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 土曜の放課後は特別だ。なにしろ午後がまるまる自由なのだから、四限が終わると教室は活力が爆発したような騒ぎになる。あちらでもこちらでも、放課後の予定が相談されている中、しかし芳徳は一人そそくさと帰りの支度を終えて席を立った。


「高田たちとカラオケ行こうかって話なんだけど、お前もこねぇ?」

「高田って隣のクラスの? 行きてぇけど、俺1時からバイトだわ」

「うっわ、まじか。いまんとこ俺しか男いねぇの」

「いいじゃん、ハーレム」

「さんいちは流石に厳しいって。少なくとも、もう一人男が欲しい」


 浮かれた声の主はそう言うと、あてを探してぐるりと教室を見渡した。

 芳徳とその男子生徒の視線がぶつかったのは単なる偶然で、一瞬のことだった。どちらからともなく目を逸らし、それはなかったことになる。


「誰かいねぇかな~、暇なヤツ」


 そんな白々しい台詞を聞き流しながら、芳徳は教室をあとにした。

 入学して初めの頃は、芳徳もそれなりに声をかけられる方の人間だった。人嫌いというわけでもなく、人当たりもまずまず。カラオケも、ボウリングも、金のあまりかからないアクティビティには一通り参加した。問題は芳徳にとって、そのどれもが人並み以下にしか楽しめないことだった。


 加えて、誰が決めたわけでもない、自然と定まる集団のなかでのポジションを維持することに拘泥して、気が付けばいつも誰かの太鼓持ちをやらされている自分に、ほとほと呆れてしまった、というのもある。


 なにが自分にとって価値のあるものなのか。そんなことを考えているうちに、いつしか芳徳はクラスメイト達からの遊びの誘いをほとんど断るようになっていた。

 初めは、ちょっとした羽休めくらいの気持ちだったと思う。それなのに。


 まるで透明人間だな――、芳徳は自嘲する。

 何者かになろうと大望を抱いて、いまだになにも手にしていない。手ごたえもない。価値の決まっていない挑戦の対価は孤独で、失ったものに見合うだけのものが今後手に入る保証もない。


 下駄箱に上履きを仕舞い、代わりに取り出した外靴を足元にそっと置く。ふと『自分は見誤っただろうか』と考えて、即座にかぶりを振った。

 考えないことだ。忘れてしまおう、なにもかも。


 外に出ると、むっとした熱気が芳徳を襲った。

 冷房の効いた校内がはやくも恋しくなるが、もたもたしていると此処もいずれ騒がしくなる。これ以上、余計なことを考えてしまう前に家に帰った方がいいだろう。自転車は駐輪場に停めてある。芳徳は自転車通学だった。


 駐輪場に生徒はまばらだった。

 それでも同輩がいることに安堵する自分自身に気が付いて、芳徳は面白くない気持ちになる。自分の自転車を見つけると、スクールバッグを気持ち乱暴にカゴへ放り込み、車輪にかかった鍵を外して無自覚な仏頂面で跨った。後輪のスタンドを、踵で蹴って跳ね上げる。


 校門を出て右折。しばらく道なりに自転車のペダルを漕いで、途中をさらに右折。それからまたしばらく行くと、高台の高級住宅地に入る。洒落た外溝の数々を横目にここを抜け、高台の崖下へおりるグネグネとした急こう配の坂道を、小刻みにブレーキをかけながらくだっていく。


 芳徳が少女を見かけたのは、このあとほどなくして。赤いランプの灯る、歩行者信号に待たされているときのことだった。


「……おいおい」


 そんな台詞が口をつく。視線の先、はす向かいの歩道には、いまどきこんなこともあるものかと哀れに――いや、むしろ感心してしまうほど、に執着する人物がいた。


 その人物は、炎天下で焦げるように熱いであろうアスファルト敷きの歩道で膝をつき、ほとんど腹ばいの体勢で人目もくれず、自動販売機の下を漁っている。遠目には見えにくいが、手に握った細長い木の枝で掻き出すように。


 金の亡者。そんな言葉が芳徳の脳裏をよぎったのは、自動販売機の下をあれ程必死になって覗き込む理由が彼にはそれしか思いつかなかったからで、ともかくその人物というのが、件の少女なのだった。


