藍に染まる。
木野かなめ
藍に染まる。
ついに彼女が傘を忘れた。
僕はすぐに声をかけない。気配を殺し、すり足に変える。誰にも盗られないようにとロッカーの上の壁側に隠しておいた黒い傘を握ると、覚悟を決めて優花の背後に寄った。
「優花」
名前を呼ぶ。彼女は、頬に手を当てたポーズでこちらを振り向いた。
腰まですとんと落ちた、水流のような髪。あどけなさを閉じこめた深い目が、いつもよりもいっそう大きくなって僕を捉えていた。
「ナオちゃん。まだ帰ってなかったの?」
「生徒会のプリント切り、誰も手伝ってくれないからね」
「あれだっけ、A3をA4二枚にするってやつ」
優花は手を上下させて、裁断機を扱う仕草をする。
「費用削減なんだって」
「じゃあ先生も手伝わないと。ナオちゃん一人でやる仕事じゃないよね」
僕が、たしかに、と言うと、優花は無防備な微笑みを見せてくれた。それでちょっとは僕の緊張も解けたんだ。
だけど僕は、優花がまだ帰らない理由を訊かない。
それは、雨に濡れたくないからだ。
そしてなによりも、傘を嫌っているからだ。
「ん」
優花は鼻で言って、グレーの通学鞄からスマホを出した。ちょっと心細げな顔のまま液晶を人差し指で撫でる。そのたおやかな指を見て、僕はまるで小鳥のようだと思った。
「
そのなにげないひとことを聞いて、僕の後頭部の血管がピクリと動いた。
「恵輔って、バスケ部の人だっけ」
「違うよ。インドアテニス」
「テニス? 部屋の中でやるの?」
「バレーのネットの高さを下げて、体育館でやってるじゃん。知らないの?」
そうだったっけ……。
でもまあ、恵輔くんの部活がなんだろうとどうでもいい。とにかく、優花と恵輔くんが仲良さげにラインをしていること自体が問題なんだ。
「あーあ、恵輔待ちで昇降口に来たのになぁ」
「待つって……待って、どうするの?」
「雨が止むまで教室で喋るのよ」
「止まないかもしれないよ」
「そしたら、恵輔のお父さんが迎えに来てくれるわ」
「なんで。もしかしてその人、優花のこと知ってんの?」
次に優花が発した言葉は。
僕に、一秒間に三回の瞬きをさせた。
「そりゃ知ってるでしょ。息子の彼女のことくらい」
僕は背中に隠した傘の柄を、握力測定器のように三本の指で掴んだ。
息子の、彼女の、ことくらい……。
雨が僕の古傷を、刺激する。
恵輔くんのことだけど、実はすでに三ヶ月前から認識していた。
痩せ型で、話が上手。笑い声が明るい。だからいつもクラスの一角には恵輔くんを中心にした輪ができている。
もちろん僕だって陰キャラなわけじゃない。仲良しの友達だっている。だから、その友達から『
高校に入学してわずか一ヶ月も経たず、僕の大切な幼なじみをさらおうとする。
そんな、わけのわからない浮遊物体みたいに見えたんだ。
「つき、あってんの……その、恵輔くんと」
「うん? うん、そだよ」
優花はスマホに指を滑らせながら答える。白く、同時にウェッジエッド・ブルーをした煌めきが、薄暗い昇降口にはよく映えていた。
「もう、いいや」
そう言って優花はスマホを鞄に仕舞う。
なにがいいのか。
どうだからいいのか。
スカートの車ひだから伸びる脚は、轟音を立てる雨とは逆方向に動いた。
「優花? もしかして教室に戻るのか?」
「仕方ないじゃん。今から来てとか言えないし。あたしも、家に帰ったことにしとく」
僕が悔しそうに目を細めると、優花はパンパン! と僕の肩を叩いてきた。
「ナオちゃんも、もうちょっといるでしょ? 教室でお喋りしようよ」
「……あ、その、僕は……」
「はいはい。じゃあ自販機でジュース買ってこ。たまにはおごってあげるよ。ナオちゃんはいつものブルーベリージュースでいい?」
「そうじゃなくて……」
――ん。
そして、彼女の目は僕の腰付近を捉えた。
ついにこっちの思惑がばれてしまったと、気配だけで僕は知る。
「そ、れ……」
「傘、もってきたんだ。一緒に帰るか?」
優花が疑問を発する間を与えないように、一気に畳みかけた。ここで勝負をしなければならないと思った。彼女が恵輔くんとつきあっているというのは僕にとって致命的な事実なんだ。それでも、傘を見られたからにはもう、誘うしかない。
だけど、答えはすぐに返ってこなかった。
