第五十二話 目玉焼き丼

「じゃあ、料理でも作ろうかな」


 ナユタが呟いた。

 兼平さんが繭の中に閉じこもってから、もはや数日が経っていた。もっとも、人間牧場で時間にどれほどの意味があるのかはわからない。

 それでも、ナユタには待つことしかできなかった。せめて、兼平さんが目覚めた時のために料理を作っておくことにする。


 まず、ご飯を炊く。飯盒に米を入れて水で研ぎ、浸水させたのち、火をかける。いつもの流れだ。


 ご飯が炊き上がるタイミングで、具材の用意をする。

 トゥールスチャから採れたアボガドを取り出した。回転させながら真っ直ぐに切り込みを入れると、皮を剥ぐ。柔らかい身のため、手にアボガドの実が纏わりつくが気にしてはいけない。

 種から引き剥がすように、実を取り出して、輪切りにカットしていった。


 スムマヌスの腸詰肉ソーセージに切れ目を入れる。竈門に火をかけると、鍋を置き、少しの水を注いだ。沸騰すると、ソーセージを入れてボイルにする。水が飛ぶと、そのまま料理方法が焼きに変化した。ソーセージから油が落ち、自然とジュージューと音が響き、肉と香料の混ざり合ったいい匂いが漂い始める。


 飯盒で炊いたご飯を丼ぶりによそった。

 そこにソーセージとアボガドを乗せる。あとは目玉焼きを加えるだけだ。


 鍋を熱したまま、油を注ぐ。そこに別の器に落としたシャンタク鳥の卵をそっと入れた。こうすると、形が崩れにくく、食感もよくなるはずだ。

 少量の水を加えて、蓋を閉め、竈門の火を弱くして、じっくりと蒸し焼きにする。しっかりと焼き上がったら、ヘラでそっと取り出して、どんぶりに乗せた。

 目玉焼きに塩と胡椒を振り、味付けをする。


 これで、目玉焼き丼が出来上がった。


      ◇


 湯を沸かすと、インスタントコーヒーを淹れる。そこに、牛乳を混ぜ合わせて、カフェオレにした。

 砂糖も少しだけ入れるが、入れすぎると目玉焼き丼と合わなくなる。

 コーヒーの成分と苦みが心を少し落ち着けさせてくれた。ミルクのまろやかさが緊張感を少しほぐしてくれる。


 ナユタは兼平さんの繭を見る。心なしか、地上に降りてきているように思えた。

 もしかしたら、繭が地上に降りてくるころに、赤ちゃんが生まれるのだろうか。


 考えても仕方がない。目玉焼き丼を食べることにする。


 まずは白身を切り出し、ソーセージも切れ目の部分で千切り、ご飯とともに口に入れる。白身のまろやかな美味しさ、ソーセージの肉の旨味とスパイシーな刺激、それらを受け止めるご飯。そのどれもが鮮烈で、深い満足感とともに、食事の楽しさを感じさせてくれる。

 ジャンクなご飯だが、けれど、だからこそ食事の持つ原始的な喜びが体現されているといえた。


「うん、美味しい」


 ナユタは言葉を発する。しかし、それが兼平さんに聞こえることはない。ただ、独り言でしかなかった。

 それでも食事を続ける。


 黄身を割り、そこに醤油をかける。その黄身にソーセージを絡め、ご飯とともに食べる。ソーセージの旨味たっぷりの肉質に黄身が絡まるのだ。美味しくないはずがない。

 醤油と目玉焼きの組み合わせも素晴らしい。ご飯が一気に消化されるようだ。

 ここで、アボガドを食べた。トロトロの食感が目玉焼きやソーセージにぴったりと合っている。深みのある野菜の味わいは、まさにこの瞬間に必要なものだった。


 これはもうヤミツキになる。卵、ソーセージ、ご飯、アボガドのサイクルが出来上がっていた。

 ナユタは夢中になって目玉焼き丼を食べ進める。


 だが、この時に異変は始まっていた。

 風が強くなる。大雨が降りつける。しかし、台風の目であるかのように、繭とその周辺は静かだった。


 ピッシャーン


 雷が落ちる。その轟を聞き、ようやくナユタは嵐が起きていることに気づいた。


      ◇


「何が起きているんだ?」


 ナユタは困惑する。ふと、上空を見ると、津波が発生していた。空から水の塊が堕ちてくる。


「うわぁっ」


 周囲一帯が海水で包まれた。しかし、苦しさはなかった。むしろ、自分のいるべき場所のようにすら感じる。心地よかった。

 だが、兼平さんはどうなったのだろう? 潰されていないだろうか。カブやスクーター、キャンプは?

