笑い涙をぬぐい、さて、家に帰って、親たちの夕食ゆうしょく媚薬びやくでもぜて、次の弟をこさえさせるか、などということを考えながら、女児が、芽吹めぶのように立ちあがった瞬間、くらつめたい下界げかいそこから、元気いっぱいの声がひびいてきました。


「――ビュイィィーーーーーーーーーーンっ! ぼくはまるでぇ、お粗末そまつ紙飛行機かみひこうきぃ~!」


 その声に驚き、女児が両手を使って顔をあげてみますと、そこには、性愛せいあい薄汚うすよごれた臭気しゅうきのいっさい含まれない、童心どうしんの輝きを体現したような光景がひろがっていました。


 男児はなんと、空高く飛翔ひしょうし、大空おおぞらを自由にうごき回っているではありませんか、むしけらのように。彼の背中からは、おびただしいちいちゃな昆虫こんちゅうはねえており、それらが力を合わせて、男児の体を浮かせているのでした。


「なに、あなたっ! もう熟成じゅくせいしちゃったのっ!? 我が子のようにかわいらしいわたしのかわいい弟は、そんなりのままで、心のほうは背中のひろい大男おおおとこになったとでもいうのかしら!?」


 両手で頭部とうぶ保持ほじしながら、女児はさもうれしそうにしています。


「ぶぶうぅ。そういうわけじゃあないんだなぁ」


 と言いながら、男児はれたように薄笑うすわらいを浮かべ、さらに言葉をつづけます。


「だけれども、ぼくのなかで、かが目覚めざめかけているんだ」、と、言うが早いが男児は、ふたつあま吐息といきらし、ついでひとつかわいらしくいきみ、さらに上空じょうくうへと飛翔していきました。幾重いくえにもかさなり響きあう翅音はおとは、さながら大群たいぐんのようであります。遠のいているはずの翅音は、その力強さのためなのでしょうね、女児には、おのれの耳のなかに飛び込んでくるように感じられるのでした。


かなうならそれを、わたしという善良ぜんりょうなお姉ちゃんに――聞かせてちょうだいなあああああアアアアアアア!!」


「うん。いいよ」、《グット》そのジェスチャーにより勃起ぼっきさせたみずからの右の親指に、男児はすぐさまらい付きました。そして、やや手こずり親指をみちぎると、それをみ込み、のどとどめつつ発声練習はっせいれんしゅうをしはじめました。すると親指は、発達段階はったつだんかいながらやや隆起りゅうきした喉仏のどぼとけに、その姿を変えました。「ていねいに教えてあげるね」、男児の声は、心持こころもひくくなり、大人びているようで、ほんのりと成人男性の色香いろかびています。


 血の繋がりあった、じつの弟のイニシエーションをの当たりにした女児は、うれしさ反面はんめん、はずかしさが先立さきだち、顔をポプリのように赤らめております。しっかり者のお姉ちゃんといえど、やはりそこは女の子ですね。人類じんるいみんなで愛すべき、かわいらしいおませさん。


「ぼくね、ちょっくら観測衛星かんそくえいせいになってみるよ」男児は言った。そして引きつるように息継いきつぎをし、すぐさま言葉をつづけます。「そしてね、いつか、世の中の悪事あくじのすべてを、この目におさめてやるんだぁ。――そしてぼくは、世界一悪事を見て見ぬふりをした男になる!!」ひとつせせら笑い。「ゆめ


「まあ! なんてこころざしの高い私のかわいい弟なのかしら! これは夢? それとも極楽ごくらくの世界? 私のかわいい弟が……こんなにも立派りっぱそだってくれるなんて……。よかった……余計よけいな手をくわえなくて……余計な助言じょげんをしなくて……。お姉ちゃんのお手柄てがらじゃない……」


 男児は、今この場にもっとも相応ふさわしいものをさがそうと、目まぐるしく表情をぬるぬると変えたすえ、射精しゃせいの男のキュートなそれに決め、そのまま女児に笑いかけました。


「それじャあ、いくよォ? お姉ちャ~ん?」


「いいわよぉ、いつでもいいわぁ。……いつだってわたしは、あなたの門出かどでをよろこんであげるぅ」


 女児のその言葉に、男児のモチベーションは、すぐさにとあいなります。さながら、精力剤せいりょくざい静脈注射じょうみゃくちゅうしゃしたような即効性そっこうせいであります。


 男児が訳知わけしがおを浮かべれば、女児がすぐさま、きっかり物知ものしがおをかえす。


 ムラムラと微笑ほほえみ交わすきょうだいのその姿は、なんとたくましいことでしょう。それはまさに希望きぼうそのもの。人類の輝かしいいとなみの縮図しゅくず


 はじける笑顔えがおに、血統書けっとうしょつきの使命感しめいかん他者たしゃくことに、いっさいの罪悪感ざいあくかんいだかずにいること。また、それを無意識むいしきのなかに落とし込むこと。それがめぐり巡って、けっきょくは人類のためになるということ。それを理解りかいすること。誰かの狡猾こうかつまなびとり、自身じしん血肉ちにくとすること。体感たいかんもとづいた、リアルでフレッシュなものをえずり込むこと。それによって、ますますに他者をおとしめ、迂遠うえんに人をころしつづけ、なおかつ、道徳的どうとくてきわけをそらんじ、焦点しょうてん微調整びちょうせいしながら自分の見たいものだけを見て、さもおのれ善良ぜんりょうなのだと胸をり、力強く生きていく。誰かのつぶしながら。誰かの事故死じこしに大笑いしながら。綺麗事きれいごとりつけた自分の指で、自分のアソコをていねいにスポイルしながら。


