ピアニストの推し

佐倉奈津(蜜柑桜)

推しとピアノと推し料理

 ここのところ、響子が滅多に部屋から出て来ない。


 無事であるのはピアノの音が聞こえているから確かである。しかし向かいに住む匠とは示し合わせずともお互いに毎日行き来をしているのだが、この一週間というもの顔を合わせていない。ショコラティエである匠もバレンタインからこの方、ホワイトデーの準備もあって早朝から夜遅くまで店に出ずっ張りというのもあるのだが、普段なら響子が匠の家に差し入れを持ってくるか、そうでなくてもメッセージか電話があるのだが。

 理由は自明である。ピアニストである響子自身のリサイタルが近いのだ。


 どうやら今回は響子の好きなブラームスを弾くらしい。聞こえてくるのはハンガリー舞曲。となると、とことんブラームスと扱う曲に没頭するのが響子である。

 真剣に曲に向き合おうとすると、ひたすらに曲と作曲家に関連する資料を集めまくって日がな一日中その対象につきっきりだ。しかしこうまで家から出てこないと、食事をちゃんととっているのか気にかかる。

 運よく機械の整備で店が休業になったため、匠は食材を抱えて向かいの家のインターホンを押した。

「あ……たくちゃん」

 玄関を開けた響子は、部屋着のまま無造作に髪を一つに結んだ姿で匠を出迎えた。いつも見せる明るい笑顔ではなく、何かに憑かれたような心ここにあらずの表情である。

「悪い、邪魔した?」

「ううん、ちょうど今日の分、一曲仕上げたところ」

 目を擦りながら響子は棒立ちで答える。

「上がってもいい? 夕飯一緒に食べようと思って」

「あー……ごめん何も買ってない……」

「いいよ、持ってきたし。適当にしてるから弾いてろ」

 匠はスリッパに足を突っ込みながら食料の入った袋を突き出したが、響子は「ごめんそうする」と見向きもせずふらふらと奥へ戻っていった。かなり重症である。

 居間に入ると、座卓の上に楽譜と書籍、ノートが散らばっていた。書籍は日本語に英語、それからドイツ語。開いたままのノートには何やら曲名だの人名だの、あとは匠のよく知らない言葉が並んでいる。楽譜はピアノ曲だけではなくオーケストラや連弾のものもある。

 眺めていると、響子が何をやっているのか段々掴めてきた。


 ブラームスのハンガリー舞曲にはブラームスによる多数の編曲がある。響子の家の窓から聞こえてきたのはピアノ独奏用だが、これは編曲で元々は連弾用の作品として書かれたものだ。作曲家自身の編曲ならば管弦楽版も匠には馴染み深い。

 しかし散乱している楽譜はそれだけではなかった。楽譜のタイトルくらいなら匠にも読めるが、ざっと見たところブラームスの友人のヴァイオリニストによるヴァイオリンとピアノのための二重奏曲に加え、ブラームスが高く評価した作曲家、ドヴォルジャークによる管弦楽版もある。要するに響子はそれらの楽譜を洗いざらい読んでいるらしいのだ。その証拠に書籍のタイトルはブラームス関連だけではなくドヴォルジャークほか、楽譜に書かれているのと同じ作曲家名が含まれている。

 響子がブラームスを好きなのは知っている。そして好きなものに対峙するとなると恐ろしい執念で徹底的に研究し、どこまでも飽き足らず弾き込む。まるで全生命をそれにかけているかのように。

 ある時、「いまの日本を席巻する推し活!」とかなんとかいうタイトルの番組を見たことがある。芸能人やアニメーションなど好んだ対象に時間と金銭を注ぎ込むというファンの様子を特集したもので、それを見た匠が思い出したのは今の状況の響子だった。やや生気を欠いているが、他を顧みず全てを捧げているのは似ている。

 しかし先に見た取り憑かれた様子では、身を捧げた行為が報われる前に響子がどうにかなってしまう。

 勝手を知った響子宅の台所に荷物を運び込む。案の定、流しの水切り網の上に置かれているのは皿一枚とコップだけ。サラダとパンと珈琲だけで済ませているに違いない。

 ピアノは体力勝負だ。まずは食べさせなければ。

 匠は流しの下の物入れから深鍋を取り出すと、早速持ってきた食材を台の上に並べ始めた。


 🎵♪♫


 壁の向こうでは先ほどから最後の曲が繰り返されている。ここまで聴いてきたパターンから考えるとそろそろ終わるだろう。ちょうどコンロの上の鍋からもいい具合にくつくつという音がしてきている。匠は蓋を開けてバターを入れ、ひと回しして火を止めた。オーブンもあと二分。頃合いだ。

