第6話 海難法師

 夜凪の刻、波も眠る海。

 遠く西国の島々を望む沖合に、オランダの帆船が浮かんでいる。

 その船長室に、見張り台からの報告が伝わった。


「未知の船種?」


 急ぎ甲板へ出て、船長は望遠鏡を覗く。

 西洋の船に似せてはいるが、基礎はジパングのもの。遠目でも違和感が拾える不格好な外観だが、良く似せてある。どこぞの道楽者の発案だろうか。目新しい物を、あるいは強者の装いを真似たがるその心は、いささか幼いが、微笑ましく、また涙ぐましくもある。

 甲板上からこちらに手を振る人影は、暗がりで不鮮明ながら、その服装を一見すると向こうの役人風である。

 またか、と、船長は内心うんざりしつつ、苦笑いに頬が引きつった。

 オランダの東洋貿易の指針は、ポルトガルやスペインの築いた貿易網の突破が肝要。聞こえは大義ありげだが、実態は同国船への海賊行為を公海上で繰り返しているに過ぎない。

 言うなれば、他人の家の敷地の外、その近くで喧嘩を繰り返しているも同然なのだが、度々騒がしくすると、いよいよ家主が一声かけてくるのだ。

 うちには迷惑かけてくれるなよ、と。

 オランダは対日の友誼の保証として、多少なり良いものを包むのだ。

 諸外国から調達した積み荷は、元手がかからない分、安価で売っても十分な利益になる。調達は手荒で目に余るだろうが、ジパングははした金で目を瞑る。

 全く、旨い商売である。


「土産を用意しておけ。お得意様をお迎えだ」


 船長が接舷を許し、相手側の使者を二名、迎え入れた。早速、いつもの土産を包んで渡そうとした時、使者の方から機先を制し、頭を下げて話を切り出された。


「夜分遅くに失礼を。何も聞かずに引き受けていただきたい。こちらを」


 もう一方の使者が差し出す桐箱を船長が開けると、中には小判が詰まっていた。

 身を切るつもりが、思わぬ商談が舞い込んだ。喜び余って困惑が勝る船長が何事か問うものの、使者は首を横に振る。


「此度の願いは、結果よりも秘匿が肝要。こちらは、心ばかりですが、口止め料を兼ねた前金です。先ずは、そちらの船の乗員全てに、他言無用のお約束を取りつけたく思います。恐れながら、召集の令を発していたただけませぬか。同じ物を人数分、これよりお渡しいたします故」


 船に続々と箱が積まれる。手中の桐箱に換算すれば、何十箱分になろうか。それが次々に。人目を忍んで蓋を開けようとするオランダ船員がいたが、使者が蓋に足を乗せ、ぴしゃりと警告する。


「取引は明瞭であるべし。こちらが依頼を全員に告げるまで、手出し無用を厳にお守りいただきたい」


 大儲けの匂いを拾った船長は躍る胸をなだめつつ、鷹揚に要求を受け入れた。手近な船員を使い、起床就寝問わず船員を掻き集める。

 甲板に船員が集結する頃には、所狭しと箱が並べられていた。


「これで全員ですか」

「ええ、既に話は伝えてある。そちらの誠意を目の当たりにして納得していることでしょう。それで、どのようなご依頼で」

「これをご覧ください」


 使者は船長へ巻物を軽く投げ渡す。

 使者の直前の態度とは裏腹なぞんざいさに、船長は微かな違和感を覚えたが、捨て置いて巻物を紐解く。周りの船員も覗き込む書面は、広げれど広げれど白紙である。


「ご理解いただけますか?」

「これは一体……」


 何だと問う直前、使者が身を縮めているのを目の当たりにした直後、船長を始め、船員の半数の意識が一気に刈り取られた。


「あんたらの行く末だよ」


 使者の問いかけを合図に、ジパング船の船縁や帆柱の陰から現れた弓兵たちが、一斉に矢を放ったのである。矢はオランダ船員らを蹂躙し、矢の原、屍の山を築く。

 混乱も束の間、強襲されたのは荒事に長けた集団である。即座に戦闘態勢へ移り、得物を手にジパングの船へ乗り込もうとする。機転の利く者は木箱の蓋を矢避けにしようと箱を開けたが。

 箱の中より伸びた刃に喉元を貫かれる。

 それを皮切りに、次々と箱が内より開け放たれ、刀を携えた侍が姿を現し、オランダ船員を背後から次々と切って行く。

 その中には、カトラスと太刀の二刀流で、包帯に顔を隠す異形の者の姿もあった。


「鏖殺だ」


 これより先は、一方的でつまらない虐殺である。


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 夜凪の刻、波も眠る海に似つかわしくない、猛々しい炎が轟々と上がっている。

 トリコロールにVOCの意匠を施した旗が熱を帯びた気流にはためき、炎の舌先をかすめて、瞬く間に消し炭と化す。

 積載火薬に引火、爆発を繰り返す、死にゆく船は、オランダ東インド会社の所有物である。

 その船の最後の輝きを看取る、あるいは送るのは、玄海水軍の駆る黄泉の名を冠する船、黄泉ツ丸。

 オランダ船より略奪した物品や武器が幾つも詰まれ、果ては大砲まで得た甲板上、船員は船首に陣取る人物の背に勝鬨の声を上げていた。

 玄海水軍頭領、海難坊が、船首より洋上の爆炎を一望する背中。

 熱風を全身で受けるように両腕を広げ、たなびく着物と包帯。長く伸びた影は帆に投影され、黒い異形の如く揺らめきそびえ立つ。

 最早、表情を失った顔に浮かぶ色は窺えず、ただその瞳が爛々と炎に輝くばかり。


「諸君、見たまえ」


 海難坊が振り返り、気の猛る船員を見渡す。


「我らの火が、黒船を落としたぞ」


 鬨が増す。


「この海で、最も武に優れた国の船だ。それを討った諸君らは、名実共に、この海で最強の水軍であると確信する。今の日ノ本程度が船を何隻遣わしたところで、諸君らには敵わないだろう」


 鬨が更に増す。

 客商売を得意とするオランダ人の気質を利用した奇襲は、何度も使える手段ではない。しかし、確かに今、強敵を討ち破ったという自負が、水軍衆を高揚させていた。


「さあ、抑圧と没収こそが政と信じてやまないかの為政者に、己が封じようとした水軍が如何なるものか、知らしめてやろう」


 玄海水軍は、水軍の復古のため。持てる力の有用性を国に示すため。

 それを率いる海難坊は、国の力を削ぐため。覇者の愚かさを示すため。

 鬨の高揚は、船を燃やす炎の如く延焼する。火元を異にする炎は交錯し、何もかもを燃やし尽くさん大火と化す。

 オランダの船が洋上に最後の輝きを見せる。夜の海を焦がす火は闇を裂き、オランダ船と航路を同じくする船の目にも光を届ける。

 誘蛾灯に導かれるように姿を見せる朱印船を視界に入れ、海難坊は次なる獲物を見定めた。


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 黄金の箔押しに極彩色に彩られた襖、欄間、屏風の並ぶ、絢爛豪華な書院にて、三人の男が、上段之間に座す者へ平伏している。