ざんざ降りが叩きつける、水溜まりの反射音だけが僕たちの耳を打つ。
そして彼女がようやく紡ぎ出したのは、とても真剣な声だった。
「……大丈夫なの?」
僕はこくりとうなずく。きっと恵輔くんの存在が僕に勇気を与えたんだろう。そういう意味で、いつかいつかと先延ばしにしてきたチャンスは恵輔くんによって断崖絶壁に追い詰められたんだと思う。
「嫌?」
僕は訊いた。
優花はなにも言わずに、ただ、首を横に振った。
「じゃあ、帰ろ」
靴箱のヒンジに指をかける。
ぺっとりと湿った金属が、僕の動かない指先を冷たく濡らした。
傘を掲げた。
優花は水溜まりを見つめていて、全然顔を上げてくれない。
彼女をこんなに苦しめるなんて、やっぱりやめた方がよかったのだろうか。
……いや、それは違う。
「もっとくっつけよ。濡れるぞ」
「うん」
彼女の髪から淡い匂いがした。二の腕がぶつかって、少しだけ離れる。僕は優花の歩幅に合わせて
建物の陰、まだ濡れ始めのアスファルトからペトリコールが立ち上る。
それでも僕たちの会話は喉の奥に引っこんだまま。
「あのさ」と、僕は言った。
「恵輔くんと、どんなとこで遊んでんの?」
「……どんなとこで、って?」
「ほら、恋人同士で行くとこあるじゃん。映画館とか、水族館とか。僕、女子とそういうとこ行ったことないからわかんなくてさ」
「うーん……」
彼女の声が普段どおりに戻ってきた。だけど視線は下げたまま。その方がいい、と僕は思うのだけど、どこか悔しがっている自分がいる。
「水族館には行ったことあるよ。あとは、色々」
彼女がそう言うと同時に、追い風に吹かれたペットボトルが校門の脇を転がっていく。
色々、と答えられては、その先を追求できない。ましてや、家に行ったこととか、恵輔くんが優花の家に来たことがあるのかなんて訊けるわけがない。
僕は言葉をなくし、情けない自分を頭の中で一発殴る。
だけど優花は僕のベルトに指を入れて、くいっと引っ張ってきたんだ。
「ナオちゃんは、好きな子いないの?」
僕が差しているのは、70センチの大きめの傘だ。
だけどそこに二人が入ると、少なくともどちらかの肩は濡れてしまう。
相合い傘なんて、そんなものなんだ。
僕は視線を自分の左肩に向ける。雨は制服をけばだたせ、そのけばだちがまもなく内ポケットに達しようかという頃合いだった。
知っている。
濡れることを、僕は知っている。あの日も、そうだったから。
「さあね」
ぞんざいに答える。
「なによ。あやしい」
「どっちでもいいだろ」
「ますますあやしい」
「あやしいのは優花の方だって」
「あやしくないもん」
「嘘つけ。恵輔くんの家、行ってるくせに」
言った瞬間、しまった、と思った。
優花の顔がくたびれて、萎れる。そのまま彼女は下唇を突き出した。歯を強く噛んでいるその様は、僕には泣くのを我慢しているように見えたんだ。
このままバス停まで、あと徒歩五分。
僕は、死んだらいいのにと思った。恵輔くんみたいに爽やかに笑ってみたい。優花を面白がらせてやりたい。それができるのが恵輔くんで、それができないのが、僕。全部が全部、ばっかみたい。段差プレートを上る。空石積みの
その時、坂道からカラコロカラと転がってきた空き缶が、僕の爪先に当たった。
めんどくさい。不必要に、足を上げる。
そこに運悪く吹きこんできた逆風が、傘を下方からあおった。
完全にバランスを損なう。
やめとけばいいのに、僕は溝へと一歩踏み出した。
じゃぶん、と音がして、膝下までがぬるい急流に浸される。
☆ ★ ☆ ★ ☆
あたしの頭の中に、六年前のワンシーンがフラッシュバックした。
神経系統に落ち着きを言い聞かせるよりも早く、身体が反応していた。
ナオちゃんが風に巻かれ、傘を追いかけて、あたしの前から消えていく。
あの日、あたしはナオちゃんを抱きとめることができなかった。
だけど、どうしてその勇気が出なかったのか。身体の柔らかみが増し、胸が少しずつ膨らんできても、夜はあたしに後悔を送り続けた。
あの時掴めなかった瞬間が今、ここにある。
迷路に入ったねずみのおもちゃが行き止まりにぶつかって、また戻ってきた。
だからもう、同じ道なんてたどってはいけない。
「ナオちゃん!」
あたしはナオちゃんの手を掴まなかった。
