第3話 鬼ヶ島

 時は遡り、長谷川藤広と有馬晴信の焼き討ちの後。

 港は賑やかに、船着き場に次々と持ち込まれる贅を凝らした料理と酒が運ばれる。

 黒船焼き討ちに参加した兵士一二〇〇名。容易に収容できる会場などなく、隊士らは船内で勝利を祝う、むさ苦しいどんちゃん騒ぎを繰り広げている。

 対して隊長格、あるいは武功を上げた者たちは、とある料亭にて、酒も程よく回り、語らい華やぐ場に身を置いていた。

 敵将の最期は天晴れであった。弾を当てた、かわした。芸妓の三味線や踊りに聞き入り、あるいは、まだ初さが残る舞妓に、お調子者があることないことで武勇を語る。飲めや歌えやの大宴会であった。

 その騒ぎの一角、天狗の面を着けて南蛮人になりきり、斬られ役を買って出た者がいる。小芝居も終えて、お役御免とばかりに席に戻る途中、場違いな雰囲気の男を見つける。

 騒がしいのが苦手なのか、一人で酒と肴に向き合って、黙々と箸を進めるばかりの者。まるでその者だけ通夜に参じたかのようだった。

 南蛮人役の男は、少し悪戯心が芽生えた。


「よう」


 芋の甘露煮に向いた通夜男が、呼びかけられて顔を上げると、視界一杯を天狗のいかつい顔が占めていた。天狗役は茶化し脅かし、べろべろばあ、と耳にも目にもやかましく振舞った。

 通夜男は、つまらなそうに芋を頬張り、箸で天狗の鼻を摘まんで、ぐいと面を上にずらし、その正体を暴いた。

 元天狗役は、実につまらなそうにした。


「何だ、驚かんのか」

「何に驚けと申される」

「岩永勝将殿は天狗がお嫌いと聞いていた」


 通夜然とした男、岩永は鼻で笑う。


「某の不得手は、烏面の天狗でござる」

「それは……はあ、左様か」


 何が違うのか腑に落ちないまま、天狗役のお呼びがかかる。そろそろ斬る側に回して欲しいと思ってもいない不平を垂れつつ、削がれた興を取り戻そうと、天狗は再び舞い降りた。

 岩永は、何事もなかったかのように酒を煽る。

 その喧騒が遠く、丸窓に夜雪を眺め、肴を炙る火鉢の暖気の中、離れで酒を煽る長谷川と有馬。


「いやはやまさか、かの船を落とされるとは、此度の大恩、異国の地に没した民も報われましょうぞ、有馬殿」

「およしくだされ、長谷川殿。そちらのご助力なくしては成し得ぬことでありますれば、感謝の至りにござる」

「であればでござる。我々と、そして何より幕府、家康公の威光。日ノ本の前に、南蛮も己の身の程を弁えましょう」


 長谷川は杯を飲み干した。女中の酌を手で制し、茶を所望する。


「有馬殿も、熱い茶と菓子はいかがですかな」


 有馬はそれに応じ、女中は茶の用意に離れを後にする。長谷川はしっかり熱い湯で淹れるよう伝えると、その背を確かに見送り、気配が離れたところで話を切り出した。


「無辜の民の命が奪われた。キリシタンとて許せぬのももっともでしょうが、なかなかどうして、胆の据わったご決断を下された」


 有馬は、胸に下げた、豪奢にして精緻な彫刻の施された黄金のロザリオを撫でながら答える。


「現に、伴天連無くして今の我が身はございませぬ。しかし、伴天連と一口に申しても、一枚岩ではござらん。ましてや南蛮商人ならば尚更。日ノ本でも同じ仏を拝む者が、その手で刀よ槍よ、弓よ筒よと、飽きもせず戦を繰り返しておりましょう。たとえ仏であろうとも、仇を成そうものなら、きっと彼らは歯向かいましょうぞ」

「礼の用は和を貴しと為す。道の外れはたちまち修羅道というのも、天理は加減を知らぬと申しますか、無慈悲と申しますか……」

「然り。故に、修羅に堕ちた諸藩をまとめ、正道へお導きくださる家康公には、足を向けて眠れませぬ」

「左様ですな。しかし果たして、南蛮商人は正道に目覚めましょうか」


 有馬の手酌が止まる。庭木より雪が垂る。


「我が藩の貿易ならば心配ご無用。此度の諍いは、我が方に正義がございます。これまで通り、我らが欲するままを買い、彼らの望むままを売る。その端々で折り合う。商人の掟を通す限り、南蛮に限らず営みは続きましょう」