 平伏す者らはそれぞれ、長崎奉行、長谷川藤広。日野江藩主、有馬晴信。イエズス会祭司、通事、ツズ、ジョアン・ロドリゲス。

 睥睨するは、時の将軍、徳川家康である。

 尊顔を仰ぐことすら許されぬ、やんごとなき御方を前にして、有馬は平静に努めていたが、内心は動揺していた。

 この度の御目見は、アンドレ・ペソア討伐の報告のためのものだ。

 何故、そこにロドリゲス司祭が同席するのか。

 戦のあらましを振り返り、損害と戦果が語られる。周囲を窺い知れぬ中、将軍の沙汰を待つしかなく、有馬にとって歯がゆい時間が過ぎていく。

 沈黙が重い。

 将軍の息遣い、衣摺一つにさえ、神経を鷲掴みにされる思いだった。


「有馬、並びに長谷川」


 将軍に呼ばれ、頭を一層下げる両者。


「大義であった。褒めて遣わす。その方らならば、わしの期待にも応えてくれよう。一層、忠義に励むように」

「ははっ」

「だが……」


 老いたる徳川の声に、覇者たる気迫が宿る。


「かのカピタン・モールの、我が国への不義理の数々、その首のみでは償いに足らぬ」


 来た。

 有馬とロドリゲス司祭が傾注する。


「そもそもマカオでの事件の陳弁に来たにもかかわらず、自らは姿を見せないどころか、こちらの召喚にすら応えぬなど、言語道断。何を恐れたか皆目見当もつかんが、あまつさえ、怖気づいて逃げ帰ろうなど……」


 上段之間から溜め息が聞こえる。けしからんやら、情けないやら、非道極まる所業に、将軍はなかなか次の言葉が出なかった。

 眩暈を覚えているのだろうか。


「……非を認めながら償いから逃れるも同然の所業。これまで南蛮と培ってきた友誼でさえ疑わざるを得ぬ。南蛮人の放逐もやむなしと知れ」


 将軍の言葉の端々から、伴天連への怒りが感じられる。

 有馬とロドリゲスは生きた心地がしない。


「しかし、それでは余りに酷。本来裁くべきはカピタン・モール、アンドレ・ペソア。だが、生憎と仏は裁けぬ。そしてツズよ、その方らのこれまでの働きをわしは覚えておる。……以上を加味し……」


 有馬、ロドリゲス、共に生唾を呑む。


「……ジョアン・ツズ・ロドリゲスの解任と、マカオへの追放をもって、この一件は手打ちとする。これはイエズス会日本管区長フランシスコ・パシオより、同会の決議として提案されたものである」


 それぞれの思惑が、黄金の間で交錯する。

 畳を睨む者ども。長谷川は西の果て、長崎で待つ村山等安の分まで笑み、目の詰まったイグサの向こうに、貿易統制の景色を見た。

 ロドリゲスはただ、無念に目を閉じた。

 ただ一人、有馬は畳を爪で掻き、握り拳を作って震えていた。噛んだ唇から血を滲ませて。

 イエズス会士、ジョアン・ロドリゲスの追放。日本と伴天連、すなわちポルトガルの仲介役として、内府の政治に深く介入した南蛮人の喪失は、すなわち有馬晴信の貿易の後ろ盾の喪失に他ならなかった。

 それも、イエズス会が自ら申し出たとあれば、覆る余地もない。

 利益追求のための無茶は、これ以上通らない。

 徳川は、有馬へ暗にそう伝えるために、あえてこの場にロドリゲスを呼んだのだ。


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 報告を終え、ロドリゲスの屋敷、その書斎にて。

 古書に染みたカビの臭いはあるが、埃は漂わない空間で、有馬晴信は椅子に座り、貧乏ゆすりを止められないでいた。息は荒く、ただでさえ吊り上がった目が更に吊り上がり、縦にならん剣幕。精緻な彫刻の施された黄金のロザリオの突起に爪をかけながら、落ち着かない様子だった。

 ロドリゲスは退去にあたり、持ち出す書物を文机に積み上げ、選定をしながら、苛立つ有馬の気を紛らわせようと声をかける。


「おや、そんなに心細いですか、ドン・プロタジオ」


 洗礼名で呼ばれ、有馬はロザリオを手に喰い込ませるほど強く握った。


「我が領地は、伴天連の威光を欠いては立ち行かぬ、貧しい土地です。貴方を失っては、これまでのようにいかなくなる。貿易への投資も水の泡だ」

「それも、上様の覚えめでたければ、どうにでもなるでしょう。ご承知の通り、上様は香道にご執心です。貴方であれば、上様へ香木を献上するなど容易く……」


 香道とは、香木を焚き、香りを鑑賞する芸道である。

 ロザリオを握る有馬の手が震えている。


「派遣した船が戻って来ないのです。成否にかかわらず、もう港に帰っておらねばならない時」

「おや、それは……ご心労が募るばかりでしょう。ですが、風向きが悪いだけやもしれません。どこかの港で風を待って……」

「我々はマカオの事件の当事者、被害者ですよ。航路は同じでも寄港地は慎重に選びます。それに事は長崎奉行との競い合い。如何なる事情があっても速やかに帰れと伝えてあります。ですが、帰って来ないのです」


 有馬の手からロザリオが滑り落ちる。十字の跡が残る手の平で、有馬は頭を抱えた。


「かくなる上は、是が非でも龍造寺氏に奪われた領地を取り戻さねば……」

「そのための伽羅、ですね」


 ロドリゲスは整頓の手を止め、文机を挟み、有馬の対面に座した。その手には、本棚の奥に隠すように収蔵されていた、本と呼ぶにはいささか分厚い一冊が抱えられていた。


「祖国より遥か彼方に辿り着いたこの地、布教は遅々として、膨大な資金が流れるばかり。教義に反すると知りつつも、教会に少しでも貢献しようと、私は貿易で得た富でその財務を支えてきました。教義、その原理。そして布教の実情の板挟みに悩みながら、上手く折り合いをつけてきたつもりでしたが……。結局、東西、上の方々の理解は得られず、この有様です。私にとって真に友好を結べたのは、イエズス会でも上様でもありません。ドン・プロタジオ、貴方を始め、西国の諸侯だけです」


 有馬は床に落としていた顔をロドリゲスに向けた。丸顔ながら狐を彷彿とさせる相貌には強張り、荒い息を努めて平常に整えようとする様は、見方によっては怒りを滲ませているようにも映った。

 ロドリゲスは意に介さない。元より童顔の日本人が、如何なる表情を浮かべようとも、微笑ましさばかりで、微塵も恐ろしさを含んでいない。


「いずれ、この地の信徒に、厳しい時代が到来するやもしれません。その時、我々はこの地から放逐されているかもしれませんが、どうか希望を捨てずに。その時が来れば、我々を頼りなさい。たとえこの国と縁が切れても、貴方がたとの友好は永遠と誓います」