「――えっ、――えれれれれれれれれれれれれれれッ!!」


 と男児は、痙攣けいれんしながら精神的せいしんてき絶頂ぜっちょういたしました。


 うちからきでる優越感ゆうえつかん、そしてじつのお姉ちゃんから向けられる期待きたいに、いても立ってもいられなくなったのでしょう、男児の下半身かはんしんは、おのずから自切じせつを行い、海へと落下らっかしてゆきました。それを、生まれたての赤ちゃん渦巻きが、音もなく呑み込み、間髪かんぱつ入れずに「ごちそうさまでした」とあいさつをしました。


 こしから下が欠落けつらくしたことで身軽みがるになった男児は、その心までが軽妙けいみょうになり、と笑うそのさまは、軽薄けいはくなヒモ男のいところだけを集めたかのような、貴族的きぞくてき雰囲気ふんいきでありました。


「ヴゥワァアアアアアアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアア――!!」


 と言いながら、男児は宇宙うちゅうへと飛び立ちます。おわかれの行事ぎょうじもなしに。


 だけれどもね、女児はまんざらでもないように、背中のほうにダラリと頭をらしながら、男児の飛翔を見送るのでした。ずっと見開みひらかれているためか、その両目は、クラッカーの中身のように乾燥かんそうしているようでありました。


 まるでのっぺらぼうのような空色そらいろに、男児が完全かんぜんに呑み込まれてから、ちょうど一分後いっぷんご、女児は見送り姿勢しせい維持いじしたまま、意識的いしきてきひとごとを、自分自身に向かって語りだしました。


「さて。これ見よがしな自死じし気配けはい到来とうらい。さて。もはやわたしにできうることはなにもない。さて。人間にんげんかたちたも意味いみ――もうないわね? さて。わたしの漫談まんだんももうおしまーいっ。さて。だけれど、あの子のことを見守みまもるくらいは、いいんじゃなーい? さて。あなたもそう思うでしょ? わたしのかみさまあぁあ? さて」


 語りえた女児は、すっきりとした表情を浮かべるというわけではなく、まったくの真顔まがおになりました。そして、その身にあらかじめそなわった生態せいたいのような、昆虫じみた無駄むだのないうごきで――両手を自身の頭部に伸ばし――愛撫あいぶするようにやさしく鷲掴わしづかみにし――そのままゆっくりと力を込めてゆき――首をねじり切りました。


 ぼっ、というにぶい音を立てながら、岩肌が生首なまくびを受けとめます。


 体のほうはといいますと、中枢神経ちゅうすうしんけいうしないましたので、とうぜん地面じめんたおれ込みますが、反射はんしゃがはたらいたのか、両腕りょううで両脚りょうあしがムカデのようにビクッとうごき、をとりました。


 ただ生きたいというはらわた本能ほんのうがうごめき、とおりかかる者がいればそのあたまをうばい、首をすげえてでも生きながらえてやろうと、体は、バタバタとせわしなく岩肌をのたうち回りますが、やがて力尽ちからつき、しおれた花のように弛緩しかんし、それとともにじょじょにとけてゆき、新鮮しんせん真水まみずへと変わってゆきました。


 そのうるおいを受け、生首はれ、ねっとりとふたつにけてゆきました。そして、なかから顔を出すのは、がきほどの大きさの、うつくしい目玉めだま。おそらくは人の。右目なのか、左目なのかは、――これを読んでいる、あなたにおまかせしちゃう――。


 目玉は、どこかうれしそうにつやめきながら、視神経ししんけいをのばし、岩肌をゆっくりとおかしながら、地にを張ってゆきました。


 これを読んでいるあなたが思うほどの年月ねんげつず、目玉はすくすくすくすくすくすくと育ち、一本のぶどうの木へと姿を変えました。それはとても立派で、なおかつ愛らしく、もしも神さまのような巨大きょだいな手をゆうしていたら、思わずしごかずにはいられないでしょうね。


 たくさんのぶどうのふさのひとつひとつには、れたあわのようにおびただしいり、腹中ふくちゅうはらわたのように仲良なかよくひしめきあっております。


《ぶどうの》、とはいっても、それはかわだけなのであります。たねなしだし、果肉かにくもなし、本当に皮だけ。まるで、この人間世界にんげんせかいのように。


 あわあお薄皮うすかわのなかでは、ちいちゃな目玉がごろごろとさかんにうごき、そのすべてが、おそらを見あげておりました。――その理由は……言うまでもないだろ?




 おしまい。おしまいっ。おしまいッ。


 拡張かくちょうしちゃえ!! 拡張しちゃえッ!! 拡張しちゃえーッ!!

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ぶどうの木とお星さま 倉井さとり @sasugari

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