蜥蜴の見た夢。(前編)

 光が見える。

 白く眩しい、目に刺さるような、痛みを伴なう光だ。


 蜥蜴は、今日も襤褸ボロ家の軒下の隙間から外を眺めていた。


 溜息は白くふわりと宙に浮き、すぐに散って消えてしまう。

 これで、何度目の白い世界だろう。

 今日も空から冷たい綿が降ってきて、静かに蜥蜴の前に積もってゆく。

 やがて冷たい綿は襤褸家と外の世界を遮断する、越えるのが困難な高い壁になった。

 蜥蜴はスルスルと四本の脚で地べたを這い、襤褸家の床下の真ん中へ、最も光の届かない暗く湿った場所へ、逃げ込んだ。


 外は嫌いだ。

 白く、寒い。

 けれど……。

 蜥蜴はまた白い息を吐き、温かい巣穴の中に小さく丸く収まった。


 もう、何日ほど食べていないだろうか。

 世界が白くなると、食糧は皆、姿を消す。

 寒くて寒くて、みんな何処かに隠れて眠ってしまうからだ。

 だから蜥蜴は動かない。

 温かい土の中の巣穴で、小さく丸くなっていれば腹が空かない事を、蜥蜴は知っていた。


 それでも時々、蜥蜴は目を覚まし、巣穴を出て襤褸家の軒下から、目も眩むような白く輝く外を見た。


 光を受けてキラキラと煌めく世界を、美しいと思ったからだ。

 いつかの日に見た、あの蝶の白い翅に似ていると思ったのだ。


 寒くて、眩しくて、何も無い、寂しい景色だ。

 蜥蜴など、一歩でも踏み出してしまえば、すぐに凍えて死んでしまう。

 そんな恐ろしい世界だ。

 それでも、美しい世界を見たかった。


 白い蝶を、忘れたくなかったから。

 蜥蜴は今日も目を覚まし、白くて眩しい世界を見る。


 ふと、近くの木の枝に金色の隼がいる事に気が付いた。

 隼は蜥蜴の友達だった事がある。

 今でも、蜥蜴は隼が好きだった。

 その美しい羽根に包まれた背に乗り、空を飛んだ事もある。


 その時の蜥蜴は光が好きだった。

 何処までも高く、高く、太陽に近付いた。

 光は蜥蜴の小さな身体を温め、心を熱くしてくれた。

 だが、今は駄目だ。

 光は鱗から水分を奪い、喉を渇かし、この身を灼いてしまう事を知ってしまった。

 何より、醜い姿を露わにしてしまう。


 蜥蜴は素早く襤褸家の床下に隠れようとした。

「やっと、顔を見られた」

 蜥蜴の小さな心臓が飛び跳ねた。

 急いで床下へと、奥へ、奥へ、光の届かない襤褸家の床の真ん中へ走って逃げた。

 そんな蜥蜴に、隼は白い凍える世界から降りてきて、声を掛けた。

「……ずっと顔を見ていないから、心配だったんだ。元気にしていたか? 今は冬だけど、食べる物はあるか? 病気になっていなければ良いんだが……」


 心配は要らない。

 ただ寒いだけだよ。寒いだけだ。

 それより、もう行ってくれ。

 眠たいんだ。


「そうか、また来るよ」

 そう言うと、隼は澄み切った青い空に飛んで行ってしまった。

 少し悲しげに聞こえた声に、蜥蜴も悲しい気持ちになって、長い尾で固く全身を抱き締めた。


 白い世界は、眩しい。


 ずっと低いところから光は床下に差し込み、刺すように蜥蜴を照らす。

 蜥蜴は、この白い世界が一番嫌いだった。

 高いところから見下すように照りつける暑い日々の方が、どれほどマシか。床下はいつでも湿り、深い暗さで蜥蜴の醜い姿を隠してくれていたのだから。


 だから、すまない。

 外には出られない。

 ここが安心するんだ。

 蜥蜴は、遠く空の彼方に去って行く隼の背中を眺めて謝った。


 寂しくて、とても寒くて、蜥蜴は悲しい想いを抱えて小さく蹲った。


     *   *


 ある日、白い世界の中で、小さな何かが動いた。

 それは右に左に、モコモコと走りながら、こちらに近付いて来る。


 蜥蜴は慌てて、軒下から床下の巣穴に逃げ込んだ。

 巣穴から、こっそり顔を出して覗くと、床下には一匹の栗鼠が入り込んでいた。くるりと丸まった尻尾に斑点のある、山吹色の毛色の栗鼠だ。

 ほっぺたをこれでもかと膨らませ、落ち着き無く辺りを見回して、何かを探している様子だ。


 ぱちりと、蜥蜴と栗鼠の目が合った。

 栗鼠は、吃驚して動けなくなってしまった蜥蜴の傍にやって来ると、頬袋の中から団栗を出して置いた。

 栗鼠は、白い世界へ続く軒下まで行くと、「それ、食べてよ」とぶっきらぼうに言ったかと思うと、走って居なくなってしまった。


 蜥蜴は困った。

 蜥蜴は団栗を食べない。

 柔らかい草の実は食べても、団栗は蜥蜴の小さな口には硬すぎた。

 困っていると、表面に開いた穴からにゅるりと虫が顔を出した。

 蜥蜴は、恐る恐る、その虫を捕まえて食べた。

 美味しかった。

 長らく何も食べていなかった蜥蜴の身は、ふんわりと満たされた気がした。


 その日から、たまに山吹色の栗鼠は、虫入りの団栗を置いて行くようになった。

 ある日、蜥蜴は勇気を出して、どうしてこんな事をするのかと栗鼠に訊ねてみた。

