第2話

 薪の爆ぜる音は無音の存在をかえって浮き彫りにするようだ。暖炉のおかげで、わずか十平米と少ししかない部屋は安穏とした空気で満ちていた。

「うわあ、美味しそう!」

 咲くような声にリケルは視線を上げる。姉がテーブルの向かいに座って破顔していた。

「お姉ちゃんが帰ってくるから、今日は奮発したんだ」

 リケルは鼻息を強くして言った。蝋燭ろうそくが照らすテーブルの中央には、山盛りのフライドチキンとボイルした野菜の載った大皿、二人の手元にはお揃いのコップ、それからリケルの肘から先ほどもあるバゲットが置いてある。今夜はご馳走だ。

「じゃ、お祈りしよっか」

 姉が大皿を挟むように手を差し出す。リケルが応じると、ひんやりした姉の指先がリケルの指を握りしめた。

 今日は祝うべき日だ。ずっと離れ離れになっていた姉と、今日からまた一緒に暮らせるのだ。

 神様なんて信じて来なかったけど、今日ばかりは心の底から感謝を捧げたい気分だった。

 目を閉じて、祈る。神様、ありがとうございます。こうしてまた、姉と暮らせる奇跡を下さり、感謝します。地下探索の間もぼくを見守って下さり、ありがとうございます。下層で見つけたあの遺物がとても高く売れて——

「下層……?」

 リケルは握っていた手を引いて、ハッと目を見開いた。その瞬間、背筋から首の後ろまで、何かが駆け上がるように一気に粟立つのを感じた。

 おかしい……。何かが変だ。汗の滲んだ喉元を鳴らし、生唾を飲み込む。心臓の拍動が、耳元で聞こえるくらいに高まっていた。

「どうしたの? リケル……」

 やっぱり、おかしい……。

「い、居るはずがないんだ……」

 リケルは視線を落とした。コップの影が油脂の染み込んだ木製のテーブルの上でゆらゆらと踊っている。

「お姉ちゃんがここに居るはずがないんだ。だってぼくは下層で……下層で探索して……それで……」

 耳元の心臓が早鐘を打つ。疑念が確信に変わりつつあった。

「ぼくは……に、追われていた」

 声を引き金に、テーブルのバゲットがにわかに緑色のカビで包まれ、みるみるしぼんでいった。フライドチキンも野菜も、瞬く間に腐食して、黒い液体と骨だけになった。二つのコップも、砂が崩れるようにして形を失う。

「あ、ああっ……!」

 リケルは息を詰まらせた。ならば、姉は……。恐る恐る視線を上げた瞬間、蝋燭の火が消え去り、ヘルメットのライトがを、姉のいた場所をはっきりと照らし出した。

 途端、リケルは喉が裂けんばかりに声を上げた。

「うわぁあああ!!」

 全てはガスの見せた幻だったのだ。そこには——現実のリケルの目の前には——見るもおぞましい姿の怪物が居た。熊のような体躯はリケルの三倍以上もあり、体毛のない、悲惨な、体液まみれの赤い皮膚の下で、紫色の血管が脈打っている。人間の頭蓋骨に似た骨格がほとんど剥き出しになった頭部には、くぼんだ真っ黒な眼窩がんかがあるだけで眼球らしきものは見当たらない。歯列は突出した二本の前歯があり、その部分のみについては齧歯類げっしるいを連想させる。そいつが発しているのだろう生ゴミのような腐臭が、リケルの鼻を突いた。腐った挽肉ひきにくね上げて作った熊に頭蓋骨を付けても、ここまでグロテスクな造形にはならないだろう。

 地下最大級の脅威——剃り鼠シェイヴラットだ。

 息を整える間もなく、怪物は地を這うような声で唸り、リケルに飛びかかってきた。

「くそっ……!」

 リケルは咄嗟に倒れ込んで回避する。すかさず、腰の後ろのホルダーから片刃のロングナイフを引き抜き、逆手に構えた。腰を落とし、再びこちらを向いた怪物と対峙する。

「一体だけ、それに幼体なら……!」

 怪物は即座に咆哮を上げ、あぎとを開いて突進してくる。リケルはタイミングを合わせ跳躍し、全体重を乗せて怪物の眼窩にナイフの刃を刺した。背に設けられたのこぎり刃セレーションが頭蓋骨を削り、ブブッと音が上がった。鮮血が噴き上がり、リケルの顔の半分を染める。リケルは柄を離して着地し、バックステップで一旦距離を取った。