 ロドリゲスはそう言うと、手にした書物を、机の、有馬に近いところに置いた。

 特に差し出すでも、勧めるでもなく、ごく自然にポンと置いた。

 嫌らしい位置である。欲しければご自由に。しかし、ロドリゲスが与える訳ではない。それを望み、勝ち取るのは、あくまでも有馬自身の心の持ちように委ねられている。

 有馬は、その本を取った。

 紙ばかりが詰まっているはずの本の中で動く感触がし、有馬は表紙をめくる。

 本の中身はくり抜かれていた。ぽっかり空いた空白には、代わりに、木目が黒く密度のある木片が収められている。

 有馬は、首が絞まった心地で、息を呑んだ。


「おやおやおや、如何されました。ドン・プロタジオ……いえ、領主、有馬晴信殿」


 ロドリゲスの声も、有馬の全身を膜が覆ったかのように、くぐもって聞こえる。木片に奪われた心は、ロドリゲスに肩を置かれてようやく取り戻すことができた。

 笑顔に影を落とすロドリゲス神父を、有馬は眩暈を覚えながらも、毅然と睨んだ。


「伽羅を、貴方が……何故」

「おやおや、由来を知って何になりましょう。重要なのは一点、伽羅が今、貴方の手中にある。それをどう使うかは、貴方に委ねられているのです」

「それは……いや、しかし、これを上様に献上すれば、貴方が追放されることなど」


 ロドリゲスは首を横に振る。


「強欲な者は満足を知り得ません。たとえ一時、憂さが晴れた気がしても、間もなくより多くを求めるでしょう。将来の求めに応えなければ、末路は同じです」

「おっしゃる通りです。ですが」

「貴方の手から渡れば」


 ロドリゲスは語気を強めて、有馬の発言を遮った。


「領地回復も望めましょう。より広い土地で、より多くの者へ教えを広められる。それは、私如きが今の地位にしがみつくよりも、価値のあることです」


 龍造寺氏に奪われた領地の回復。それは有馬氏の悲願だ。手元には両手の平大の木片がある。大願成就の鍵として、喉から手が出るほどの価値を孕む伽羅の香木が。

 ロドリゲスは、いかにも布教を第一と考えている風を装って、有馬の願望を優しく、甘く、くすぐっていた。

 有馬は、関節の軋みに思うように動かせない手を何とか御して、本を閉じた。本は手元にある。ロドリゲスに返されることはなかった。

 有馬の意図を見届け、ロドリゲスはその耳元に口を寄せて呟いた。


「私もただでここを去るのは、少々寂しい。ドン・プロタジオ、最後に、友好の証として、いつぞやの贈り物をまた、お願いします」

「あの進物、をですか」


 かつて、領民より徴収した子供たち。洗礼を受け入れれば放免とし、拒む、隠す、逃げる者からは容赦なく奪い、伴天連に送った、安否も知れぬ者たち。

 次代の芽を摘んだばかりの折、民は老いるばかりで、子供など数えるほどしかいない。

 それを、また、と司祭は言った。


「ご理解が早くて助かります」

「……しかし、同じようにはご用意できません。若人が減り、従ってそこから産まれる赤子も減るのは自明にございます」

「おやおやおやおや、御冗談を。信徒たちの子らがいるでしょう」


 有馬は耳を疑った。

 洗礼を受ければ見逃すという指針は、伴天連の方針にも合致している。宣教師らの同意も得た約束を、今になって反故にせよ、と、言うも同然だった。


「いえ、それは……伴天連は遍く世に教えを広め、その威光を確かなものにすべく宣教されてきたはず。折角根付いた信仰を刈る如き所業は、その目的に反しております」

「おや、大きな勘違いをされていらっしゃいますね、ドン・プロタジオ」


 ロドリゲスは有馬の反応を心外そうに困った素振りをして、両腕を緩やかに広げて天を仰いだ。


「子供たちはこの国を出て、ヴァチカンへ行くのです。いつぞやの使節団を思い出しなさい。彼らをもっと若くするだけです。しかし、幼い故に世の中を知らず、勉強も兼ねて少し長く旅に出るだけに過ぎません。それに、より教えの枢機、真髄に近いところで信仰を深められる場所へ羽ばたくのですよ。信徒たちにとって、これ以上の幸福がありましょうか」

「おっしゃることはわかります。しかし……」

「私がこうしてお願いできるのも、これで最後です。しかし、助けが必要な時は、いつでも、どこからでも救いの手を遣わせると約束しましょう」


 暗く、埃の舞う書斎にて、密約が交わされる。

 南蛮渡来の力を沖田畷の戦で目の当たりにし、その力が世を席巻すると疑わない有馬にとって、恒久の援助は得難い後ろ盾だ。たとえ一時的に民の力が衰えてでも繋ぎ止めたい力。たとえ伴天連を断固拒否した心情に背いてでも、日野江の繁栄のために繋ぎ止めたい力である。

 再び、伴天連への進物を募らねばならない。

 人を失った文明の衰退の早さを、知る者の乏しい時代であった。


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 夜明け前の一層暗い頃。

 山頂の廃寺、本堂の暗がりに、蝋燭一本の灯りが揺らぐ。

 自称住職、三郎坊法然和尚の朝の務めは、珍しく真っ当な南無阿弥陀仏を唱えていた。

 その最中、戸の開く音に木魚を叩く手を止め、法然は落ち着いた様子で振り返り、座して来客を迎えた。


「えらい早かったやんけ」


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 空が曙に染まる頃、浜の一日が始まる。

 鞍馬を匿って以来、権兵衛の家にふくが飯を作りに来るのが、最早日常となっていた。当たり前のように飯を炊き、当たり前のように三人分の膳を並べ、当たり前に三人で囲炉裏を囲む。

 今朝も、その営みがあるはずだった。

 その日、いつまで経っても起きて来ない鞍馬を起こしに、権兵衛は客間の戸を開いた。

 夜明けの薄明りは頼りなく、室内は暗い。ただ、布団が綺麗に畳まれているばかりで、人の気配はない。

 改めて土間を確認すると、履物が一組足りなかった。


「便所か……。仕方のない奴じゃ。先に食おう」

「辛抱しな。意地汚い」

「あんまり畏まるでなかとぞ。むしろあいつが居心地悪かなるぞ」

「う、うーん……でも」


 二人の腹が鳴る。身体は正直だった。

 鞍馬はともかくとして、本職の漁師である二人が仕事に遅れるのも具合が悪い。


「普段通りのわしらでおれば良か」

「……うん」


 そうして朝食を始めた二人だが、食事を終えても、鞍馬は一向に帰って来る気配を見せない。漁に向けて人が出歩く頃合いになって、痺れを切らした権兵衛は、家の留守をふくに任せ、集落内に鞍馬の姿を求めた。

 道すがら浜の衆に会えば鞍馬を見たか尋ねても、返る答えは知らぬ見とらぬばかり。見かけたら知らせるよう頼みつつ、いつしか便所まで来てしまった。だが、用を終えて出て来たのは別の者だ。すっきりした顔でいつも通りに朝の挨拶を交わす様が、権兵衛にはどこか呑気にすら映った。

 道中、本人と鉢合わせなかった。であれば、他所の家に呼ばれたか、別の道で帰ったか、どちらかが考えられる。しかし、権兵衛が知る鞍馬ならば、それでも、本人にしろ持て成し役にしろ、一度は家に戻って呼ばれた旨を伝えるだろう。寄り道の線にしても、見所のない集落では考えにくい。

 看護の恩返しに拘る鞍馬のこと、食事抜きで漁へ向かったかとも考えたが、黙って出るのは、やはりらしくない。

 念のため、ふくと手分けして浜と磯を探ろうと、自宅へ戻った時だった。

 木椀や膳が土間に落ち、甲高く響いた。

 権兵衛が自宅の玄関を開けた先では、足元に食器を転がし、唖然としたふくと、いつになく真剣な表情の三浦が対面していた。


「先生、こげん朝にどげんしたんじゃ」

「……鞍馬から文を預かっている。確か、読めたね」


 三浦から差し出された、蛇腹折りの文を、権兵衛は胸騒ぎを覚えつつ受け取り広げる。


 浜の皆さんへ。

 未練が残ると思い、何も告げなかったことを申し訳なく思います。

 騒ぎが大きくなるのは望んでいないので、三浦先生が良いところでこの文を権兵衛かおふくさんに渡されることを願います。

 既にご存知かと思いますが、私は南蛮人に仕える奴婢の身です。それ故でしょう、つい最近、私を探す方々の話を耳にしました。この浜の近くだけでなく、大きな町でも、探りを入れる者が出たと聞きました。

