第五十三夜 誕生日ケーキ

 兼平かねひら沙織さおりはスーパーカブを走らせていた。スーパーカブには荷車を牽引しており、そこにサオリの生活はすべてが凝縮されている。

 食事も荷車に積んだ調理器具で行い、彼女の着る衣服もすべて積んでいた。住まいもまた、荷車に置かれたテント以外に拠点はないのだ。


 そして、家族もいなかった。

 はとこのコウと行動を共にすることもあったが、もはやそれも拒絶し、誰かと一緒になることなんてない。

 誰かと行動するということは、その人を危険に巻き込むことであり、その人の最期を看取ることにもつながる。だから、二度と人と旅することはない。そう思っていた。


 オレンジ色の地平が開いていた。空は真っ黄色に沈んでおり、どこか不穏なものを感じた。

 けれど、その場所は見知った場所でもある。おばあちゃんとともに訪れ、一年分の油を手にした場所であった。その場所を目指そう。そう思い、カブを走らせる。


 白い線の道を走っていると、人影が見えた。誰がいようと別に気にする必要はない。ただ、通り過ぎるだけだ。

 だが、どうにも捨ておくことのできない人物だった。


 それは女の子だ。年齢はサオリよりも少し下に見える。

 黒いシャツに黒いショートパンツ。その下にレギンスを履いており、緑色のコートを羽織っていた。


 見覚えがある。夢の中で出会った少女だ。

 夕映えの都で彼女を助け出し、そのお返しなのか、サオリが過去に旅立った時に道案内になってくれた。

 しかし、その頃よりも若く、頼りなさげに見える。


 人間牧場で時間の流れなんて意味がない。

 そんな言葉が思い起こされる。おばあちゃんがよく口にしていた言葉だ。

 サオリはほくそ笑む。考えても仕方のないことだ。


 思わず、彼女の前でカブを停める。なんだか、放っておくことができなくなっていた。

 ヘルメットを脱ぐと、その中にしまっていた髪がバサバサッと解放される。なんか、カッコ悪いかも。そう思いながらも、もう後には引けない。

 サオリは彼女に声をかけた。


「私は兼平。兼平沙織。あなたは?」


 努めて冷静に話しかけたつもりだ。もっとも、サオリはいつも感情を露わにしないと言われてしまうのだが。

 名前を尋ねてはみたものの、彼女の名前は知っている。それでも返事を待った。


「ぼ、僕!? 僕は那由多。深敷ふかしき那由多なゆた


 ナユタはどもりながらも言葉を返してくれる。

 自分のことを僕って言うんだ。そこに虚勢のようなものを感じ、サオリはどこか親近感を覚えた。

 そして、つい、自分に誓っていたことを破ってしまう。


「私と来る? 来ない?」


 それは紛れもなく旅への誘いだ。

 これからナユタと旅をする。そんな予感がしていた。


      ◇


 それは夢だった。いや、確かにあったことではある。それでも、今起きたことではなく、思い出に過ぎない。


 夢の余韻に浸りつつ、隣に寝そべる愛しい我が子に目をやる。それだけで幸せな気持ちになった。

 サオリは実感する。今はとても幸せなのだ。しかし、それを怖いと思うことがよくある。


「じゃあ、料理を始めよう」


    の世話をして、テントを出ると、ナユタがそう言った。

 そう、今日は特別な日だ。料理をしなくてはならない。


「うん、そうね」


 サオリはナユタに笑顔を返した。


      ◇


 イスの大いなる種族からった果実が袋に溜まっていた。この日のためにサオリとナユタは必死で集めていたのだ。

 その果実の皮を剥くと、固い粒上の実だけが残る。それはさながらカカオのように、香ばしい匂いが漂っている。


 竈門に火をかけると、鍋を置いた。そこに、イスの実を焙煎させる。要は炒めることであるが、どれだけ火を通すかで味わいは変わる。あまり苦くしてはいけない。

 浅めの焙煎ローストに留め、すり鉢に確保した。そして、滑らかにすり潰す。次第にカカオのような香りが立ち込める。甘い香りだと思う。本来のカカオには苦みしかないので、チョコレートで育った現代人ならではの感覚かもしれない。


