第3話

 幾重にも重なる咆哮と足音で、大気が飽和しつつあった。

 ああ……!

 リケルは尻をついたまま闇雲に地面を蹴って後退した。

 揺れる光の先で、赤い塊が臓物のように脈打っている。決河の勢いでなだれ込んだ剃り鼠シェイヴ・ラットの大群が、広間の向こう半分を一瞬にして埋め尽くしたのだ。

 少女とガラクタの姿はない。怪物の波に飲まれてしまったのだろう。

 十、二十……いや、もっと多い。

 おびただしい数の怪物が、息を荒げながら密集していた。

 リケルがヘッドライトを消さないのには理由がある。奴らは光を感知しないのだ。その代わり、骨がほとんど剥き出しになった前頭部で、エコーロケーション——コウモリなどと同様に、自らの発した音の反響を感知——し、獲物や自らの位置を特定する。

 今しも、前列の個体が辺りを見回しながらカカカコと乾いた音を発し、リケルは咄嗟に上体を低くした。こちらを探っているのだ。

 こんな所で……奴らにむさぼり喰われて、ぼくは死ぬのか。

 いや——

 体を反転させ、腹這いになる。ついさっき撃退した幼体がすぐそこに転がっていた。ロングナイフの突き刺さった眼窩から血液が流れ出て、リケルの体がすっぽり収まるほどの血溜まりができていた。肘で体を引きずり、その中を進む。防寒着が血を吸って次第に重くなり、鉄と汚物の混じり合った匂いが視界を滲ませた。

 ——ここでただ死を待つ、それだけは嫌だ。

 ライトが剥き出しの真皮を眼前に照らし出した。静止している。幼体はすでに事切れているようだ。リケルは寝そべったまま幼体の肩に足をついて、眼窩に刺さったロングナイフの柄を握った。少しでも音を立てると奴らに気づかれてしまう。力を入れ、慎重に引き抜いていく。柄に骨を削る振動が伝わり、傷口から血液と共に得体の知れない何かが溶けたチーズのように溢れてきた。

 うっ……

 胃液と共に迫り上がってきた嗚咽を奥歯で噛み殺す。抜き取ったロングナイフを手に、血溜まりの中、幼体の頭部を背にして座り込んだ。

 ライトが再び広間の向こう側を照らす。剃り鼠シェイヴ・ラットの大群が徐々に近づいてきていた。

 戦えば、確実に死ぬ。ナイフ一本でどうにかなる相手ではない。かと言って隠れる場所などどこにもない。選択肢は必然、逃走の一択。だが逃げ道である通路は怪物が埋め尽くす広間のあちら側にある。おまけにさっき挫いた足首はずきずきと痛みを訴えている。状況は雪隠詰せっちんづめだ。

 だがここで諦めたら、これまでの全てが無駄になる。これまでだって、ずっと死ぬ思いでやってきたのだ。

 どうにか隙を作ることが出来れば……

 逡巡を始めたその時だった。


「うーん、どれにするか迷うなあ」


 リケルの横で不意に濁声が響いた。跳ね上がった心臓を飲み下しながら、恐る恐る傍へ視線をやる。どういうわけかそこにはカートに乗ったガラクタの姿が。

 あり得ない……絶対に。

 怪物の波に飲まれるのを確かに見たのだ。

 まさかまた幻覚が……。いや、ガスマスクは幼体と戦った時から外していない。

「どしたあ少年? そんなに目え丸くして」

 ガラクタは先刻同様悠々緩々ゆうゆうかんかんとした調子でカタカタと顎を鳴らした。

「し、しーっ!」

 咄嗟に人差し指を口の前に立て、ガラクタに黙るよう促す。声を上げれば怪物達がこちらに気づいてしまう。

 ……否、もう手遅れだった。剃り鼠シェイヴ・ラット達がこちらへ向けてあぎとを開きながら威嚇の声を上げたのだ。

「ああ……もうおしまいだ……」

 リケルは頭を抱えた。ガラクタはお構いなしに、「あー。そういうことか」と、腕があれば相槌を打ちそうな勢いで言った。ついでになはははと高笑いまで。このポンコツ徹頭徹尾どうかしている。リケルは泣きたくなった。