 これ以上、たとえ一刻でも、皆さんのご厚意に甘えてはいられません。いつ、私を探す者の手が、この浜に回るのか知れないのです。

 私の不徳で、私が決して良い待遇を受けていない奴婢であると、浜の皆さんに悟らせてしまいました。だからこそ、お優しい皆さんは、これまで私を匿ってくださったのでしょうが、私の尋常ならざる外見を目にしておきながら、然るべき所へ届け出なかった以上、私を匿ったことが露見してしまえば、皆さんにご迷惑をかけることになります。今となっては、法然和尚様のご厚意も、疑念を深める材料となってしまいました。

 皆さんを苦境に立たせるのは、私の本意ではありません。

 ですので、勝手ながら、私はこの浜を離れることにしました。

 主人の元へ戻るつもりはありません。扶桑国の鞍馬山という所に、私の故郷から来た同胞が居ると聞いたので、そちらへ向かおうと考えています。全く行く当てがないわけではないので、安心してください。

 もし、私を探す人が来たら、私のことは、どのように言っていただいても構いません。ただ、皆さんの不利益にならないようにだけ、切にお願い申し上げます。

 皆さんのご親切に、厚くお礼申し上げます。温かく美味しい食事と、住む家と、手当てと、漁の仲間に迎え入れてくださったことへ感謝を申し上げます。

 大恩を返し切れぬまま姿を消す不義理をお許しください。

 鞍馬より。


 文は、三浦の字で書かれている。

 三浦の過ぎた戯言かと、疑いを隠さず伝えた権兵衛だが、対する三浦は、ふくにも同じことを言われたが、間違いなく鞍馬本人の意志で、自分は代筆したに過ぎないと言い切った。


「何じゃそりゃ……あの阿呆」


 文面が権兵衛を動揺させる横、三浦の脇を抜けて家を駆け出ようとするふく。権兵衛は寸でのところで腕を掴み、引き止めた。

 ふくは腕を振り解こうと暴れるも、権兵衛の膂力の前には無力である。


「待て、どこへ行く気じゃ」


 それでもふくは力みを解かず、振り返らずに低い声を落とす。


「放しとくれ、権兵衛どん。今なら追いつけるかもしれん」

「鞍馬が今どこにおるか、わからんじゃろ」

「まだ近くにおる筈じゃ。皆で手分けすれば訳なかと」

「未練を絶った男の覚悟を無下にする気か!」

「おめえも阿呆と言ったじゃろうが!」

「鎮まりなさい、二人とも!」


 怒っても荒れない三浦が、珍しく声を大にし、二人は思わず身を縮めた。

 掴む手は放さず、また逃れようとせず、張力の失せた二つの手はたわんだ。

 三浦は咳払いし、本題へ移る。


「町に出ている間に噂を聞いて、色々と鞍馬の事情がわかったんだ」


 三浦は語る。マカオの事件から始まり、有馬氏の怒りを買った南蛮人の大将のこと。その大将が乗った黒船が、有馬氏によって沈められたこと。有馬氏に協力した長崎奉行及び代官が、その船の生き残りを探していること。

 鞍馬が、恐らくその生き残りであること。


「まさか、これだけ大物が関わっている事件絡みとは、にわかには信じ難かった。けれど、船は爆散したらしい。海で火傷を負った理由も説明がついてしまう。もし本当に鞍馬が事件に関与しているとすれば、彼がここに留まり続けるのは、本当に危ない橋を渡るようなものなんだ」


 ふくは反論する。


「じゃが、鞍馬どんは奴婢なんじゃろ。あんなに弱るまで使い潰されて、望んでその船に乗った訳がなか。南蛮人や大名の勝手に巻き込まれただけとぞ。何も悪かことしとらんとぞ。なして何もしとらん鞍馬どんが追われなきゃならんのじゃ」

「おふくさん、それは……」

「もう嫌じゃ。何の非もなか者ばかりが辛か目に遭う。あたいはそんなの、もう嫌なんじゃ。嫌じゃ思ってたのに」


 俯き、上擦り、鼻をすすり、ふくは震えながら、喉を締め上げるように呟いた。

 乱妨取りに遭い、ふくは両親を失った。抗い難い権力者の横暴で、弱者が虐げられるのは、鞍馬との別離も同じことだ。

 異なる二つの出来事の根には、同じ理不尽がのさばっていた。

 過去の辛い記憶を押し込めていた心の隙間に、新しい記憶が割り込んで、溢れる。溢れた辛酸は、ふくが両手で顔を覆っても止めどなく溢れ、土間の床に多くの染みを作った。

 ふくは、力なく両膝を折ってへたり、さめざめと泣いた。

 痛ましい泣き姿へ、かけるべき言葉が見つからず、権兵衛はふくへ面と向かってしゃがみ、落ち着きを取り戻すまで優しく抱擁した。

 年頃の娘の泣き腫らす声に、遅い出漁で家の前を通りがかった浜の衆が野次馬に集まる。痴話喧嘩だの爛れた話だのが持ち出されたが、これを機に、鞍馬が去ったと浜中に知れ渡ることとなった。


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 山と原に挟まれた街道を急ぐ騎馬の群が、怒涛の如く爪音を上げて、土を抉り行く。

 鞍に跨るは帯刀した侍。軽装ながら鎧を纏い、弓矢や、さすまたなどの捕具も携えている。余程急ぎなのか、歩行者と道中で鉢合わせても手綱を引かない。多くは草茂る路傍へ避けるが、騎馬の接近に気付かない者などは接触直前に飛び退いて、衣服や荷物を泥だらけにした。

 その様子を、山手の茂みの中から窺う者がいた。

 白い衣は山伏の装束。見上げるような偉丈夫だが、その身の丈以上の錫杖を持ち、もう片手には遠眼鏡を構える。冠に結んだ頭巾の上に被っていた深編笠を背にずらす。烏の面を被っていたが、視界を得るために口元にずらして、現れた目元は肌が黒い。

 変装した鞍馬である。

 用心を重ね、人目につく道を避けて獣道を掻き分けて行く最中、地鳴りがしたと思って音の出所を探れば、正体は馬を駆る侍の集団だった。

 向かう先は里、あるいはその先の浜だろう。

 であれば、恐らくは、法然が聞いたという、鞍馬を探っていた連中か。

 いくらなんでも浜を離れるのを急ぎすぎたかと、心の片隅で後悔していた。しかし、その後悔こそが未練と知る。浜を離れる決心が着いた頃でも、一刻の猶予も残されていなかったのだ。

 負けん気が強く、機転の利く浜の衆であればきっと、侍に鞍馬のことを問い詰められても難なく切り抜けられる。

 これより先、鞍馬が浜にしてやれるのは、できるだけ目立たず旅を続けること。それだけだ。

 遠眼鏡を背中に背負った大きな笈に収納し、面と深編笠を着け直して、再び緑深い山中の獣道を、錫杖を突いて遊環を鳴らしつつ行く。

 遥か遠国、扶桑国は鞍馬山に、故郷の血を求めて。


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 騎馬の侍たちが、あぜ道を一列に駆けて行く。

 田を耕す里の衆が侍に気づくと、慌てて手を止め、その場で頭を下げた。蹄が泥を蹴り上げ、その身にかかっても、恭しく侍の来訪を迎えた。


「里の者は一人残らず庄屋の屋敷へ参られよ! この場におらぬ者も余さず連れて参れ!」


 侍らのただならぬ気迫、装いに、かつての悲劇が脳裏を過る者もいた。しかし、この里で生きる者は皆、伴天連を受け入れたキリシタンである。胸には信徒の証、ロザリオが下げられている。