「単刀直入に言おう。晴信殿、これまで一体どれだけの銀を海に流した?」


 火鉢の炭はいつの間にか熱を失い始めていた。


「……いや、失言にござった。正しくは、諸大名からどれだけの銀が流れたかご存知か、と問いたかったのだ。ご承知の通り、我が国の経済は銀本位。浴びるほど掘り返せても無尽蔵ではない。これまでは期待以上の利益をもたらした故、南蛮の特権に目を瞑ってきたが、いよいよそうはいかん。貿易の統制は幕府の急務だ」

「まさかあの晩、ペソアにもそうおっしゃったのか」

「晴信殿も、私の前に根を回されていたようで」

「……全ては、制裁を確実に下すための方便です」

「そうでしょうとも。……まあ、あえて口に出すまでもないことですが、その方便、いささか手ぬるく聞こえますがな」

「今、何と」

「ともかく」


 手ぬるい。その言葉が有馬の気に障るも、長谷川は意に介さず語気を強めて話を続ける。有馬が溜飲を降ろさざるを得ないあたり、長谷川はどうしようもなく格上だった。


「……あの場を逃せば、何年待つことになるか。上様が伽羅をご所望の折に、荒波をも越える黒船の船足、一時でも失うには惜しかった。これでは骨が折れる」

「伽羅の調達のための朱印状は既に頂戴しております。それにそもそも、その代わりに紅毛と手を結んだのでは……」


 炭の火が消え、細い煙が昇る。見る見る有馬の狐目が更に細くつり上がった。

 オランダの介入やスペインの機先もあり、落ち目のポルトガルに頼らずとも貿易は継続する。

 対する長崎奉行は長谷川藤広、貿易において、徳川を親とすれば、遣いの童である。親から預かった金をやりくりし、言い付けられた品を買い集め、釣銭を駄賃にすることを許された身分である。より安く購入できれば、それだけ駄賃は増す。

 値を比べる先は多いほど良い。長谷川がポルトガルを惜しむ理由など、他に考えられなかった。


「藤広殿、よもや、貿易の統制を大義名分に、私腹を肥やそうと企ててはおりませぬな?」

「ぬう? ぶっ、ははははあ! ……いやはや、失敬。わかる、わかりますとも。勢い益々、いずれ空を飛ぶやもしれぬ紅毛の黒船、確かに、七福神を乗せた宝船に見えても仕方ありませんな! だはははは!」


 硬く凍ったかのような表情の有馬を前にして、長谷川は突飛もない話に声を上げて失笑した。が、瞬時に平静な面構えになる。


「……晴信殿よ、これまで伴天連を通し、南蛮との仲を取り持ってきた働きは語るに及ばず、加えて此度の、そしてこれからの貴殿の働きは、将軍様の覚えを格別にめでたくするに違いない。望めばどのような褒美でも手に入るだろう。それが分け目だ。これまで多少のことはお目こぼしされてきたであろうが、これまで通りとはいかん。満足する褒美を得て、それより先は慎ましく、新たな貿易体制に従う意思を固めてはどうだ」