 だが幸か不幸か、怪物達は我先に獲物にありつこうと互いに牽制し合っている。というよりどこか様子がおかしい。怪物達はどういうわけか前列の個体を除いて、みな群がりの中心部に注意を向けている。

 そういえばあの少女の姿が見当たらない。まさかあそこに取り残されて……

 リケルの脳裏を悲惨な光景がよぎった。

「あ、あの子は……?」

「ああ、アンビィなら心配いらん。それなりに丈夫だからな。落としもんを拾いに行っとるだけだ」

 リケルは口を開けたまま絶句した。彼等は剃り鼠シェイヴ・ラットの恐ろしさを知らないのだろうか。

「やれやれ何をそんなに思い詰めとるのか知らんが、まあ元気出せ少年。人生は長いぞ〜。……ん、そうだ、決めた、丁度いい。景気付けに特別ご機嫌なのをかけることにしよう」

 言うや否や、ガシャコンと軽快な音がして、ガラクタの黒光りする金属剥き出しの胴体が中心線から勢いよく観音開きになった。あらわになった胴体の内部はガラス張りで、中にはターンテーブルが。扉部分の内側には大小複数のスピーカーコーンが左右対称に並んでいる。

「そ、それは……!」

 先輩サルベージャーが下層で超がつく掘り出し物を発見したと自慢していたのを思い出す。それとまるでそっくりな代物、確か名前は——

「『ジューク・ボックス』……!?」

「ご名答」

 ガラスの内側でレコードがラックからロボットアームに引き出され、ターンテーブルの上に移動した。悠然と回転する円盤の上に、音もなく針が降りていく。

 だが、何故……?

 ガラクタはしかしリケルの狼狽をよそに、ことさらな美声で告げた。


「ミュージック、スタート」


 ——それは、破壊的なノイズだった。 

 耳をつんざくハウリングに続き、歪み切ったギター、地を這うベース、大気を圧縮するバスドラム——轟音がリケルの肌をビリビリと震わせた。ズン……ズン……ズン……と二分音符で繰り返すフレーズはまるで巨人の足音のようだ。

 状況が飲み込めず、リケルはただ目を見開いて景色が現実感を失っていくのを眺めていた。

 これは……一体なにが起きてるんだ。ぼくは一体何を見せられている……?

 一方、音に敏感な怪物達は爆音に対してあからさまに拒否反応を示している。激しくかぶりを振る者、我を忘れて咆哮を上げる者。刹那、無音、そして——


「少年、メタルコアは好きか?」


 直後、さらに激しさを増した爆発的なフレーズがスピーカーから飛び出した。高速で十六分音符を刻むギターとバスドラム、悪魔じみたシャウト。

 と同時に、リケルの目に信じ難い光景が飛び込んできた。怪物の群がりの中心が突如、山のように盛り上がったと思うと、見る間に爆散したのだ。決して誇張ではない。一体一体が熊よりも大きい剃り鼠シェイヴ・ラット達が、まるで玩具のように四方八方に吹き飛んでいったのだ。

 うち一体が、リケルの目と鼻の先にもどすんと落ちてきて、着地と同時に痙攣を始めた。

「あ……ああ……!」 

 リケルは声にならない声を上げた。間近で怪物を見て、ではない。視線はそのずっと先、


 爆心地にあの少女が佇んでいたのだ。


 ヘソ出しのトップスにミニスカート。あれは確か『セーラー服』、古代の民族衣装だ。文字通りぼろ切れになってしまったマントを手に、「あーあ、ボロボロ」と残念そうな顔をしている。

