5
出発の前に確認した地図アプリで、件のタクシー会社が繁華街のほうに居を構えているらしいとわかると、芳徳は来た道を戻ることになった。
つまりそれは、どんなルートを辿ろうと来たときに下って来た、崖ほどの高低差を二倍近い質量ぶん運動しなければいけないということで、近道で一気に登るか、遠回りでも緩やかに登るかの二択など、結局はあってないようなものだった。
「遠回りまでしておいて、情けない。私くらい楽々運べないでどうするのよ」
断続的に現れる坂のたびに重たくなる芳徳の足取りに見かねて、花緒里は言う。
立ち漕ぎが出来ればこんな坂――芳徳は内心で悪態を吐いたが、それもいまは無理な話だ。腰に花緒里の腕が、がっしりとまわされているせいで。
「もう、それにしてもなんだってこんなに暑いの! 早く帰ってシャワーを浴びたいわ……」
花緒里は右腕を芳徳の腰にまわしたまま、左腕を持ち上げて柳眉のうえに庇をつくる。
「なんか、お尻も痛くなってきたし……」
ぽそっと呟いて、花緒里が小さく身を捩る。
服装のため荷台に跨るわけにもいかない彼女のおかげで、ただでさえ悪い左右の荷重バランスが崩れ、自転車が大きく揺れる。
同時に芳徳の全身に指令を送る神経にも、遅延が発生していた。
「――きゃっ! ちょっと、気をつけなさい! ゆ、揺れたわよ!」
花緒里が悲鳴をあげ、芳徳の身体により強くしがみ付く。
その瞬間、芳徳は思わず喉から出そうになった変な声を、自転車のハンドル強く握ってなんとか堪えた。
「あ、あんまり君が動くからだろ! バランスがとりにくいんだよ」
「たまにずらさないと痛いんだから、仕方がないでしょ!」
芳徳の自転車はホームセンターで買った安物のシティサイクル――いわゆる、ママチャリに分類される。上等なオプション装備が付いているわけでもなく、後部にはステンレス製のありふれた荷台が付いているだけで、花緒里の主張も真っ当だった。
しかし、いまの芳徳に細かい気配りをする余裕はない。少しでも気を抜くと、背中にあたっているものに意識が引き寄せられてしまいそうになる。それに加えてこの暑さ。芳徳はもう、のぼせてしまいそうだった。
そしてそんな芳徳の変調に、もっとも身近に居る人物が気が付かないはずもなく。
「……ねぇ、あんたさっきから妙に口数が少ないわよね」
疑心に満ちた花緒里の声に、芳徳の身体は強張った。
「……君の口数が多いんだろ。さっきから文句ばっかり言って」
「変態」
その一言に、芳徳は閉口する。
そうなのね、と勘のいい花緒里はそのリアクションを見て大きな瞳をスッと細める。
「色情魔」
「………」
「……汚らわしい」
芳徳は挫けそうだった。
「ま、最初からこの程度のやつだと思ってたけど。これだから男は――」
「わかった、わかったよ! 頼むからその辺にしてくれませんか、お願いします!」
限界だった。心中が情けない気持ちでいっぱいになる。
花緒里が言ったように、所詮、自分はこの程度のやつなのだ。いくら紳士を気取ったところで、身体的な性差を意識した途端にはがれてしまうような、薄っぺらい化けの皮。虚飾だ。大罪だと、芳徳は内心で自らを詰った。
「――ほんと、厄日だわ。これも単なる不運……いえ、冥罰かしら」
聞こえてきた自嘲気な声に、芳徳は肩越しに花緒里を振り返る。
「なんだって?」
「前見て運転して」
「見てるよ、ちょっと振り向いただけじゃないか……」
正論を浴びせられて拗ねかけたところ、ふとした疑問が脳裏をよぎった。
「そういえば、この町にどんな用事だったんだ?」
「それをあんたに話して、私の得がひとつでもある?」
「ナイデス……」
「そうよね」
これが会話のドッジボールか――それでも芳徳は奮起する。
「や、でもほら、この町本当になんにもないし……」
「……なんにもないことはないわよ」
「そうなのか?」
花緒里はいよいよ芳徳を哀れに思って、息を入れると切り出した。
芳徳は、自分の歩み寄りの努力が実を結んだと勘違いした。
「ええ。国内の界隈じゃ有名なピアニストが住んでるでしょうが」
「初耳だ」
「それはあんたが無知なのね。この町に失礼よ、謝りなさい」
「ごめんなさい」
「仕方がないわね」
――あれ?
芳徳は思った。
「君が許すのはなんか、違わないか? それにこの場合、俺が礼を失したのはそのピアニストさんに対してであって、町にではないような……」
「なんにもない町、って言ったでしょ。だからよ」
「それはそうなんだけど……」
「でも自覚があるなら、ピアニストさんにも謝るべきじゃないかしら」
「ご、ごめんなさい」
「よろしい」
――あれれ?