 ナユタがそれらを探すと、水は消え去っていた。依然、嵐は吹き荒れているが、繭もキャンプも無事だ。


「え? 幻? どうなっているんだ?」


 ナユタはすでに地上に降りてきていた繭に近づく。

「兼平さん、大丈夫」

 そう声をかけた。


「う、生まれる……かも……。う、うぎぎぃぃぃいいい」


 繭の中から悲鳴が聞こえてくる。しかし、繭には触れようとしただけで弾かれてしまい、中に入ることなどできない。

 ただ、見守るしかないのか。ナユタは歯がゆい思いをしながらも、ただオロオロするばかりである。なんとなく、荷物から漆黒の卵を取り出して手でいじり始めていた。そうしていると気がまぎれる。


 そんな時、近づいてくるものがあった。


「私に任せてくれないか。慣れているのでね」


 石炭を思わせる漆黒の肌、黒いローブ、それらに不似合いな白い手袋。ナイ神父であった。

 その落ち着いた佇まいに、ナユタはその場を譲るほかない。


 ナイ神父はローブの中からメスを取り出すと、繭を切り裂いていく。

 繭の中からはお腹を膨らませた兼平さんがいた。彼女の股からは赤ん坊の手が出ている。


「しっかりと力を出して。リズムを大切に。私が赤ちゃんを受け止めるからね」


 そう言うと、ナイ神父は赤ん坊の腕を掴み、力を込めて引っ張った。それに合わせるように、兼平さんもいきみ、赤ん坊の顔が出てくる。

 ナユタは黒いトラペゾヘドロンを弄びながらも、張り詰めたようにその様子を見つめていた。


「大丈夫。順調だよ。元気な男の子だ」


 兼平さんの叫びとともに、赤ん坊がその身体が外に出てくる。

 ナイ神父はそれを取り上げ、へその緒を切ると、赤ん坊は大声で泣きだした。それとともに、周囲を覆っていた嵐は去り、澄み渡る晴天が広がる。

 ナユタもまた爽やかな気分に浸った。


 だが、兼平さんは違った。目を血走らせると、彼女の手に空気の渦が集まってくる。それをナイ神父に向けて放った。風が刃と化し、ナイ神父の頭を貫く。


「あなたを信用してるわけないじゃない。何度も現れてこちらに恩を売ったつもりかもしれないけど、私は騙されない。

 その子を返して!」


 しかし、ナイ神父の顔はグニャリと歪み、変形し、兼平さんの放った刃を避けていた。兼平さんの顔に絶望が宿る。


「フハハハ、よくぞ見破った。と言いたいところだけど、君がそう考えていることもわかっていたよ。

 私の目的は達せられた。魔人が生まれたのだよ。この子がどう育つか、どう育てるか、楽しみで仕方ないものだ」


 ナイ神父は顔を歪ませたまま、にんまりとした笑みを見せる。

 兼平さんは何度も風の刃を放つが、出産の疲れもあり、やがて力尽きてしまった。顔をやつれさせて、ばたりと倒れる。


「く……、返して……」


 倒れながらも、兼平さんは悔しそうな嗚咽を漏らした。


「う、うわあああ!」


 ナユタはバルザイの偃月刀であった包丁を掴むと、ナイ神父に向かって斬りかかる。だが、それも読まれている。

 ナイ神父の手が歪み、暗黒の塊となりつつ、ナユタの喉元を掴んだ。けれど、ナユタの腕は伸びきっており、伸縮する勢いで猛スピードでバルザイの偃月刀を持った腕がナイ神父を襲う。


 ズサッ


 ナイ神父の胸に包丁が突き刺さった。

 しかし、その全身が筋肉質なものに変わり、膨れ上がっていく。触手が絡み合ったような筋肉の塊となり、ナイ神父の顔はしなるように長く伸びた。いや、もう顔というべきものではない。無貌へと変貌し、燃え上がる炎のようなものが三箇所で輝いているだけで、表情のようなものはなかった。


「この姿を見たことを光栄に思うがよい。我こそは千の顕現を持ち、千の名を持つ暗黒の化身。終末の先導者、這い寄る混沌ニャルラトホテプなるぞ」


 ナユタの首が絞められる。意識が遠のきながらも、ナユタは自分の手に握られた漆黒のトラペゾヘドロンに気づいた。

 トラペゾヘドロンに念を送る。何か、助けはこないだろうか。


 果たして、漆黒のトラペゾヘドロンから現れるものがあった。

 それは男だった。中肉中背で、逆立っている、茶色がかった髪。目つきの鋭い三白眼でメガネをかけている。紺色のジャケットに白いTシャツを着ていた。

 言ってしまえば、普通の人だ。とても頼りになるとは思えない。


 しかし、その男を見て、ニャルラトホテプは興味深げな笑みを見せた。


「ククク。ここでお前が出てくるか、麓郎。お前なんぞに一体何ができるというのだ」


      ◇


「え、あれ? 何? ここどこ?

