インスタント・クエスト

秋待諷月

インスタント・クエスト

 光陰矢の如き人生においても、体感時間がやたらと長い、という場面は多い。

 交通渋滞しかり、PCデータのバックアップ作業しかり、「校長先生のお話」しかり。とかく、手持無沙汰でひたすら何かを待つ時間は、長く感じられるものなのだろう。

 今、狭いキッチンのシンクの前に棒立ちになり、熱湯が注がれた発泡容器を俯瞰する僕は、冷蔵庫の側面に貼りつけられたキッチンタイマーの職務怠慢を疑い始めている。

 デジタル時計が示す残り時間は「02:29」。スタートボタンを押してから、たった三十秒しか経過していないのか。僕の体感では、正確には僕の胃袋感では、もう十分以上が経過していてもおかしくないというのに。

 隙間から漏れ出る湯気で蓋が反り返ってくるのを防ぐため、小袋入りの液体調味料と一緒に蓋の上に両掌を乗せ、無意味に身体を左右に揺らしながら、再度タイマーを覗き込む。「02:04」。何の気なしに、三、二、一とカウントした、僕の心の声に調子を合わせるかのように。

『あと二分』

 僕のものではない声が聞こえた。

 低く、重く、ざらついて耳に不快なその声は、耳元で発せられたようにも、頭の内側で反響したようにも聞こえ、僕は本能的に体の動きをぴたりと停止させる。

 テレビの電源は切れている。スマホが何を通知してきたでもない。空耳か、と結論付けようとした僕を嘲笑うように、聞き覚えのない声がまた囁く。

『くくく、何も知らない愚かな人間め。こうも簡単に封印を解いてくれるとはな』

 空耳にしては長く、明瞭で、具体的である。その分だけ、音の出所も正確に掴めた。

 カップ麺の容器の中。

 汗ばむ僕の指が押さえる、湯気でべこべこになった蓋の下から、その声は漏れ出てきていた。

 蓋を剥がして中を覗き込みたくて仕方がないが、ぐっと衝動を堪える。三分という果てしなく長大な時間を耐え抜くことこそ、今の僕に課せられた最重要タスクなのである。

 というか。

 ……封印がなんだって?

『あと一分三十秒』

 悠然とカウントダウンを続ける声は、にたにたと歪む口元が連想されるほどの笑いを滲ませている。声の主へ向けて質問を投げかけたい気持ちはあるが、カップ麺の中を覗き込んで「もしもし?」と尋ねる図を想像するとシュール過ぎて憚られた。だが、僕が問うまでもなく、声はご丁寧にも独白で補足してくれる。

『もう少しだ。あと少し耐えれば、この狭苦しい場所から解き放たれる。そうなれば、今に見ていろ、我をこのような目に遭わせた人間共めが。一匹残らず根絶やしにしてくれるわ』

 補足されても分からないことに変わりはなかった。

 が、どうやら声の主は、人間の手によって容器の中に封じられていたが、僕が蓋を剥がして湯を注いだことで封印が解け、三分の経過後、蓋を剥がした瞬間に、容器の外へ解き放たれるらしい。

 それにしても、穏やかでないのは独白の後半部だ。カップ麺から登場した何かに滅ぼされては、人類の尊厳も何もあったものではない。

 さて、一体どうしたものか。

『残り一分』

 ご満悦でカウントダウンしている顔が目に浮かぶようでイラっとする。とは言っても、尊顔は存じませんがね、と胸中で毒づきつつ、暇を持て余した指先で調味料の袋をぷにぷにと押して心を落ち着かせようと試みる。すると。

『やれやれ。こんなにも早く、奴の封印が解ける日が来てしまうとはな』

 また別の声が聞こえてくるから頭が痛い。

 先までの不快の声とは明らかに異なり、はきはきと張りがあり、威厳に満ちた力強い男の声である。

 声の出どころは、先と同じく、僕の掌の下。しかし今度は、カップ麺の容器の中ではない。

 喋っているのは、液体調味料が入った銀色の小袋。

 しかも、事もあろうに新たな声の主は、会話の相手として、僕をはっきりと認識しているようだ。

『よく聞け、青年。私は今、君の心へ直接語りかけているが、奴には決して私の存在が悟られないようにしてくれ。巻き込まれてしまった君には災難だろうが、こうなった以上は、君に協力して貰わなければならない。奴を――魔王を倒すために』

 僕は疲れているらしい。

 カップ麺を食べ終えたら、さっさと敷きっぱなしの布団へダイブして昼寝と洒落こむことにしよう。日曜日万歳。

 そんな僕の休日賛美など知る由もなく、いや、きっと知っていたとしても気にすることなく、芝居がかった熱意を込めて、二つ目の声は怒涛のように僕へと語りかけてくる。

『時間がないので手短に説明する。この函に封じられているのは、かつて七つの世界を滅ぼした、最凶最悪の忌まわしき魔王だ。かつて私は、奴と死闘を繰り広げ、夥しい犠牲と引き換えに奴を消滅寸前まで追い込んだ! 力及ばず、完全に息の根を止めることは敵わなかったが、全世界の英知を結集し、ついに奴を封印することに成功したのだ』

