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* * * ○


 また明日ね、なんて言ったくせに。あいつはいつもの時間には現れなかった。それでも、その言葉を信じて私は夜まで岩場で待っていた。今夜の月は細く、月明かりも頼りない。

 どれぐらい待っただろう。ひた、と背後で音がして、振り向いた私はほっとした。


「遅いよ」


 二本の素足で立つ彼女は澄ました顔をして、すたすた歩いて岩場の淵へ腰掛けた。私もその隣へ並ぶ。こんな高いところに座るのは正直ちょっと怖いけど、彼女と会えた安心が大きくて、そんなことはどうでもよくなる。


「どこで待ってたらいいのかなって思ってたけど。今日は脚あるね」


 宙でぶらぶらさせている彼女の脚を見つつ私がそう言えば、彼女は何でもなさそうに答える。


「太陽が昇ればまた人間の姿になれるのよ」

「ふうん。――これ」


 差し出したお菓子を見て、彼女は無言でこちらを見返す。


「あんたこれ好きでしょ。食べなよ」

「――ええ」


 どこか硬かった彼女の表情が和らぐ。しばらくは、潮騒とお菓子を頬張る音だけが聞こえていた。

 海と夜空の境界線が溶けた風景を見つめて、私は静かに訊く。


「あんたはどうして人間になったの?」

「――海のずっと向こうに、大きな珊瑚礁があって。ぴったり半月の夜、その珊瑚礁の朱がいちばん鮮やかな場所へ、大きな丸い真珠を百個お供えしてお願いをすれば、願いが叶うって言い伝えがあったの」

「お願いをしたってこと?」

「私が子どもの頃、おばあ様がよく聞かせてくださった。人間は、ひれを持たない、海を自由に泳げないかわいそうな生き物だって。鈍い色の鱗さえ持たない、同じ肌色が全身に続くだけの、つまらない体」

「……」


 つまらない体の、かわいそうな生き物である私は、でも、実際にあの姿を目にしてあげく触ってその美しさを思い知ったあとでは何も言い返せない。彼女はわずかに声を穏やかにして続けた。


「――でも人間は、地上を速く、速く駆けて、凪いだ海みたいに抑揚の少ない、柔らかい音で話すんだ、って。たくさんの見たこともない便利な物を使ったり、海のなかでは食べないようなものを口にしたり。大きな声をあげて、それは楽しそうに笑うんだって」

「……」

「そして……海に飽きたら地上へ帰って、地上の色んな楽しいことにかまけて、――海のことなんて忘れてしまうって」


 彼女の瞳の深い漆黒に、濡れた藍色が溶け込む。底が見えなくて恐ろしいのに、寂しさが滲んでいて目が離せなくなる。

 少し黙り込んだのち、彼女は声に熱を込めた。


「海からは届かない、あの高いところに咲いている花、どんなだろうって憧れていた。どんな感触で、どんな匂いがするのかしらって。脚があって、大地を踏みしめる感覚はどんなだろうって。――二本の脚でくるくる回るのは、どんなに楽しいのかなって」


 ふっと唇を緩め、彼女は視線をこちらへ投げる。


「私がいつも裸足なのは、ぼち子のせいよ」

「えっ、どういうこと?」

「あなたがあの日、靴を履かずに踊っていたから。あのすぐあとに百個目の真珠を見つけて、半月の日まで待ってお願いをするとき、あなたの姿が思い浮かんだから、この姿で人間になったの」

「――ああ、だからここの学校の制服なんだ」

「ぼち子がもっと綺麗な身なりをしていてくれたら、私ももっとちゃんとした人間に見えたのに」

「はいはいごめんね」


 不満をこぼす彼女へ適当に謝っておく。それから、ふとよぎった疑問を口に出す。


「でもじゃあ……あんたは、これからずっと人間として暮らすの?」


 彼女はひっそりと笑うだけだった。なんだか胸が苦しくなった私は、気になっていたことを言葉にする。


「あのさ、私あんたの名前聞いてない」

「……ぼち子なんかが知る必要ないもの」

「でも――呼ぶとき不便なんだけど」

「人間に私の高貴な名前を呼ばれたくないわ」


 私は苦笑する。


「人魚ってみんな、あんたみたいに正直なやつばっかりなの?」

「嘘は言わないし、気高くあることが美しいと考える者が多いわ」


 夜空を見上げる。細い月の下で地上は仄暗く、普段なら打ち明けにくい本音も晒しやすい気がした。


「……もともと私、結構他人の顔色伺っちゃうほうでさ。でもあんたといると、わりと自分も素直にものが言える気がしてて」

「そう。言いたいことは言うべきよ」

「だけど……引っ越してきて、知らない学校でまたイチから友達づくりかあ、って思うと……やっぱ結構つらくて。きっとまた、周りの反応気にして、びくびくしながら頑張らないといけないんだろうな、やだなって……」


