ドブガイとシュノーケル

N岡

第一章 期待

第1話

 地下深く広がる巨大な廃コロニーの闇の中で、壊滅的に下手くそなパーカッションが響いている。地面を蹴るブーツの音に、喘ぎ交じりの息遣い、腰にぶら下げた装備のぶつかり合う音が、てんでに好き勝手なリズムを奏でているのだ。

 速く、もっと速く!

 リケルは溺れるように走りながら、自分が鳴らしているはずのその音色を、どこか他人事のように聞いていた。

 耳にまとわりつく残響は、闇に沈んだ通路の遥か遠くまで、音源の位置がバレている証だ。だがそれを気にしている余裕はない。

 一刻も早く、奴らから距離を取らなければならない。

 滝のような汗をコンクリートに置き去りにしながら、幾重にも重なる迷宮を進んでいく。通路の壁と天井に這う無数の配管を、ヘルメットにつけたライトが蛇のようにのたうち回らせる。そのうちの何匹かは鎌首をもたげ、

 終わりだ。終わりだね。

 諦めればいいのに。諦めればいいのにね。

 どうせ無理なのに。逃げられやしないのにね。

 とリケルを嘲笑っている。

 今日は祝うべき日だ。読み書きを習うよりも前から十四歳の今日まで続けてきた、亡き父の借金の返済が終わる日——いや違う、姉とまた一緒に暮らせる日だ。借金が消えるかどうかなど、些事に過ぎない。だからこそ、返済額よりも稼いで、普段より少しだけまともな食べ物を姉の前に並べたかった。

 それがリケルを期待にた。

 そう、期待は陥るものだ。誰も、期待が絶望の呼水だということに気付かない。眩しければ眩しいほど網膜が焼けることを忘れてしまうのだ。気付き、思い出し、逃げ出す羽目になる頃にはもう、もがくほどに沈んでいく闇の中にいる。

 すでに返済に充分な収穫はあったのに、もう少しだけ、と思ってしまった。もう少しだけ頑張れば、姉の喜ぶ顔が見られる。その期待が、あらかた探索し尽くした上層を見限らせ、危険だが高価な遺物が転がっている可能性の高い下層へとリケルを送り込ませた。

 リケルは走りながら鼻に皺が寄るほど奥歯を噛み締めた。分岐点で右に曲がる。ライトが通路の奥を照らし、選択が正解だったことを示す。次は左、そして右。奴らがいればアウト。行き止まりでもアウト。何度もその繰り返しだ。繰り返していけば、きっと……。

 だが、配管の蛇達は相変わらず薄ら笑いを浮かべている。

 頑張るね。頑張ってるね。

 でも無駄だね。無駄だよね。

 正解し続けても、出口が見つかる前に力尽きればそれでお終いなのにね。

「うるさいっ! だまれ!」

 幻覚のくせに。リケルは息苦しくて外していたゴム製のガスマスクで、再び鼻と口を覆う。下層はガスが薄いからと油断していた。幻覚はガス中毒の初期症状だ。彼らの言う通り、もう終わりが近いのかもしれない。

 こんなことになるなら、やめておけばよかった。豆のスープ以上のものを望むべきではなかった。姉は借金の形に奉公に出て以来、家族とずっと離れ離れだった。彼女が戻ってくるだけで、本当は充分だったはずだ。家族みんなで囲めば、うんざりするほど食べてきた豆のスープにも、肉料理と同じくらい満足できたはずだ。

 数十分走り続け、リケルはとうとう曲がり角で壁に手をついた。とうの昔に息は上がっていた。駆け出そうとするも、脚がもう言うことを聞かない。防寒着の中のツナギは汗でずっしり重くなっていた。肩を上下させながら壁にもたれかかり、もがくように前へ進み、経験を頼りに迷宮の分岐を選択し続ける。右、左、そして次は右——失敗はできない。一度でも道を間違えれば確実に、死ぬ。

 視界が開けた。通路が終わり、ホールに出たようだ。

「ははっ……」リケルはマスクを外し、俄かに笑みを浮かべた。目尻に涙の粒を溜め、その場に膝をついた。「やっと……」

 絶望は膨らむものだ。土の中で肥大するすずなの胚軸、あるいは幾年も歳月をかけて塊根へと成長するむかごのように、音を立てず、見えない場所で膨らんでいく。そして誰もがその存在を忘れ去った頃に、人は朝食のコーヒーとトーストの横に、膨らみきったその図体を見つけるのだ。

「……やっと出られたと思ったのに」

 リケルの前に広がっていたのは、来た道以外に出口のない袋小路の空間だった。

 絶望は、容赦しない。予想よりもずっと早く、足音が近づいてきていた。


***


 ——遡ること数分前。


 下層を横断する幅員十五メートルもの巨大なトンネルの中央を、汚水が白い湯気を立てながら流れている。その音をかき消すように、硬質な樹脂製のタイヤが地面を転がる音がゴロゴロと響いていた。

 トンネルの左右の天井部分に、地面を照らすには不十分な光源が、無数の配管の間を割り込むようにして等間隔で設置してあり、それらが音の主の影を湯気の中でおぼろげに浮かび上がらせた。

 少女が、カートを押し歩いているのだ。死人のように青白い顔、朱色の髪に、緑がかった碧眼。何年も使い込んだ雑巾のようなマントで全身をすっぽり覆っているが、背丈からして十四〜五歳に見える。

 人の気配などまるでない廃コロニーの下層で、少女が歩いている。それだけでも異様な光景だが、光源はさらに不可解なものを照らし出した。

 カートに、手足のないガラクタ同然のロボットが乗っているのだ。黒光りする金属が剥き出しになった胴体の上で、同じく金属剥き出しの髑髏のような頭部が、電車で眠りこけるように右の肩に側頭部を預けている。剥き出しの眼球はウミガメの卵にそのままカメラレンズを取り付けたような形で、口はだらしなく開かれ、視線は下向き。だが両目の焦点はその先の地面よりも遥か先にあるように見える。あまりにも場違いで、不気味な光景だった。

 すると唐突に、ガラクタの眼球が動いた。首はそのまま、視線だけで何かを探しているようだ。

 「アンビィ、ワシらどうやら道に迷っちまったみてえだな」

 その言葉に、少女は答えない。ただ黙って一度きり、小さく頷いただけだった。

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