ふたつの画風、二枚の絵

冬野瞠

1

 彼女は真剣な表情で対象に向かい合い、迷いなく手を振るっていた。

 その様子は、どことなく刀を構える侍のように見えた。



 大学の作業場には油絵の具特有の匂いが充満している。窓の外はとうに暗闇に沈んでいて、窓ガラスは彼女と俺しかいない部屋を鏡写しにしていた。

 卒業制作の期限が迫る中、同じ専攻の仲間たちも夜遅くまでキャンパスと向かい合っていたが、終電に乗るためだったり眠気に負けたりで三々五々帰ってしまっている。他の専攻の学生たちの声が微妙に聞こえてはくるが、二人しかいないこの作業部屋は静かだった。

 俺は自分の作業の手を止め、□□□がキャンバスに向き合う様子を眺める。

 彼女は二刀流といっていいほどかけ離れたふたつの作風を持っていた。ひとつは筆致を荒々しく残したパレットナイフで直接描く陰鬱で暗い絵。もうひとつは細めの絵筆で描く繊細で明るいパステルカラーの絵だ。

 その上パレットナイフは左手で、絵筆は右手で使う。あまつさえイーゼルをふたつ並べて両手で同時に描き進めているときすらある。そういった意味でもまさしく二刀流と言えた。

 □□□は端的に言って天才だった。俺みたいなデッサンだけ巧くてただ器用なだけの凡人とは違う。彼女の絵は抽象画で、具体的に表現されているものではないのに、誰しもが目を奪われるのだ。少し視界に入れただけでほっとするし、じっと見ていると存在を全肯定してもらえるような温かい安心感を感じる。中には嫌悪感を感じ忌避する人もいるが、抽象画で人間にそんな感情を抱かせるのは尋常ではないだろう。

 □□□は、陳腐な表現だがお人形ドールとしか表現できない容姿をしていた。長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした二重の瞳に憧れを抱く男女は少なくなかった。さらさらのストレートロングは今、シンプルなヘアゴムでポニーテールにくくられている。彼女は容姿に反して(という言葉は偏見だろうが)、ファッションも性格もさっぱりとしていて話しやすかった。

 俺は彼女の特異な才能に惚れ込んでいた。いや、はっきり言って恋愛対象として好いていた。


「■川くん、そんなにじっと見てどうしたの」


 不意に名前を呼ばれはっとする。いつの間にかふたつのキャンバスの前にいる彼女がこちらを振り返っていた。


「いや……なんとなく、もうすぐ卒業なんだなーって考えてた。そういえば、□□□は進路どうするんだ?」


 相手はどこか遠い目をする。


「うーん、考えてなかったな」


 え、と声が出そうになる。そんなことがあるのか? でも、地方から出てきてアルバイトで学費を負担している俺と違い、彼女の家庭はきっと裕福なのだろうから、学生のうちに焦って職を見つけなくてもいいのかもしれない。この才能に目をつけている画商なんかももういるかもしれないし。


「でも、行きたいところは決まってるから」

「へえ……?」


 深遠な微笑を見せる□□□を前にして、俺はなぜだか寒気を感じた。

 きっと気のせいだろう。空気を切り替えようと違う話題を振る。


「しかし、相変わらず画風の振り幅がすごいよね」

「うーん、そうかな? どちらもそこまで変わらないよ。私の絵という意味では同じ」


 彼女はそう言うが、ほとんど黒のグラデーションに見える妙な迫力のある絵と、淡い青やピンクや紫で細かく描き込まれた綿菓子のような絵を前にすると、「そこまで変わらない」という言葉にはとても同意できない。


「この絵たちはね、表裏一体なんだよ。どちらも同じ内容を表しているの。これが私の最高傑作」


 □□□はそう言って深遠な微笑を見せる。俺は思わず声を立てて笑ってしまう。


「いやいや、最高傑作って。これからもたくさんすごい絵を描くんだろうに」


 相手は俺の言葉がよく理解できないという風に小首を傾げる。


「じゃあ、完成したらこの絵のどちらかを貸してあげる。一晩一緒に過ごせば私の言う意味が分かると思うから」

「え? そんな大切な絵を借りるわけにはいかないよ」

「いいの。■川くんには知ってほしいから」


 そう言われて瞬間的に頬が熱くなる。聞きようによっては熱烈な台詞をぶつけられて、平気でいられるほど俺は人間ができていない。



 結局、卒業制作の締め切り直前になって、俺は□□□の絵の一枚を下宿先に持ち帰ることになった。パステルカラーのふわふわした画風の方だ。一晩一緒に過ごす。一体何が分かるのだろう。