 ――こんなことを彼女に伝えて、自分はどうしたかったんだろう。波音だけが届いてくる黒い海へ視線を落として私は後悔し始める。けれど、彼女は淡々と言った。


「好きに生きたらいいわ」

「――好きに?」

「地上は広いのでしょう。あなたはどこへでも行ける脚を持っているじゃない。学校なんて狭い場所が気に入らないなら、どこか別の場所を見つければいいわ」


 言うのは簡単だ。でも。


「私、まだ子どもだもん、どこへだって行けるわけじゃない。――本当だったら、引っ越す前にバレエの発表会があったのに、うちの親は『夏休みに入る前に新しい学校で友達を作りなさい』とか言って、発表会も出られないままこっちへ連れてこられたんだよ。……私、そんなすぐに友達作れる性格じゃないのに」


 こちらが言い終えるのを待って、彼女はかすかに微笑みを浮かべた。


「ここにいる人間は、あなたのことを知らない者ばかりなんでしょう。それなら、あなたのなりたいと思う姿を見せてやれば、あなたの思うようにこれからは生きられるわ。新しく始めるいい機会よ」

「……」

「それで気の合う者が見つからないなら、それはただそのときのその場所が、あなたにとって不適格なの。ただ自分自身を大切にすることだけに集中して、あなたにとっていい場所が見つかる機会をじっと待っていればいい」


 普段からは考えられない、慈愛さえわずかに漂う声の調子は同い年とは思えないほどで、私は密かに心打たれていた。


「……ふーん、そうか。そういう考え方もあるんだ」


 こちらの態度に納得するものでも見つけたのか、彼女は満足げに鼻を鳴らし、お菓子を口へ運んだ。弱いところを見せてしまった照れくささを追いやるため、私は声を明るくして話題を変える。


「人間になってから、あんたはどんなことしたの?」

「……」


 急に体を硬くした彼女によくよく話を聞いてみると――。


「まだここ以外のどこにも行ったことがないのっ!? なんかわかんないけどすごく大変そうなことしてまで人間になったのにっ!?」

「……うるさいわね。だって……怖いんだもの」


 口を尖らせる彼女はとても子どもっぽくて、私は思わず大きな声をあげて笑った。さっきは大人びたことを言うと思ったのに。

 私の顔をしばらく不思議そうにじっと見て、それから彼女も「ふふ」と声を漏らした。



☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎



 翌日、私が息を切らせて岩場に着いたとき、彼女は「遅かったじゃない」と不満げだった。


「今朝は大きい買い物してたからね。それで、あんたに見せたい物があるから付いてきてほしい」

「……どこへ?」


 疑り深い眼差しで訊く彼女を「いいからいいから」となだめすかして、持参した新しい靴を履かせ、岩場から連れ出した。それでわかったのは、彼女はまだ二本の脚がうまく使えないということ。彼女が岩場を離れたがらない理由にはそれもあった。高低差のある岩を超える道のりを彼女一人で行くのは難しいようで、私は彼女の手を取り、引っ張ったり支えたりして道を進んだ。


「でも、よくこれであの岩場に毎日来てたね?」

「あの、場所は、……海から上がる、のは……大変じゃ、ない……の」


 息を弾ませて苦しそうな彼女を見て少し申し訳ない気もしたけれど、なおさら私の買い物は正しかったという確信が強まった。

 そしてやっと辿り着いた海岸の入り口には、今朝手に入れたばかりの新しい自転車。


「これで一緒に街へ出よう! これなら歩かなくてもいいから!」

「――なあに、これ」


 まず自分一人で自転車に乗ってみせ、これが何たるかを見せ、後ろで乗る練習をさせ。


「――どう! 怖くない?」

「――怖くない」


 二人乗りの後ろ側に問いかけると、案外と調子の良い返事が返ってきた。


「じゃあ、もっとスピード上げてく!」


 ペダルを漕ぐ脚に力を込めて、ぐんぐんと前進する。ずっと続いていた防波堤が途切れ、少し遠くに砂浜と太陽をきらきら照り返す海が見え、それらも視界の後ろへどんどん流れていく。初めは腰にぎゅっと回されていた彼女の腕から緊張感が消えていくのがわかった。