「我が藩の帳簿に朱入れでもなさるおつもりで?」

「銭が経済の血とすれば、銀は血を生む臓腑よ。今、その臓腑が削られ、日ノ本から多く抜かれている。看過できぬ。いずれ、四〇人では利かなくなるぞ」

「藤広殿、我が藩が失った水夫は六〇にござる」

「これは異なこと……否、これこそお目こぼしか。銀のみならず、まるで幕府の与り知らぬ血まで海に流れたように見受けられる」

「冗談だとすれば趣味が悪うございます」

「晴信殿がそう仰せなら、この口は冗談を言ったのでござろうな」


 両者、行灯の光で揺らぐ顔は平静、目のみ睨み、腹を探り合う。しばらく静寂が続く。積もる雪に家臣の宴のたけなわはますます遠く、行灯の火の息吹すら聞こえるようだった。


「失礼いたします」


 女中の声で両者が緊張を解き、入室を促す。

 目の前で急須から注がれる茶の湯気の白いこと。ほろ酔いの気分に染み渡ることだろう。

 何より、茶請けの菓子が良い。長谷川の顔がパッと明るくなった。


「ほう! 栗茶巾とは気が利くではないか!」

「搗栗を蜜でよく戻し、練っております」

「好いこだわりだ。だが、それでは舌触りが不安だな」

「うふふ、どうぞご賞味の上、お確かめくださいまし」


 甘い栗餡を茶巾で絞った饅頭である。栗を乾燥させた保存食である搗栗、転じて勝ち繰り。よくある語呂合わせの験担ぎながら、料亭の主の計らいであれば、一層粋である。

 竹の楊枝で栗巾着を切り、小片を口へ運ぶ。


「ほう、何と、これほど滑らかとは……うむ、甘い。とても搗栗とは思えん。素晴らしい腕だ。やはり、南蛮の玄関口で作る菓子は一味違う」

「勿体なきお言葉にございます」


 女中は深々と頭を下げた。


「ささ、有馬殿も」

「あいや、猫舌なもので。茶が冷めるまでしばらく」

「左様でござるか。しかし、特別熱い茶、待つだけでは中々冷めませぬぞ」

「ええ。ですから、雪見でも楽しみましょう」


 長谷川は栗巾着を茶と一緒に含んで、熱がりながら、そそくさと食べ終えると席を立った。


「では、宴もたけなわでございますが、私はこれにて失礼いたします。江戸へ参る前に、村山殿とも話をつけなければなりませんので。また江戸でお会いしましょうぞ」


 離れを背に、長谷川は振り返らずに言う。


「有馬殿、先に申し伝えたこと、努々お忘れなきよう」

「……ええ、勿論」


 有馬もまた、振り返らずに答えた。

 長崎代官村山等安。実地の統治を担う彼と、幕府内に顔が利く奉行長谷川藤広。この二人が手を結べば、貿易事情など如何様にでも操れるだろう。日野江藩の行く末を、蚊帳の外で決められるのだ。

 冗談ではない。長谷川藤広の戯言が可愛く思える。

 有馬は若輩にして家督を継いだ。未熟にして諸大名と渡り合うことを迫られた際、かつて懐疑の目で見た伴天連ですら利用せざるを得なかった。日野江藩が貿易に注力するのも、伴天連の助力に報いるためだ。

 長谷川は幕府の威を借り、南蛮を相手に貿易統制を強いるのだろう。しかし、長谷川は沖田畷での戦で見せた南蛮の力を知らない。南蛮の兵器の威力、運用に要求される練度、その要求に適う実力の南蛮兵らを目の当たりにしていれば、足りない頭でも少しは有馬の心持ちを理解できただろう。

 沖田畷は島津氏が伝家の宝刀、釣り野伏の兵法が目立つ戦だった。少ない兵で敵を誘導し、乏しい装備で各個撃破を実現する、経験が物を言う戦法だが、有馬にはそれよりも、たかが大砲二門で得た戦果と、南蛮があの大砲を数多く有し、それを活かす兵法の研究がなされている事実の方が恐ろしくてならなかった。

 もし、あの大砲が二門と言わず、天井知らずに放てるならば。

 釣り野伏という小賢しい工夫、城も山も等しく焼野原にする無数の大砲の前には、塵芥も同じ。

 伴天連は、沖田畷で、南蛮と日ノ本、どちらに就くのが賢明か、暗に示したのだ。

 かと言って、伴天連の言いなりになるつもりはない。

 全ては日野江の地の安泰のため。世の移ろいに身を任せては、領地奪還の悲願の成就など夢のまた夢。

 ならば今は、将軍の覚えを良くするため、持てる全ての手段を講じ、長谷川を制し、伽羅の献上を必定にせねばなるまい。

 南蛮の脅威と幕府の権力。二つの強大な力のうねりの狭間を進み続けた有馬の思惑に、退路はない。

 膳には、手つかずの栗巾着と、血まで沸くような熱い茶。次々に昇る白銀の湯気は、離れの中空の闇に融けていった。


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 料亭の大広間で宴会を取り仕切るのは、長崎代官の村山等安という。

 長谷川は帰りを伝えると、ぞろぞろと家臣が立つ中、村山は見送りを買って出た。

 料亭の玄関より門までの小道を、村山が唐傘を差して、長谷川に着き従う。

 道すがらの会話は、矢継ぎ早に繰り広げる。


「等安殿、伽羅の手配は如何か」

「朱印船は滞りなく。加えて紅毛の伝手もございますれば。しかし、我が国の勝手知ったる南蛮の黒船が見込めぬ以上、貿易を模索してきた有馬氏の旗色が良く」

「貴殿の目に問う。紅毛は如何様か」

「伴天連に頭の上がらぬ南蛮人に比べて、いやはや、良くも悪くも純粋で好ましい商人ですな。しかし、所詮は仲介商売。どちらも伽羅の作人ではございませぬ。武力では紅毛に軍配が上がるとはいえ、全幅の信頼は置けませぬ」