 信仰を受け入れた彼らには、神の加護がある。里の子供たちを見逃す代わりに、領主より信仰を余儀なくされた神であろうとも、その霊験は領主との約束として今も生きている。

 故に、何が別の一大事だと信じていた。

 言われるがまま、里の衆は泥も落とさず、速やかに庄屋の屋敷の前に集う。馬を降り、さすまたを地に突いて仁王立ちで見下ろす侍の前に平伏し、その先頭では庄屋が同じく平伏し、侍の言葉を待っている。

 民が背を丸める様を一望し、侍の代表が口を開く。


「皆の者、面を上げよ。庄屋は前へ」


 庄屋を始め、里の者が従う。その動作は時も緩急もバラバラで、いかにも洗練に欠いていた。

 上がった顔を睨み、侍が問う。


「里の面々はこれで全てか。童はどうした」

「童……で、ございますか? お、恐れながら、年端もいかぬ童が、お侍様のご用事のお役に立つとはとても、とても……」

「余さずと伝えたが」

「い、意を汲めず、平にお詫び申し上げまする」


 しかめ面の侍の片眉が上がり、緊張が走る。

 我が子など、天地がひっくり返っても、この場に連れて来る訳がなかった。

 里の外ならいざ知らず、この里で侍が童に用があるなどと宣う。里の者の内に、かつての子盗りの記憶が連想されるのは自明である。それを実行した侍たちであれば、推して知るべきだ。

 侍は、里の衆の心情を知ってか知らずか、小馬鹿にするように鼻で笑って、気を取り直して声を張った。


「まあ良い。此度はご領主様が、信仰厚きキリシタンたるその方らに、誉れ高い役目をお与えくださった。心して聞け。日野江領主、有馬晴信公の長年に渡る友好が実を結び、伴天連国より得難い機会を賜った。伴天連は、我が日野江に神の御威光を渡らすべく、その方らに宣教に能う学を望んでいる。よって、伴天連国はその方らの遊学を許された。我が子の立身、若人であれば己の出世の、またとない好機である。領民の奨学は、ご領主様もお望みのこと。故に童と若人を遣わすべし。これは、ご領主様の命である」


 この場の里の衆から、一人残らず魂が抜かれたように静まり返る。春先の風が吹き抜けてもいないのに、血が凍えている。

 かつて布かれた命。すなわち、入信か、里の子を進物に捧げるかの二者択一。それが、言葉巧みに聞こえを変えて、再び里の衆の前に布かれたのだ。


「どうした。嬉しくて声も出ないか」


 里の衆より数名の、すすり泣く声が聞こえる。

 南蛮渡来の不可解な教えを信奉し、代わりに家族を守った。今、この里に残るのは、そうした者たちだ。それを、領主有馬は、侍の口を通して、キリシタンになれば子供を見逃すとの約定を反故にしておきながら、今度は子供を差し出すことこそキリシタンであればこの上ない幸福である風に嘯いている。

 詭弁は明らかだったが、里の衆には抗弁の一つも叶わない。武に長けた侍を相手に刺し違える覚悟があれば、命を省みずに異を唱えるか、あるいは実力で退けるのも一つの手だろう。しかし、そうした者は、先の乱妨取りで多くが命を落としている。

 打開の望めない窮地が、里の衆の心を追い詰めた。

 里の者は、臆病故に生き残った者ばかりだった。

 あるいは、狡猾であるがために。


「恐れながらお侍様、申し上げたかことばごぜえます!」

「貴様、無礼であろう!」


 取り巻きの侍の一人がさすまたを構える手を、代表の者が宥めて、対応を代わる。


「その方、名は」

「はっ、藤吉にごぜえます」

「藤吉よ、百姓風情が、ご領主様の命に異を唱えるか」

「滅相もなかです。じゃども、お侍様。ここより先に行く所ばごぜえます」

「どういうことだ」

「やめんか藤吉どん」

「外道に堕ちてはいかん」

「藤吉以外の申し出は許しておらん」


 他の里の衆の囁きが、侍の刃のような声の下に伏せられる。土を杵突くさすまたの威嚇の前に、里の衆の小さな良心は潰された。

 続きを促され、ある山を指しながら藤吉が打ち明けた。


「あの山の向こうに浜の集落ばごぜえます。あの集落ば、先の進物に童の一人も捧げず、またキリシタンにもならなか、はぐれ者どもの集いとです」

「何だと」


 藤吉の話を聞いた途端、別の侍が血相を変えて代表の隣へ参じ、無理にでも聞き入れさせようとの意図を表に出しながら耳打ちする。

 この侍は、先の乱妨取りの一味の一人、岩永勝将であった。


「あの山より向こうは手出し無用です。あそこには天狗が潜んでおりまする。山や浜を荒らせば天罰が下ります」

「……何を馬鹿な」

「会ったのです某は。先の事で、親子を追って山を越えた時に。刀も交えました。あの浜だけは絶対におよしください」

「つまり、貴様は、この男の言う浜まで行っておきながら親子を取り逃がし、その不始末を今の今まで黙っていた、と」


 耳打ちする侍の声から余裕が失われる。


「違いまする。某は真を申しております」

「もう良い。貴様の手抜かりは上申せずにおく。……だが、藤吉よ。その方を始め、里の者は捨て置けん。その方ら、そのはぐれ者の集う浜のことを、今まで何故、我らに告げなかった」

「ははっ、あの浜は、良かイワシの漁場とです。田や畑に撒く干鰯は重宝ばしとります。それをいきなり失いばすっと、実りば減って、年貢にも障るとです。じゃから、手荒な真似は避けたとです。わしら、これまでキリシタンばなれ、なれ、言って聞かせたとですが、終ぞ叶わんとでした」

「領地の利益を優先し、独自に説得を試みたが無駄だったと」

「おっしゃる通りとです」

「だが、このまま我らを行かせては、その干鰯も手に入らなくなろう」

「そこです、お侍様」


 待っていたとばかりに、藤吉は跪いて頭を垂れた。


「どうか、あの浜ば空いた暁には、わしらの里の土地とお認めくだせえ」

「……ほう」

「伴天連ば遊学へ行きなさる方々でも、日野江で有り難か教えば広めに戻れるように、伴天連の話ば素直に聞き入れる者が多く育っておらねばならなかとでしょう。じゃから、人が異国へ移った分、わしらで良う産んで育てて、立派に学ばれた人らを迎えねばならんとです。あの浜さえ、わしらの物になれば、それも叶うとです。ご領主様にとっても悪か話でなかでしょう」

「……おい」


 言葉少なに周りの侍を数名呼び、里の衆に聞かせないよう計らいつつ議論する。

 伴天連への遊学とは名ばかりの人身御供だが、遊学の名目を通すのであれば、一方で藤吉の方便もまた筋が通る。学びを得て故郷へ持ち帰ったところで、それを聞く者がいなければ無駄になる。

 家臣たちにとって、藤吉の弁は、地獄に仏であった。

 此度の人狩りで、家臣たちは強く反発した。幾ら伴天連に借りがあると言っても、限度がある。約定を違える暴挙もそうだが、わざわざ自ら国力を削ぐような真似をする領主有馬の乱心を疑った者さえいる。

 だが、当の有馬も、此度の人狩りを望んで命じた訳ではない。

 伴天連に接近するため、やむを得ずキリシタンの洗礼を受けた有馬は当時齢九つ。その恩恵を受け、今日まで何とか日野江を存続させたが、今や伴天連が日野江の命運、その一端を担っていると言っても過言ではない影響力を持ってしまった。

