3

 少女は、飲み物を買いたくて自動販売機の下を漁っていたわけではなかった。金のほうが入用だったのだ。


 けれど――、芳徳は横目に少女を盗み見る。

 勘違いして渡した水にはちゃっかりと口を付けられてしまっているが、服装を見るに金に困る生活を送っているようにも思えない。もちろん金は一円でも大事だけれど、体裁はもっと大事にするべきものだ。


 だったらどうして。

 むくむくと、芳徳の中で少女への興味が膨らみ始める。


「あのさ、言いにくいことだったら話さなくてもいいけど」

「なら言わない」

「あのね……」


 諭すような声が出る。先ほどからずっと、こんな調子である。

 とはいえ、いつまでも少女の調子に合わせていると埒が明かないので、芳徳は思い切って構わず続けた。


「どうしてそんなに金が要るんだ」

「別に欲しいだなんて言ってないけど」

「いや、だってさっきは」

「聞き間違えでもしたんじゃない?」


 苦しい言い分のはずなのに、少女は堂々としている。

 芳徳は少しだけムキになって問い詰めた。


「そんなはずはない。そうそう聞き間違えんだろ、あんな台詞」

「だったら、奇跡的な聞き間違えをしたのよ」

「じゃあ本当はなんて言ったんだ」


 少女はしばし沈黙した。


「金をれ、って言ったの」

「一文字しか変わらないうえに、どっちにしろ無礼だな!」

「うるさい。気安く話しかけないでもらえる? 大声を出すわよ」


 芳徳は頬が引きつるのを感じた。

 しかし喉もとまで出掛かった言葉を飲み込んで、ゆっくりと正面を向く。相変わらず、車の流れは忙しない。


「家出したはいいけど金がない、とか」

「………」


 芳徳は左隣をちらりと見る。

 少女は澄ました顔で、沈黙を貫いた。


「自動販売機の下を漁るのが趣味」

「どんな……!」


 少女は芳徳の戯言にツッコミを入れかけて、やめた。


「まさかとは思うけど……、財布を失くしたとか?」


 ぴく、と少女の肩が僅かに跳ねた。おもむろに振り向いた彼女の目の前には、芳徳の勝ち誇った笑み。

 芳徳は言う。


「……子供」

「なっ……!」


 少女の顔が怒りと羞恥とで、さっと赤くなる。


「言っておくけどね! 心あたりならあるのよ、それもほぼ確実なのが! 失くしたわけじゃないっ、置いてきてしまっただけよ!」

「へぇ」


 芳徳はまともに取り合わない。

 少女はいまにも地団太を踏み出しそうなほど、華奢な身体を漲らせた。


「取り戻す算段ならあるんだから!」

「というと?」


 訊けば、少女は得意そうに胸を張る。


「私の財布はまず間違いなく、駅前から乗って来たタクシーの中よ。降りる直前、バッグに仕舞ったつもりで落としたんだわ。でももしかすると今頃は、そのタクシー会社が預かっているかもしれないわね」

「ほうほう」


 言われて見れば、少女の膝にはショルダーバッグがのっていた。有名なブランドものだろうか、高級な印象を受ける。


「あとは簡単よ。その会社に確認の電話を入れて、名前を名乗って取りに行くだけ」

「では、どうぞ」

「うちは高校にあがるまで、スマートフォンはお預けなのよ!」


 だめじゃないか。

 芳徳は呆れたが、納得もしていた。


「でもそうか、それで金が要るんだな。公衆電話を使うために――」


 少女は答えなかったが、その無言はすなわち肯定だった。

 いまどき公衆電話にこだわらずとも、どこかの店に適当に入って事情をきちんと説明すれば電話くらい快く貸してもらえるのだろうが、二人がそんな簡単なことに思い当たるのは後日になってからのことである。


「……いやまてよ、いったん家には帰れないのか」

「私の話ちゃんと聞いてた? 駅からタクシーに乗って来たって言ったでしょ。家は隣町よ、定期も財布の中だからそれは無理」


 なるほど、と芳徳は思った。ぽつりと呟く。


「まぁ、その程度の話なら協力のしようはあるな」


 芳徳は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。


「で、どこのタクシーに乗って来たんだ」


 少女は訝しそうに眉をひそめた。


「……助けてくれ、なんて言ってないわよ」

「そうだな」

「報酬も出ないわよ」

「どうでもいい」

「感謝もしないわ」

「それはしろよ」


 芳徳は眉間をつまむ。自然と声にも疲れが滲む。


「いいから、はやく教えてくれ」


 さっさと済ませて、家に帰りたかった。

 途端、少女はもじもじと居心地悪そうに自分の左腕を抱き寄せた。


「……知らないわ」

「は?」

「知らないんだってば!」

「なんで!」


 少女は、仰天する芳徳の視線から逃れるように顔を逸らす。気まずそうにしながらも、はっきりと言った。


「だ、だって仕方がないじゃない! タクシーを使うときにいちいち『どこの会社のタクシーかしら』なんて気にしないでしょ!」

「いや……」


 芳徳は否定しようと思ったが、思いとどまった。

 自分ならば気にするが、ほかの人のことはわからない。少女は隣町から来たと言った。もしかすると、遠出の経験が少ないのかもしれない。冷静さを欠けば、どんな事態もあり得なくはない。