「伴天連か商館の船を使えぬか」

「ふふふ、遣う船は多いに越さぬとはいえ、ご無理をおっしゃる。イエズス会と有馬殿の縁は深く、かの御方を差し置いて先買いなど望み薄です。ただ、かの伴天連も一枚岩ではございませんので、托鉢修道会であればあるいは……。しかしながら、伴天連が絡むとどうにも商売はややこしくなります。加えて紅毛の振る舞いは、かつての海賊衆を彷彿とさせますれば、軟弱なポルトガルにのみ頼っては略奪の懸念が」

「ならば托鉢修道会と紅毛、両方使えば良い。伽羅は上様の元に届きさえすれば、如何なる由来があろうと構わぬ」

「怖や怖や。雲行き次第で、海は大いに荒れ狂うでしょう。波は有馬殿の伝手を呑むか、こちらの伝手を呑むか。後者、足の引き合いは目も当てられませぬ。まさに、博打ですな」

「……なるほど、我らは無頼ではない。たかが香木のみに頼ってはおれぬ」

「そうおっしゃると見込んで、パシオ殿とは話をつけておりまする。カピタン・モールの不始末は、イエズス会の名の下に、ロドリゲスの追放をもって雪ぐ、と」


 村山は小声で語り、懐から書状をちらつかせた。

 長谷川が足を止める。一呼吸遅れて村山も立ち止まり、二人は向かい合う。


「ツズの排除……。よもや再び、その好機が訪れようとはな」


 長谷川が語るその名は、貿易統制の障害たる人物の通称。豊臣の頃より政に深く食い込み、将軍の傍らで商才を振るう通事、司祭、ジョアン・ロドリゲスを指す。その追放は最重要であった。

 村山は頷く。


「内府が求めるのは貿易であって、オマケとばかりについて回る伴天連の布教活動は悩みの種でした。それに比べて、伴天連が求めるのも悩みに思うのも、面白く正反対。拝金に腐敗した司祭の追放で、この国の拠点を生き永らえさせられるのであれば、応じざるを得ませんからな」

「哀れなものよ。自らの首を絞めると知りながら」

「内府の意向と照らし合わせても、ツズの後釜はプロテスタントの者に任ぜられましょう。キリシタンは茨の道を歩む時代を迎えます。私も同胞なれば、同情を禁じ得ませぬ」


 村山がわざとらしく袖を濡らす振りをしたのを、長谷川は「よく言えるものだ……」と呆れた。


「……私は幕府で動く。等安殿は近辺の浜や島に漂着した南蛮人がいないか調べよ。船代に色を付ける程度には利用できるだろう」

「取り急ぎ浜へ。島はやめましょう。かかる人手と時間を鑑みれば、有馬氏に塩を送るも同然です」

「では、そのように。等安殿の勘を信じよう」

「ご要望に応えるのが、商人でありますれば」

「豊臣の頃から代官だろう」

「根っからの商人なもので。あまりに馴染みすぎまして、鞍替えもできやしません」

「そのようだ。頼んだぞ」

「行ってらっしゃいませ」


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 日の出にも早い刻であった。

 格子戸も閉め切り、一切の光がない。ただ遠く、微かに潮騒が耳に届くばかり。それと布団の感触が、自分の居場所を伝える。

 食後、いつの間にか、男は眠っていたらしい。

 早いと言うべきか遅いと言うべきか、ともかく、習慣は中々抜けないものだと思いつつ、鐘もラッパも桶の水もない目覚めは、何とも心地良い。

 温かい食事。きっと夢だったに違いない。そう思わずにはいられないほど、身に余る幸福であったが、何より一擦りだけでハッキリわかる腹の膨らみが、あれが現実であると雄弁に語っている。

 不意にげっぷが出た。

 男は慌てて口を手で塞ぎ、もう一方の手で頭を守った。げっぷは仕置きの理由になる。

 思わず主人の気配を探ったが、ここにいる筈もなく、杞憂だと知り警戒を解いた。気が抜けた途端、胃の入り口あたりで張りの残る感覚が気色悪く感じた。

 意図的に長いげっぷをする。

 今、男がいる客間。囲炉裏の火に灰を被せた広間、土間。寝室の権兵衛のいびきと、寝返りの衣摺。家宅の外で羽ばたくのが烏と知る者はいない。

 褒められたものじゃない。二度とやらないだろう。しかしまた、それをわざわざ耳聡く拾い、咎める者はいない事実が重要だった。

 何やら、悪戯に成功した童のような心地だった。

 そんな蘇った幼心だからだろうか、受けた恩の記憶がありありと想起され……。


(何てこった。お礼どころか、名乗ってすら……)