「ぼち子、もっと速く!」

「無茶、言う、ねえ!」


 夏の太陽の下、二人分の体重を載せた自転車を遮二無二漕いで流れる汗は尋常じゃない。それでも、吹き付ける生温い風が今はなんだか気持ちよかった。


「ぼち子、こんな風に風を感じるのは初めてよ!」


 楽しげな彼女の声を聞いていたら、どこまでも走れそうだった。



 ――とは言え、この調子で爆走していれば熱中症になってしまうから、途中でコンビニへ寄った。彼女は棚を一つ一つ物珍しそうに見て回り、私が商品を買うのをしげしげと見つめ、店員や他の客をこっそりと観察していた。

 イートインコーナーで彼女に渡したのは炭酸飲料で、口にしてすぐ、案の定彼女はむせた。笑ったら、怒られた。


「あ、そういえば自転車だけど、見つかったらいけない人に見つかりそうになったら急に止まるから、ちゃんと私に掴まっててね。で、止まったらすぐ自転車降りて」

「見つかったらいけない人?」


 きょとんとして繰り返す彼女に、私は重々しく頷く。


「そう。そういう人がいるの」

「私たち、悪いことをしているの?」

「一人なら悪くないんだけど、二人だと悪いから」

「ぼち子ったら、そんなこと私にさせてるのね」


 呆れた顔で言う彼女へ、私は笑み混じりに訊く。


「でも、楽しくない?」


 彼女は視線を外してすっかり炭酸の抜けた飲み物をひと口飲み、ボトルに唇を付けたまま小さな声で、


「――楽しい」


と答えた。



☀︎ ☀︎



 ぎらつく太陽から身を守るため、帽子を手に入れようと私たちはショッピングモールへ来た。大勢の人間が行き交うのを目にし、彼女は顔を強張らせて立ち尽くしていた。


「大丈夫だよ」


 手を握ってやると、彼女はしおらしく頷いたから、手を引いてお店へ連れて行く。いくつか見て回ったお店のなかで、デザインと値段がほどよいキャップを彼女とお揃いで買った。帽子を被るのを初めは嫌がった彼女だけど、「この暑さに帽子なしでいるのも危ないから。もっと外見て回ろうよ。ね?」「あんたキャップ似合うじゃん、可愛い可愛い」と言いくるめ、同じ帽子を身に着け鏡の前に並んだら、結局満更でもなさそうにした。

 色褪せて感じられていたこの街のショッピングモールも、こうして何店舗か回ってみると存外悪くないと思った。以前いた街では見たことのなかったハンバーガー屋もあって、私たちはそこで昼食を食べることにした。まずはオニオンリング、と揚げたてのフライに舌鼓を打っていたところ、ハンバーガーを前に彼女は困惑した様子でつぶやく。


「食べ物が大きすぎる。どうやって食べるの」

「こう、おっきく口を開ける」


 バンズがふわふわで少し甘くて美味しい。彼女は心底嫌そうに眉をひそめた。


「下品だわ」

「お嬢様。ここは地上です、人間どもは野蛮な生き物なのです、さあ野蛮になるのです」


 戸惑いつつも、大口を開けて彼女もハンバーガーにかぶりつく。鼻先にソースが付いて、私たちはくすくす笑い合った。



 帽子を手に入れ腹ごしらえも完了したので、電車で遠くへ行ってみることにした。慣れないボックス席で誰かと向かい合って座るのは旅情があって、私の気分は自然と高揚した。併走していた眩しい海が次第に遠くなり、青々しい畑が一面に続き、別の土地の風景になっていくのが面白い。けれど、トンネルに入って室内が暗くなったとき、窓に写った彼女を見てびっくりした。


