第4話

 音が、凪いだ。厳密にはガラクタの筐体から響き渡る音楽以外の音が。

 広間に充満していた剃り鼠シェイヴ・ラット達の唸り声と足音、それらが示し合わせたかのように止んだのだ。

 メタルコアの重低音が、空になった大気を埋める。雑音が去ったことで、より音像が鮮明になっていた。

 楽曲はテンポを落とし、ドロップダウンと呼ばれる間奏パートに突入する。

 リケルはしかし、無音の中にいた。

 眼前の光景が、視覚以外の情報を麻痺させているのだ。

 瞠目の先、リケルのライトが三階建てほどの高さのある広間の入り口を照らしている。入口の上部、九十度に曲がり闇の奥へと走る配管を、巨大な何かが押し潰していた。

 それは、手だった。

 恐ろしく巨大な手だ。

 すぐ脇で配管にめり込んでいるあの一際大きな剃り鼠シェイヴ・ラットが、苦もなく収まってしまうほどの巨大な手——その手が、まるで紙切れでも握りしめるかのように鋼鉄の配管をひしゃげさせていた。

 にわかに、コンクリートの床が大きく揺れ、低周波がリケルの視界を震わせた。闇の向こうから現れた何かが、入り口付近の地面にそびえ立っていた。

 巨木の幹——否、脚だ。

 膝までの高さが、リケルの背丈の五倍はあろうかという巨大な脚だった。その脚が、入り口付近にいた一体の剃り鼠シェイヴ・ラットを、トマトを踏みつける容易さで蹂躙じゅうりんしたのだ。暗がりの中で、地面に血溜まりが広がっていく。


 途轍とてつもなく巨大な何かが、入口の向こうにいる。


 確信であり、畏怖であった。存在の圧力を前に、呼吸すら押し潰れそうだった。噂は本当だったのだ。剃り鼠シェイヴ・ラットの大群が迫った時はまだ、があった。絶望する余力が残っていた。状況を打破するにはどうすれば良いか、それを思考する余地があったのだ。だが今回は違う。

「あ……あっ……」

 どうすることもできない脅威に対し、リケルの脳は自ずと思考を止めていた。開いた瞳孔はただただ、ことの成り行きを映していた。桁違いの脅威が、闇の向こうから浮かび上がる様を。

 巨大な手脚の主が広間の入り口をくぐり抜けるようにして現れたのだ。


 それは、巨大な人間だった。


 灰色の皮膚と哀れな奇形を持つ巨人だ。首は九十度に折れ曲がり、苦悶に満ちた顔面が岩のように隆起した左の肩と癒着している。顔の左半分の皮膚は癒着部に引き伸ばされ、口は叫ぶような形で無様に開き、左目は固く閉ざされている。唯一皮膚の牽引から逃れた右目はしかし、白濁してその役目を果たしていないようだ。

 暴食鬼ベヒーモス——サルベージャーの間でその存在を囁かれていた伝説の怪物——に違いなかった。

 巨人はその巨体からは想像のつかぬ俊敏さで、手近にいた剃り鼠シェイヴ・ラットを数匹、さっと鷲掴みにすると、だらしなく開いた口に半ば押し込むようにして捕食した。

 肉を潰し、骨を砕く咀嚼音が響き、続いて遠い雷鳴のような音が。ゲップだ。

 動きを止めていた剃り鼠シェイヴ・ラット達はその音でようやくパニックを起こし、一つしかない逃げ道——暴食鬼ベヒーモスの居る入口の方へ殺到した。暴食鬼ベヒーモスは自ら飛び込んでくる餌を次々に掴み、口に放り込んでいく。その度に吐き気を催す音が交互に響いた。 

「これは流石にまずいかもなあ、少年」

 ガラクタの声でリケルはわずかに思考を取り戻した。いや、というよりは反射のようなものだった。最早なす術はない、それなら少女とガラクタ二人だけでも……。リケルは広間の中央に立つ少女に向け、ありったけの声量で叫んだ。

「逃げろ!」

 巨人の一挙手一投足が起こす空気の乱れが、こちらに背を向けた少女の赤い髪とセーラー服をなびかせた。少女はリケルの叫び声には反応せず、ただじっと、前方で捕食を続ける巨人を見上げている。

