小さな恋と枕草子
白瀬隆
君と過ごす四季
教室では国語の授業が行われているらしい。眠っている僕には関係がないと思っていたが、丸めた教科書で先生に頭を叩かれたところで、先生の声が耳に入った。
「春は曙、明け方が美しいということだ。清少納言は風情を書き残したと言っていい」
高校二年生の僕にはあまり関係がない。春は特に眠いし、昼間でも寝ている僕だ。明け方は寝ている。清少納言とかいう人は生活リズムが整っているようだ。そう思ったところでまた睡魔に襲われ、僕は机の上に突っ伏した。
眠り続けていると、時間などあっという間に過ぎる。一学期が終わり、夏休みがやってきた。僕のような生徒は、補習に出なければ進級できない。一応顔を出し、また眠りにつく。何のためにそうしているのか。特に理由はないが、あえていうなら留年してまで学校にいたいとも思わないために、補習に出ているのだろう。
眠っている僕の頭を、また先生が教科書で叩く。
「清少納言が言うには夏は夜が美しい。そして秋は夕暮れ、冬は早朝だ」
なんとなく耳に残ったが、だから何なのだろうか。
補習が終わると、同級生の自宅へ向かう。こういう時、僕たちのような生徒は、親の帰宅が遅い友達の家に集まる。そして安物の流行歌が流れる中、くだらない会話を続ける。
堕落している。そう言われるかもしれない。ただ僕たちの堕落は、堕落と呼ぶには大げさなほどにささやかで、中途半端なものだった。意味のない話、下品な音楽、その程度だ。いわゆる非行と呼べるほどでもない。特に田舎の高校に通う学生なんてこの程度だ。会話が続く中で、いら立ちがつのるのもそのせいかもしれない。
親の帰宅前、夜の十時ごろに僕たちは友達の家を後にする。面倒を避けるためだ。品行方正な非行だと思う。僕は自宅に向かうためにバス停に向かった。
バス停に同じ学校の制服を着た女子生徒が一人で立っているのが見える。予備校とか塾の帰りなのだろう。品行方正な僕よりもっと世間の人の素行はいいらしい。多少の嫌悪感を抱きながら、僕はバス停に近づいた。
暗いバス停にもかかわらず、彼女の顔を鮮やかに見ることができた。目鼻立ちははっきりしているが、特に派手という訳ではない。黒髪の艶が印象的だった。もう十時をだいぶ過ぎた夜なのに、どうしてこれほどよく見えるのだろう。僕は空を見上げた。大きな丸い月が輝いている。彼女を照らしているのが月明かりのせいだと気付いたが、特に気にすることもなく彼女の横に立ち、バスを待った。
それから彼女とは毎日顔を合わせるようになった。月が欠けていくにつれ、彼女の顔は見えなくなっていく。僕は少しずつ、暗くなっていく月明かりに寂しさを覚えるようになった。自覚するかしないか分からない程度だったけれど。
いつものように友達の家を後にした僕は、空を見上げた。月が見えない。今夜は新月だ。彼女の顔は少しも見えないのだろう。そう思いながらバス停に向かった。この頃にはもう、彼女の顔を見ることが少し楽しみになっていたから、月の満ち欠けを憎んだ。たどり着いたバス停には暗い影が見えた。きっと彼女だ。
隣に立つと、彼女の顔が時折輝く。幻想的な緑色。一、二匹の蛍の光だった。月明かりよりもはっきりと彼女の顔が見えた。僕は見惚れた。蛍の光に美しい少女。できすぎだ。彼女は蛍の光を、少し嬉しそうに眺めている。彼女の肩に蛍がとまったとき、彼女は笑顔を浮かべた。僕は胸の高鳴りを感じた。
それから月が満ちるのを待った。彼女の顔を少しでも眺めたいと思ったからだ。だけど、声はかけられなかった。夜遅くまで勉強をしているような彼女に、僕のような中途半端な人間が声をかけてはいけない。声をかけるほどの価値は僕にない。僕は静かに彼女を想った。
月明かりに照らされた彼女に会える最後の夜、つまり夏休みの最終日は、夜から雨が降り始めた。僕は落胆した。虚しさを覚えながら、いつもの時間にバス停に向かう。傘を打つ雨の音は、夢の終わりを告げるようだった。
バス停に着くと、人影が見える。傘もささず、ずぶ濡れだった。近づくと、いつものように彼女が立っている。少し泣きそうな顔をしているようだ。放ってはおけない。
「大丈夫?」
「うん。傘を忘れちゃって」
彼女の声を聞くのは初めてだ。僕は自分の傘を差し出した。
「これ、使っていいよ。どうせ俺の鞄には教科書とか入っていないから」
彼女は戸惑っている。
「いいから。男が傘をさしていて、女がぬれねずみ。俺の方が無様だよ」
彼女は頷いた。そして顔いっぱいに笑った。
「ありがとう」
そして今度は僕が雨に打たれてバスを待つ。彼女は時折僕を見ているようだが、照れ臭くて彼女を見ることはできなかった。
新学期初日、僕は先生に呼び出された。素行の悪さを指摘する放課後は永遠に続きそうだ。反省を示す語彙は沢山持っているが、あまり効果がない。先生にとって僕はストレス発散のはけ口なのかもしれない。
結局僕が解放されたのは、陽が沈みそうな夕暮れ時だ。世界が赤い。校門を出ようとすると、人影が見えた。彼女だ。今度は彼女に声をかけられた。
「傘を返しに来たよ」
僕はあきれた。コンビニのビニール傘だ。
「そんな傘、捨ててよかったのに」
彼女はしばらく黙って、言いにくそうに僕にたずねる。
「少し話をしていいかな?」
僕がいぶかしんでいると、彼女は続けた。
「話したかった」
夕陽は沈みそうだ。僕は緊張で声が震えている。
「何を?」
「色々」
僕は思案した。何から話せばいいか分からない。彼女は続ける。
「一緒に帰りながら、話せないかな?同じバス停だし」
そこで不思議に思った。
「予備校とか塾は大丈夫なの?」
彼女は首を縦に振る。
「じゃあ、何であんな時間にバス停にいたの?」
彼女はまた少し黙り、恥ずかしそうに答えた。
「好きな人の顔を見るのに、理由はいらないよ」
僕は全て察した。そして喜ぶより先に驚きで声が出なかった。
それから僕は、彼女と一緒に秋の夕暮れの中、バス停まで一緒に歩くようになった。
「傘をくれた時と同じ。話すと優しい人だね」
彼女は僕が照れ臭くなることばかり言う。陽が沈む間際、夕焼けを夜が飲み込む時間に来るバスに乗り、僕は彼女と一緒に家に帰る。僕の日常は変わっていった。
冬は早朝が美しいと、いつか先生が言っていた。それは確からしい。冷たい空気は澄んでいて、隣にいる彼女は白い息をはいている。雪と青空に彼女の吐息が溶けていく光景は、確かに美しい。僕は、朝から学校に行くようになった。彼女と一緒に。
夏は夜
秋は夕暮れ
冬はつとめて
彼女との春にはどのような美しさがあるのだろうか。
小さな恋と枕草子 白瀬隆 @shirase_ryu
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