「どうしたのっ? 具合悪い?」


 椅子にぐったりともたれかかった顔は青褪めていた。


「……海から離れすぎたんだと思う」


 すぐにとんぼ返りして、人気ひとけのない場所で彼女を海へ入らせた。浅瀬の海に浸かった彼女の顔色は幾分良くなった。


「ごめんなさい、ぼち子。せっかく外へ連れ出してくれたのに」


 珍しくしょんぼりした彼女が言うから、私は力強く首を振る。


「ううん。この街で色んなとこに行ってみよう。きっと楽しいこといっぱいあるよ」



 翌日からは手始めに、全てのお店を制覇する心持ちでショッピングモールを見て回った。毎日お菓子に浪費していたツケで買い物はできなかったけれど、どうでもいい雑貨を手に取ってはあれこれ言い、家電屋であらゆる電化製品の役割をひとつひとつ説明して彼女が目を丸くするのを見て、家具店でソファや椅子の座り心地を確かめ広々としたベッドに横たわり、フェミニンなものからカジュアルなものまで洋服を試着して歩いた。


 普段だったら気後れして入店しないような、結婚式に参列するときだとかお祝いごと向けの華やかなドレスを扱うお店にも行った。試着室の中から、


「ぼち子、出来ない」


という声がして、私はカーテンの隙間から中へ入り込む。背中のファスナーが上げられないみたいだった。彼女はまだボタンやファスナーの着脱に慣れないから、こうして私がときどき手伝う。白い背中が大きく露わになっていて、私は内心どきどきする。ファスナーをゆっくり上げるのにしたがい、薄青の布に背中が隠されていく。試着室の狭い空間で、この頃はもう慣れ親しんだ海の香りがかすかに届く。

 試着室を出ると、店員のお姉さんが褒めちぎってくれた。


「おねーさん、すごく綺麗です〜お姫様みたい! 可愛い〜っ」


 彼女は当然といった顔つきでその賛辞を受け入れ、だけど自分でも似合うと感じているのか、かすかに頬を紅潮させて鏡を見つめた。涼やかな薄青のドレスはぴたりと彼女の体を包み込み、品よく広がるスカートの裾は大人っぽい印象を与えた。


「マーメイドスカート、まだまだトレンドなので私もおすすめですよっ」


 店員さんが言うカタカナ言葉に訳知り顔で彼女も頷いてみせる。裾部分のひらりと広がるその服は、確かに彼女の見事な尾ひれを思わせた。


「ぼち子は何か着ないの」

「えっ、私はいいよ」

「つまらないわ。着なさい」

「そうですよ〜、そちらのおねーさんも着てください!」


 明らかに購買力のない冷やかしの客だとわかっているだろうに、店員のお姉さんもそそのかす。


「この私が選んであげるわ」


 そう言って彼女が私に着せた服は、これも体のラインがはっきりと出る、タイトで、かつスカートの丈が短いものだった。恥ずかしがって試着室の外へ出たがらない私に痺れを切らせた彼女は無理やりカーテンの間から入ってくる。


「ぼち子、素敵じゃない」

「うーん。ちょっとこれは、脚出すぎ……」


 タイツを履いた脚はバレエで散々人前に出してきたものの、これとそれとは違う。


「綺麗な脚なんだから人間たちに見せつけるべきよ」

「そ、そう、なのかな」


 それを着てどこかへ行くこともないだろうけれど、鏡の前で並ぶ着飾った私たちは、わりと様になっていた。ふいに彼女は声を落とし、ドレスをつまんで言う。


「――これ、気に入ったのだけど」


 私は「あー……」と呻きつつ、彼女の服に付いたタグを確認する。うん。


「これはねー……無理。私には買えない」

「ぼち子に力が足りないの?」

「嫌な言い方。お金はすなわち人間界でいう力だとは思うけどさ。うん、今の私には力が足りません」

「そう、ぼち子ね」


 どんな納得のしかた、と思うけれど、はたと考えつく。


「夏休み終わったらバイト始めようかな」

「ばいと?」

「働いて、力を貯めるの。そしたらこれもあんたに買ってあげられる。あ、てゆうか一緒にバイトしようよ」


 鏡の中の彼女に持ちかけるけれど、彼女はふいと視線を外して、


「……いやよ、働くなんて」


と憂鬱そうにこぼした。貴族め。でも、帽子を被せることに成功したみたいに、なんだかんだと説き伏せばバイトだって一緒にやってくれると思う。心のなかで私はその算段をつけ始めてほくそ笑む。