 巣穴に隠れながら問う蜥蜴に向かい、栗鼠は「貴方が僕の友達を助けてくれたからだよ」と、返した。

 蜥蜴は、円らな瞳を大きく丸めた。


「蝶は、僕の友達だ。彼女はずっと、白い世界で貴方がお腹を空かせているかもしれないと、心配していたんだ。だから、僕が代わって様子を見にきたんだよ」

 蝶は今眠っているし、貴方に近付けたくないんだ。

 貴方はいつかきっと、蝶を傷付けるから。


 栗鼠の言葉に、蜥蜴の瞳から期待の灯火は消えた。

 もたげていた頭を下げたきり、蜥蜴は何も喋らなくなった。

 少しだけ、栗鼠は自分の言葉に後悔した様子を見せて、やがて背を向けて走って行ってしまった。


 そうかもしれない。

 蜥蜴は、巣穴の中で思った。


 自分は、醜く疚しい、ちっぽけな蜥蜴だ。

 早く消えてしまえば良いのに、目が覚めては巣穴の周りを這い歩く。

 空腹を感じることは、以前よりも減った。

 けれど、苦しい、と思うようにもなった。

 あの蝶と出会ってから、蜥蜴の小さな心臓はいつも苦しいのだ。

 その苦しみは空腹に似ていた。

 その空腹に抗えず、蝶を壊して喰ってしまうかもしれない。


 蜥蜴は小さく丸まった。

 寂しい。

 とても、寂しい。

 寂しくて、求めてしまう。

 空腹の時に食餌しょくじを求めるように、誰かを。


 一人で良いと思うのに、一人は寂しくて、寂しくて、一人で居たくはなくなっていた。

 心が、空腹を訴えるようになっていた。


 だから、蜥蜴は今日も白い世界を眺めた。

 誰も居ない世界に、誰かを求めて。

 そして、誰かが居たら怖くなって、やはり巣穴に逃げるのだ。


 栗鼠は強い。

 蜥蜴より、ずっと無垢に。


 子犬は強い。

 蜥蜴より、真っ直ぐに。


 隼は強い。

 蜥蜴より、何処までも高く。


 そして、白い蝶は強い。

 蜥蜴より、優しいその心が。


 蜥蜴は溜息を吐いた。

 蜥蜴は、醜い。

 誰よりも、そのちっぽけな心と姿が。


 白い世界は、今日も蜥蜴に冷たく痛い光を注いでいた。


     *   *


 蜥蜴のもとに、蛙が現れた。

 灼けるような白い日々にブクブクと肥え太っていた丸い身体は、すっかり痩せ細り、やつれていた。

 いつからか、姿を見なくなった蛙は怯えながら、それでも尊大に高い所から蜥蜴を見下ろして言った。

「腹が減った。お前の食餌エサを寄越せ」


 食べ物なんて、ここにはない。

 他所をあたってくれ。

 そう返すと、蛙は怒った。


「無ければ探せ! 地を掘って暴け! 柱を齧って引き摺り出せ! 腹が減って死にそうだ! 醜いお前の味方は儂しかいないのに、お前はその儂が死んでも良いというのか!」

 傲慢な蛙は、蜥蜴を踏み付けた。

 何度も、何度も、怒りに任せて繰り返し踏み付けた。


「餌を探せ! そうしないと儂は死んでしまう! 早くしないと、儂は死んでしまう! この儂が死んで良いはずがない!」

 蛙の声は震えていた。


 蛙は怯えていたのだ。

 何に?


 蛙の足下で痛みに耐えながら、蜥蜴は長い尾で身を丸めて蹲っていた。

 やがて痩せ細った蛙は、何かに気付いたように息を呑んだ。

「そうだ。お前を追い出して、ここを儂の家にしよう」

 ここは、土を掘れば地中の餌が出てくる。

 探しに行かなくても、白く寒い日々にも生きて行ける。


 蜥蜴は驚いて、嫌だと言った。

 ここは蜥蜴を守ってくれる唯一の場所だった。

 暗い陰の内で熱い白光から蜥蜴を守り、白く寒い日々の中でも床下はほんのり暖かく、生かしてくれた。

 ここを離れては、蜥蜴は生きて行くことが出来なくなる。


 嫌だ、と蜥蜴は言った。

 けれど、蛙は蜥蜴を叩いた。

 もう一度、嫌だと蜥蜴は言った。

 今度、蛙は蜥蜴を地に投げ付けた。

 何度も蜥蜴は嫌だと言い、その都度、蛙は蜥蜴を痛め付けた。

 襤褸家の床下で、蜥蜴はボロ雑巾のようになった。


 蛙は蜥蜴の尾を掴み、軒下まで引き摺った。

 蜥蜴は抵抗した。

 けれど、蜥蜴は白く眩しい、凍える世界に放り出された。


 蜥蜴は世界の白さに、寒さに、目も眩む明るさに恐怖した。


 全てが晒される。

 隠しておきたい自分の醜い姿が暴かれる。


 蜥蜴は隠れられる場所を探した。

 だけど、草は枯れ、花は朽ち、葉は落ちていた。


 何処にも隠れる処は無く、蜥蜴を守ってくれる場所は無かった。

 何処もかしこも、真っ白だった。

 真っ白な世界に、自分はポツンと落ちた染みのようだった。


 蛙は笑った。

 蜥蜴の醜い姿を指差して、嘲笑した。

 恐れ、慄く蜥蜴を散々に笑った蛙は、襤褸家の床下に消えていった。


 寒い。眩しい。痛い。

 誰か。

 誰か、助けてくれ……!


 蜥蜴は、恐怖に蹲った。


 

 

 

                           蜥蜴の見た夢・前編 

 

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