ただ此れだけは
波打 犀
夏の大三角形
風薫る、春と紛う
1
こだわりは最小限に生きること――それが、
こだわれば時にみっともなさを晒すことになるし、情けない想いだってすれば、視野だって狭くなる。だから、こだわりは少ないに越したことはないと芳徳は考える。その方が生きやすいはずだと。
けれども多かれ少なかれ、誰もがなにかにこだわって、殉じて生きているのもまた確か。こだわりなくして、生きるのは味気ない。
他人からしてみれば馬鹿げたモットーを掲げて生きる自分でさえ、気が付くといつもなにかにこだわってしまっているのだ。なんとも歯がゆいが、であればこそ、こだわるものは細心の注意をもって慎重に選ばなくてはならない。くれぐれも選択は慎重に。半端な気持ちで決断すれば、あとになってきっと、その瞬間にこだわってしまうから。
◇
意味もなくスマートフォンの画面を点けてみる。
現在時刻は午後1時47分――思わずため息が出た。あれからはやくも1時間近くが経過しようとしている。その事実が、焦りや後悔の気持ちと一緒くたに、重たく肩にのしかかっているような気がする。
そこには白地に小花模様の入ったワンピース姿の少女が、あいだ二人分の距離を挟んで座っていた。細い革のベルトで柔らかく絞られたウエストに、アイボリーのヒール靴。年のころは芳徳と同じか下くらい。初見には年上と思わせる気品を纏っていても、二、三、言葉を交わした印象で、芳徳は勝手に年下だと確信していた。
そうだとすれば、中学生か。万が一、同い年だとしても、同じ高校の生徒ではないことは確かだ。
芳徳が今年から通っている高校は本日、土曜日にも授業がある。
午前授業とはいえこれを得だと思ったことは入学から一度もないが、だからこそ得られる情報もあった。つまりこの時間に私服でいるこの少女は、少なくとも同じ高校の生徒ではないということになる。
少女は結露したペットボトルを額や首筋にあてたり、頻りに空いた方の手のひらを団扇代わりに自らを扇いだりしてどうにか酷暑を凌ごうとしている。果たしてそんな努力が結実するのか否かということは、袖から覗くじっとりと汗ばんだ少女の白い肌と、頬に張り付いた長く黒いほつれ髪を見れば一目瞭然で。
芳徳は少女のこめかみから流れた汗が、彼女の整った輪郭を伝って細い首へと流れていくさまから後ろめたさで視線を外すと、自らもまた顎下の汗を拭い、股に挟んであったペットボトルを手に取って、キャップを外し飲み口に唇をつけた。中身は水で、少女のものと合わせてすぐ傍の自販機で芳徳が買ったものだった。
無味無臭の液体が、喉から食道をとおって臓腑に流れ込んでいくのがありありと分かる。内腿を冷やしているうちに随分とぬるくなってしまったが、それでも体温より低いのはありがたい。
一息ついた芳徳の目の前を、排気ガスをまきあげながら車列が流れていく。
二人のいる一角は、時計回りに90度傾けたT字路――その横断歩道付近に置かれた休憩スペースだった。四面壁のない屋根の下にテーブルとベンチが設置されているほか、近くには自動販売機が二台並んでいる。
芳徳にとってこの場所の印象はとても薄い。通学路の途中にあって、日常的に傍を通るものの、買い物途中かあるいは散歩中の老人が休んでいたり、近所の小学生たちが何人か集まって賑やかに携帯ゲーム機で遊んでいるのをたまに見かけるくらい。もちろん、彼がここを使うのも今日が初めてのことだった。
都会とも言い難いけれど、遊び場に困るほど田舎でもないこの町で、わざわざこんな面白みのない場所に集まる学生はいない。繁華街はこちらとは逆方向にある。同窓諸君の大半は、今ごろそちらへ出向いて華やかにやっていることだろう。
一方で芳徳のように寄り道をせず、まっすぐ家に帰る学生もいないではない。
芳徳はふと、この状況は周囲からどんな風に見えているのだろうかと考えた。もしもいま、すぐそこにクラスメイト達が現れたら。
客観的に見て、芳徳は自分の顔立ちが冴えていないことを知っていた。
不細工であるとは思わない。どこにでもいるような、平凡な顔立ちであるというだけで。異性にモテるクラスメイトと比べたときに、明らかに見劣りするというだけで。芳徳はとくに、自分のルックスが嫌いではない。どこに居ても、なにをしていても、目立たないやつ。良くも悪くも、それが芳徳の自己評価だった。
対してどうだ。隣に座っている少女は控えめに言って“可憐”の一言に尽きる。
こうして隣でじっくりと横顔を見るまではわからなかったが、かなり整った顔立ちをしている。見れば見るほど健康的な魅力にあふれていて、体躯に似合わず堂々とした気配や振る舞いも、誰にでも備わっているものではない。
芳徳には別に付き合っている相手がいるでもなければ、美少女と並んで腰かけていると言っても距離感は明らかに他人である。ほとんどの場合、なんの問題にもならないだろう。傍目には偶然に居合わせた二人、と映るのが普通だ。
そうとわかっていても、いたたまれない。
見ようによっては他校の可愛い女子に声をかけたはいいけれど、会話が続かなくなって気まずい雰囲気になっているとも見えなくないではないか――芳徳は危惧する。
硬派で通っているという風評など、自分にはこれっぽっちだってない。自意識も不十分だろう。それでも、軟派な奴だと思われるのだけは心外だ。
なけなしのプライド。張りぼての外面。
それらが保てなくなる前に、早々にこの場を立ち去るのが吉。
状況が膠着してから半時以上。芳徳が脳内で繰り返した分析は、今度も変わらない解答を導き出した。
溜息を吐く。また、些末なことにこだわっている。
芳徳は屋根のつくる日陰から僅かにはみ出したつま先を引っ込めると、ただと思った。そのときだった。棘のある、不愉快そうな声が左から飛んでくる。
「――ちょっと、溜息を繰り返すのやめてくれない? 流石になんども聞いてると、こっちの気が滅入るのよ」
ただ、少女の性格がこうであることをはじめから知っていたなら、はたして俺はすすんで彼女に声をかけただろうか――芳徳は考える。考えて、結論する。否、断じてそんなことはしなかったに違いない。
「ねぇ、聞いてるの。黙ってないでよ、もしかして……怒ったの?」
嘲る気配に振り向けば、小ばかにしたような大きな瞳が芳徳を見ていた。
冷静になれ、冷静になるんだ、芳徳。相手はどう見ても年下じゃないか。そう自らに言い聞かせ、再三やりかけた溜息をすんでのところで飲み込んだ。
屋根の縁越しに、透き通るような青空を見上げる。燦燦と照り付ける太陽が、今朝にも増して鬱陶しい。くそ、どうしてあのとき。
そう、ことの発端は1時間ほど前のこと。
芳徳には、少女がひどく追い詰められているように見えたのだった。
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