雪色の約束

月ノ瀬 静流

雪色の約束

 チョコレートを湯煎にかけて、生クリームも人肌に。温度の上げ過ぎは分離の元。秘訣は、水飴をほんのひとたらし。

 ゆっくり優しく、すべてを混ぜ合わせて……ほら、素敵に出来上がり。


 私は、毎年お馴染みになったパヴェ・ショコラを箱に収めた。蓋を閉めるときに、仕上げのココアがふわっと飛び散ったのも、綺麗に拭き取る。そうしないと、ココアの指紋がついてしまうのだ。

 パヴェ・ショコラ――格好よく言っているけれど、要するに石畳の形の生チョコである。材料も作り方も簡単。でも、温度にコツがある。初めて作ったときには油の層ができてしまって顔面蒼白になった。

 作り直す時間も材料もなかったから、そのまま康弘に渡すしかなかった。「大切なのは気持ちだよね!」と、強がりを言って。

 ひとくち食べた彼は「すっげぇ、美味い!」と叫んで、あっという間に半分平らげた。そして「勿体ないから、残りは後で食べる」と蓋をした。康弘の口元は子供みたいに茶色い髭が生えていて、可笑しいのに嬉しくて、ちょっと涙が出た。見た目をココアで誤魔化していたけれど、少し齧れば中の黄色い油の塊が見えていたんだから。

 今年のバレンタインは日曜日。平日だったら仕事のあとにしか逢えなかったところだけど、明日は康弘の家に行く。康弘の家、と言っても、彼は実家で両親と暮らしている。私も同じく実家暮らし。今はそうするべき時なのだ。

 だって、就職して三年で結婚する――そう、私たちは宣言したのだから。

 それまで貯金して、それまで親孝行する。

 約束の日まで、あと一年ちょっとになった。


 康弘の家が見えてくると、まず一番に彼の愛犬のタロが引きちぎれんばかりに尻尾を振って出迎えてくれる。じゃらじゃらと鎖を限界まで伸ばす音で康弘が気がついて、玄関を開ける。

「栞!」と、満面の笑顔を向けてくれるのだ。

 そんないつも通りを期待していたのに、扉を開けた彼は渋面を作っていた。バレンタインにウキウキとチョコレートを持ってきた恋人、いや、婚約者へのあまり仕打ちに私は思わず声を荒らげた。

「何よ? 康弘」

「しー」

 康弘は人差し指を口に当てて、私に顔を寄せた。一週間ぶりの彼に心が踊ってしまうが、悔しいから私は顔を不機嫌に保つ。

「……ごめん。今、やっと寝たところなんだ……」

「え? 誰が?」

 わけが分からない。

「姉貴が、帰ってきている。旦那と喧嘩したらしい。別れてやるって、置き手紙して出てきたって」

「え、えええ!!」

「こら、大声出すな。やっと寝ついてくれたんだよ……」

 私は状況を理解した。康弘のお姉さん、春香さんが生後五ヶ月の悠人くんを連れて、家を飛び出してきた、ということを――。


 発端は昨日の土曜日。普段、家事と育児に追われる春香さんは「休日くらいは手伝って」と、悠人くんをご主人に預けたのだそうだ。そして何やらトラブルが起こり、夜に大喧嘩。

 すぐさま飛び出したかった春香さんだけれど、乳飲み子の悠人くんを寒い夜中に連れて出るなんてできない。ぐっと堪えて朝を待って、ご主人が起きてくる前に家を抜け出してきた――ということだった。

「いきなり、ごめんな。さっき一応、携帯に電話したんだけど電車に乗ってたみたいで……」

 康弘の言う通り、マナーモードで気づかなかったらしい。確認したら着信履歴が残っていた。

 とりあえず康弘の部屋へ、ということになったのだけれど、居間の前を通るときに「栞ちゃん!」という春香さんの声に呼びとめられた。思わず、といった感じにソファーから腰を上げた春香さんは、真っ赤な目で瞼が腫れ上がっていた。