 うるさがる彼女を無理やり連れてゲームセンターにも行ったし、街に点在するギャラリーや博物館にも行った。とりわけ彼女が熱心になったのは、本屋の写真集コーナーだった。日が暮れるまで、あらゆる種類の写真を眺めて過ごした。数日かけて、公園で自転車に乗る練習もした。すでに歩くことに慣れた彼女は、ほどなくして一人でふらふらと自転車を漕ぐことに成功した。


「見てぼち子! 私、進んでる!」

「ふふ、すごいすごい」


 かつて寂しそうな色をしていた瞳を無邪気に細め、彼女ははしゃいでいた。

 汗みずくになった彼女がせがむので、コンビニで買ってきたアイスを食べていると、自転車に乗った少女がすいーっと近づいてきた。


「こんちは。転校生だよね?」

「あ、うん……」


 よく日に焼けた少女は、私の隣に佇む制服姿の彼女にも目を向け、


「その子もうちの学校なんだ。見ない顔だけど、君も転校生?」

「……」


 彼女は言葉を返さず、私の後ろへ隠れた。少女は気を悪くした風もなく、「シャイだなー」と笑う。すると、「サトちゃ~ん」と向こうから呼ぶ声がして、


「あ、じゃあ行くね。またね、転校生たち」


と白い歯を見せて颯爽と走り去った。隠れていた彼女が元の位置に戻ったけれど、私たちはなんとなく黙り込んでしまう。彼女がのろのろと口を開く。


「……よかったじゃない、人間の友達ができて」

「名前すら覚えられてなかったし、私もあの子の名前知らないし、まだ友達じゃないし」

「……“まだ”」


 それだけ言い、彼女はアイスの棒を咥えて黙った。


「――拗ねてるの?」

「べつに」


 私たちは、何なのだろう。友達なのだろうか。


「私、あんたの名前いまだに知らないんだけど」

「知らなくていいわ」


 つんとして言う彼女に、私は言葉を詰まらせる。

 ――でもそれじゃあ、呼びかけたいとき、どうすればいいの。なんであんた、また寂しそうな目をしてるの。



 そうして『地上』の色々を彼女が経験して、驚き、むっとして、怒り、たまに感心して、それから笑って。

 ある日、彼女は言った。


「ぼち子、私が人間でいられるのは、次の満月の夜までなの。その月が夜空のてっぺんを過ぎたら、もう二度と人間になることはできない」


 私は昼間の明るい空を見上げて月を探した。目を凝らせば、まん丸ではないものの、よく太った、透明感のある月が見つかった。



☀︎ ☀︎ ☀︎ *


 この日私は、自転車で街を走り回るうちに見つけていた小さな神社へ彼女を誘った。


「この鈴をガランガランさせてから、お金をあの箱の中に投げ入れて、手を合わせてお願いごとをするの」


 汗を拭きつつ、願掛けのやり方を彼女に教える。坂上にあるこの神社へ辿り着くまでに、私たちは汗びっしょりになっていた。手水の温いはずの水すらも心地よかった。


「ふうん」

「真珠を百個も集めなくたっていいんだよ」

「お手軽ね。人間はたいした願いを持たない生き物なんだわ」


 彼女はどこか醒めた笑みを唇の端に浮かべた。

 緑の日陰が多いここは幾分涼しい気がしたものの、セミの泣き声が凄まじかった。まぶたを閉じて、手を合わせる。神社へ行こうと決めてから、なんて願おうかずっと考えていた。さっきまで迷っていたのに、両手を合わせた瞬間に心が決まった。


 月が満ちませんように。


 私は人間だけど、“たいした願い”をしてしまった。叶いようがない。

 それでも、「彼女が人魚に戻りませんように」と願うのは、なんだか違う気がして。

 どんな姿でも綺麗だ、と思う。輝く鱗と繊細で豪奢なひれを持つ自信に満ちた彼女も、長い脚を少し持て余してたまに無邪気に笑う彼女も。


 ゆっくりと目を開けて隣を伺うと、すでに彼女は賽銭箱の前を離れていた。石段の前に佇む彼女の横へ並ぶ。坂の上の、さらに長い階段を登った先にあるこの神社は見晴らしがよく、街と海が一望できた。彼女と回った様々な場所も、太陽を照り返して光る海も一緒に見えた。その風景を眺めながら静かに彼女が言う。