「というか、そんなんでよく『取り戻す算段ならあるわよ!』なんて言えたよなぁ」

「それを言うなら『取り戻す算段ならあるんだから!』よ」

「すっごくどうでもいい!」


 それでも反論してきたのは、言われっぱなしが気に入らなかったからだろう、と芳徳は推理する。立場に対してやたらとデカい態度。困っているなら困っていると素直に言えばいいものを、他人に下げる頭などないとばかりに突き放す言動がその証拠。


「……プライドの高いお嬢様だ」

「なんか言った」

「いやいや」


 険のある花緒里の視線から首を振って適当に逃れると、芳徳はスマートフォンの操作に集中するふりをする。


「とりあえず片っ端から電話してみるしかないか……」


 芳徳にしても町内のタクシー会社に詳しいわけではない。車体の塗装や行灯のデザインのごとき断片的な情報から、タクシー会社を特定するのはハードルが高かった。彼はインドアで、たまに使う公共交通機関もバスくらいのもの。通学や外出に際しても、移動手段は専ら三段変速の重たいシティサイクルである。

 少女がやれやれと肩を竦める。


「結局、総当たりじゃない」

「それはまったくその通りだが。お前はそれ、おかしいからな?」

「――お前って呼ばないで」

「あぁ、いや失礼……」


 言ってしまってから、芳徳は礼儀についてこの少女に指摘されるのだけは間違っていると思った。思ったが、黙っておく。

 芳徳には、つけた火を消す自信がない。


「そうだな、じゃあ名前を教えてくれ」


 芳徳は努めて冷静に、穏やかな作り笑いを浮かべる。

 少女はそんな芳徳を一瞥して、


「他人に名前を聞くときは、先に名乗るのが礼儀よね」

「あぁ、もう! 朝比奈だよ、朝比奈芳徳!」


 芳徳は半ば投げやりに、叩きつけるように名を名乗る。


「よしのり……、どういう字を書くのよ」

「えぇ?」


 変なことを訊くな、とは思ったが、おかしいとは思わなかった。ここで意地を張るのも大人げない。素直に答える。


「……芳醇のホウに、道徳のトクで、芳徳よしのり

「ふぅん、いい名前ね。あさひなのヒは比べる? それとも日の丸のヒかしら」

「比べるのほうであってるけど……」


 芳徳の動揺が伝わったのか、少女はつまらなさそうに付け足した。


「なによ。名前を褒めたのよ、あんたを褒めたわけじゃない」

「……さいで」


 精々ご両親に感謝する事ね、と少女は言った。

 芳徳は咳ばらいをする。


「俺の名前は教えたぞ。そっちも名乗ったらどうなんだ」


 考えるような、妙な間が空く。

 少女はこのとき、微かに強張った表情を浮かべていたが、芳徳はそれを自分に対する警戒心ゆえのものであろう、と理解した。


「……おおしまかおり。おおしま、は……そうね、そのまま大きな島。あとは草花のハナに、鼻緒のオ、尺貫法のリと書いて、花緒里」


 草花はともかくとして、鼻緒やら尺貫法やら、少女――花緒里の口からすらすらと出てきた言葉に感心する。共有のしやすさで言えば一緒のショとか、里芋のサトとか、ほかにも言いようはあるはずで、芳徳はこの『あえての言葉選び』を好ましく思った。


「……なに、笑ってんのよ」

「え?」


 言われて、芳徳は自らの顔を触る。

 なるほど確かに、頬が緩んでいたらしい。


「いや、中学生とは思えない言葉選びだと思って」

「ああ……、なんだか」


 がっかりしたような少女の声音に、芳徳は首を捻った。


「他になにか?」

「なんでもない」


 花緒里は眠たそうな目つきで、正面の車道に視線を戻す。


「趣味ってだけよ、知らないことを知るのが好きなの」

「いいことだ」


 芳徳がにっこり笑って頷くと、花緒里は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。それから間も置かずに、驚いた顔で芳徳を振り返った。


「ねぇ、いつ私が中学生だって話したかしら……?」

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