芳徳は思った。これは別に、歩み寄りの努力が実を結んだわけではないのでは、と。
そうこうしているうちに時は過ぎ、目的地が近づいてくる。
色が増え、店が増え、人の気配が増え、音が増えてくると、繁華街に足を踏み入れた実感がわいてくる。中心部には少し遠いけれど、中途半端なこの町のそこかしこからかき集めた当て所ないエネルギーが、この一か所に集まっているのがわかる。
それは圧倒的であるようにも、ちっぽけであるようにも芳徳には思えたが、ただ一つ確かなことは、いまの芳徳には――いや、この町の若者にとって、ここにある熱量こそが彼らの身近にあるものの中で一番大きなものだということ。
漠然と憂鬱で、面白いことなんて一つもない気がするこの町は、やはりこの場所でしっかりと生きているらしかった。
「いったん停まるぞ」
返事を待たず、自転車を路肩へ寄せる。
「この辺りなの?」
「大雑把には」
短く返事して、褪せた壁のビル脇に自転車を停める。
芳徳がスマートフォンで現在地と目的地を詳しく確認をしていると、花緒里がその手元を覗き込む。自然と体が触れ合うが、一度見透かされたおかげか芳徳が動揺することはなかった。
「便利ね。あんたより有能」
「当たり前だろ。羨ましいか?」
「ええ、早く高校生になりたいわ」
花緒里の思わぬ素直さに、芳徳の優越感は空虚に萎む。
住所の再確認したあとは特に迷うこともなく、二人は順調に目的地へと到着した。
花緒里が財布を受け取りに行くあいだ、芳徳は建物の前で待っていた。
芳徳が花緒里について中に入って行かなかったのは、彼女に待っているように言われたからだが、もとからついていく理由もなかった。花緒里が齢の割にしっかりし過ぎている程にしっかりしていることは、この数時間で痛いほど良くわかっていた。
数分もすると入り口の自動ドアが開いて、花緒里が出てくる。その背後には社員らしき壮年の男が、笑みを湛えて見送りに立っていた。
芳徳は丁寧に繰り返し頭を下げる花緒里の、完璧に築かれた外面をげんなりしながら見守りつつ、手を挙げる社員さんに軽く会釈する。
「待たせたわね」
「そう言う割には、ゆっくり歩いてきたじゃないか」
「バタバタ走るのは品がないでしょう」
他人にはキコキコ自転車を漕がせるくせに、これがこいつの本性ですよ、社員さん!――芳徳は視線にそんな思いを込めてタクシー会社の入り口を見上げる。しかし、そこにはもう誰の姿も見当たらない。
「それじゃ、駅まで送ってもらえる? ドライバーさん」
言って、花緒里は自転車の荷台に座った。彼女の中ではとっくのとうに、そういう手筈になっている。
芳徳は肩を落とした。
「へぇへぇ……」
「ふふ、よろしくお願いね」
芳徳は己の耳を疑った。目を瞠る芳徳に、花緒里は唇を尖らせる。
「なに間抜けな顔してるのよ。ここまでしてもらったんだもの、それなりに礼は尽すわ」
「……もう少し早くにその判断はできなかったのか」
「あら、してたつもりよ」
花緒里に悪びれる様子はない。
「少なくとも、君の口から『よろしく』とか『お願い』なんて台詞を聞いたのは、いまのが初めてだ」
「おかしいわね。前にも言ったと思うけど」
「前のは確か、『漕ぐのは疲れるから、あんたに任せる。励みなさい』だったような気がするなぁ!」
一言一句、間違っていない自信が芳徳にはあった。
けれど、前がどうあろうと重要なのはいまなのだ――芳徳はほんのちょっとだけ晴れ晴れとした気持ちで、自転車のサドルに跨った。
繁華街の中心部に駅はある。そのため移動にさほどの時間はかからなかった。
駅が近づくにつれ、長いようで短かった一日の終わりが見えてくる。徐々に口数が減る芳徳と対照的に、
「この辺り、見覚えがあるわ」
と花緒里は声を弾ませた。
駅前はさすが土曜日、人の出入りはそこそこあった。
日はまだ高いが、その碧さに芳徳の気分は高揚しない。あとは帰るだけ、そう考えると退屈だった。
「さて、お別れね」
自転車から降りた芳徳がハンドルを握ったままでいると、花緒里は荷台から降りたあとで、なんでもないことのようにそう言った。
「ああ」
負けじと、芳徳も即答する。
初めからわかっていたことだ。そう思えば、なんのことはない。簡単に受け入れられた。来週になれば、それぞれが別の場所で日常に戻っていく。
なんのことはない――芳徳は目を伏せた。
「ねぇ、最後に一つ訊かせてくれるかしら」
「……なにかな」
顔をあげると、数歩進んだ先で花緒里がくるりと振り向いた。
ワンピースの裾が大きな花のように広がって、萎む。
「訊きたいのは、あんたの動機よ」
「動機……?」
「そう。下心じゃあ、ないのよね。納得のいく理由が欲しいの」
芳徳は口元を『へ』の字に曲げた。
「どうしてそう、ややこしい方向に話を持っていきたがるんだ」
でも、最後と言われると、少し弱い。
「まぁ、そうだな……」
芳徳は考える。ここで、本音を誤魔化すつもりはなかった。
「他人とは思えなかったから、かな」
「……なに、それ」
つまらないわ、と呟く花緒里。そして一歩大きく、芳徳との距離を縮める。
驚く芳徳の顔を見上げるようにして、花緒里は――、
「本当に、下心じゃないのよね?」
至近にある美貌に見惚れて、芳徳は言葉に詰まった。
咄嗟に自転車ごと身体を引いたが、それでも近い。今日一番の距離感に、戸惑っていた。
「――いいわ。いまの顔に免じて、これ以上の追及は見逃してあげる」
芳徳がなにも言えないでいると、花緒里は笑った。
人を食ったような笑みではない。それは彼女と出会ってから、芳徳が初めて見た花緒里の、少女らしい、それでいて悪戯っぽい笑みだった。
「それじゃあね」
そう言い残して、花緒里の背中は遠ざかっていく。
芳徳はなんとも言えない気持ちでその背を見送り、やがて駅構内へと完全にその姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。ついに一度も、彼女の名前を呼ぶことはなかったなと、後悔しながら。
ただ此れだけは 波打 犀 @namiuchi-sai
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