蜥蜴の見た夢。(後編)
* *
「助けてくれ!」
白い世界で打ちひしがれる蜥蜴の、穴が空いただけの小さな耳に悲鳴が届いた。
驚いた蜥蜴が頭をもたげると、襤褸家の床下から蛙が飛び出してきた。
その蛙を追い掛けて、長く、大きな、赫い赫い、血のような色の蛇が現れた。
蛇は蜥蜴の目の前で、逃げる蛙をペロリと飲み込んだ。
ぐねぐね蠢く膨らみが、喉から胴に向かってゆっくりと流れて行く。
胴に届いた膨らみは暫く蠢いていたが、やがて動かなくなり、ただの膨らみとなった。
蜥蜴は、茫然とその光景を眺めていた。
蛇の目が蜥蜴に向いて、蜥蜴は身を竦めた。
ずるずると、蛇は迫る。
ゆっくりと、蛇は大きく口を開く。
開かれた口の中の奥に、深い深い、暗闇が広がっていた。
蛇の中の闇は、白い世界に怯える蜥蜴を惹きつけた。
あの暗がりに飛び込んでしまえば、もう何もかもに怯えなくても済むのだろうか。
いっそのこと、喰われてしまえば……。
そんな想いが、蜥蜴の小さな平べったい心の内に芽生えた。
蜥蜴は円らな小さな目を瞑った。
ペロリと頭から飲み込まれる、その時を待った。
赫い蛇はパクリと蜥蜴を咥えた。
蛇の口の中は温かだった。
暗くて、湿って、狭かった。
腹に牙が喰い込んで、痛みが奔った。
痛いのは嫌だ。
けれど、きっと。
これがきっと、最後の痛みだ。
これで、苦しみの全部を終わらせることが出来る。
蜥蜴は幸せな気持ちになった。
けれど、ふと気付いた。
もう、隼の背に乗れないのだ、と。
子犬にも。栗鼠にも会えなくなる。
そして、白く眩しい世界でふわふわと頼りなげに揺蕩う、あの白い蝶を遠くから見詰めることも、出来なくなるのだ。
蜥蜴は急に怖くなった。
蜥蜴は暴れた。
蛇の口の中で、必死に藻搔いた。
怖い。
怖い。
誰にも会えなくなるのが怖い。
誰に会う勇気は無くとも、誰にも会えなくなるのが怖い。
藻搔いて、藻搔いて、懸命に藻搔く蜥蜴は、どんどん蛇の腹に落ちてゆく。
ああ。
もう本当に、白い世界で輝く彼等に焦がれることさえ出来なくなるのか。
悲しみと後悔が、蜥蜴のちっぽけな身をいっぱいにした。
* *
突然、蜥蜴は白い世界に飛び出した。
ぽてん、ぽてんと、蜥蜴の小さな身は何度か跳ねて、地面に転がった。
地面にひっくり返ったままの蜥蜴の目に、太陽の輝く青い空が映った。
円らな両目を何度か瞬いた。
呆気にとられていた蜥蜴の前に、金色の隼が降り立った。
蜥蜴は、慌てて身を起こした。
「無事で良かった」
隼は、嬉しそうに笑った。
そうして、美しい金色の翼を広げて飛び立った。
高く、高く、どこまでも高く飛んで行った。
隼が飛び立った後、蜥蜴は鳶色の子犬と山吹色の栗鼠が赫い大きな蛇と組み合い、泥に塗れて争っているのを見た。
栗鼠は素早く走り回って蛇の目を回し、子犬が前脚で蛇を叩く。蛇が子犬を縛りあげ鎌首を擡げると、栗鼠は蛇の長い身を駆け上がり、尖った歯で咬みついた。
蛇が叫ぶ。
「喰わせろっ。足りないんだよっ。お前の暗い心を喰わせろっ」
血塗れでさらに赫くなった蛇が、蜥蜴を睨んだ。
「自分を卑下してイジケて腐ったお前みたいなチンケな野郎はな、俺に喰われて、この世から消えちまうのが一番良いんだよっ」
蛇の言葉に、蜥蜴はぎゅうっと口を結んだ。
高く掲げた鎌首が、真っ直ぐ蜥蜴に襲い掛かる。
ふわりと、花びらが舞った。
白い蝶が赫い蛇の目の前で、一心不乱に羽ばたいていた。
危ない。
止めるんだ。
頼りなげに舞う蝶に、蜥蜴は驚いて言った。
けれど、蝶は蛇に纏わりついて離れない。
行く手を遮られた蛇が、苛立ちを昂らせているのが分かった。
蜥蜴は青褪めた。