 芳徳は初め、そんな出来事を他人事で終わらせるつもりだった。

 不幸な人がいたものだ。このご時世、親切心から声をかけるのも憚られるから、大変だろうが自己責任でやってくれ、と心の内で唱える。ふいに、それまで淀みなかった車の流れが止まる。歩行者信号が青になっていた。


 ゆっくりとペダルを踏みこんで横断歩道を渡りながらも、好奇心に抗えない芳徳の視線は他人のみっともない姿をちらちらと盗み見ていた。


 だからだろうか。天は、芳徳のそんな不徳を見逃さなかった。

 次の瞬間、なにを思ったか少女がぐるりと首を巡らせて、芳徳のほうを振り向いたのである。当然、二人の視線は中空でばっちりとぶつかって、なんとも言えない空気がおりる。


 芳徳は慌てて視線を逸らしたが、横断歩道を渡り切ったところで気まずくなって自転車を停めると、恐る恐る少女の様子を窺った。


 少女は、敵意のこもった瞳で芳徳を睨んでいた。

『なにジロジロ見てんだよ』そう訴えてくる眼差しだった。


 芳徳は赤の他人から向けられる強烈な感情に怯んだが、同時に然もありなんと自戒する。不躾な視線を送っていたのはこちらである、不愉快に思われてもこれはまったく仕方がないこと。


 ならば、自らのみっともなさに赤面して遁走するかと言えば、芳徳の場合はそういうことにもならなかった。彼は偏屈が災いして、良く言えば矜持に従がって、このような場面では却って素直に持ち前の誠実さを発揮するという、厄介な性質の持ち主だった。


 芳徳は自転車から降りると、手押しで路肩にそれを移動して停め、スクールバックから取り出した財布を持って自動販売機のほうへと歩みを進めた。


 少女は明らかに狼狽えたが、気が強いのか焦っているのか、一歩も自動販売機の前から退く様子をみせない。どころか周囲を見渡して、ついには手に持っていた木の枝を両手で握って構えてみせた。


 一歩、二歩、――両者の緊張感がピークに達する。

 芳徳は少女が護身術に長けた者である可能性を考慮して、場合によっては技をかけられる覚悟でその背後を素通りした。何事もないとわかると内心でほっと胸を撫でおろし、ひとつ隣の自動販売機の前に立つ。なおも警戒の眼差しを向けてくる少女に構わず財布から小銭を取り出し、投入口に数枚押し入れて、少し迷った末に500mlのミネラルウォーターを二本購入した。


 ガコン、と音を立てて一本目が受け取り口に落ち、次いで二本目が落ちると、少女の半端に開いた唇から「え」と困惑した吐息が漏れる。


 妙な間が空けば気恥ずかしい。

 芳徳は、手早く二本のペットボトルを手に取って、うち一本を少女の眼前に差し出した。


「さっきは、その……。これ、お詫びです」


 ごにょごにょ、と芳徳がそう言うと、少女は木の枝を構えたままポカンとした表情で彼を見上げた。


「……は?」

「いや、ですから。失礼なことをしたと思うので」


 芳徳がそう付け足してやっと、少女の手がペットボトルに伸びてくる。だが、その手がペットボトルに触れることはなかった。迷うようにぴたりと止まる。

 無論、こういった結末も芳徳は想定していた。


「ま、ですよね……。じゃ――」


 芳徳はすでに行動で謝意を示した。これで面目は保ったのだから、と清々した気持ちでその引き際は潔い。慌てたのは少女のほうだった。


「いるいるっ、もらうってば!」


 言って少女は、芳徳の手を掠めるようにペットボトルを奪い取る。

 今日は暑い。よほど喉が渇いていたんだろう、と芳徳が思っていると、


「それから……」


 と今度は少女がごにょごにょと呟いた。

 極めて小さな声を、芳徳は聞き逃す。


「え、すみません。聞き取れないんですが」

「だから――!」


 少女は直前まで躊躇っていた台詞を、やけくそ気味に吐き出した。


「金をくれ、って言ったのよ!」


 その剣幕と内容に、芳徳は言葉を失った。

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