 有馬は、伴天連にうだつの上がらない己の恥を忍んで命を下している。

 ならばせめて、その心労を軽くするよう、領主に逆らった前科のある者を選んで伴天連に送って応えるのが、家臣の務めに他ならない。

 侍たちは、一様に頷いた。


「藤吉よ。浜へ案内せよ」

「あ、あの、浜の所有をば……」

「案ずるな。我らで取り計らう」

「は、ははっ、ありがとうごぜえます」


 里の衆が平伏すのを尻目に、藤吉の先導で侍たちは浜へ、土を踏みしだいて行く。

 太陽は天高く、影が色濃くなる刻。残された者たちの内心に後ろ暗い感情の澱が生じる。代わりに、再び見逃された安堵と、藤吉が名乗り出たことで自ら手を汚さずに済んだ、身勝手な潔白ばかりが、後生大事に守られていた。


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 張り巡らせた鳴子が乾いた音を立て、驚いた烏が鳴き、林から飛び立つ気配がする。

 複数人の足音が遠くからする。耳の利く者なら、装備で重量が増していると気づくだろう。

 本堂で木魚を叩く法然の手が止まり、雷に打たれたように書院へ飛び込む。中で勉学に勤しむ子供らと、教鞭を執る三浦が、突然の坊主の登場を野次ったが、構わず急ぎ足で法然は教壇の後ろの壁に背中を貼りつけた。

 手習い中の一同を置き去りに、法然は壁ごとぐるんと横に反回転する。

 書院で驚愕の声が上がった。


「和尚様、いつの間に隠し扉なんて」

「救荒に備えた食い物がダメになる目前や。三浦、じゃりども、わしがええっちゅうまで黙ってられるなら、一緒に中で食わしたる」

「おお、坊主にしては気が利くばい」


 法然は人差し指を口に当てて、シーッと息を吹く。慌てて子供たちは口を塞いだ。法然は鷹揚に頷くと子供たちを隠し部屋に招き入れた。

 勉学の邪魔をされてはたまらないと、三浦が口を挟もうとしたが、法然の真剣な眼差しと、静かにせよとの手振りにただならぬ気配を感じ、素直に応じた。

 隠し扉が閉じて壁と一体になり、書院に残るのは開かれた教本のみとなる。

 その後、藤吉が侍衆を連れて境内を横切り、内一人が書院の中の様子を窺ったが、特に見どころもないと判じて、浜へ向かうべく通り過ぎて行った。


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 昼になり、早々に引き上げた漁師たちが、陸で網などの道具の手入れをしている。

 針仕事に集中する最中、おびただしい足音に気づいて出所を探りに首を回すと、山から鎧を着た侍の集団が下りて来るところだった。


「間違いなか。鞍馬ば尋ねにじゃ」

「しっ、聞こえる。来よるばい」

 

 緊張で強張るのを何とか平伏して侍衆を出迎えた漁師の前に、侍が立ち止まる。


「その方ら、ご領主様への御進物に童を捧げないばかりか、キリシタンにも加わらなかった不届き者らかだな」


 漁師らの全身からどっと汗が噴き出た。

 蜘蛛の子を散らすが如く、漁師は海の方へ逃げ出そうとした。平伏の姿勢から踵を返しては、駆け出しが上手くいかない。多くはあえなく、さすまたに取り押さえられた上で縄をかけられてしまい、ただ一人が間一髪で免れて、集落の家々を縫うように駆けて行く。


「御進物! 乱取り、乱取りじゃ! 御進物ば乱妨取りじゃ!」


 漁師の叫びが届いた所から、次々にその名と行為が伝播し、集落が瞬く間に混乱に包まれていく。

 すぐさま家から逃げ出る若者、乳飲み子を抱えて駆ける親や祖父母。細い路地で鉢合わせた人同士の、我先に逃げたいがための押し合いへし合い。人外に出るにつれて悲鳴が重なり、騒ぎが大きくなり、混迷が極まり、災禍となる。

 侍たちは浜の衆を追う中、行く手に煙玉を投げ、逃げ惑う人々の目を潰し、その隙にさすまたで身体の自由を奪い、鼻捻棒でやたらに殴って逃げる気力を心身より奪う。そうして、ぐったりとして気絶した者に縄をかけ、次なる獲物を追う。

 逃げ遅れた者がいる家屋にも、侍は容赦なく押し入る。対する住民もただでは捕まるつもりはない。飯時で煮えた鍋の中身を侍にぶちまけたり、火消し壺や鍋に蓄えた燃え盛る炭や薪を投げたりして応戦する。

 火で応じたある家では、扱いを誤って家屋にまで燃え広がり、もうもうと黒煙を上げた。火の手は徐々に広がり、家を覆い、集落を呑み、それでも彼我に消す暇もない。逆巻く気流に乗った火の粉が降り注ぎ、炎と煙は勢力を増し、浜の混乱に拍車がかかる。


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 洋上、浜の至る所から上る黒煙を覗く者がいる。

 黄泉ツ丸の見張り台の上。遠眼鏡越しの景色の倍率を上げ、目にしたのは逃げ惑う民と、それを追う武装集団。

 見張り番は、帆柱の上から、偵察を甲板へ報告する。


「海難坊様、寅の方角、陸に火の手が見えます。様相を察するに乱妨取りです」

「乱妨取り……」


 傍らに立ち、海難坊を補佐する宗治郎が耳打ちする。


「大名配下の武者による略奪、人狩りです」


 海難坊は鼻で嘲笑する。


「発想が黒奴どもと変わらん。まるで獣だ。構うことはない。捨て置け」

「畏れながら申し上げます」


 海難坊の許しを得て、宗治郎がある話を口にする。


「あの方角にあるのは、日野江という領地。かの地の領主は腕利きの貿易商で幕府の覚えも良い反面、キリシタンに傾倒し、領民を伴天連へ捧げる暴君です。報告の火の手がその暴挙であれば、我らが玄海水軍の働きを示す好機にございます。対立する大名か奉行にでも、揺るがぬ証を手土産に……海難坊様?」


 宗治郎の説明の途中、海難坊の様子がおかしくなる。眼差しはいずこへ向くとも知れず、肩を震わし、宗治郎に尋ねる。


「……領主の名は」

「はっ。有馬氏、現領主は晴信かと」


 瞼を失い、常に見開かれているはずの海難坊の眼が、更に見開かれたような錯覚を覚える宗治郎。

 海難坊は次第に肩の震えを増し、小さく笑いを噴き出した。笑いは喉を震わせて増々響き、湧き上がる恍惚の哄笑は、辺り一帯の海に響き渡った。


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 舟着き場に浜の衆が殺到する。

 呆れた天候の穏やかさに、場違いな静けさを湛える海。文字通り、海原に侍の立つ瀬はなく、しかるに追っ手を撒くには舟出が妙案と思えた。

 しかし、侍にしてみれば、水際が最後の一線であった。沖に逃げようと舟を出そうものなら、逃すならばいっそと、容赦なく矢を飛ばした。

 狙いも何もない弓射であったが、漕ぎ手の一端でも穿てば、害意が恐怖を生み、恐怖は周囲を蝕む。当たり所が悪かった者は、呆気なく命を落とし、周囲を震え上がらせた。だが、百姓の一人や二人が死んだところで、人狩りが目的の侍にとっては物の数に入らない。舟が出て多くを逃すより、少数を射って逃げる意志を挫く方が、侍にとっては得だった。

 普段は浜に恵みをもたらす海が、今日ばかりはそそり立つ壁として立ち塞がった。切り立った岬に挟まれた浜は、外からの侵入も発見も容易ではないが、一度ならず者に踏み入られては逃げ場がない。身一つで泳いだところでどうしようもない。