蝶を助けようと、腹の痛みを忘れて地べたを必死に這った。
そこに。
金色の雷が落ちた。
赫い蛇が隼によって地面に叩きつけられた。
隼は蛇を捉えたまま、高く高く、もっと高く飛んで、見えなくなった。
栗鼠と子犬が、隼を追い掛けた。
空から、蛙が降ってきた。蛇の腹から溢れ落ちたのだ。
蜥蜴の足元に落ちた蛙はドロドロだった。
べちょりと起き上がった蛙は生きていた。
蜥蜴を見付けた蛙は、凶暴な怒りを両目にギラギラと宿す。
「お前の所為だ! お前の所為で死にそうになった! お前があの蛇を招き入れたのだ! お前は儂を殺そうとした!」
違う。
そんなことはしていない。
自分は嫌だと言ったのに、追い出したのは蛙ではないか。
「黙れ!」
蛙は蜥蜴を蹴飛ばそうとした。
その時、白い蝶が蜥蜴と蛙の間に飛び込んだ。
蛙の足が蝶に当たって、蝶ははらはらと、枯れ葉のように地面に舞い落ちた。
腹が立って、腹が減って、どうしようもなかった蛙は、汚い手で蝶を掴んだ。
蜥蜴は叫んだ。
大きな口を開けて蝶を丸呑みにしようとする蛙に、蜥蜴は取り付いた。
払われても、何度も何度もしがみ付いた。
蝶も抗った。
必死に、懸命に、夢中になって抗い、蝶共々、二匹はたちまちボロボロになった。
「貴方なんてキライ! いつもいつもみんなに酷い事ばかり。鼠は貴方の無茶で居なくなってしまったわ。彼はただ臆病なだけだったのに! 今度は、蜥蜴にも同じ事をするの?」
「黙れ! 黙れ!」
蛙は乱暴に翅を掴んで、蝶を振り回した。
白い翅が音を立てて裂け、蝶が悲鳴をあげた。
蜥蜴は飛び出し、放り出された蝶はその背中に落ちた。
「忌々しい! 蝶もお前もまとめて殺してやる!」
蛙は大きな石を掴み高くかかげた。
蜥蜴は咄嗟に蝶を身の下に庇う。
蜥蜴も蝶も、きつく両目を瞑った。
その時、突然の暴風が蜥蜴と蝶を吹き飛ばした。
土の上を、二匹はコロコロ転がる。
泥だらけになって起き上がった時、そこに蛙は居なかった。
蛙がいた筈の場所には影が落ちていて、見上げると襤褸家の
その大鷲はとても大きく、くすんだ金色の羽は隼のそれに似ていながら、より重厚で静謐な威厳に満ちていた。
足には蛙を攫み、鋭い鉤爪がその身に喰い込んで蛙はすでに絶命の寸前だった。
大鷲は大棟の端で空を見上げていた。
ふと、深い青い瞳が、真っ直ぐにこちらを見定めた。
蜥蜴は身体を強張らせた。
少しの間、大鷲は蜥蜴を見詰めていた。
全てを見透かすように両目を細めた大鷲は、静かに、けれど瓏々と響く声で言う。
「生きよ。余は、誇り高く美しい其方を愛している」
たちまち、世界が変わった。
* *
柔らかい風が吹き、足下には草が茂り花々が咲き誇った。
目の前で、襤褸家の壁が崩れ落ち、真っ白な壁が現れた。
襤褸家は高い尖塔を持つ、大きな大きな城に変わっていた。
草むらから鳶色の子犬が飛び出した。頭の上に山吹色の栗鼠を乗せている。
緑の葉をつけた木の枝には、隼もとまっていた。いつ現れたのか、菜の花の妖精がぴったりとくっついていた。
気が付くと、周りにいたのは彼等だけではなかった。
鹿も穴熊も狐も、蜜蜂も
大鷲は無言で両翼を広げた。
大きな翼は蜥蜴の目から、
大鷲が羽撃き飛び立つと、遮られた光が再び蜥蜴と蜥蜴に寄り添う蝶に降り注いだ。
眩しい。
だが、両目をきつく瞑った直後、優しい日陰が蜥蜴を覆った。
恐る恐る瞼を開くと、そこでは白い蝶が翅を広げて蜥蜴を光から守ってくれていた。
薄く白い翅を透かして、光は優しく蜥蜴を包んでいる。
蜥蜴が円らな瞳をぱちくりさせていると、蝶は光を背に蜥蜴を見詰めて微笑んでいた。
「眩しいのなら、私が翅で貴方を守ります」