 彼女は「あっ」と、小さく呟いて口元を手で覆う。

「ごめんなさい。そうよ、今日はバレンタインなのよね。――うん。お洒落に気合入っている。お洋服、おニューでしょ?」

「え、分かりますか?」

「パリッとした感じと、今年らしさ意識したあたりにね。とっても似合っている。可愛いわ」

 美人の春香さんに可愛いと言われるのは、ちょっと照れくさい。そして、断言してもいい。康弘は気づいていなかった。いつも忘れたころに「そう言えば、その服、初めて見た気がする」なんて言ってくるのが康弘なのだ。

「……康弘から聞いていると思うけど、私のことは気にしないで出かけてね。バレンタインデート、楽しんできてね」

 そう言って春香さんは、「いってらっしゃい」と手を振ってくれた。

「姉貴。何か勘違いしているようなんだけど、栞は今日、『俺の家』に、出かけてきたの。俺の部屋で、俺とまったりとした休日を過ごす予定なんだよ。あとは一緒にタロの散歩してさぁ」

「ちょ、ちょっと、何それ信じられない! 若者らしく話題のデートスポットとかレストランとか、連れて行ってあげなさいよ! どうせそのうち、行けなくなるんだから」

「そういうのは俺たちのスタイルじゃないんだよ。俺たち金を貯めているんだから。休みの日は互いの家を中心に、おうちデート。お袋には手間かけさせて悪いけど、レストランより我が家飯だ。俺、栞がいれば別に流行りものとか興味ないし」

「何よ、それぇ!?」

 春香さんの叫び声に、台所からお母さんが現れ、「春香! 悠くんが起きちゃうでしょ!」と睨みをきかせた。

 お母さんの姿が見えないと思ったら、お茶の準備中だったらしい。私と康弘のマグカップが載ったトレイを運んできてくれた。

 そう。康弘の家には私専用のマグカップがある。それどころか、お茶碗やお箸、湯呑みに至るまで揃っている。康弘の言う通り、外食しないで互いの実家にご飯をたかっているのだ。言い訳かもしれないけど、安上がりという以上に、康弘のお母さんの料理は美味しい。いずれ比較されるのかと思うと気は重いのだけど。

 お母さんが、康弘に「部屋に持っていく?」とトレイを示すと、彼は「そうする」と受け取った。そこで、春香さんが待ったをかけた。

「ちょっと! 康弘に言いたいことがある!」

「なんだよ」

「あんた、ちゃんと、栞ちゃんを見ている? 栞ちゃんのことを考えている? 今からこんな家に居着いちゃう生活でいいの? 両親と仲のいい彼女なんて、康弘はいいかもしれないけど、自分の理想を押し付けてない!?」

「いいかげんにしろよ、姉貴! 旦那と何があったのか知らないけど、姉貴こそ俺たちに自分の理想を押し付けているんじゃないか!」

 康弘の言葉に、春香さんの目からポロリと涙が零れた。

 けれど、康弘は口を一文字に結んだまま、春香さんのことを睨みつけている。

 康弘は正しいと思ったら絶対に引かない。そんな真っ直ぐな彼のことは好きだけれど、春香さんは思いつめて家を飛び出してきたのだ。それに春香さんは、私のことを心配して言ってくれたわけで……。

 私の目線はオロオロとふたりの顔を行ったり来たりした。

「栞ちゃん、本当に康弘でいいの? 康弘は栞ちゃんのことを『栞ちゃん』として見ている? 『彼女』として見ていることはない!? 私……、あの人に『私』として見てもらってない! 『妻』で『母親』で、その役割を果たすのが当然だ、って……」

 そう言って、春香さんは泣き崩れた。

 美人で気立てが良くて、ちょっとお節介な春香さん。今までも、女心に疎い康弘をこんなふうに窘めることがあった。そんな彼女を頼もしく思っていたのだけれど、今、目の前で肩を丸める彼女は、とても小さく見えた。

「こら」

 身動き取れなくなってしまった私たちに割って入ったのは、お母さんだった。

「あんたたち、これ以上、話をややこしくしないの」

「あ……、ごめんなさい。栞ちゃん、困っているね」

 さっと口を開いたのは春香さんだった。康弘は睨んだ顔のまま。確かに彼が悪いというわけじゃないけれど、少し融通が利かない。

 でも、もっと情けないのは私かもしれない。何か言うべきなのに、言いたいのに、言葉が思いつかない。変なことを言ったら、春香さんを傷つけてしまうかもしれないし、康弘を怒らせてしまうかもしれない。それが怖くて声が出なかった。