 僕はどこからツッコめばいいのだろうか。

『だが何の手違いか、函はこうして君の手に渡り、あろうことか、君は我々の想像にも及ばない力をもって、函の封印を解いてしまった』

 それはそれは申し訳ありませんでした、真に遺憾です。容器側面の「つくりかた」に従って、ビニール梱包を剥がし、蓋を半分剥がして、中に熱湯を注いだ僕が悪うございましたよ。

『今、魔王は函の中で、己の力が完全回復する瞬間を待っている。奴が万全となり、蓋が開け放たれたが最後、この世界は三分と経たずに滅ぼされてしまうだろう』

 うん。ごめん。もう意味が分からない。

 魔王とやらに悟られないよう細心の注意を払っているため、ではなく、動揺する気力すら湧かずに無表情を貫く僕に、魔王は親切にもタイムリミットを教えてくれる。

『くくく、あと、三十秒』

 大変に愉しそうで結構なことです。

 キッチンタイマーは素知らぬ顔で、淡々と職務を遂行している。「00:27」。「00:26」。数字が減っていくに従って、掌の下の発泡容器が、あろうことか小刻みに震え始めた。マジか。

『案ずるな、青年。このような事態に備えて、魔王と共に函に封じられたのが、何を隠そう、勇者たるこの私だ。今こそ、私は私の命を賭して、魔王を完全に打ち滅ぼしてみせる』

 ほほう、アフターサービスはなかなか悪くない、と、ほんの少しだけ心強く感じたのも僅かな間。

『青年。君はこれから私の封印を解き、魔王が解き放たれるまさにその瞬間、私の本体を函の中に投じるのだ。聖なる魔法でもってこの姿に代わった私の命は、魔王にとって猛毒そのもの。奴の本体に私が触れた瞬間に、魔王は全ての力を失い消滅するだろう』

 何度でも言うけど、意味が分からない。

 つまり、なんだ。僕はキッチンタイマーが鳴り出すと同時に、この調味料をカップ内にぶちこめば良い、と?

『あと十五秒』

『青年、この世界の存亡は君の手にかかっている。失敗は許されないぞ。早過ぎても遅すぎてもいけない、魔王が解放され油断する、一瞬の隙を狙うのだ』

 いよいよ興奮してきた魔王と勇者の声が重なって僕に襲い掛かってくる。「00:12」。いっそタイマーをストップしたい衝動に駆られたが、そういう問題ではない。

『十秒』

 首を長くして待っていたこの時が、まさかこんなことになるなど、二分五十秒前には思いもしなかった。そりゃそうだ。

 九、八、と、いよいよ秒刻みでカウントを開始した魔王の喜悦満面な声と、「しくじるなよ」「頼んだぞ」などとしつこく喚く勇者の逼迫した声が、僕をがむしゃらに急き立てる。

『残り五秒!』

『急げ、青年。時間がない!』

 ああもう、うるせぇぇぇ!

「00:03」。

 僕は蓋から両掌を離す。ずっと押さえていたおかげで、蓋はすぐには捲れてこない。容器は最早、がたがたと生き物のように激しく振動している。

「00:02」。

 温まった指先で調味料の小袋、否、勇者を摘み上げ、「どこからでも切れます」の表示を信じて、閉じ口の一辺を上向きに左手で持ち、その横に右手の親指と人差し指を添える。右手を一気に引き下げた。

「00:01」。

 黒茶の液体が一つ二つ、小さな球となって飛び散るのを視界に留めながら、三角形の切れ端をシンクに払い捨てる。

 空いた右手をすぐに方向転換させて持ち上げ、容器の縁に引っかけられた蓋のつまみに親指をかけた。

『零秒!』

『今だ、青年!』

 蓋を手前から奥へ引っ張る。跳ね上がって傾いた容器から湯が零れることも構わず、溢れ出る湯気にも目を閉じることなく、左手を傾けながら狙いを定め、袋を一思いにぐしゃりと握り潰した。

 黒い液体が勢いよく噴出し、白い容器の中に撒き散らされる。

 その瞬間。

『ぐわあああぁぁぁっ!』

 耳をつんざく悲鳴が轟いた。背筋がぞっとするほどの禍々しい声は、魔王の断末魔だと思われた。痙攣するように容器が震え、中の湯が波打ち、上がった飛沫が僕の顔に飛び掛かる。

 その振動が収まるにつれ、長い絶叫は湯気と共に空気中へと四散していき、やがて完全に消え去った。

 代わりに聞こえてきたのは、か細く弱弱しい、しかし、満足気な囁き声。

『よくやった青年。これで、世界は救われた』

 燃え尽きた蝋燭の、最後の灯が力尽きていくように、その声もまた消えてなくなった。

 残された僕は、びしょびしょになったシンクに覆いかぶさるような体勢のまま、まだたぷたぷと揺れている容器の中身を呆然と見下ろす。

 投入された特濃ソースで、ごく薄い茶色に染まった湯の中では、すっかりふやけた細麺と、くたくたになったキャベツが、所在なさげにぷかぷかと漂っていた。

「カップ焼きそば、だったのに……」 

 がくりと項垂れる僕の横で、「00:00」の表示を掲げるキッチンタイマーが、いつまでもアラームを鳴らし続けていた。






 Fin.




 twitterハッシュタグ「#物書きのみんな自分の文体でカップ焼きそばの作り方書こうよ」より 派生作品

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