「綺麗ね」


 この街も悪くない、と思う。

 彼女は何を、願っただろうか。




* ○ ○ ○



 明日の夜空には満月がかかるだろう。今夜はまだ、月はぎりぎり丸くなりきっていない。私たちはいつもの岩場の上にいた。特にしゃべることもないけれど家に帰りがたくて、それでも岩にぶつかる波音だけでは心細さを埋めるのに足りず、私はスマートフォンからクラシック音楽を流していた。ランダムに再生していたプレイリストから、耳慣れた曲がかかる。


「――あ、これ」

「なあに」

「ここに引っ越してくる前、バレエの発表会で踊るはずだった曲なんだ」

「そう」


 岩の淵に並んで座っていた私たちは、それからまた黙ってその曲を聴いていた。この二日ほど、夜の海風が肌寒さをはらむ瞬間があった。夏が終わっていく。私は冷たくなった二の腕と膝を抱えて縮こまった。ぽつりと、彼女が言葉をこぼす。


「踊ってよ」

「え?」

「踊るはずだったんでしょう。それを今、ここで踊ってみせて」


 長いあいだ練習をしていないし、踊るにしたって本当は入念な準備運動が必要だから断ろうと思ったけれど。隣の彼女の瞳は、期待ですでにきらめいていた。月明かりのせいで、それがよく見えてしまう。


「――ずっと踊ってないから。あんまり期待しないで」


 立ち上がって岩場の真ん中へ歩く。簡単なストレッチだけ済ませると、曲はちょうど躍りの見せ場に差し掛かっていた。久々で踊れるだろうか。体育座りをした彼女が、こちらへ全幅の信頼を寄せて私の踊りを待っている。

 かかとを付け、爪先を開く。腕を広げてかかとを浮かせる。足先で自分の体重を支えることができず、ふらつく。指先まで意識できていなかったことに気付いて、慌てて全体のシルエットをチェックする。片脚を後ろへ跳ね上げる。もうずっと使っていない筋肉が軋む。ゆっくりと回転しているとき、体の軸が傾いているのが自分でもわかる。ステップがもつれる。脚が上がらない。伸びない。なめらかさがない。

 てんでだめだ。悔しい。


 ――それでも、たった一人の観客の目には、夜空よりよっぽどぴかぴかと明るい星が瞬いている。


 胸のなかの焦りが霧散する。踏み切る脚に力がみなぎる。跳ぶ。滞空しているあいだも落ち着いて姿勢を保ち、ふわりと軽やかに着地ができた。縮こまっていた筋肉がのびのびとリラックスして、同時に神経が隅々まで張り巡らされていくのがわかる。回転しながら岩場のステージを広々と周回する。全部の動きにキレがないのは知っている。だけど、私より誰より、私の踊りを信じて、釘付けになってくれる人がいるから。

 私も再び、夢中になれた。



 くずおれるように岩の上にへたり込む。彼女が静かにそばへやってきて座った。流れる汗と乱れる呼吸もそのままに、しばらく夜の海へ視線を向けていた。やがて、彼女がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「願いを叶えるために、ずっと真珠を集めていた。私はせっかくこんなに素晴らしい鱗とひれを持っているのに、人間なんかに憧れるのはどうかしてるって、色んな人から言われてきたわ。でも、人間の話をするときのおばあ様の顔を見ていたら……。それに――」


 彼女は一度、言葉を切ってこちらを見た。そして微笑む。


「今なら私も、おばあ様の気持ち、よくわかるわ」


 私たちの前に広がる海は、深い藍色をしている。少し前まで真っ黒なだけだと思っていた夜の海は、漆黒と藍が混ざりあい、月の光が落ちているところは優しく煌めいてシルクの手触りがしそうなほど滑らかに見えた。繰り返す波音は揺りかごみたいに安らいで聞こえる。