「まったく、もう!」と、お母さんが大きく息を吐く。

「話し合うべき相手と、ちゃんと話し合いなさいよ。文句を言うのも面倒くさい、って思えるくらいまで、言いたいことを言い尽くしたら諦めもつくから。春香も、康弘も、それから栞ちゃんもね?」

 お母さんは解釈に困るようなことを言いながら、そっと出ていくように康弘を促した。


 二階の康弘の部屋に行く途中、襖が開けっ放しになっている和室から、すやすやと眠る悠人くんと添い寝をしているお父さんの姿が見えた。

 お父さんは私たちに気づくと、手だけ振って、それでおしまい。私が初めてこの家に遊びに来たころは、やたらとぎこちなかったお父さんが、すっかり変わった。それこそ、右手と右足が同時に前に出てしまうような感じだったのだ。だから今の関係は不思議で、自然。くすぐったいような嬉しさがある。

「ほんと、ごめんなぁ」

 部屋に入った康弘は、机にお茶のトレイを置いて、疲れ果てたようにクッションに腰を下ろした。淡いブルーのクッションカバーは私のお手製である。手芸なんかまともにしたことのない私が、キットを使えばできるかも、と挑戦したやつだ。康弘のお尻に踏み潰され続けたせいか、もともとの作りが雑だったからか、ところどころ糸がほつれている。

「春香さん、だいぶ参っているみたいだったね」

「どうせ、育児ノイローゼってやつだろ。せっかくの俺たちの休日を台無しにするなよなぁ」

 康弘が子供っぽくむくれた。そして、私のバッグにちらりと目をやる。ご飯を貰う前のタロにそっくりな顔になった。

 チョコを期待されている……。毎年恒例なんだから、当然といえば当然なんだけど。

 でも、あの春香さんを見て、すぐにいつも通りってのは、ないと思う。春香さんじゃないけど、少しくらい『特別な日』というムードを気にしてほしい。

 クリスマスのときは『この前、先輩に連れて行ってもらった、安いのにメチャクチャ美味い店に行こう』と久々の外食の約束をした。当日、どんな素敵なお店だろうと期待していたら、ラーメン屋さんだった。康弘の言うことに間違いはひとつもなくて、安くて本当に美味しかった。けど、なんでクリスマスなの? と思ったのも事実だ。

 春香さんの言葉が、ちくりと胸に引っかかった。

 ――ちゃんと、栞ちゃんを見ている? 栞ちゃんのことを考えている?

「康弘……。言いたいことは分かるし、康弘は何も悪くない。でも……ちょっと春香さんに気を遣ってもいいと思う」

「なんだよ? お前、姉貴が泣いているから可哀想っていうのか? 旦那と喧嘩して『実家に帰らせていただきます』を地で行っているだけじゃん」

「でも!」

「気を遣えとか言われてもさ。姉貴だって悠人が泣き出したら、俺や親父の前で、いきなり胸出しやがるんだぜ? 家にいたころは洗濯物の下着を見ただけで『デリカシーがない』って怒っていたくせに。姉貴のほうこそ、何様? って感じ」

 悠人くんが泣いたことと話がどう繋がるのか、一瞬分からなかったけれど、つまり母乳を上げるために服をはだけさせたということなのだろう。

 私が来る前にも、一悶着あったようだ。

「ごめん……」

「……せっかくのバレンタインなのにな。俺、栞に逢えるのを凄く楽しみにしてたのに……」

「だから、ごめん、って」

「でも、お前、納得してないだろ? 俺としては『姉貴んとこは喧嘩しているけど、俺たちは仲良くしようぜ』って、持って行きたかったんだけどさ」

「もう、いいって」

「良くないだろ? 腹の中でムシャクシャしながら、面の皮だけニッコリしてれば丸く収まるって? そんなの駄目だろ? おかしいだろ?」

「だからっ! 私、もういいって……」

「いいわけないだろう?」

 康弘の静かな怒りが、じわじわと伝わってくる。いつだって康弘は正しい。今だって、ちゃんと私の言い分を聞こうとしてくれている。私が意見を言って、康弘と衝突して、私が謝って、それでも康弘が……?

