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傍若無人な振る舞いが目立つお嬢様――大島花緒里と名乗る少女のために、芳徳は労力を若干惜しみながらも、検索エンジンに引っかかったいくつかのタクシー会社に順繰り電話をかけていった。
モチベーションに反して作業は順調。開口一番に謝って、財布の遺失物がなかったか尋ねるうちに、なんとかアタリを引き当てることに成功する。
『――財布? ああ、届いてますよ』
「本当ですか」
『ええ』
しゃがれた声で男性職員が言うが早いが、スピーカーから耳を離した芳徳は自分のことのように安堵して、思わず花緒里を振り向いた。また、その声や様子から吉報であることを察するのは簡単で、花緒里の仏頂面にも喜色が浮かぶ。
『連絡があって安心しましたよ。物が物ですから。ただ――』
男性職員はそこで意味深に言葉を区切ると、やや訝る声でこう続けた。
『これが女性の持ち物っぽいんです。持って来たやつも、女の子を乗せたあとに車内で見つけたと言ってまして。失礼ですが……声からお察しするに、そちらさんは男性の方でお間違いないですよね。財布の持ち主さんとはお知合いですか。ご本人様でないとお渡しできかねますが』
「ああ、えっと……」
十代とはいえ、流石に声変わりを終えた芳徳の声では誤魔化しはきかない。そのうえ、花緒里と芳徳の関係は単なる巡り合わせで、知り合いを名乗るのはどうにも気が引けた。言い淀んだすえ、芳徳はきょとんとする花緒里をちらりと見た。
「いま本人に代わります」
「え、ちょっと」
突然、ずいと使い慣れない機械を差し出されて困惑する花緒里。しかし彼女は間もなく気を取り直すと、頑として動かない芳徳の手からスマートフォンを受け取った。
花緒里はおずおずと耳元にスピーカーをあてると、静かに口を開く。
「……あの、もしもし。お電話変わりました」
しん、としたよく通る声。それから、やはりスマートフォンは不慣れなのか、本体を持つ右手とは別に左手が軽く添えられている。育ちの良さが見て取れる半面、携帯電話の使い方としてはいささか大げさでもある。
「ええ、そうです。……そうですか。はい、問題ありません。本当に、ご迷惑を……」
戸惑っていたわりに、花緒里の電話対応は落ち着いていた。都度、助け舟を出す気でいた芳徳としては手持無沙汰で、「はぅふ」と堪えようのない欠伸が漏れる。
「はい。すぐに伺います……、えっ……」
ぴたりと花緒里が固まった。おや、と思って芳徳が振り向けば、二人の目が合う。
なにごとかと芳徳が視線で問うが、返事はなかった。その後、呼びかけがあったのか、花緒里はすぐに我に返った。
「あの、すみません。少し待ってもらってもいいですか」
花緒里がそう電話の相手に断って、スマートフォンのマイク部分をそっと抑えるのを待ってから、芳徳は改めて一声かける。
「どうかしたのか」
「平気よ、ちょっと席を外すから」
そう言われてしまえば、引き留めるのも間が悪い。芳徳には花緒里の動揺が気がかりだったが、電話の向こうで他人を待たせていることを思えば野暮なことだった。
「わかった」
芳徳が頷いたときには、花緒里はすでにヒールを鳴らして歩き始めていた。
自動販売機の横まで行って、立ち止まる。花緒里はそこで一度、芳徳のほうを振り向いてからスマートフォンを耳にあてた。そして本当にちょっとの時間で戻ってくると、すでに通話が終了した画面を上にして、芳徳にスマートフォンを差し出した。
芳徳はそれを黙って受け取り、ポケットにしまう。
「なんとかなったか?」
花緒里は、艶やかな黒髪を耳に掛けた。
「ええ、これから取りに行くわ」
「そうか」
芳徳はさっきのことを訊こうか迷ったが、快い返事があるとも思えなかったのでやめておくことにした。
「よかったじゃないか、見つかって」
「そうね、正直ほっとしたわ」
花緒里が胸に手を添えるのを見て、芳徳も満更悪い気はしない。心地よい疲れを感じていた。
「じゃあ俺はこれで」
膝を軽く叩いて立ちあがろうとした芳徳の上体が、僅かに反れる。シャツの裾を、花緒里が指で摘まんでいた。
「ちょっと待って、どこに行くのよ」
「は、はい?」
「私、さっきのタクシー会社がどこにあるのか知らないわよ」
「ああ、そう……か?」
隣町から来たという花緒里が、この町の地理に明かるくないのも無理はない。それ自体は不思議ではないが、芳徳は顔をしかめた。