 怪物は首を振り上げ、唾液と血液を撒き散らしながら、壊れた警報器のような咆哮を上げる。まずい……。幼体が仲間を呼ぶ時の叫び方だ。

 追ってきたのはこいつだけだったのかもしれない。だが今の咆哮を聞きつけ怒り狂った成体達が下層中から何体も集まってくるだろう。成体はナイフはもちろん、銃で倒せるかどうかも怪しい。成熟した剃り鼠シェイヴラットの強さ、獰猛どうもうさは幼体の比ではない。

 頭部に致命傷を受けた怪物は闘争意欲をなくしたのか、荒く息を吐きながら頭を下げてその場で座り込んだ。

 今のうちにここから逃げなきゃ……。

「つっ……!」

 駆け出そうとして、脚に激痛が走った。どうやらさっき倒れ込んだ時に足首を捻ったらしい。リケルは足を押さえて尻餅をつく。同時に冷や汗がどっと噴き出してきた。やばい、やばい、やばい。ここから離れないと確実に食い殺される。剃り鼠シェイヴラットに生きたまま肉を削がれて……。嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。

 リケルが顔を歪めたその時だった。


「おおお! 居た! 居た居た居たー! やっと人がおった!」


 広間の一つしかない出入り口、リケルがここへ来た時に通った通路の方から、カートを押すゴロゴロという音と共に、軽妙な中年男性の声が響いてきた。

「なははは! いやあ、ラッキーラッキー」

 やがて、声の主が姿を現す。一見して奇妙な光景だった。リケルと同じ年頃の、朱色の髪の少女が金属製のカートを押し歩いており、そのカートの上に、黒光りする金属が剥き出しになった手足のないガラクタ同然のロボットが乗っているのだ。声はどうやらそのガラクタが発しているらしい。

「うぇへん、あー。少年、ちょっと聞きたいんだが……」

 ガラクタはわざとらしく咳払いをすると、ピンポン玉のような剥き出しの眼球をリケルに向けてきた。と同時に、遠くから地鳴りのような足音が響く。奴らだ。剃り鼠シェイヴラットの大群がこちらへ向かってきているのだ。

「今はそれどころじゃないんです!」

 リケルは唾を撒き散らしながら叫んだ。

「奴らが……! 奴らがもうすぐ大群でここへやってきます。早く……早くここから逃げないと……! つっ……!」

 リケルは痛みで顔をしかめた。助けが来たかと期待したが、少女とガラクタでは当てにならない。再び絶望がリケルの心を支配した。

「もう……おしまいだ」

「うえっ? あー! あ? ああ? ああぁあ! んなるほどー。……なるほどなるほど。ふむふむふむ……」

 ガラクタはドクロのような口をカタカタ言わせながら首だけを少女の方へ向けた。

「アンビィ、どうやらあの子助けて欲しそうだぞ」

 地鳴りが迫ってくる。じわじわとそのボリュームを上げながら、絶望が近づいてくる。しかし、リケルの焦燥をよそに、ガラクタと少女は呑気に話を続ける。

「……どっち? 頭怪我してる方?」

 少女は頭にナイフの刺さった怪物とリケルを交互に見ながら聞いた。

「えっ……?」

 リケルは思わずうわずった声を上げてしまった。

 ガラクタはすかさずリケルの方を顎で指す。

「んにゃ、あっち。なははは」

 呑気な笑い声の中、少女と視線が合う。彼女は緑がかった碧眼で、淡々とリケルを見つめている。感情を全く感じない、場違いなほどに静かな眼差し。

「わかった。ダサい方ね」

「えっ……ダサ……?」

 地鳴りが大気を震わせる。

「いやあ、すまんすまん少年。アンビィは戦闘用アンドロイドだから嘘が下手なんだァ」

 ガラクタがカタカタと笑ったその時、通路から幼体の倍はあろうかという巨大な剃り鼠シェイヴラット達が一斉に飛び出してきた。

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