おじいちゃんと海が教えてくれたこと

Youlife

第1話

 2011年元旦。

 徐々に東の空が少しずつ白み始めた頃、海沿いの町に住む中学一年生の坂本真尋さかもとまひろは、祖父の利吉りきちとともに海辺へと向かった。真尋は、小さい頃から利吉と一緒に水平線から昇る初日の出を拝むのが恒例となっていた。

 浜辺には、すでにたくさんの人達が暖かい服装に身を包んで、朝陽が水平線から顔を出す時を待っていた。


「じいちゃん、まだかなあ?眠いし寒いし、早く帰りたいよお」

「まだだ。だんだん明るくなってきたから、もう少し待ってろ」


 利吉はまっすぐ海に視線を向けたまま、弱音を吐く真尋を諭していた。

 やがて利吉の言う通り、徐々に水平線の彼方がオレンジ色に染まり、まばゆい光を帯びて太陽が顔を出し始めた。

 真尋は両手を合わせて、海に向かって利吉に聞こえない程度の小声で願い事をした。


「DS……買ってもらえますよーに」


 その時突然、利吉は心配そうな表情で腕組みをしながら真尋の方を振り向いた。


「どうしたのじいちゃん?まさか、今の私の願い事、聞こえちゃった……?」


 真尋はバレたかと言わんばかりの顔で、どう繕おうか頭を抱えていた。


「真尋、海を見てみろ」

「え?海……?」

「そうだ。海を見るんだ」


 真尋の目先にある海は、荒々しく獰猛な音を立て、速度を上げて砂浜に押し寄せてきた。波が砕け、白い泡が真尋のすぐ目の前まで迫ってきた。


「あれ?初日の出の時の海って、いつもこんな荒々しかったかな?」

「そうだべ?おら、正月早々こんなに海が荒れたのを見たことねえぞ」


 利吉は拳を強く握りしめ、何か得体のしれない化け物におののいているかのように見えた。


「今年は何も悪いことが起きなきゃいいんだが」


 それだけ言い残すと、利吉は向きを変え、自宅のある方向へと歩き出していった。


「ちょ、ちょっと待ってよ!おじいちゃん、どういうことなの?」


 真尋は腕組みをしたまま歩き去っていく利吉の背中を慌てて追いかけた。


 利吉は曾祖父の代から続く老舗の干物店を営んでいた。小さい頃から海を見続け、店に出入りする漁師たちからは海の状況を聞かされて育ってきた。

 だからこそ、利吉は海の様子に異変があると、誰よりも今後の状況を先読みし、若い漁師たちにアドバイスをしていることもあった。その時の利吉は、まるで海の言葉を代弁しているかのように見えた。

 その利吉が見せた不安そうな顔……一体何を意味しているのだろうか?

 真尋は一抹の不安がよぎった。


 ☆★☆★


 三月九日

 海を見渡せる高台に建つ中学校。

 教室で給食の配膳の準備をしていた真尋は、突然起こった迫り来るような大きな揺れに驚いた。


「キャアア!こ、怖い!」


一緒に当番をしていた杏奈と一緒に給食のスープの入った缶を押さえながら、真尋は揺れが収まるのを待っていた。


「大丈夫?真尋ちゃん」

「うん。杏奈あんなちゃんは?」

「私も平気だよ。それより、海はどうなのかな?大きな地震が起きたときって、津波が起きることがあるってこないだ先生が言ってたでしょ?」


 揺れが落ち着くと、先生は教室のテレビのスイッチを入れ、ニュースを確認した。


「ああ、津波注意報が出たけど、今の所はそれほど波も高くなく、大丈夫そうだね」


先生からの一言を聞き、真尋と杏奈は胸をなでおろした。


 学校から帰った真尋は、家に到着するや否や、利吉が営む干物屋の中から激しい怒号が聞えてきた。驚いた真尋が店の中に入ると、そこには利吉と、利吉の釣り仲間である大友林平おおともりんぺいの姿があった。


「どうして逃げねかったんだ?あんだけでけえ地震が来たんだぞ」

「だーがーらー。この土地にそんなにでけえ津波なんか来ねえって。あのチリ地震の時だって、膝位の高さしか波が来なかったんだよ?覚えてっぺ?利吉ちゃん」

「それはたまたまだべ?とにかく、今度またでけえ地震が来たら、すぐ逃げるんだぞ!」

「まったく分かんねえ奴だな。もういい、帰るわ。次に地震が来たらせいぜい一人で荷物抱えて逃げろや、ギャハハハ」


 林平は高笑いをしながら店から出て行った。


「じいちゃん……」

「あ、お帰り真尋。どうした?地震、大丈夫だったんか?」

「うん。でも、林平おじさん……いいの?あんなにケンカしてたけど」

「いいんだ。あいつ、こんなでけえ地震が来たのに、今までのうのうと港で釣りをしてたんだってよ。頭来て、怒鳴ってやったんだ。それなのに、あいつは……」


 利吉は怒りが収まっていない様子だった。


「なあ真尋、お前はおらのたった一人の孫娘だ。だから、お前はおらの言う事をしんじてくれるよな?」

「うん……」

「さっきみたいなでけえ地震が来たら、逃げろ。津波が来ると思って間違いない。海はいつも穏やかだけど、突然姿を変えた時は気を付けろ。その時海は、どんな化け物よりも恐ろしい生き物に変わるんだ」