 窮すれば弱者とて武器を取った。

 力に覚えのある男衆が銛を槍代わりに構え、水際で応戦。しかし、戦が本分で、数に勝る侍にしてみれば、漁に明け暮れた者の膂力を恐れこそすれ、技の冴えは取るに足らない。力任せの素人が相手なら赤子の手を捻るも同然で、さすまたで銛を無力化されたが最後、漁師は一人、また一人と、別の侍の鼻捻棒で殴打されてしまう。

 銛を持つ中で、権兵衛は善戦していた。鞍馬の見様見真似の銛捌きは、ぎこちないながら、一時だけ侍と拮抗せしめる。

 銛の穂先が侍の頬をかすめた時は旗色が良くなった気にさせられたが、むしろそのかすり傷が侍の怒りを買ってしまう。

 侍が怒りに任せ、抜刀。真っ向から振り下ろされた凶刃を柄で受け止める権兵衛、だが、木製の柄は一刀の下に両断される。


「権兵衛!」


 ふくの呼号が悲鳴となっても、侍は容赦しない。刀の勢いは死なず、権兵衛の左目を斬り、飽き足らず、首へ斬り上げを見舞う。

 権兵衛は突如として視界の半分を失った動揺と、熱を帯びた激痛に足が竦み、硬直してしまった。

 侍の刀が権兵衛の首に迫ろうとした、その時。

 横槍が入る。権兵衛の巨躯に全身で当たり、もつれて砂浜を転がるほどの力で押し、侍の凶刃から彼を救ったのはふくだった。

 刀の切っ先が、権兵衛の頬を斬る程度で済んだ。

 決して力に優れてはいないふくでも、全身全霊、受け身をかなぐり捨てた死守。砂地に転んだとはいえ、全身を打った二人の動きは緩慢になる。深手を負い、血を流す権兵衛は悶え、ふくの息は上がっていた。

 勝負は決したも同然だった。

 だが、戦意に高揚した侍は、息巻いて刀を振り上げる。


「止さんか、たわけ」


 今に振り下ろされんとする腕を、侍の大将格が引き留め、己の刀の柄頭でたわけ者の血の昇った頭を小突く。興奮冷めやらぬ侍を宥めるのは他の者に任せ、敗者ばかりが身を寄せる波打ち際を見渡した。

 親縁か、あるいはこれからそうなる仲か、漁村の民らは身を寄せ合い、侍に怯えた目を向けている。

 しかし、中には、特に最後まで反抗した男と、それに寄り添い、着物の裾を破って急いで傷に巻く女など、良い目をする者も残っている。

 しかしそれも、領主の下命を聞き入れない、見下げ果てた狭量な性根であった。


「我らの目を逃れて、良くもまあ、これだけ隠れていたことだ……。不毛な反抗は止めよ。神妙にお縄につけい」

「……お縄、じゃと」


 ふくが声を落とし、侍大将を睨む。倒れた権兵衛を庇うように前に立ち、大将と対峙する。

 浜の衆の制止も聞き入れず、ふくは一歩も引かない。

 取り巻きの侍は実力をもって、ふくを取り押さえようとしたが、大将がそれを許さない。毅然とした立ち姿は、女子ながら天晴れと見えた。戯れに応えるのも一興に思えたのだ。


「なしてじゃ。あたいら、何も悪かこと働いとらんばい!」

「どの口でほざく。御進物を捧げず、キリシタンの洗礼も拒んだ。ご領主様の御下命に背くなぞ、領民にあるまじき所業、反意でなくば何とする」

「あたいらはしがない漁師じゃ! 年貢は里を通じて納めて、大人しか生活ばしとるぞ! 何も後ろめたくなか!」

「その方らのしがない身の上で、日野江の礎となる名誉も解せんか」

「名誉じゃ言うなら、おめえらが行け!そげな腹の膨れんもん、あたいらは願い下げとね!」

「ご領主様の下、武芸の才覚をもって治国の助けとなるが我らがお役目。その方らほど安くないのだよ、我らは」

「……あたいらが失せた後ば、誰ぞおめえらの魚ば獲ると!」

「愚問だな。民など幾らでも」

「そやつらを、その先の、その先も捧げた後ば、どうするったい! 先に攫ってから幾年と思っとっと! 乳飲み子ば元服を迎えられる歳月じゃなかとぞ! おめえらの我儘につき合えば、子宝も得んまま先細りじゃ!」

「話にならん。日野江は栄える」

「そりゃ頼もしかね! じゃが、その栄えが何かも知らんまま、年端もいかん童が家族と引き離される心地ば、おめえらに想像つくとか!」


 侍が気迫に押され、言葉に窮した。

 子供と親の離別。ふくの言葉で、かつて浜で天狗を見たと言う岩永の記憶が蘇る。捕えようとした少女、天狗の介入で取り逃した少女、その面影を、目の前で叫ぶ女に見た。

 護るべき民を虐げる行い、あまつさえ自決にまで追い込んだ悔恨を抱き、天狗に追われたことを罪の赦しにしていた、己の弱さと共に。


「どげんした!? 辛かったろうとも言い返せなかとか! 考えなしとか! 仕方なかと! 何も悪かなかあたいらより、伴天連に売り飛ばすなんぞ世迷言抜かす阿呆の方が正気ば思う愚図じゃからのう! このアンコウ、ハエ、なまくら武者のへろへろ侍!」


 思いの丈、積年の恨みでふくの喉が裏返り、罵声となって、辺り一同の耳孔を穿った。

 ふくの言いたいことも、侍たちは承知の上だった。しかし、主人が苦渋の末に下した決断に代わる案などない。進物を捧げなければ、領地の未来すら危うく、背に腹は代えられなかった。

 それだというのに、ふくは人の気も知らず、言いたいだけ言い放ち、良い気になっているように、侍の目には映った。返しも言い表せなくなった大将は、行き先を見失った鬱憤が溜まるほど見る見る顔が赤くなり、拳を赤くなるほど握り震わせ、気づけばふくに向けて振り上げていた。

 風鳴りが聞こえる。


「言わせておけば、無礼が過ぎたぞ、女!」


 陸が揺れたかと思うほど、激しい衝撃が襲った。

 否、実際に陸が揺れていた。浜の衆も侍も動揺し、辺りを見回し、山を向けば黒煙混じりの炎が上がっている。衝撃は浜や山を揺らしていたのだ。


「何事か」


 風鳴りが幾条も空に弧を描き、飛ぶ気配がする。

 侍の一人が空を指し、その仲間が空を仰いだ。

 海より、高速で飛来する物体。煙の尾の軌道を視線で追い、侍たちは直前まで背を向けていた山へと視線を向ける。飛来物が山肌に着地すると同時に爆裂、樹々に燃え移った爆炎の壁が屹立した。

 一拍置いて、地揺れと熱風。

 不意に降り注ぐ暴威に誰もが混乱に呑まれたが、戦に慣れた侍たちだけが即座に持ち直し、冷静に力の出所を探る。疑いの余地なく、戦船の砲撃である。

 探すまでもなく、侍の一人が洋上を指す。


「あれを!」


 それは、余りに遠く小さな船影。しかし、誰も知らない類の船であった。

 黒船に似た帆船。しかし、根底に流れる造りは安宅船のもの。どこの物とも知れぬ船は、妖しさを纏って、洋上を漂うかのように、こちらへ向かっている。


「倭寇……いや、海賊か!」


 海賊の名に、浜の衆が慄いた。


「今時……それも、こんな時に」


 忌々し気に言い捨てる侍の大将。抱く感情を逆撫でるように、浜に対して横に向けた船体から、次の砲撃が山へ向けて放たれる。

 樹々に火炎が広がり、黒煙が太陽を遮るかの如く上った。

 黒煙が砂地に影を落とし、侍たちは寒気を覚える。捻り出した冷静さが怖気に押される中、大将格だけがその怖気の正体に勘づいた。


「退けい、直ちに退けい!」


 四の五の言わせぬ語気で唾を飛ばす大将格に、集落の者はどうするのか尋ねる同胞。


「うつけが! 我らが今、どこにいるかわからぬのか!」


 怒号が飛ぶ最中も、粛々と帆船は焙烙火矢を放ち、火の手は広がる。

 侍衆の血の気が引く。

 南北を切り立った岬に挟まれ、西に海、浜の出入り口は、舟を除けば東の山道しかない。唯一の道が今、火の海へ変じつつある。

 浜は今、陸の孤島となろうとしている。

 十分な装備もないまま、退路を断たれ、戦船と戦うなど、死を待つも同然。大衆を連れて避難など、足枷でしかなかった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 一説によると、焙烙火矢の射程は三〇丁、およそ三キロメートルに達するとされている。