「……違う! 康弘は自分が正しいって認めてもらいたいだけ!」

 私の中で、何かが弾けた。長い付き合いの中、同じようなことが何度も繰り返されてきた気がする。

「康弘が言うことは、いつだって正論だよ。私がどんな気持ちになっても、春香さんに何かしてあげられるわけじゃない。だから康弘の言うとおり、私と康弘は予定通り楽しい休日を過ごすのが建設的だよ。でも、私は春香さんのことで悲しい気持ちになっている。そう『なっている』ことを康弘に受け止めてほしい。同調しなくてもいい、でも、私が『悲しい』って思ったことを理解してほしいの! それは正しいとか間違っているとか、そういう問題じゃない!」

「栞……?」

「私、康弘が好きだよ? 結婚したいと思っている。でも、康弘はニコニコしている私だけが好きなの?」

「ああ? なんだよ? 何が言いたいんだよ? 栞も姉貴も、わけ分かんないよ!」

 私だって、自分が支離滅裂になっているのは分かっている。苛ついた康弘の顔が怖い。この場から逃げ出したかった。

 嫌な沈黙が落ちた。

 それを破ったのは私でも康弘でもなかった。

 ピンポーン、ピンポーン。

 インターホンが鳴る。

 ピンポーン、ピンポーン……。

「お母さん、出る必要ないからね!」

 階下から、春香さんの怒鳴り声が聞こえる。

 ピンポン、ピンポン!

「春香! 俺は謝りに来たわけじゃないぞ!」

 家の外から男性の声が聞こえた。

「じゃあ、何しに来たのよ!」

 再び、春香さんの声。

 康弘が立ち上がって窓から玄関を見下ろした。そして、げんなりとした顔になった。

「近所迷惑だから、入ってもらいなさい!」

「嫌よ! やめてよ、お母さん!」

 そんな母子の遣り取りに溜め息をついて、康弘が無言で玄関に向かう。私も慌ててついていった。


 玄関から入ってきたのは、真っ赤なバラの花束だった。その後ろから、もうひとりの当事者がついてくる、と言うのが正しいくらいに、大きな花束だった。

「康弘くん、ご迷惑をお掛けしているね」

 扉を開けた康弘に、男性が頭を下げる。言わずもがな、春香さんのご主人だ。

「……そこまでやりますか?」

「当然、恥ずかしいよ? あまりのベタさに、花屋の店員には『絶対、大丈夫ですよ』と太鼓判を押され、途中ですれ違った知らないおっちゃんには『グッドラック』まで指を立てられたよ? でも、相手は春香なんだよ?」

 堂々とそう言ったご主人は、康弘の後ろにいる私に気づいて、少しばつの悪そうな顔になった。面識はあるものの、私たちは互いによくは知らない。ご主人は、こほん、と咳払いをして、「それじゃ」と、閉ざされた居間の扉に向かった。

 彼は一呼吸置いて、はっきりとした声で言う。

「春香。お前の言い分は分かった。離婚しよう。離婚届をダウンロードしてきた」

 ……え?

 バラの花束を持って、離婚届!?

 思わず声を上げそうになった私の隣で、康弘が「最近はそんなものまで、ネットで入手できるのか」なんて感心している。

「な……」

 春香さんの言葉にならない呟きが漏れ聞こえた。

「春香、お前、言ったよな。ちゃんと『私』のことが好きなのか、って。『もし私が、十歳年上でも、二十歳年上でも、逆に十歳年下でも、二十歳年下でも、たとえ同性だったとしても、私のことを愛せる?』そう言ったな」

 静まり返った家の中で、ご主人の声だけが響く。

「それは、無理だ。十歳年上と十歳年下なら、オッケー。二十歳年上は、まぁ、頑張ればいけると思う。でも、二十歳年下は俺がよくても世間が許さないだろうし、同性同士というのには偏見はないが、残念ながら俺自身は欲情しない。だから、お前の要求には答えられない。よって、離婚だ」