 あ、あれ、阿僧祇あそうぎちゃんをあやしてたはずだけど、どこ行っちゃったんだろう。いや、俺が移動したってことなのか?」


 麓郎と呼ばれた男はただ困惑するばかりだ。ニャルラトホテプの関心を引くものが何かあるのだろうか。

 そうしている間にも、ナユタは首を絞められている。ついに、力を失い漆黒のトラペゾヘドロンを手から離した。


 手から落ちた黒い卵は麓郎の頭にぶつかるが、その反動で割れながらも、あさっての方向に飛んでいく。そこには竈門に置かれた鍋があった。

 卵は鍋に落ちると完全に割れる。竈門にはまだ火が燻っており、鍋も熱いままだった。卵は目玉焼き状に焼けていった。


 ここに来て、ニャルラトホテプに刺さっていたバルザイの偃月刀が抜けた。スポッと抜けた勢いのまま、包丁もまた鍋のもとに落っこちた。

 包丁が鍋にぶつかると、鍋が空中に舞った。くるくると回転する鍋から、目玉焼きが放り出される。何の偶然か、目玉焼きは麓郎の口の中に飛び込んだ。


「ぐぷっ。なんだ、これは。

 卵の黄身がとろけているぞ。なんという濃厚な味わいだろう。こんなに素晴らしい卵はあるだろうか。白身の滑らかな舌触りも素晴らしいし、それが黄身と絡まり合う。こんな幸せなことはないぞ。

 それに目玉焼きを焼いた油もすごくいいものに思える。雑味が全くなく、でも、香りは豊かだ。上等な油なのだろう。美味しい。

 こんな目玉焼きは味わったことは……。さっきあった! ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂のソーセージ丼に入ってた目玉焼きとそっくりな味だ」


 困惑していたはずの麓郎は突如口の中に入ってきた目玉焼きをじっくりと味わいながら噛みしめていた。

 異常な事態に異常な事態が続く。こうなると、本当に困惑しているのはナユタの方だ。


「うぐっ、あがぁぁああ」


 そして、麓郎が苦しみ始める。麓郎の全身から闇が放たれ始めた。それは光が漏れ出るようであり、しかし闇であるのだ。それは異様な光景であった。

 麓郎の口の中から、黒い筋肉の塊のようなものが現れる。それは腕であるようにも、触手であるようにも見えた。黒いものの全身が姿を現す。それに引き換えて、麓郎の肉体は無残にも縮み上がっていた。まるで、脱ぎ散らかした服のように、ポイっと放り出される。


 現れたものの姿には、どこか既視感がある。それはニャルラトホテプにそっくりな姿だった。


「ほう、隠されし我が闇の同胞はらから、影の魔女、マイノグーラではないか。まさか、このものを引き出すとはな」


 漆黒のトラペゾヘドロンはマイノグーラの召喚器という本来の役割を果たしたのだ。


 完全にニャルラトホテプの関心がマイノグーラに移っている。ナユタの首を絞めつける力も弱まっていた。

 今がチャンスかもしれない。ナユタはその拘束から抜け出すと、腕を伸ばす。そして、ニャルラトホテプの腕の中で泣いている赤子を手にした。初めて触れる我が子であったが、そんな実感を湧かせる余裕もなく、必死でニャルラトホテプの腕から奪い取る。それでもニャルラトホテプはナユタに関心を払うことはない。


「………………」


 無言のまま、マイノグーラはニャルラトホテプと対峙していた。

 マイノグーラが触手を伸ばし、暗黒を孕み、ニャルラトホテプを攻撃する。ニャルラトホテプもまたそれに反撃した。

 超常の戦いが始まる。やがて、両者は空を飛び、次元を超え、どこか彼方へと消えていった。


 ホッと一息をつく。危機は去ったのだ。

 ナユタは赤ん坊を抱えたまま、兼平さんに駆け寄った。

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