蜥蜴はきょとんと蝶を見上げた。
「寒いのなら、子犬に包まって温まりましょう。お腹が空いたのなら、栗鼠は虫が苦手なので、団栗の中にいる虫を食べてあげて下さい。熱いのなら、隼に翼で扇いでもらいましょう」
……それじゃあ、隼だけ熱いままだ。
そう返すと、蝶は初めて気が付いたように両目を丸めて驚いた。
「猫が、暑い日はいつもそうしていると言っていたから、つい」
戸惑う蜥蜴の前で、蝶はくすくすと笑った。
それから少し考えて、
「それでは、みんな一緒に、木陰でお昼寝をしましょう」
と言った。
蜥蜴は、ぱちくりと両目を瞬いた。
木の枝から、隼が蜥蜴の目の前に降り立つ。
「みんな、蜥蜴が出てくるのを待っていたんだ」
隼が嬉しそうに、本当に嬉しそうに言った。
振り返ると、子犬も、栗鼠も、みんながニコニコと嬉しそうだった。
「まだ、寒いですか?」
蜥蜴はふるふると頭を横に振った。
世界から寒さは消えていた。
「今も、熱いですか?」
蜥蜴はまた、横に首を振った。
世界はいつの間にか、心地好い温かさに満たされていた。
「光は、痛いですか?」
蜥蜴は空を見上げた。
あんなにも眩しく痛かった光は、今は優しく、蜥蜴を照らしていた。
「痛くない」
蜥蜴は答えた。
* *
何年も前の事だ。
遊び疲れた蜥蜴は水を飲もうと泉に近付いた。
そこに、声を掛けた者がいた。
蛙だ。
蛙は蜥蜴を醜く気色が悪いと言った。
蜥蜴は無視をしたが、水面に映った己の隣に蛙が並んだ時、気付いてしまったのだ。
自分と蛙がよく似ている事に。
華やかな隼と違い、自分は真っ黒だった。
ふわふわな子犬と違い、自分は触れて心地好い身ではなかった。
戸惑う蜥蜴に、蛙は言った。
『周りはお前を嫌っている。何故なら、お前は儂と同じく醜くて不気味だからだ。みんな今まで不快な思いを押し殺し、仕方なく付き合っていただけだ。みんなお前を嫌っているのだ』
蜥蜴はそれを信じてしまった。
その日から、世界は凍えるように寒く、灼けるように熱く、眩むように白く、刺すように痛くなった。
自分を守るために、蜥蜴は襤褸家に逃げた。
襤褸家だけが、自分を守る場所だった。
そこには隼も子犬も訪れることは出来なかった。
蛙だけが身を滑り込ませ、蜥蜴に話しかけた。
その醜悪な性根に嫌悪をしつつも、気付けば蛙に縋り、隼や子犬の言葉を信じなくなっていた。
誰かが傍から離れてしまうのは怖かった。
独りは嫌なくせに、誰かと一緒にいるのが怖かった。
一緒にいるのが怖いくせに、誰かに傍に居て欲しかった。
そうして、自分から孤独を選んでしまった。
嫌われるくらいなら、最初から誰も居ないほうが良い。
誰も居ないのだから、誰も俺を置いて居なくならない、と。
* *
「俺は、ここに居てもいいのか?」
「ええ」
「みんなの傍に居てもいいのか?」
「もちろんです」
「俺は醜い」
「いいえ。貴方はとても綺麗です」
「俺は」
蜥蜴は声を震わせた。
「俺は、陽の射すこの場所で、みんなと生きて行きたい」
蝶がそっと抱き締めてくれた。
隼も、子犬も、栗鼠も、蜥蜴を抱き締めてくれた。
破れた翅を、蜥蜴は撫でた。
蝶は蜥蜴にお願い事をした。
「翅が治るまで、貴方の背中に乗せて下さいな。翅が治ったら、一緒に色んなところに行きましょう?」
蜥蜴は目を細めた。
小さな両目から、大きな涙がボロボロと零れた。
蜥蜴は頷いた。
蜥蜴は嬉しくて、嬉しくて、
涙を零しながら、笑顔で頷いた。
蜥蜴の見た夢・後編。終わり。
グルンステイン物語 Beco @koyukitochika
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