 この時代の和弓や火縄銃の射程が四〇〇から五〇〇メートルと言われる中で破格の攻撃範囲を持つ焙烙火矢は、搭載物の重量や風向き、弾薬の量によって飛距離は左右されるが、戦相手の装備や布陣によっては一方的に蹂躙せしめる性能を秘めていた。

 捕縛用の非殺傷武器ばかりを装備した侍など、相手にならない。

 しかし、肝心の焙烙火矢も、これまでの黄泉ツ丸の経戦により消耗しており、分配した焙烙玉が一班、また一班と底を突いていく。

 黄泉ツ丸甲板上、海難坊の指揮が飛ぶ。


「侍どもの退路は山だけだ。山一面に狙いを定め、火の壁で阻め。砲手、射手は総攻撃に備えよ。退路を断ち、総力を挙げて、なぶり殺してくれよう」


 焙烙火矢の炸裂が途切れぬけたたましさのただ中で、海難坊の怨嗟の声は玄海水軍衆の耳に、しかと届いた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 一人、また一人と、恐れをなした侍が逃走する。

 ただ、浜の衆は激変する状況に置き去りになっていた。戦船が人狩りを追い払って助かったとの安堵を覚える反面、侍が海賊と称するその戦船が善い物なのか、水の海と火の海、海の賊と陸の侍に挟まれて、心が惑っていた。


「どげんしょ。逃げんと」

「人攫いどもとか。冗談でなか」

「あの船、わしらをお救いに来たんでなかとか」

「そ、そうじゃ。でなくば、こげな良か時に通らんばい」

「落ち着け。あげな山火事ば起こす連中じゃぞ」


 少なくとも、自分たちを害する侍たちと行動を共にする道理はなく、浜の衆は波打ち際から一歩も動かず、遠くへ行こうとする侍の背中を見るだけしかできない。

 我先に逃げる侍たちの中で、ただ一人、岩永勝将が、逃げようとする大将格の腕を引き、異を唱えた。


「海賊怖さに民を見捨てて、尻尾を巻いて逃げろと仰せか!」

「乱妨取りに加担しておきながら、今更何を申す! その方らの命を預かる身として、犬死にせよとは言えぬ!」

「武芸の才覚、治国の一助が役目と言った口で!」

「庇う義理などない! 狼藉者ばかりぞ! その手を放さんか!」

「賊を捨て置く理由にはなりませぬ! ここを逃せば日野江の脅威となりましょう!」

「負け戦はせぬ!」

「この轟きにおびただしい黒煙であれば、近くの同胞が異変に勘づきましょう! それまで持ち堪えなければ……!」

「血迷ったのだな! 放せ、老いぼれ!」


 大将の顔を、拳が抉る。

 糸が切れたように倒れる大将を越えて、逃げる同胞たちの背に、岩永勝将、一人の男の意地が雄叫びに乗って飛ばされた。

 抜き身の刀が投擲され、侍たちの合間を縫って、逃げ先の砂地に刺さる。

 逃げ足も、止めざるを得なかった。

 同時に、次なる砲撃が山肌に着弾する。最早、火の手のない場所を探すことさえ難しく、この足止めがなくとも間に合わなかったのは、誰の目にも明らかだった。


「逃げるな、腰抜けども! それでも、もののふか! 武器を取れ! 海賊如き、討って見せよ!」


 うろたえる侍衆に構わず、檄を飛ばし続ける。


「見よ、あの船を! あの船は何故、ここに至った! 伴天連は、南蛮は何をやっている! 人を捧げる見返りに我らが日野江を庇護する約定はどうした! 話が違うではないか! そうだろう!」


 侍衆は、目が覚める心地だった。所々から、同意する声が上がり、それに追従する形で、同意の声が伝播する。

 同胞を鼓舞する岩永が、かつての逃げ道を行く。侍衆は道を空けた先には、砂地に刺さる刀があった。

 歩む間も、侍は声援を絶やさない。


「最早、伴天連も南蛮もあてにはできぬ! ここ日野江は我らが領地、我らの手で守らずして何とするか! 逃げて生き恥を晒すのみならば、ここで死ね! 死して誉を残し、語り継がれようぞ、つわものどもよ!」


 火矢の止まぬ中、砂地から抜いた刀を、黒煙渦巻く天に掲げる。侍衆もそれに倣い、次々と刀を抜いて掲げ、鬨の声を一つにする。

 かつて、天狗より逃げた岩永は、覚悟を決めて引き締まった顔を作る。話に着いていけない浜の衆の前に出て、その先頭に立つ、険しい顔のふくと対面する。


「おふく、相手にすることなかばい」

「こやつら源八どんば殺めたんじゃぞ」

「そうじゃ。侍、今更どの面下げてきたと」

「うちの人ば返せ」

「帰れ」

「二度とその面、見せるな」


 岩永は眉一つ動かさず聞き入れる。

 浜の衆の非難轟々を、一発の乾いた音が止ませた。

 問答無用の平手打ちを、ふくは岩永に見舞ったのである。

 どよめく侍たちを、岩永が手で制する。


「言い争う暇ばなか。皆の衆も、今はこれで勘弁してやるったい」

「じゃが、おふく」

「後で幾らでも沙汰を下せば良か」

「しかし」

「おふくの言う通りじゃ」


 最も深手を負って上体を起こすのもやっとの権兵衛が、痛々し気に賛成した。

 左目に巻いた即席の包帯に血を滲ませ、苦しみ悶える彼を気遣い、ふくは身体を支えに回る。


「じっとするんじゃ」

「構わん、すぐ治る。……皆の衆、あげな無茶苦茶ばする船の者ば、とても堅気と思えんじゃろう。思うところはあるじゃろうが、侍の力なくして退けられんと、皆もわかっとるはずじゃ。おふくとわしに免じて、今は堪えてくれ」


 受けた仕打ちに対して、あんまりな願い。しかもそれを、最も手酷い傷を負わされた者が、痛みを押して、息も荒い内に申し出た。受け入れ難きを受け入れねばならない。浜の衆はやるせなく項垂れて、源八を、夫を失ったなみは声を枯らして泣いた。

 ただ、反論だけは出なかった。

 岩永は頭を下げる。


「かたじけない。岩永勝将と申す。積もる話は後で聞く。この場は某らで受け持とう」

「勝ち目はあるとか」

「わからん。だが、この場を切り抜ける気があるなら、手を貸して欲しい」

「生き残れるんなら、何でもするとぞ。そうじゃろう、皆の衆」


 意気込むふくに、浜の衆は何も言い返せず、観念したように頷いた。


「あの時、取り逃した童が、良か女子になったのう」


 岩永の小声を聞き返すふくだったが、迎撃の試案を口実にはぐらかされた。日野江が失った物の重みを、一人の女に見出し、その責を一人で抱えて。

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