第5話 「右目の奥は、いつも空っぽ」
痛い痛い痛い。
うめくしかない。床から見上げると、美桜は机の少女像を見ていた。
あたしがこれまでに見たなかで、一番美しい彫刻。あたしが自分自身と引き換えに得た完璧な彫刻。あたしに許された、最後の美しいもの。
美桜は笑って、彫刻ノミをかまえた。
「きれいだわ、
その足元で、黒い影が跳ねている。視力1.5だったあたしの目はいま視界が白くかすんでいるけれども、邪悪な小人があざ笑っているのがわかった。
小人の声が聞こえる。
「狙え、狙え。喉だ。一撃で死ぬように」
そのとき、あたしのどこから力が湧いてきたのかわからない。
やせた脚で美桜の足を蹴る。美桜の手から彫刻ノミが離れて、飛んでいくのを見た――よしっ!
美桜の上へ、鏡のナイフを振りかざして落ちていく。
喉を狙う。小人が言うように。
姉妹同然に育った、才能あふれる従妹を。
いっしょに彫刻刀をもち、彫り方をおそわった従妹。
うまく木を削れなかったあたしを助けてくれた美桜を――ころす。
殺せば、美桜の身体と才能をもらえる。あたしは賞を取り、有名な彫刻家になるんだ。
あたしの脳裏に天才美少女とたたえられ、賞を授与される自分の姿が浮かんだ。
うっとりする。なんて嬉しいんだろう、なんて幸せなんだろう。みんなに褒められて、ちやほやされて……
ちょっとまって。
だれが、褒められているの?
美桜の顔を持ち、美桜の声でしゃべり、美桜の才能で彫り上げた作品が褒められる。ネットに載る・新聞に載る・称賛される少女。
それは。
だれなんだろう。
あたし、
褒められているのは、美桜の才能であり、美桜の積み重ねてきた努力だ。
彫刻が好きなのにうまく彫れる自信がなくて、言い訳ばかりしてきたあたしじゃない。批判が怖くて作品を作らず、美桜ほどの努力をしなかったあたしが褒められるわけじゃない。
称賛は美桜に行くべきものだ。
あたしは手にした鏡のナイフを見た。キラキラした鏡は美桜に向かって落ちていく途中だ。そこには老婆が写っている。
鏡面のヒビひとつひとつに老婆がいる。
髪を売り、皮膚を売り。
欲望のために関節と声帯と聴覚を売りはらった老婆がいる。
作品のために歯を抜き、目玉をえぐりだしたのは、あたしだ。
弱くてみっともなくて、ダメなあたしが、老婆になって鏡の向こうから見つめていた。
老婆は言う。
『美桜になるんだ。お前自身を捨てて』
あたしは答える。
『美桜にはならない。自分は捨てない。だって、どこへいってもダメな自分からは逃げられないから。あたしは、ダメな自分と戦わなきゃいけないから』
そう思った瞬間に気がついた。
あたしはあたし、森岡比呂だ。このままでいい。ここから新しく彫りはじめればいい。それだけでいいんだ。
美桜を、殺したくない。
あたしは鏡のナイフを捨てようとした。でも関節がこわばっていて、ナイフから指がはがれない。美桜の身体は目の前だ。間に合わない。
あたしはナイフを自分に向けた。鏡のカケラが、やわらかいものに突き入っていく感覚があった。
激痛が走る。
あたしの横に醜い小人が立った。笑っている。才能のないやつを笑っている。
才能は、いつも残酷だ。
それを求めて求めて、必死に努力する人間をあざ笑う。
あたしは痛みをこらえ、変な角度に折れ曲がった左手で鏡のナイフを持ちなおして小人に言った。
「取引はしない。あたしはこのまま、老いた身体で生きていく。
このままで彫刻を作る。
だってこれが。
あたしだから」
一気にナイフを振りおろす。
あたしの髪、あたしの皮膚、あたしの声、あたしの歯、あたしの右目を盗んだ小人に刃が食い込んでいった。
ぱりんっと固いものが割れる音がする。鏡のナイフが幾千、幾万に砕けてキラキラと輝いた。あたしはまぶしさのあまり、目をつぶる。
目を開けたとき、部屋の中に美桜も小人もいなかった。あたしは一人で、部屋の真ん中で気絶していたようだ。
なぜか、身体はすっかり元に戻っていた。もう老婆ではない。ただの十六歳。
そして少女像は――。
魔法がとけて、本来の駄作に戻っていた。
一か月後。あたしとおじいちゃんは彫刻コンクール会場にいた。美桜の「跳躍する猫」は大賞を受賞した。
美桜は取材陣に囲まれている。天才・高校生彫刻家のデビューだ。記者が言う。
「おじい様の
「はい。私も祖父の七光りだと言われないように精進します」
美桜が答える声が聞こえた。
あたしはふと、その声に耳ざわりな音を感じた。金属音のようなもの……そして美桜の右の小指と薬指の爪には絆創膏が巻いてある。絆創膏の隙間から見える爪が、どす黒く変色しているように見えるのは……?
あたしは首を振った。おじいちゃんは少女像の前に立つ。佳作にも引っかからなかった作品。
「比呂。わるいところは、わかるか」
「わかるよ。直さなきゃならないところは光って見える――昔から、そうなの」
おじいちゃんは満足そうにうなずいた。
「そうだ。鳩の彫刻と同じだ。直せ。直したら、見てやる」
おじいちゃんは笑って、あたしの頭をぽんぽんした。
あたしの髪は元どおりになった。皮膚は柔らかく、関節に痛みはない。
けれども、右目は。
自分でえぐりだした記憶のある右目は、ぼんやりとしか見えない。目の奥からは甲高い声が聞こえつづけている。
『取引だ。贄を寄こせ。おまえの彫刻を傑作にしてやる』
あたしは目を閉じた。
覚えておこう。
あたしは右目に悪魔を飼っている。油断すると、すぐに出てこようとする悪魔だ。
だから。
彫刻を作っている時、絶対に右目を使わないようにしよう。
最上の彫刻を、たやすく手に入れたいと思わないように。
輝く作品を自分の手で彫り上げるまで、無間の努力を続けられるように。
右目はいつも空っぽにしておこう。
あたしはゆっくりと目を開いた。
今は、世界が変わって見える。
――せかい……が?
ふと気づくと。あたしのまわりにいる出品者、審査員の全員が、金属のきしみあうような音を立てていた。
笑う目じりに黒い影がのぞく。握手の上で邪悪な影が踊っている。ある男は左耳が融け落ち、暗い穴からカギ爪がにゅいっと出ていた。
あたしは悲鳴を飲み込む。
そうか。これが、あたしの戦場か。悪魔のいない彫刻家なんているはずがない。
悪魔のいない彫刻家なんているはずがない。
考えたとたん、背中をいやな汗が流れた。
隣にいる名彫刻家・森岡雄三を見る。
あたしはおじいちゃんが好きだ。大好きだけど……
おじいちゃんの 肩には 巨大な……。
★★★
コ、ココココン。カコッ、ココン。
コンクールが終わった翌日から、あたしは新作を作りはじめた。今日も明日も彫りつづける。
才能のない自分を乗り越えるために。
今よりも一ミリでも、前へ行くために。
鏡のナイフが割れた瞬間に見えた、まぶしいほどの光を形にしたい。
そしていつか、おじいちゃんの肩にいたものを打ち倒すんだ。
あたしは今日も、右目を閉じて彫りつづける。
ーーーーー了ーーーーー
「右目の奥は、いつも空っぽ」【カクコン2021短編賞・参加作】 水ぎわ @matsuko0421
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