「……分かっ、……たわ」

 扉の向こうから、春香さんのかすれた声が聞こえてきた。

「じゃあ、書類を渡すから出てこい」

 衣擦れの気配がするまでには、かなりの間があった。それは春香さんの後悔と迷いだろう。

 こちらでご主人の姿を見ている私は混乱するばかりで、ただ見守るしかなかった。

 扉が開かれる前に、ご主人は花束を背中に隠した。そして、出てきた春香さんに、ニッコリと笑う。

「春香、出てきたね? じゃあ、お前の意思も確認できたということで、離婚成立」

 春香さんの目から涙が零れた。嗚咽もなく、ただ、ポロリ、ポロリと涙の粒だけが溢れてきて、春香さんの頬を濡らしていく。

 ご主人が、ごほん、と咳払いをした。

「それじゃ独身に戻ったところで、改めて……。俺は『もし私が、十歳年上でも、二十歳年上でも、逆に十歳年下でも、二十歳年下でも、たとえ同性だったとしても、私のことを愛せる? なんて少女趣味なことを、いい歳して恥ずかしげもなく言えちゃう、永遠にロマンチストで純粋な、春香って名前の女』にプロポーズしたいんだけど、いいかな?」

 そう言いながら、ご主人は真っ赤な花束を春香さんに差し出す。

 春香さんの目が真ん丸になった。そして、花束を受け取りながら、深く深く、頷く。

 ご主人が「再婚成立だね?」と余裕の顔でニッコリ笑った。けれど、春香さんに気づかれないように、彼がほっと溜め息をついたのを私は見てしまった。飄々としているように見えた彼も、本当はドキドキしていたに違いない。

「春香、お前が家を去ったあと、冷蔵庫の中でチョコを見つけた」

「……あ。……バレンタインだから買ってきたのよ」

「そう、市販品だった……土台はね。でも、ハートのチョコのど真ん中に下手くそな字で『LOVE』なんて書いてあるやつは、市販品とは言わない。……悠人の手が離せないって言っていたのに作ってくれたんだね。ありがとう」

「や、やだ……! 中まで見ちゃったの!?」

 顔を真っ赤にした春香さんは涙の跡がくっきり見えていたけれど、いつもよりずっと美人だった。

「……あなたこそ。お花、ありがとう」

「お前は悠人が生まれて、ふてぶてしく逞しくなったと思う。もう別人、って言っていいくらいにね。だから俺はそれに慣れて、甘えて、忘れていた。お前がチョコに『LOVE』って文字を入れるような奴だってことを。お前は、結婚しようが母親になろうが、キラキラした乙女チックなものが大好きで、常に楽しいことを探しているような奴だ。人間は変わっていくけれど、根っこのところは変わらない」

「あなた……」

「そんなお前を喜ばせるためなら、俺は毎年、バレンタインにバラの花束を贈るよ。何しろ、海外ではバレンタインに、男が女に花を贈るのが主流だそうだしね」


 春香さんとご主人が悠人くんの寝ている部屋に向かうと、康弘が私の肩を叩いた。自室に戻ろうと促しているのが分かった。

 康弘の部屋でふたりきりになると、私は居心地悪く立ち尽くす。私たちは険悪な状態だったのだ。発端となった春香さんとご主人が丸く収まってしまうと、本当にどうしたらいいか分からない。

 春香さんはただの育児ノイローゼで、ご主人が迎えに来た。夫婦喧嘩は犬も食わない。それだけのことだったのかもしれない。

 でも……。

 あのとき、春香さんは本当に辛かったはずなのだ。その『気持ち』は現実として存在したはずなのだ。

「座れよ」

 いつまでも突っ立っている私に康弘が言う。私がいつも使っているクッションは康弘の正面にある。私はおずおずと歩を進め、不自然じゃないくらいの斜め向きに座った。

「栞」

 視線は合わせなくても、康弘の声は耳に入ってくる。喧嘩はしたくない。ちゃんと、康弘の顔を見たい。

 康弘の態度は、気持ちの上では納得できない。でも、康弘が悪かったわけではないのだ。そして、せっかく康弘と一緒に居るのにギクシャクしているなんて、私には耐えられなかった。

「……ごめんね。康弘の言う通りだった。春香さんのこと、心配しなくて大丈夫だった」

 私は康弘に謝った。何度、あの時を繰り返しても、私は春香さんが心配になるだろうし、悲しい気持ちになるだろう。けど、康弘を巻き込んで、康弘と喧嘩腰に話す必要はなかったのだ。