 失態である。空腹と疲労で朦朧であったとはいえ、救われた恩義への礼儀を弁えずに眠りこけてしまった。と、恥じ入ると同時に、礼はともかく、名乗りに強い抵抗を覚えた。

 主人が無事であれば、自分を探すまではいかなくとも、生きていると知れば取り戻すくらいは考えるだろう。これでも大枚叩いて買われた身、それだけ入った財布を落としたのと同じ道理だ。それにこの肌はこの国で目立つ。幼く弱い時代の本名でも、飼われてからの通り名でも、噂が流れれば、それを手掛かりに主人が来るかもしれない。

 たとえ偽名を名乗っても、主人がここへ偶然来るかもしれない。その場合、偽名を信じた恩人たちに迷惑をかけることだろう。

 しかし、一方で、叶うのであれば……。


(よそう)


 身の程を知れと、自省する。

 一時の親切の甘露に酔いしれ、次もと期待が高ければ、裏切られた時の落胆も増すものだ。

 自分はこの国でも、余りにも異質すぎる。その自覚を持たねばならない。

 今だけだ。きっとこの時は、ぎゅるるぎゅるぐるぎゅるりぎゅるりら。

 今回限りであって欲しい。


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 寝所の障子が乱暴に開け放たれ、権兵衛は跳び起きた。

 続けざまにドンドンドンと、啄木鳥が嘴を拳に変えたような、壁を叩く音。

 何事かと闇に馴れた目を凝らすと、黒く大きな人影がそこにいて、一瞬だけ肝が冷えた。だが、正体に思い至るのもすぐであった。


「な、何じゃい、どうしたんじゃ!?」

「ミ、ミュラー!?」

「みゅら……三浦先生んことか? もうお帰りじゃ。昼間まで待てい」


 権兵衛が格子戸を開けて月光を取り込むも、曇りがちの時期に夜明け前、心許ない灯りを頼りに、駆け込んだ南蛮人の姿を照らす。


「それよりじゃ、もう動けるんか……おお!?」


 引きつった黒い顔に脂汗の照り返しが目と鼻の先に迫り、南蛮人が何事か叫んでいるが、権兵衛には南蛮語がわからない。必死なことだけはわかったが……。

 驚きの余り壁際まで後ずさりする権兵衛。おかげで南蛮人の全身が目に入る。

 尻を両手で抑え、内股で震えているのだ。

 合点がいって、兎にも角にも手を引いて、共用の厠へ走る二人であった。


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 一悶着あった。

 着いた所に屋根は無く、仕切りも粗末で丸見え。いや、暗闇で見えるも何もないのだが、床板に肝心な穴もあるのだろうが見えない。臭いが臭いなので十中八九は厠だが、男は、本当にここか? と、進退窮まりながらも身振り手振りで権兵衛に伝える。

 なお、急ぎ土地勘頼りの案内で、油皿の灯りすらなく、権兵衛には身振りの仔細がわからない。色々悩んで想像を巡らす内に、ひらめいたのは厠に付き物のアレである。

 権兵衛は当たりをつけて厠を探り、男に平べったいものを手渡した。

 硬く、手の平大、独特の湾曲は、貝殻であった。


(まさか、これに……か!? ぐ!?)


 考える間も、貝殻と権兵衛の顔を見比べる内に、腹の催促で掻き消える。

 辛抱堪らなくなり、床に貝を置こうとしたが、木板に当たる音の代わりに水っぽい音が聞こえた。たまたま穴を探り当て、これ幸いと。


 それにつけても、水墨で描かれたかのような、玄冬の風景である。

 雪化粧、山に黒く生える樹々の枝より垂り雪、その音に首をもたげる牡鹿の凛としたこと。寺の境内に椿咲く。

 磯の方では一際なる荒波が高い飛沫を上げ、ナマコのお土産を磯溜まりに残して引いていく。

 つまり、閑話休題。


 男が一心地ついてからも色々あった。

 藁も干し草もないので、あの貝がそのためのものだと、後で男は気付いた。あの硬さである。切羽詰まっていなかったとしても、その用途を連想する方がおかしい。

 それでも、権兵衛が黙して差し出した二枚目のありがたさたるや。


「カタジケノウゴザイマス」


 主人から教えてもらった唯一の言葉と作法である。もし日本人から受けた仕打ちが恩だろうが仇だろうが、お前は感謝だけ述べていれば良いと。

 男はこれを家路で権兵衛に伝え、平伏せずにはいられなかった。恩があるのは彼だけではない。それに、伝えるのが遅いくらいだ。ならば、他の恩人がおらず、遅くあっても、今すぐ申し上げるしかない。