ナオちゃんの腰に抱きついたまま引っ張った。
右足が溝へと落ちる。
気がつけば、あたしはナオちゃんの下で仰向けに寝ていた。
視界に入ってくるのは、ナオちゃんの怯えきった顔、輪のように包む紫陽花の藍色、そして、雨から立ち上る白い煙。
よかった。ナオちゃんは怪我をしていないみたい。六年前と違って、ナオちゃんを弾き飛ばす自動車なんて、ここにはひと欠片もなかった。
「優花……」
ナオちゃんがあたしの名前を呼ぶ。
身体中が冷たくて、どこが濡れていてどこが濡れていないのか、まったくわからない。だけど声をかけられることで、少なくとも耳が濡れていると知った。
「僕、さ……」
ナオちゃんはそう言ったまま、じっとあたしの顔を見つめてくる。雨粒が瞼に当たったので一度閉じた。すぐに開いても、ナオちゃんの表情は変わらないままだった。
そこでナオちゃんはゆっくりと起き上がった。
あたしは天を向いたまま、興奮を全身で感じている。
土と化してしまったんじゃないかと思うくらいぐだついたあたしの身体に、大きな影がかぶさった。
「…………」
息を呑んだ。
ナオちゃんが差し出してくれた、傘。
その内側には、抜けるような青空がプリントアウトされていた。
「なんで?」
「さあ」
「なんで? これ、ナオちゃんが買ったの?」
「そう」
呼気の弱いその返事を聞いた瞬間、あたしの目尻からひとすじの雫が頬を伝った。
六年前から雨が嫌いになった、あたしとナオちゃん。
六年前から傘が嫌いになった、あたしとナオちゃん。
あたしたちはお互いに、お互いのトラウマを知っていた。知っていながら、お互いに明言を避けてきた。それは、あたしたちの関係を紐で括るのと同じようなことだから。
「気づくの、遅いよ……」
ナオちゃんは、あたしの肩の上に傘を置いた。
そしてそのままのろのろと、紫陽花の花を避けるようにして道へ戻ろうとする。倒れこんだ時の衝撃で散ったのか、彼の手には紫陽花の花びらがたくさんへばりついていた。もう一生動かすことのできないと診断された中指と薬指は、藍に染まる。
「待って」
だけどあたしは、ナオちゃんを逃がさない。
この青空の傘を準備してくれた理由に、馬鹿なあたしはようやく気づけたのだから。
「言いたいことがあるなら、言ってほしい」
それはあたしの、
傘を紫陽花の上に落とし、再び強い雨に包まれる。自分の指よりもあたしの心の傷を大切に想ってくれた、なによりも優しい気持ち。
彼がどんなことを告げてきても、わずかな嘘も含めずに答えるつもりだった。
なのにナオちゃんは、地面をいじめるくらいに足を強く踏ん張ったまま。
「映画館にも行ってみたらいいと思うよ」
そんな、突き放すような言葉を震わせるだけだった。
ナオちゃんはあたしを振りもせず、あたしに振らせてもくれない。
青空を、あたしに贈るだけ。
葉擦れの音が聞こえる。
細かな雨が、風にまとわりついて吹きつける。
涙が出てきた。
ありえないくらいの涙が、あふれた。
心の中に雨が降る。あたしの大嫌いな、雨が。
あたしはナオちゃんの気持ちを知ってしまった。
それでも、恵輔のことを愛している自分のこともよく知っていた。
恵輔は音楽雑誌を切り抜いて、あたしに新しい音楽を紹介してくれる。
そのうちバイクの免許をとったら、一番にあたしを乗せてやると言った。
恵輔の家に行ったら、お父さんとお母さんでご馳走を用意してくれていた。
だから、ナオちゃんとの六年間を取り戻すためには、どうしてもナオちゃんと本音で語っておく必要があった。お互いに心をさらけ出せば、きっと幼なじみの絆を回復させることができる。そう、強く信じた。
だけど、せつない。
だけど、胸が苦しい。
人を好きになるって……。
人を好きになるって、どういうことなんだろう。
そんな単純なことすら、わからなくなった。
数十億の人が、数十億の恋をして、愛を贈り合い、ともに生きようと誓う。
人類が営々と積み重ねてきた当たり前の事実が、万華鏡のように姿を変えていく。
好きになるって、どういうことなの。
ナオちゃんはあたしを護って、一生消えない傷を負った。それでも生徒会に入って前向きに生きて、あたしを元気にさせようと青空の傘を用意してくれた。
だから、好きなの? 好きになるの?