 だけどそこは、私の住む場所ではない。地上は広いのでしょう、と言った彼女の声が蘇る。鼻がツンとして、私は言葉を絞り出す。


「――海だって広いじゃん、ていうか海のほうが広いんだよ。海は世界中と繋がってるでしょ」

「……」

「たとえば、私が世界のどこへ行こうと、あんたは海を通じて私に会いにこられるじゃん」

「……すごく広い地上の内側にぼちこが住んでたら、会えないじゃない」


 憐憫と諦念の混ざった曖昧な笑みを浮かべて彼女は言った。


「それはそうだけど……それなら私、ずっと海沿いに住むよ。それなら会えるでしょ?」


 私の声はほとんど懇願の色を帯びていたのに、彼女はふっと顔を逸らしてつぶやいた。


「会いになんか、行かないわ」


 月を見上げる。ほとんど満月みたいに見えるそれは、ふくふくと丸く、煌々と私たちを照らしている。

 月なんて、満ちなければいいのに。


 ――でも月は、満ちてしまうもの。満ちて、欠けて、の繰り返し。

 別れの日がやってきた。



○ ○ ○ ○



 まん丸のお月様が、全てを照らし出している。夜に白く浮かび上がる砂浜の上を、裸足の私たちは散歩していた。足下から伸びる影が、どんどん短くなっていく。月の位置が高くなっていく。


「ねえ」

「なあに」

「あんたの名前、教えてよ」


 立ち止まった私の顔を見て、彼女は唇を緩めた。


「人間には発音できないわよ」

「いいから。言ってみてよ」


 彼女が小さく口を開くと、空気が震えて高い周波数のようなものを私は体と耳の両方で感じた。笑う。


「むりだあ」


 彼女も顔を綻ばせた。それからふと顔を俯け、しばらくの間、足先で砂を混ぜていた。


「だから……」


 そして、迷いを振り切るみたいにまっすぐこっちを見た。


「あなたが私の名前をつけて。ぼち子が私のことを忘れないように」

「――忘れるわけないじゃん」

「……そうかしら」

「そうだよ」


 少し怒って答えたのに、彼女は寂しげに笑うだけだ。


「――みちるなんて、どうかな」


 おずおずと言った私に、彼女は挑戦的に目を光らせた。


「ちゃんと考えたんでしょうね?」

「うん」


 彼女は「みちる……みちるね」と何度か呟いてから、


「呼んでみて」


とささやいた。


「――みちる」


 呼ばれた彼女は、あどけない笑みをこぼした。それから、海の方へ向かって歩き出す。私は慌てて彼女の手を取る。


「満月の日は、この海で会おうよ!」


 繋いだ手に視線を落として、彼女は小さく言う。


「私、忙しいのよ。海に戻ったら、またみんなと暮らすんだもの。独りぼっちのぼち子みたいに暇してないの」

「それでも、私に会いに来てよ」

「……」

「今度、トゥーシューズを持ってくるよ。練習だってちゃんとしておく。そうしたら私の本気の踊りを見せられるから。本当はもっとすごいんだよ。だから……だから、見てよ」


 どうしようもなく、声が揺れる。


「……ぼち子は寂しがりね」


 まるで母親が幼子にするみたいに、彼女は慈しみの込もった手つきで私の頬を撫でた。そして、あっと思うまもなく、繋いでいた手を振り切って駆け出した。長い脚を思い切り使って、砂浜の上をいとも簡単に跳んでいく。


「みちる、みちる!」


 必死で追いかけても間に合わない。なんのためらいもなく、流れるように彼女は全身を伸ばして海へ飛び込んだ。


「みちる!」


 浅瀬に立ち尽くし、叫ぶ。すると、唐突にばしゃーん、と大きな音を立てて水しぶきが上がり、それを私は頭の上から被った。続いて濡れた何かが、ばちーん、と派手に顔へ当たった。取り去ると、それは制服のシャツだった。


「もう、何すんの!」


 海に向かって抗議を述べたら、少し遠くの水面に彼女が現れた。彼女は声を張り上げる。


「人間の友達を作りなさい、なつこ! それで、私のことなんか忘れちゃえばいいわ!」


 逆光でその顔は見えない。私のみっともない顔はあっちから見えているだろうか。息を吸い込んで叫ぶ。


「作るよ! でも、あんたのこと忘れないから! またここに来るから! 待ってるからね、みちる!」


 彼女は数秒そこに留まって、それから海の中へ消えた。

 静かな海を、丸い月が照らしている。応える人はいない。穏やかな波音だけが響いている。


 でも月は、満ちては欠けて、それを繰り返すから。

 私も繰り返し、この海へ来るだろう。

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星浮く底にて月船思ふ 東海林 春山 @shoz_halYM

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