 今しがたの介助だけではない。どこの馬の骨とも知れぬ異質な異邦人を拾い、治療を施し、眠るばかりの者を三日も家に置き、目覚めれば当人たちでも滅多に口にできないであろう豊かな食事を恵んでくれた。

 感謝が尽きない。

 ぶつくさと便所も一人でできないことへ文句を垂れていた権兵衛も、たどたどしくも懇切丁寧な謝辞を受けて、襟足の辺りがむず痒くなった。普段でも、ここまでキッチリカッチリした礼を受けることがないので、照れ臭さがすぎて、むしろ居心地が悪かった。

 権兵衛からしてみても、男はふくの恩人だった。


「まあ、あの、何じゃ」


 と言うか、日ノ本の言葉を話せるなら始めから……と、喉から出かかった小言を呑みこむ。

 権兵衛は膝を突き、それでもなお自分より頭の低い、立てば自分より大きな男の肩に、その巌のような手をぽんと置いた。


「わしの方こそ、おふくを助けてくれたこと、恩に着る。それとそれは、おふくと三浦先生に言え。早う帰るぞ。冷えて身体を壊されちゃ、あやつらの看病も無駄になる。かたじけないなら、早う良うなれ。それが一番の恩返しじゃ」

「カタジケノウゴザイマス」

「ええから立て」


 男は頭を上げない。言葉が通じないのはこうも厄介かと頭を掻く権兵衛が、置いた手で肩を揺すり、それとなく立つように促す。応じないので、揺する手も徐々に強く、それでも応じず……。


「意固地じゃなあ、おめえ!?」


 権兵衛が全身全霊、同じく意固地なまでの力任せに男を立たせた時。


「もう空が白んじょる。見い」


 権兵衛の指す先を追い、男の目が細む。手で庇を作る。

 東の空が明るく、山の稜線にまばゆい輝きが顔を出す。凍える冷気はまた清浄に澄み、雪化粧が手伝って陽光は増々美しく、徐々に浜を照らす。

 男は、思わず見入っていた。


「おはよう」


 知らぬ言葉。首を傾げる。


「こっちが通じるかのう。おはようございます」


 最後の方は聞き覚えがあった。この国で感謝を表す言葉と一部を同じにする。だから、きっと彼が言ったのは、自分に伝えたいことなのだろう。


「ほれ、おはようございます。おはようございます」


 今度はゆっくり、一字ずつ発音し、一回目の方は男に何かを差し出すように、二回目の方は男から何かを受け取るような手を作った。


「オァ、ヨゴザイマス」

「ああ、おはようございます。……まあ、その内、慣れるじゃろ。良か朝じゃ」


 うんうんと頷きながら、朝日を眺める権兵衛。ふと、思い出したように男に向き直る。


「権兵衛、三浦、権兵衛」


 自分、山の方、自分と指し、自己紹介を試みる。男が最も聞き慣れた人名を挙げて、わかりやすくしたつもりらしい。

 実際、男はその意図を察知したようで、権兵衛を指して言う。


「ゴメス」

「権兵衛じゃ。まあ良か。して、おめえは?」


 権兵衛が男に指し返す。

 男は逡巡する。名を知られたことをきっかけに、主人とのおぞましい日々に戻るのが早まるかもしれない。偽名を名乗るのも、ここの者たちの不利益になりかねない。

 となれば、仕打ちの別なくできるのはこれしかない。


「カタジケノウゴザイマス」

「言葉がわからんで構わんが、土下座はやめい!」


 日の出を迎えた漁村、晴れ模様に人が次々と浜に姿を現す。平伏す噂の異邦人と、それを諫める権兵衛の構図に人々は奇異の目を向けつつ、口々に勝手な妄想で噂をし合う。


「何して腐っとるんじゃ、この外道が!」


 当然、その中にはふくもいて、良からぬ妄想を描いた上に、権兵衛の横っ面に誅伐の飛び蹴りを食らわせるのだった。


「カタジケノウゴザイマス」

「礼なんて良かねえ!」


 取り乱した末に、間の悪いこれまでの謝辞であった。


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 昼の権兵衛宅に、三浦の大笑い。珍しく粗野な振る舞いで、膝をばんばん打ち、声が裏返っていた。