 そう言うと、利吉は真尋に背を向け、再び店頭へと戻っていった。

 何もいわず黙々と品出しをする利吉の背中に、真尋は声を掛けた。


「わかったよ、おじいちゃん。でも、逃げる時は、おじいちゃんも一緒に逃げるんだよ」


 すると利吉は、しばらく黙り込んだ後に独り言を言うかのようにつぶやいた。


「ありがとな」


 それだけ言うと、そそくさと店の奥の方へと歩き去っていった。


 ☆★☆★


 三月十一日

 この日は午前中に三年生の卒業式が行われ、午後は全学年一斉に下校になった。

 真尋は家にたどり着くと、部屋にこもって漫画を読み始めた。面白いからと友達が貸してくれたもので、真尋はじっくりと読みふけっていた。

 その時突然、窓ガラスがガタガタと猛烈な音を立てて揺れ始めた。揺れはやがて部屋中に広がり、真尋は椅子に座り続けていることに恐怖を感じ、机の下にもぐろうとした。机の下にいる間、本棚からは次々と本が落ち、部屋の外からは何かが壊れる音が聞こえた。揺れはいつ終わるかわからないほど長く続いた。


「怖いよお!助けて!誰か助けて!」


 真尋は叫んだ。しかし誰も真尋を助けに来る人はいなかった。

 ようやく揺れが収まった時、真尋は恐怖のあまり震えが止まらなかった。這いつくばるように机の下から這い出ると、脚の踏み場もない程の本が散らばっていた。

 今まで体験したことのない強烈な揺れだった。

 真尋は恐怖のあまり流れ落ちる涙を拭きながら、部屋のドアを開けた。

 そこには、倒れ落ちたふすまや窓ガラスの破片が、廊下に散乱していた。

 両親は隣町へ仕事に出かけているため、家に残っているのは真尋と店に出ている利吉だけである。真尋は店の中に入ると、段ボールが散乱し、店頭に並べられた干物は床に散乱していた。


「ねえおじいちゃん!どこにいるの?返事して、おじいちゃん!」


 しかしどこを探しても、利吉の声は聞こえなかった。

 真尋は店の外に出て海を見渡した。その時真尋の目に飛び込んできたのは、いつもとは違う海の様子だった。常に満々と水を湛えているはずの海から、徐々に潮が引き始めていた。干潮の時でさえ、こんなに引くことはなかった。


「え?どうしてこんなに潮が引いてるの?」


 その時真尋の頭に浮かんだのは、おととい利吉が言っていた言葉だった。


『海はいつも穏やかだけど、一度姿を変えた時は気を付けろ。その時海は、どんな化け物よりも恐ろしい生き物に変わるんだ』


 真尋は確信した。


「とにかく逃げなくちゃ。ここに残ってたら危険だわ!」


 真尋は一目散に町の中を駆け抜け、海を見渡せる高台の神社へと全速力で駆け上がっていった。真尋の背後からは、けたたましいサイレンが響き渡った。恐怖と疲れでうまく呼吸できないが、とにかく逃げるしかない、そう信じた真尋は、急な階段を必死に駆け上った、

 ようやく登り切った時、すでに何人かの住民たちが境内に集まっていた。

 しばらくすると、境内にいた人達から悲鳴が起こった。

 真尋はその声を聞いて眼下を見下ろすと、そこにはどす黒い波が町の中を覆い尽くすように入り込んでいた。波は家々を飲み込み、なぎ倒していった。

 その時、消防署の制服をまとった数人の男性が一人の男性を抱きかかえながら階段を上がってきた。


「あ、林平さんだ!大丈夫かい?顔が真っ青だぞ、林平さん!」

「どうしちゃったの?生きてるの?」


 すると、消防署の男性は林平を地面に寝かせ、応急手当を開始した。


「大丈夫です。けがはひどいけど、一命は取り留めました。坂本さんが救ってくれたんですよ」

「坂本さん?それって……利吉じいちゃんのこと?」


 真尋は両手を口に当てながら、消防署の男性に口にした言葉を聞き返した。


「そうです。坂本利吉さんです。津波警報が出たのに釣りをやってた大友さんを、津波に飲まれるギリギリのところで助けたんです」

「じゃ、じゃあ、おじいちゃんは……」

「それが、大友さんを救出後、津波に飲まれてしまったようでして……我々の方で波が引いてから救助に向かうつもりです」

「そんな!ひどい!どうしておじいちゃんが?」


 真尋は首を振って、両手を顔に当てて泣き崩れた。


 ☆★☆★


 数日後、警察や消防の必死の捜査の結果、利吉は水死体で発見された。

 海はあの日のことが嘘のように穏やかに凪いでいた。

 真尋の家と利吉の店は津波に飲まれ、真尋の家族は高台にある中学校の体育館で避難生活を送っていた。

 白い棺に入れられた利吉の遺体を目にした真尋は、花束とともに、好きだった釣り具を遺体の隣に添えた。


「おじいちゃん、今日の海は穏やかだよ。おじいちゃん、この天気と海ならば心から釣りが楽しめるよって言うだろうから、釣り具を入れといたよ」


 そういうと、真尋は両手を合わせた。

 警察官により棺の箱が閉じられようとした時、真尋は大きな声で利吉に呼び掛けた。


「ありがとう!私はおじいちゃんに助けてもらったこの命で、おじいちゃんの言葉をずっとこの町で伝えていくからね」


 利吉の顔はまばゆい太陽の光に照らされて、心なしか安堵しているように見えた。

 海は利吉との別れを惜しむかのように、静かな音を立てて穏やかな波を利吉の棺の近くまで何度も寄せていた。






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