 康弘は溜め息をついた。

「栞は、また『ごめん』なのか? あのさ、『ごめん』って先に言っちゃえば、それ以上、追求されなくなる便利な言葉だって知っている?」

「あっ……、ごめんなさい」

 反射的に言ってしまってから、私は口元を抑えた。

 私たちは同級生で、知り合った時点ではどちらの立場が強いとか、そういうのはなかった。でも今では康弘のほうが強いような気がする。

 康弘が再び溜め息をついた。俯いていた私には彼の表情は見えなかったけれど、その息は私に重くのしかかった。

「…………ごめんな」

「え!?」

 初め、私の聞き間違いかと思った。今までの康弘の様子から、どうして彼が謝ってくるのか分からなかった。私はびっくりして、思わず顔を上げる。見ることのできなかった康弘の顔を見る。

「俺はずっと、お前に『ごめん』を言わせてきていたんだな。……俺は、俺が間違っていたとは思わない。でも、お前は栞なんだ」

 ……さっき、ご主人が言っていたのと同じだ。私の胸がドキドキと高鳴った。

「お前は生真面目で一生懸命すぎるところがある。思い込みが激しくて、頑張るほどに空回りする。姉貴のことにしたって、大真面目に『どうしよう、どうしよう』ってオロオロしてたんだろ?」

 まさしく、その通りだった。私は黙って頷く。

「姉貴の心配は要らないけど、お前がそうやって姉貴を心配する気持ちは大切にするべきだった。だって、俺はお前のそういうところに惚れたんだから。俺、馬鹿だなぁ……」

 康弘はそう言って、自分の頭をコツンと叩いた。

「お前も知っているだろ? 俺は現実主義で、実利主義で、だから周りとのトラブルも絶えない。仲が良かった友だちとも喧嘩別れしたこともある」

「康弘……」

「けど、周りが俺を煙たがっても、お前だけは違ったんだ。お前は俺の気持ちを考えてくれる貴重な存在だったんだ。……俺は、それを忘れていた。お前がそばに居ることが当たり前になっていて、『栞』を見ていなかった。俺は『栞』が大好きだったのにな……」

 康弘の顔が歪んだ。

 康弘は気難しくて偏屈なところもあるけれど、時々、妙に子供っぽい。そんなとき、康弘は純粋な心からの笑顔を見せてくれる。初めてのデートで『彼女と一緒にアイスクリームを食べるのが夢だった』なんて言いながら満面の笑顔を見せてくれたとき、私は『人を幸せにする笑顔』というものを初めて見たと思った。

 ううん。子供っぽいときも現実主義のときも、康弘は裏表なく自分の素直な気持ちを伝えてくれる。それを我儘という人もいるかもしれないけれど、康弘は飾ることなく正直な人なのだ。私は、そんな素顔の康弘を好きになったのだ。私もそれを忘れて、気づかないうちに自分の理想を押し付けていたかもしれない。

 私は手の届く距離に置きっぱなしにしてあったバッグを引き寄せた。

「……今までさ、何か言い争うことがあったとき、たいてい俺が押し切ってきたよな。けど、それじゃ駄目だと思った。『栞』を理解するために、『栞』を好きでいるために、これからは押し付けじゃない、ちゃんとした喧嘩をしていきたい」