 眼前にはその後、誤解も解けて土下座するふく。

 口に含む重湯を呑み、彼女を指して男が権兵衛に言う。


「カタジケノウゴザイマス?」

「こりゃ違う」

「アーッハッハッハ、はー、おかし! あー!」

「もー、やめとくれよ、先生……」


 ふくは見せる顔がないと言いたげに、両手で覆った顔を横に振った。

 対して、蹴りを食らって赤腫れた横顔をさすりつつ、権兵衛は言い捨てた。


「わかればええんじゃ、わかれば。全く」

「もー、ごめんってば」

「いやあ、笑い納めに良いものを拝んだ」

「ちょいと先生!?」

「ごめんごめん、この話はここまでにしよう」


 それでだ、権兵衛……。と三浦は話題を変えた。


「彼が話した僕らの言葉は、さっきのあれで、名乗りは嫌がっていたんだね?」

「大体は、そうじゃ。嫌がるでなし、申し訳なさそうじゃったがの」

「作法の先入観かもしれないね。いずれにせよ、名前は言えないわけだ」


 三浦の目が眼鏡越しに、無心で重湯を頬張る男を捉える。それに気付いた男は、目を丸くして首を傾げた。


「お二人さん、少し席を外してくれるかい」

「先生、内緒話かい? どうせあたいらに南蛮言葉はこれっぽっちもわからんよ」

「そうじゃない。これは礼儀にかかわること」

「それもそうじゃな。権兵衛どん、あたいらも飯じゃ、飯」

「うち、大したもんはなかとぞ」

「何でも良か、こういう時はの」

「へいへい」


 二人を客間から見届けて、三浦は居住まいを正して男に向いた。男も、食べかけの椀を盆に置いて応えた。


「主人の下へ戻るのは嫌かい?」


 時が止まったかのような、静かな間。ただ窓より差す陽光の傾き、ふくら雀の声のみが、世が流れている証明であった。

 やがて、男は重い口を開いた。


「ここまで手厚く扱っていただいたことに感謝しています。その上、これ以上ご厄介に、いえ、ご迷惑になる真似だけは避けたいです」

「恩を笠に偉ぶらない姿勢は評価するよ」

「恩だなんて……全く身に覚えがなくて……」

「記憶の混濁かな……まあ、それは置いておこう。それよりだ、病身に厳しく当たるのは憚られるけど、僕らの事情を笠に言い逃れようなんて感心しないよ。僕が尋ねているのは、君自身の心のことだ」

「……今申し上げたことも、私の本心です」

「では他に、君のここは、どうしたいと言っている?」


 胸に手を当てる三浦。促されるように、同じ仕草をする男。


「……恐ろしく、感じます」

「何を恐れるんだい?」

「……申し訳ございませんが、言葉にしにくいです。ただ、今の私、この穏やかな時間が、遠からず終わるのが……」

「要は、戻るのが嫌と言っているも同然なんだよ」


 うっ、と男は息を詰まらせ、ためらいながらも頷いた。


「君は奴隷だろう。その上、待遇もすこぶる悪い」


 少し間を置き、ぎこちなく、再び頷く男。


「驚かないんだね」

「庶民の方はともかく、あなたなら、この姿で一目瞭然かと」

「買い被りだけど、ご期待に応えようか。君はできるだけ露出を避けたい。主人を引き寄せたくない。名乗らないのも、それが理由だ」

「……おっしゃる、通りです」


 三浦は忌々し気に、深く溜め息を吐いた。


「……今のは、法然……あ、昨日、君に鳥肉を持ってきた僧侶ね。法然が言っていたことなんだ」

「言っていた、とは……」

「僕が言ったこと、始めから終わりまでさ、鞍馬。もっとも、僕の偏見で眉唾な話を除いた、ほんの一部の上澄みだけどね。まあ、本当に買い被りだったって話さ。それでも的中させるあたり、あの和尚、本当に何者なんだか……」

「ちょっとお待ちください。……クラマ?」

「法然の言う通りだったら、君に授けろと言われた名前だよ。これで君は名乗らずに済むし、偽名を通す必要もない。僕らが勝手にそう呼んだんだから、騙したことにはならない。本当は、君の意見も聞いておきたかったんだけど、いつまでも呼び名が無いのも不便だしね」