 台所からピアノのある部屋へ廊下を行くと、ドアの前に来たところで音が止んだ。残響が鳴り止むのを待ってドアノブを回す。

「響子、夕飯。」

「んあ? あー……ほんとに作ってくれたの?」

 響子はぐったりと鍵盤の上に上半身を預けている。

「簡単にだけど作ったから。まずそこで寝る前に食べろ」

「んー……ありがとうー……いま行きます……」

 返事を確認して匠は部屋を出る。鍵盤が低いドの音を鳴らした。起き上がったらしい。




「ふあぁ疲れたぁー……久しぶりにあったかいご飯のいい匂いー」

 ふらふらと台所に入ってきた響子は、開口一番のんべんだらりと言う。そこに喝を入れるかのようにオーブンが「ピーッ」と鳴った。

「久しぶりっていつからまともに食ってなかったんだよ」

「うー? あ、これグヤーシュだ」

 匠の突っ込みを全く無視して響子は目を輝かせた。血の気の薄かった顔が明るくなり、途端に活き活きと表情が動く。

「ハンガリー舞曲だから?」

「そう。今日はハンガリー料理」

 椅子についた響子の前に、匠は煮込み料理を注いだ深皿を置く。煉瓦色の艶やかなスープに透き通った玉葱が浮かび、ブロッコリーや人参、牛肉の角切りが顔を出している。

「ただし『ハンガリー風』な。適当に作ったからアレンジしたくなってオリジナルとは違ったふうになった気がする」

「どんな風?」

「パプリカは入れたけどキャラウェイは入れてない。代わりにパセリバター入れたら美味いんじゃないかと。あと野菜も適当」

「えっパセリバター美味しそう」

 皿に手を当て、響子は思う存分香りを堪能する。そして「あ、確かに」と呟いて破顔した。

「いいねぇ。ブラームス、ウィーンにいたし。オーストリアもドイツもバターといえばパセリバターだし」

「フォローどうも。一応、クネドリも焼いた。こっちはチェコだけど」

 オーブンから取り出したアルミの筒を響子の目の前で開いて見せる。中から乳白色の細長い塊が湯気を立てて姿を現した。

「え、クネドリ焼いたの? 茹でるよね、本来は」

「本来は、な」

 チェコのパンの一種であるクネドリーキはじゃがいもと小麦粉を混ぜて茹でるのが正統派だ。

「でもチーズ入れたら焼いた方が美味しいんじゃないかと思って」

 ナイフで切り込みを入れると、中からオレンジのチェダーチーズがとろけ出し、乳白色の表面を彩った。

「もうクネドリーキじゃないな、これ」

「ええちょっと待って美味しそう。全然いいよ、たくちゃんアレンジ好きだし上手いよね。いいじゃないちょうどいい。ブラームスも編曲だし、『たくちゃん編曲ハンガリー料理』ってことで」

「サンキュ」

 匠としては本格派ハンガリー料理を作ろうとしたはずが、どうにもいつもの癖で実験をしてみたくなってしまっただけのことなのだが、響子が喜んでいるならまあいいだろう。

 とはいえ食卓に並ぶものにはとことんこだわりたくなるのも本当で、今日はトカイワインの小瓶も持ってきた。知り合いのシェフからもらったとっておきの品だ。

「しかし今回もすごい入れ込みようだな、練習」

「当然! ブラームスはもう、もう、もう、大好きな人の一人ですから!」

 疲れているはずなのに一気に口調に熱がこもった。相当好きなのは匠にも見ていれば分かる。しかし、その割にはひとつだけ腑に落ちないところもあった。

「でも響子、それだけ好きなら録音とか参考にしないのか、ほらいつもの」

 そうして響子が追っかけをしているピアニストの名前を挙げると、響子はとんでもないと首を振る。

「ダメよたくちゃん。推しの演奏なんて聴いたら自分の演奏が真似になりかねないでしょ。あくまでリスペクトなの。勉強のために他の時には聞くけど、演奏会直前は影響受けすぎちゃってダメ。自分の演奏ができないから真似なんてしたら我が尊敬の推しの精神に悖る」

 推しピアニストへの敬意のために推しへの礼儀は守るのよ、と響子は力強く言い、はふはふとグヤーシュを口に運んだ。

 崇拝する対象への態度にもいろいろあるらしい。なるほどなぁと思いつつ、

「まあ、演奏会、気負わずに楽しんで」

 と金色の液体をグラスに注ぐ。

 すると響子は豪快に頬張った肉の塊を飲み込んで、「あ、でも」と大事なことを思い出したように顔を上げた。


「一番の推しはたくちゃんですから」


 スプーンをビシッと立てて言われては、なんと返していいのか分からない。

「……倒れないようにちゃんと飯食え」

「はーい、『たくちゃん編曲アレンジハンガリーディナー』いただきまーす」

 さっきとは別人のように元気が良い。その名前はやめろと突っ込んで、匠も自分の匙を取る。


 演奏会は、きっと成功するだろう。


 ♪♪♪Fine♪♪♪

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