聞いても良いかの」


 聖ペテロの返答に「ええ、もちろんです」と首肯した後、マティルデは理由を語り出す。


「ご存知の通り、私は子供に恵まれませんでした。いえ、それ以前に夫に恵まれませんでした」


 一人目の夫は、髭公ゴットフリート三世の息子、ゴットフリート四世である。


 教養なく、粗暴な振る舞いの目立つゴットフリート四世と、数か国語を流暢に操り、教養比類なき女性とうたわれたマティルデとでは、まさに野獣と美女。まったく釣り合いが取れない夫婦であった。


 そして、二人目の夫であるバイエルン公ヴェルフ四世も、マティルデと寝所を共にしたのは新婚時の一回だけという不仲ぶりだった。


「マティルデよ。たしかにお主は配偶者に恵まれなかったのぉ」

「はい……」


 同情のこもったため息をこぼす聖ペテロは、マティルデの望みを具体化する提案をおこなった。


「では、他人に転生してみるか? もちろん素晴らしい夫も手配しておこう」


 だが、マティルデは首を横に振った。


「もし可能であれば他人ではなく、再びトスカーナ辺境伯のマティルデに生まれ変わりたいのです。

 私は辺境伯の地位に誇りを持っています。次の人生では、トスカーナを守り、そして次代へと継承したいのです」



「なるほど。もう一度、同じ人生をやり直したいと言うことか。だが、そのままでは同じ人生の軌跡きせきを再びたどるだけになるぞ。それでは意味がなかろうて」


 生まれ変わったとしても運命からは逃れられない。つまり、全く同一の人生を歩むことになる。


「ええ、聖ペテロ様のおっしゃる通り、それでは意味がありません。つきましては運命を変えていただけませんでしょうか。

 愛する者と共に生き、家に繫栄をもたらすという夢を見てみたいのです」


 マティルデの願いに対し、聖ペテロは「うぅむ」と悩ましげな表情を浮かべる。


「やはり、人生をやり直すのは無理でしょうか」

 両手の指を組んだマティルデが、すがるような目で聖ペテロを見つめ、次の言葉を待った。


 一方の聖ペテロはあごに手をあて、少し考え込むように目を細めた後、口を開いた。



「いや、無理ではないが……。そうじゃの……。過去、マティルデとして生きた記憶をなくしてもよければ、よかろう」


 逡巡しゅんじゅんしながらも聖ペテロは、条件付きでマティルデの願いを叶えることにしたのだった。


「はい、もちろん。それで構いません。良い夫と巡り会えるのであれば、それ以上の望みはありません」


「マティルデ。そなたの願いは聞き届けられた。記憶を継承できない代わりとして良縁に恵まれること、そして結婚の時期を予言として与えることにしよう。これなら父ボニファーチオ四世と兄フェデーリコが暗殺された後に、不安な日々を過ごすこともなくなるだろう」


 両手を胸元に寄せたマティルデは頭を下げ、神、そして聖ペテロへと祈りを捧げた。


「ありがとうございます、聖ペテロ様……」


 マティルデが言い終わる前に、その姿は次第に霞のように薄れていき、輪郭りんかくさえも曖昧あいまいになった。やがてその存在は空気に溶けるように消え去り、そこにはただ静寂せいじゃくだけが残った。


 その静けさに聖ペテロの独り言が小さく響いた。


「さてと。マティルデが生きていた頃、超新星爆発があったな。その力を使えば...…」


 神から与えられし聖なる書物を懐から取り出し、過去の記録を探る。


「あぁ、ここに書いてある」


 1054年の記述には、超新星の光が地球に届いたと記されている。


「これは丁度よい。星が爆発するエネルギーを使い、マティルデの夫に相応しい魂を転生させるとしよう」


 聖ペテロが聖句をつぶやくと、右手には金の鍵、左手には銀の鍵が現れた。それは神から授けられた天国の鍵であった。


 一対の鍵を交差させながら、聖ペテロは静かに、深い祈りを神に捧げる。


 交差した鍵の先から柔らかな光がほとばしり、聖ペテロはその光を見つめながら祈りを続けた。


「おお、神よ、マティルデの新たな生に愛と喜びをもたらしたまえ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中世イタリア転生記 ~前世の知識は預言なの?~ 11世紀にピザを食べるためアメリカ大陸を目指します 宇佐美ナナ @UsamiNana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画