「でもこれから取りに行くって、さっき……」
「あんたが知ってるでしょ」
さも当然とばかりに、芳徳を指して花緒里は言う。横暴だ、と芳徳は思った。
すっかり嘗められている現状を打破するためにも、流されるだけではいけない。ここはガツンと言ってやらなくては。
「あのね、俺は君の召使でもなんでもないんだけど」
「……あ、そ。じゃ、ここまでね」
あっさりとしている。
「ちょ、ちょっと」
「なによ……」
花緒里はうんざりしたような視線を芳徳に向けたあとで、小さく「あ」と呟いた。
「そうね、一応お世話になったものね。ありがとう、お疲れさまでした」
――お礼、言えるんだ。
芳徳は感心した。
「いや、じゃなくて……」
芳徳としては、このまま案内役を務めることもやぶさかではない。
困っているのがわかりきっている相手を、放ったらかしにして去るのも後味が悪い。それが、それなりに手を焼きながらもある程度面倒を見た相手であれば、猶のこと。乗り掛かった船――芳徳にとってはずばり、である。
たった一言で良いのにと、芳徳は思う。
けれどもしかし、意固地になることの愚かさを芳徳が何時間かけて説いてみたところで、花緒里が素直に聞く相手ではないだろうということも、この一時間余りで彼には十分身に染みていた。
「……わかったよ、案内する」
「え」
花緒里は目を丸くして芳徳を見た。
「……本気?」
「驚かれる意味が解らないんだけど。まぁ、冗談なんかじゃない」
芳徳が渋々と頷くと、花緒里がはっとしてその身を抱いた。
「下心じゃあないでしょうね。変なことする気なら、すぐにでも大声を出すわ」
「本当にひどいな!」
いますぐ助力の申し出を取り下げて――いや、無駄なことか。
そしたらまた彼女は澄ました顔で素っ気ないことを言うに違いない。周囲に期待することなんて、ひとつもないと言わんばかりに。
それが、気に入らない。
「はぁ、呆れた。あんたは本物の善人か、変態ね。だけど本物の善人になんて、早々お目にかかれないでしょうから」
「待て待て、俺は変態なんかじゃない」
「必死になるところが怪しいわ」
「別に必死にはなってないけどね!」
妙な沈黙があった。
「必死じゃない」
この酷暑にも肌寒さすら覚える冷めきった花緒里の視線に、芳徳は渋面をつくった。
「……というかさ、その二択には悪意しかないよな」
そもそも。ここまでのやり取りのどこに、自分が変態扱いを受けなければならないような謂れがあるというのだろうか――。
花緒里は左手首を返して時間を確認する。
「さ、そろそろ悠長にしてられないわね。案内して頂戴」
こいつ……!
芳徳は苛立ちにぎゅっと一度は固く握った拳を、深い溜息と共に弛緩する。これまでの人生で培った彼の適応力が、諦めという形で花緒里に順応した瞬間だった。
「まったく、親の顔が見てみたいよ」
せめて説教臭いことを言ってみる。とんでもない子煩悩に違いないと確信しながら。
花緒里はしばらく無言だったが、やがて「そうね」と小さな声で呟いた。その様子に芳徳は違和感を覚えたが、直後、花緒里の口から発された、
「――で」
から始まる台詞に上書きされて、簡単に頭の中から消え失せる。
「あんた自転車よね。二人乗りでもしようってわけ」
「ん、そうだなぁ……。君が違反行為を気にしないなら、そのつもりだけど」
花緒里は表情を曇らせた。
「嫌な言い方ね……」
「他に言いようがないもんで」
芳徳は肩を竦め、他意はないとの意を込める。花緒里は熟考の末に頷いた。
「仕方がないわね。ここまで来たら、小さいことにはこだわらないわ」
「えっと……、一応言っておくけど。言うほど俺たちは窮していないし、交通規則は小さいことではないからな」
「そう。でも――ねぇ、それは一体、なにを意図しての予防線なのかしら」
たしかに、と芳徳は思った。
綺麗ごとを並べても、俺たちはこれから交通規則を破るのだから、なにを言ったところで詮無いことだ――首を傾げる。気の利いた答えは、出てきそうにない。それに知らないで違反をするのと、知っていて違反するのでは、後者の方がよりたちが悪いようにも思えた。
「ごもっとも。じゃあ、やっぱり歩くか」
芳徳は意地の悪い笑みを浮かべて言う。
花緒里はこれに、心底嫌そうな顔で返した。
「この炎天下を? 冗談じゃないわ」
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