第34話 彼女の過ごした時間




 まるで許しを請うように頭を下げる彼女の手を握ってやると、ようやく決心がついたように続けてくれた。


「……最後まで、一線は越えなかった。怖いとか痛いとか言うんじゃなくて、体が受けなかった。きっと、彼は私と交わっていいものじゃないんだって、体は分かってくれていたんだと思う」


「そうだったのか……。俺と同じだな」


 自分も同じだ。体を一つに重ねる行為には及んでいない。


「みんなからはね、婚約者フィアンセと言われたこともあったよ。でも、だんだん私はそれが辛くなった。何かが違うって。このまま進んでもお互いに傷を作ってしまうだけだと思ったの」


 彼とは大学を卒業と同時に、二人は何度も話し合いをして関係を解消させたという。


 その頃にはすでに自分の立ち位置というものに不安を覚えていた彼女の事だ。話題にすることも怖かっただろう。それを乗り越えてきたのだから、過去の清算はきちんとできていると俺は考える。 


「今、彼がなにをしているかは分からない。私もその時に住所を変えているし。でも、その経験があって、私は日本人なんだってはっきり意識するようになった。たぶん無意識だったと思う。祐樹君を探し始めた……。このマーフリースボロに部屋を移したのも、きっと補習校のあるこの街なら、祐樹君に会えるか、情報を持った人に会えるかもしれないって」


「思い詰めちゃったか……」


 そうだったのか。すべては自分を探すためだったのかと思うと、逆に俺の方が彼女に感謝しなければならないと思う。


「バカだよね……。世界でたった一人、今はどこでどう暮らしているか分からない男の子を探すなんて、出来るわけないことくらい分かっていたもん。もしかしたら、変わってしまったかもしれない。会えたとしても、私の記憶の中だけにとどめた方が良かったかもしれない。祐樹君に迷惑しかかけられないのに……」


 その葛藤を抱えだした頃から、食欲も徐々に落ちていったそうだ。当時の由実にとって、最初は適度な食事制限となって、プラスに働いていたそうだが。


「祐樹君に会えたら、すてきな女の子でいたい。でも、日本の雑誌の女の子なんて、みんな痩せてるし、もっともっとって思っているうちに、体がおかしくなってきて……。食べれば治るって理解はしてた。でも、体と頭が喧嘩しちゃって、食べても戻しちゃったり。去年からは精神安定剤もらったり……。もうボロボロ……。ずっと順調だった生理も止まっちゃって、このまま死んじゃうのかなって思ってた」


 そんなある日、疲れきってドアを開けたこの部屋で、メッセージの到着アイコンが点滅していた。


「あの日は一晩泣いたよ。嬉しくて泣いたんだよ。私のたった一人の祐樹君。何度も確かめた、間違いないかって。私も同じ。補習校のクラスメイトに波江祐樹君はたった一人だけだったから」


 あの日の成田空港での再会。本当はもっと早く出てきていたそうだ。


「もう泣けちゃって。顔を洗って、目薬さして、それで出ていったの」


 そして、由実は意外に早くその事実を知った。


「祐樹君が独身で、私を探してくれていた……。信じられなかった。夢じゃないかって。祐樹君に抱きしめられて、もうこれが最後の夢でこのまま天国行きでもいいって思った」


「俺だって、目が覚めたら夢でしたってビクビクしてたんだぜ?」


「疲れているはずなのに私が元気になるようにって、桜を見せてくれたし……。私の本当の姿を見て、一緒に頑張って治そうって……。私の予想以上の祐樹君だった」


 あの温泉旅行の話だ。場所は離れてしまっても、絶対に見捨てないと誓った。


「一生懸命食べたよ。祐樹君に喜んでもらいたいって、それだけ。あの日、少し戻ったって言ってくれたの、最高の言葉だった。だから、お礼がしたくて……。抱いてもらっちゃいました」


 俺はそこで重要なことを思い出した。


「でも由実、あの時は……」


「うん。あの時も『しなかった』よね。でも、それまでと違った。体がね、溶けていきそうなくらいだった。祐樹君とならこれまで出来なかったことをしてもいいって言ってくれたような気がしたの。だから……、祐樹君となら、大丈夫」


 そこまで終えると、由実は小さな声で呟いた。


「これが、祐樹君の知らない、情けなくて可愛くなくて、汚い佐藤由実が過ごしてきた時間です……。引いちゃうよね……」


 静かな部屋に、由実の嗚咽とすすり上げる音だけが響いた。



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