 リケルはハッとした。少女はきっとガラクタの指示で動いているのだ。ガラクタの方へ振り向き、リケルは叫んだ。

「早く逃げるように言ってよ!」

 いくら易々と剃り鼠シェイヴ・ラットを吹き飛ばす強さを持つ少女でも、あの巨大な暴食鬼ベヒーモスには敵うはずがない。

「んー。逃げろっつってもなあ……」

 どこへ? 入り口は暴食鬼ベヒーモスの巨体が塞いでいる。確かに逃げ道なんてない。だが、リケルには考えがあった。

「配管だよ……天井の配管。アレは入り口だけじゃなく壁の向こうにも通じてるんだ。あの子なら君を担いでも配管まで跳べるよね!」

「跳べるかもしらんが、ワシのこのカートはどうする。この快適さは捨て難いぞ?」

「カートって……そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あの剃り鼠シェイヴ・ラット達が食べられたら、次は僕らだよ!」

「うーん、でもなあ……」

「何がなんだよ!」


「……だってほら、ワシら……


 沈黙。

 ……確かに。餌になりそうな生身の人間はリケルだけである。

 しかし——

「……っ関係ない! やつはきっと手当たり次第口に放り込むよ! この状況がわからないの!? 現実を見てよ! 暴食鬼ベヒーモスの恐ろしさを知らないからそんな悠長なことが言えるんだ!」

 リケルは膝の上で拳を握りしめた。

「ゴンザレス隊は最強だった。みんなの憧れだったんだ。隊長のゴンザレスは剃り鼠シェイヴ・ラットに囲まれても一人でみんなやっつけちゃうくらい強かった。そのゴンザレス隊が、戻ってこなかったんだ……。近くで探索してた連中が馬鹿でかい足音を聞いたって……」

 顔をあげ、ガラクタを睨みつける。

「それがあいつだよ! あの恐ろしい姿を見——」

 暴食鬼ベヒーモスの方を指差し、振り向いた瞬間、リケルは言葉を失った。

 楽曲が丁度ドロップダウンからコーラスパートへのブレイクに差し掛かり、広間を完全な無音が包んでいたその時である。


 少女が暴食鬼ベヒーモスの顔の高さまで跳躍し、空中で静止しているのが見えた。体を開き、右の拳を目一杯、弓を引き絞るように振りかざした姿勢で。


「えっ……?」

 リケルが声を漏らした直後、少女の超音速の拳が大気を歪ませた。暴食鬼ベヒーモスの顔面が、鼻っ柱を中心に半球状に凹んだ。轟音と衝撃波が、遅れてリケルの鼓膜を叩いた。

 曲はコーラスパートに入り、ボーカルが再びエモーショナルな旋律を歌い始めた。

 暴食鬼ベヒーモスはそのまま膝をつき、顔面から広間のコンクリートに倒れ込んだ。凄まじい振動と共に、鳩のようになったリケルの顔に風が吹き付けた。

「え、ひゃ? ひゃ……?」

 今度こそ、完全に思考が停止していた。

 一方の少女は何事もなかったかのように巨人の背中の上に降り立ち、ゆっくりとこちらへ歩き出す。

「ねえマーグロップ、お腹がすいたわ。これ食べていい?」

「うーん、流石にそれは食べんほうがいいだろ。生物濃縮」

「そお?」

 リケルはしばらく、呆然と少女が近づいてくるのを眺めていた。

「……何?」

 目があって、少女が冷たく尋ねた。リケルは金魚のごとく口をパクパクさせるので精一杯だった。

「変なの」

 剃り鼠シェイヴ・ラット達が入り口から逃げていく。曲が終わり、観音開きになっていたガラクタの胴体が閉じた。

 やれやれ、と言ってガラクタがリケルの方に顔を向けた。

「これでようやく話ができるな。さて、少年。ちょっと聞きたいんだが、『レコードセンター』に行くにはどうすればいいかわかるかね?」 

 尋ねられ、リケルはガラクタの方へ振り向いた。


「あはっ、あはははっ。へへへっ……」


 ……これが三人の出会いだった。

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ドブガイとシュノーケル N岡 @N-oka

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