恵輔はあたしといると楽しいって言ってくれる。デートの途中でも、退屈しているようなそぶりはまったくない。いつもマシンガントークを繰り広げ、二人で手を繋いで夕焼けの奥に帰る。瞼を閉じれば、彼の笑顔が浮かんでくる。
だから、好きなの? 好きになるの?
あたしは頭を押さえる。
わからない、わからない、わからない。
おまじないのように繰り返す。
銀色の針が、突き刺すように髪の間を抜けていく。馬鹿なあたしは、紫陽花の中に埋もれてしまったのかもしれない。もう、どうやっても、動けようもない。
その時だった。
「忘れもの、しないでね」
それは、いつものナオちゃんの声だった。
ナオちゃんが傘を持ち上げる。傘の中の空は、美しく澄み渡る。ナオちゃんは本気の二文字を瞳水晶に点らせて、あたしの手に傘を握らせた。
でも。
「忘れもの? これ、ナオちゃんの傘じゃん……」
「ううん」
ナオちゃんは軽く首を振った。
それからナオちゃんが教えてくれたことを、あたしは生涯忘れないだろう。
この日この時が唐突にやってきたことに感謝し、あたしは雨を愛するだろう。
それが青春だったのだと、心の中にフレスコを描き。
『好き』のヒントをいつまでも大切に抱き続ける。
「それは優花が僕にくれた青空だよ。だから、優花の忘れものなんだ」
☆ ★ ☆ ★ ☆
……そのひとことで、いつもあたしの夢は覚める。
ベッドから起きて洗面台に向かう。そこで、今日は有給をとっていたと思い出した。
窓から見える、駐車場の全景。雨が降っている。だけど水溜まりの跳ね方を見ると、そんなに強い雨じゃないみたい。ただ、マンションの共通花壇に植えられた藍色の紫陽花たちはどこか笑っているようにも見える。
「お母さん、おはよう」
息子の
トリケラトプス柄のパジャマを着た海は、髪を逆立たせて眠そうに目をこする。
「昨日、遅くまで漫画読んでたんでしょ。授業中に寝ても知らないからね」
「大丈夫。三時間目はお母さんが来てくれるじゃない。そこだけは起きとく」
「そこだけ、ってなによ」
あたしは吹き出して、それからキッチンとリビングの電気をつける。
海はテレビで妖怪ウォッチの視聴を始めたみたい。
あたしたちの朝が、流れ出す。
パンを焼いて、ソーセージとヨーグルトを準備する。海は「どれにしようかな」と指遊びをし、いくつかあるジャムの中からブルーベリーのジャムを選んだ。
「あ、お母さん、傘の骨が壊れちゃったんだけど」
「また? どうせ友達と『戦い』やったんでしょ。じゃあ、また週末に買ってくるからそれまではお母さんの傘を使いなさい」
「空が描いてあるやつ? やだよあれ。でかいんだもん」
「戦いに敗れた人は、文句を言わない」
海は、ぶーたれながらジャムをスプーンですくう。
「ありり」
そしてぶきっちょな海は、ジャムを手の甲に落としてしまった。
あたしはふきんを差し出しながら、海の頭の形を見る。指を見る。ちょっと猫背だけど、安心できるような背筋を眺める。
あたしはきっと、『好き』の最後を見つけられた。
この人生で、最後の最後に訪れた、『好き』の結末。
海はふきんをまったく使わず、中指と薬指でなめらかにジャムをすくってペロペロと舐める。あたしはポカンと一発、軽いチョップをくれてやった。
大げさに頭を押さえる海を見て、一つの言葉が感情の
藍に、染まったんだね。
了
藍に染まる。 木野かなめ @kinokaname
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