「私の方こそ、喧嘩したくないって気持ちが強くて、『ごめん』って言葉で逃げていたかもしれない……」

「俺は『栞』が好きだよ」

「私も『康弘』が好き」

 私はバッグの中から、ラッピングされた箱を出した。康弘が愛犬タロの顔になる。こんな子供っぽいところが見え隠れするのも、私が大好きな彼の一面。

「ハッピーバレンタイン、康弘」

 ぱぁっと満面の笑顔を浮かべた康弘が、受け取った箱を早速空けて、パヴェ・ショコラを一口食べる。

「美味ぁい! 相変わらず、栞のチョコは最高だぜ!」

「康弘。生チョコって、チョコと生クリームで出来ているんだけど、どっちの温度を上げ過ぎても分離しちゃうの」

「もぐ?」

「互いに熱くなり過ぎちゃ駄目、って、人と人の関係と似ていない?」

「もぐもぐ……」

 康弘は口の中を空にすると、うっとりと目をつぶった。空のお皿を前にした食後のタロとそっくりだ。

「うーん。でも、俺は熱々のグツグツまで喧嘩してでも、しっかりと『栞』を見極めたいと思うよ」

 そう言って、康弘が笑う。

 ふたつ目に手を伸ばしかけた康弘が「あ! 雪!」と、叫んだ。

「わぁ……。バレンタインに雪って、素敵だね!」

 私がそう言ったら、康弘はちょっと微妙な顔をした。そして、生チョコの箱に蓋をして机に移す。

「確かに雪はロマンチックだけど、タロの散歩ができなくなる。本降りになる前に出かけるぞ!」

 ムードも何もない、相変わらずの現実主義の正論だ。康弘のこんなところは、きっと永遠に変わらないのだろう。


 ちらちらと白雪の舞い落ちる中、ぐいぐい引っ張るタロを先頭に私たちは歩く。散歩が大好きなタロは元気に尻尾を振っていたが、大きなくしゃみをしたところを見ると、やはり寒いらしい。

 家を出たときは、まだ降り始めだったので傘は持ってこなかった。康弘の髪に、雪の結晶がふわりと降りてきては、溶けていく。きっと私の頭も同じようになっているだろう。

「積もるかな?」

 あとからあとから、やってくる純白の雪を見上げながら、私は言った。

「この様子だと積もるかもしれないな。明日の朝は一面の雪景色だ」

「素敵だね。あ、でも、康弘は通勤電車が心配になっちゃう?」

 康弘の思考回路からすれば、ダイヤの乱れを気にするはずだ。この辺りはそんなに雪が降らないから、いざ大雪になると電車は止まってしまう。

「栞。今の俺は、そんな野暮な男じゃないぞ」

 むっとした顔をしてから康弘が笑った。そして、少しだけ真顔になって続ける。

「……いつものよく知っている風景が、明日の朝には真っ白にガラッと変わるんだ。でも、その下には、ちゃんといつもの風景が隠れている。数日後に、雪が溶ければ元通りだ」

 いつもの散歩コース。康弘も通ったという小学校の脇を抜けて、公園に出る。降り始めの雪はすぐに溶け、冷たく遊具を濡らすだけ。今は子どもたちの姿はない。けれど明日には雪合戦会場になり、そして、明後日か明々後日には、日陰に溶けかけの雪だるまが見守る中で、いつもの遊具が活躍するのだろう。

 康弘がふぅっと息を吐いた。真っ白な煙の向こうで彼が笑う。

「雪だけじゃなくて、雨でも風でも、季節が変わることでも、景色は変わっていく。でもやっぱり、俺のよく知っているこの場所なんだ。時が経って付近の様子が変わっても、たぶん、この場所の面影は残るだろう。……お前は人をチョコに喩えたけれど、俺はこの風景に似ているな、って今、思ったんだ」

 私は康弘に一歩近づいて、康弘と同じ方向に顔を向けた。彼と同じ風景を見ながら「そうだね」と頷く。

「……姉貴たちを見ていて思ったんだけど、俺たちもきっと、これから先、どんどん変わっていくと思う。時には雪に包まれた景色みたいに、まったくの別人に見えることがあるのかもしれない」

 ここで康弘は隣に立つ私に顔を向けて、私の大好きな笑顔になった。

「……でも、その下にはいつもの栞が隠れているってことを、俺は忘れない。そう約束する」

 学生時代からずっと一緒にいるけれど、私たちは同じ価値観を持っているわけじゃない。そして私も康弘も変わっていくことがあるし、変わらないところもあるだろう。

 康弘が小指をピンと立てて、私の前に差し出した。

 その指先にも雪が舞い降り、染みこむように溶けていく。

 そして、私たちは互いの小指を絡め合わせた。


 生チョコの秘訣は水飴だけど、私たちの秘訣はなんだろう?

 康弘とは、この先ずっと一緒に居るのだ。それはゆっくり考えよう。




※お読みくださり、ありがとうございます。


こちらは、2016年2月に、今はなき小説サイト『dNoVeLs』にて、「バレンタインの話を書こう!」という有志企画のために書いた物語です。

そのため、2月14日が日曜日になっております。


『春色の約束』( https://kakuyomu.jp/works/16816452219472460883 )の続編に当たりますが、それぞれ独立した物語になっております。



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