 ふ、吹き飛ばしたのか……まさか、あの子が? 奴らを……ありえない。

 怪物達は壁際まで後退し、少女に向けて威嚇の唸り声を上げている。こちらを向いている個体は一体もいない。少女を脅威と認めたのだ。

 ボーカルが獣のように歌い出す。いや、歌というよりもはや雄叫びに近い。

 少女は何事もなかったかのようにこちらへ歩き出しながらぼろ切れを掲げた。

「ねえ、マーグロップ。マント破けちゃった」

「なははは。しゃあない」

 ガラクタがカタカタと笑った。落とし物を拾いに行っただけ、まるでその通り、それ以上でも以下でもなかったというような素振りだ。リケルはそれをどこか遠い世界の出来事のように眺めていたが、急転——

「ああっ! 横っ!」

 裏返らんばかりの勢いで叫んだ。左の壁際に居た剃り鼠シェイヴ・ラットの一体が、少女に向かって死角から突進してきたのだ。一際大きな個体だった。恐らくこの集団のボス格だろう。あの距離じゃいくらなんでも避けるのは無理だ。それにあの大きさ、まともに突進を食らったらただじゃ済まないはず。

 血の気が引き、いよいよぶつかる、という時に不覚にも目を閉じてしまった。

 再びテンポを落とした曲のバスドラムに同期するように、ドンッと衝撃音が響いた。

 瞼を恐る恐る開ける。

「っ……!?」

 リケルの脳は、状況を即座には理解することができなかった。

 少女が姿勢を崩さぬまま、左手一本で自分の十倍以上も巨大な剃り鼠シェイヴ・ラットの突進を止めていたのだ。

 曲がコーラスに突入した。先ほどまで獣じみた声を上げていたボーカルが、エモーショナルな旋律を歌い出す。叙情的なコード展開は視界が一気に広がるような感覚をリケルに与えた。そこでようやく、リケルは引き攣った笑みを浮かべた。

「は、はは……すげえ」

 ボス格はいまだに何が起きたのか理解していないようだった。いや、インパクトの反動で脳がやられたのかもしれない。とにかくそれ以上進もうとも、引こうともせず、時間が止まったかのように動きを止めている。

 すると少女は予備動作なしで目にも止まらぬ回し蹴りを放った。というより、リケルがそれを回し蹴りであったと理解したのは、ボス格が凄まじい音と共に闇の向こうへ吹き飛んだ後、足を振り抜いた姿勢で静止する彼女の姿を目にしたからだ。実際は、全く見えなかった。

 すぐさま、彼方から金属のひしゃげる音が聞こえてきた。広間の奥、壁の十メートルほど上方を這う無数の配管を押しつぶすようにして、ボス格がそこにめり込み白煙を上げていた。

「い、今何が起きたの……?」

「うーん、手加減したようだなあ。なはははは」

 ガラクタがカタカタと顎を鳴らした。

 信じられない強さだ。まさに規格外と言って良い。先刻までのガラクタ達の舐め切った態度がようやく腑に落ちた。

 強さだ……強者の余裕だったんだ。あれは!

「ぼ、ぼくは助かった……のか」

 ボス格がやられた。剃り鼠シェイヴ・ラット達は怖気づいて逃げ出すかもしれない。でなくてもあの強さだ。みんなやっつけてしまうに違いない。心臓がさっきまでと違う音色で早鐘を打っていた。

 だが、その期待はわずか一秒後に打ち砕かれた。


 ズゥン……


 重低音と共に、地面が一定間隔で振動を繰り返し始めた。巨大な何かがこちらに近づいてきている。音を耳にした瞬間、リケルの背中にどっと冷や汗が噴き出た。サルベージャーが一番最初に学ぶフレーズを思い出したのだ。


『クソでかい足音を聞いたらとにかく全力で逃げろ』


 その足音が何の足音なのか知る者はいない。知ろうとした者は誰一人として帰ってこなかったからだ。いつもふざけた調子の先輩達がその時ばかりは真剣な面持ちで話していた。

『そいつはもはや都市伝説だが、俺たちの間じゃこう呼ばれている——』

 そして、真の捕食者が通路から顔を出した。


『——暴食鬼ベヒーモスと』

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