 俺は寝床の脇にイーゼルを立て、そこに絵を立てかけてベッドに潜り込んだ。乾ききっていない油絵の具の匂いが鼻腔を満たす。

 今日の別れ際、□□□は気になることを言っていた。


「■川くんにだけ本当のことを教えてあげるね。この絵は実は抽象画じゃないの。世界中のあらゆる言語の、あらゆる人名を一枚の絵に落とし込んだものなの」

「つまり、名前を絵にした――名前の集合体ってこと? そんなの……できるのか?」

「できるよ。私が考えた方式に当てはめれば、誰にだって描ける。……方法は誰にも教えないけどね」


 彼女は整った顔立ちをうっすらと笑ませていた。

 寝しなに俺はその言葉を反芻する。あらゆる名前……つまり俺の名前もこの絵の中に表現されているのか……やっぱり□□□は天才なんだ……。

 めりめりめり、と頭上で音がした。正解には俺がキャンバスを鷲掴みにし、自分の頭に絵を思いきり押しつけている音だった。絵は破けずに、俺の体をぐんぐん飲み込んでいく。いつしか、自分はパステルカラーの世界にぼんやり浮遊していた。


「やあ、■川くん! よく来たね」


 ヘリウムガスを吸った人間みたいな声が俺の名を呼ぶ。そちらを見るとカラフルな風船の集合体に似た存在がふよふよと浮いていた。

 その存在は俺にとって好ましいものだった。ソレに連れられて空間を自在に飛び、この上なく美味なるものをフルコースで食べ、雲で仕立てたような寝床に横になる。

 ――このままここにいたいな……。

 そう思った途端、ソレがぎょろりと俺を見た。ソレに目はないのに、見られたのが分かった。


「ええ、ずっとここにいていいんですよ。ずっと」

「うーん、でも……□□□に絵を返さなきゃ」

「そんなこと気にしなくていい」

「そういうわけにはいかないよ。俺は――」

「ここにいると言って下さい。言ってほしい。言って。言え。言、え」


 ソレから腕らしきものが伸びてきて、俺の腕を掴む。痛い痛い! と叫ぶがソレはお構いなしだ。これはやばい。絶対に良くないやつだ。ここにはいられない、そうだ、起きないと……。

 汗びっしょりになって目が覚めた。荒い呼吸は自分のものか。今のが夢だと分かって盛大に安堵の溜息が漏れる。見慣れた部屋が別物のように一瞬見えたけど、きっと気のせいだろう。

 人生で一番怖い夢だった。あの風船の化け物みたいな存在はまるでシューベルトの魔王だった。甘言を尽くし、異界へいざなう。俺はぎりぎり、戻ってこれたのか。なんて、ただの夢なのに深刻に考えてしまう。

 汗だくになった寝間着の袖を捲る。腕になんとなく目を落として、絶句した。

 腕に赤く手形がついていた。風船の化け物と同じ、七本指の手だった。



 □□□の絵は部屋から消えていた。おかしい。起こるはずのないことが起きている。気がはやって大学の作業場へと自転車を飛ばす。

 息急いきせききって部屋のドアを開くと、既に来ていた同じ専攻の仲間たちが訝しげな目をこちらに向ける。息を整える間も惜しんでドアのそばにいた友人に話しかけた。


「ねえ! □□□さんはまだ来てないの?」

「は? 誰ですかそれ」


 冷たく突き放すような言い方に絶句する。誰ってことはないだろう。それに、俺に対して敬語とか笑ってしまう。


「誰って……冗談はいいから。ほら、パレットナイフと絵筆で二刀流ができる天才がいるじゃん」

「すごいエキセントリックな人ですね。あなたの妄想の中の人は」


 こいつ、何を言っているんだ? 彼女が妄想の中の存在なわけないだろ。あんな傑作だって描いていたのに。作業部屋を見渡しても、彼女の絵はどこにもない。あるのは、俺に突き刺さる冷ややかな視線だけだ。

「あのー」友人のはずの学生が問うてくる。「ところで君は誰?」

 俺ははたと気がついた。俺は……俺の名前? そういえば何だっけ。

 ――■川くん。

 彼女は俺を何と呼んでいたっけ。

 ■川くん■川くん■川くん。

 思い出せない。川が入る名前だったはずだ。□□□は、俺を……どうして? □□□の名前も、思い出せない。

 彼女は行きたい場所があると言っていたな。

 俺には彼女がどこへ行ったのか分かる気がした。絵の中に入って、明け渡したのではないか。名前も、存在も。自分の手で創り出した、アレに。

 だとしたら、俺がこうなると分かって彼女は絵を貸したのか? つまり、彼女は、本当は、俺を。

 分からない。分かりたくない。何も。

 □□□はいなくなってしまった。彼女の絵も、一緒に消えてしまった。

 じゃあ。じゃあ、彼女と同じところへ行き損ねた俺は、どうしたら。

 中途半端に名前存在を取られた俺は、これからどうすればいい?

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