 器に卵を割ってほぐした。砂糖をまぶす。ただ、入れすぎてはならない。よくかき混ぜて、油を加えてドロッとした感触になるまで混ぜ合わせる。

 小麦粉にふるいをかけると、そこに加える。さらにカカオのペーストも同様に混ぜ入れた。

 これでケーキ生地の出来上がりだ。


 ケーキの型は少し前に、トラックに収納されていたのを発見していた。

 そこにケーキ生地を流し入れ、金属の箱の中に入れる。それを火の中に突っ込んだ。あとは、ひたすら蒸し焼きにするだけだろう。

 焼き上がりを待つ。


 残ったカカオペーストは温めた牛乳と混ぜ合わせる。

 コップに茶こし代わりの網を通して、流し入れた。ココアも出来上がっていた。


    ◇


「    、誕生日おめでとう!」

「ハッピーバースデー、    !」


 サオリとナユタが    に向かって、にこやかに声をかける。    はキャッキャッと笑顔を向けてきた。

 それだけで二人は幸せの絶頂に達するのだ。


「今日は誕生日ケーキだよ。ココアケーキだから、    にも食べられるはずだよ」


 ナユタはそう言いながら、一口大に切り分けて、    の口にケーキを運んだ。キャッキャッと笑いながら    はケーキを口にする。明らかに喜びながら、食べてくれている。

 その様子に満足感を抱きながらも、サオリは自分自身もケーキを口にした。


 苦みと甘さが混ざり合う、その滑らかな舌触り。これだけでもう、幸せな気分になる。

 しっとりとした口触りは優しく、その味わいを感じるのに相応しい食べ心地をしている。焼きむらがあるせいかもしれないが、固い部分もあり、柔らかい部分もあり、そのおかげでかえってメリハリが効いていた。それが妙に美味しく感じられる。


 ケーキというものはあまり食べたことがないが、それでも、いや、だからこそか、とても美味しいものに感じられた。ケーキは美味しい。サオリはケーキが大好きだった。


    はケーキを食べるのを止めた。もうお腹いっぱいなのだろう。残ったケーキをナユタが口に入れた。


「うん、美味しい。美味しく焼けてて良かったよ」


 そう言って、ナユタが笑う。その笑顔を見て、サオリは再び自分たちが幸せなのだと実感していた。


    ◇


 サオリとナユタは気づかない。


    自分たちの愛する我が子に貌がないことを。

    赤子がなんのリアクションもせず、ただ貌のないまま、彼らに冷笑的な笑みを向けていることを。

 あたかも、普通の赤ん坊のように泣き、笑い、喜んでいる。そう思い込んでいるのだ。


    はいつそのような姿に変わってしまったのだろう。

 ツァトゥグアの肉を離乳食として与えた時だろうか。それとも、黒い山羊の乳を飲ませた時なのだろうか。


 それとも、ジャック・オー・ランターンをサオリが食べた時だったのかもしれない。

 その直後、ナイ神父は    を攫おうと現れ、麓郎とマイノグーラに阻まれ、姿を消した。しかし、この時すでにその本懐を遂げていたとしたら。


    はキャッキャッと笑い声を上げる。


 あるいは、それよりも前かもしれない。

 バロン=サムディは    が誕生する契機を与えたし、核物理学者デクスターはサオリの身体に変化を齎した。あるいはニトクリスにより既に汚染されていたのか。

 思えば、悪心影のように食料を渡してくるものもあった。ナイ神父もステーキを焼くための溶岩プレートを提供してきた。あるいは、ウィルスを撒いてくるものもある。疫病をもたらすものもあれば、テスカトリポカのように人知れず病原菌をまき散らすものもあるのだ。


 だが、それらはすべてニャルラトホテプと呼ばれる外なる神アウターゴッツに帰納される。サオリとナユタを翻弄し続けたのはニャルラトホテプそのものであった。

 そして、    もまた、ニャルラトホテプに連なるものであるのだろうか。


 少なくとも、人間牧場と呼ばれるこの世界もまたニャルラトホテプの化身である。だとするならば、所詮はサオリとナユタは家畜でしかなく、その行く末はニャルラトホテプの胸先で決まるものでしかないのだ。


 ただ、今は    がキャッキャッキャッと無邪気な笑みを二人に向けていた。

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人間牧場の兼平さん ニャルさま @nyar-sama

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