「三浦様……」

「ああ、勿論、気に入らなかったなら、あの坊主には僕から話をつけるから、後で別の名前を……」

「いえ、ありがたく頂戴します」

「そうだろう、やはり一方的では……え、そう?」

「はい。勿体ないほど良い名をくださり、ありがとうございます」

「気遣いなら無用だよ」

「本心だとお気付きでしょう」

「……そうかあ」


 何故か三浦は、不満そうだった。


「どうしてですか」

「うん?」


 要領を得ない問いだが、曖昧にでも三浦は受けた。


「おふくさんはどうして、私を助けたのでしょうか。いいえ、おふくさんだけじゃない。私を家に置いてくださる権兵衛さんや、治療を施してくださった三浦様、貴重な食料と、名前まで下さった法然様。それどころか、ここの方々まで、さも当たり前のように手を差し伸べてくださっている」

「だからそれは、僕らも君に恩が……」


 首を横に振る鞍馬。


「少なくとも、ここに着いた時はそうじゃなかった。こう言っては何ですが、私の見てくれは、貴方方にとって異様なはずです。それなのに何故」


 一族は蹂躙され、住居の質など飼い主と同等はおろか、同じ屋根の下は言語道断、治療は命の危険を伴う仕事の対価でしかなく、食事は常に後回しで、名前など管理を簡便にする記号でしかなかった。

 常に損得と嫌悪感がつきまとってきた、これまでの仕打ちに対して、ここでのそれはもはや持て成しである。

 今の境遇の方が良いのは言うまでもない。

 しかし、あまりの落差に、鞍馬は空恐ろしく感じていた。

 三浦が鞍馬の心情を知る由はない。

 ただ、知っているのは、浜の集落の過去についてである。


「見てくれ、ってよりかは、境遇……だね」

「境遇?」

「ここの人はね……」


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 一方、囲炉裏端で権兵衛とふくは、重湯の残りに目刺しと漬物を合わせていた。

 目刺しの硬い肉を繰り返し噛みしめながら、ぽつりつらつらと権兵衛が言う。


「あの調子じゃったら、あやつ、三浦先生が言うより早く癒えるやもしれんのう」

「ん」


 ふくは、殆ど糊のように柔らかい重湯を噛みしめて、頷いた。


「何じゃ、歯切れが悪いのう」

「目刺しはそういうもんじゃ」

「そういう話じゃなか。蹴りのことなら、もう気にしとりゃせん」

「そうじゃなか」

「お、おう。まあ、ええんじゃが」


 ふくは箸を椀から外し、思案気に重湯を眺めた。炭が爆ぜるが、気にも留めない。

 権兵衛は、食膳に残ったものを全部ちょちょいと重湯に混ぜて、一息に平らげた。一息ついて、口を開く。


「ご両親のことか」

「……おっとうとおっかあのことは、栓の無いことじゃとは思う」


 椀の中、重湯は当たり前に凪いでいる。

 だが、ふくの追憶の中の海は、希に見る大時化だった。

 小山ほどある大波を行く小舟、何もかも掻き消す嵐の轟音に紛れてハイヤ節が浜に届く、あの嵐の日。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 記憶は揺らぐ。

 ハイヤ節に引かれ、嵐よりも前の日々へ。

 昔のこと。幼いふくは元々、山を越えた里側の麓に、両親と共に暮らしていた。

 木こりと炭焼きを主に、山郷の営みに生きる父の元へ、浜から母が嫁いだのだと言う。

 ふくは一人娘だった。両親の愛を一身に受けて健やかに育った反面、健やかが過ぎて、有り余る元気で両親を振り回していた。一家に幸せな悲鳴は尽きなかった。

 例えば、ある日の夜の家庭。

 父は手慰みに木彫りの人形をこしらえて、ふくに与えることがある。その晩、かれこれ三つ目が出来上がる頃には造りも精緻になり、ふくは家族が揃ったと喜んだものだった。

 元気っ子が喜んだ、のである。それはもう人形一家を全員抱えて、家中を駆け回って、手のつけようがないほど喜んだ。

 束の間であれば微笑ましいが、この騒ぎが夜通し続く予感が過れば、親はたまったものではない。

 寝かしつけようにも渋られ、子守歌は歌い出しでつまらないと評される始末。そこで母は「どうね、ふく。お人形さんのハイヤ節、聞くかの」と、ふくの興味を惹き、両親人形を借り受けて、楽し気な囃子を披露した。

 三味線の一つもない、木彫り人形の足踏みだけのハイヤ節は、眠りを誘いそうな寂しさを湛えていた。しかし、元は酒宴の唄と踊り。ふくの頭は冴えるばかりで一向に寝つかず、どころかおかわりをせがむ始末だった。

 記憶は返る。嵐を行く母とおくるみ。


「寝ん子は、コトリば招くぞ」


 記憶は更に捻じれる。樹の幹に刺さる鳶口。

 記憶の順序を正す。鳶口の柄に布を巻き直す父は、寝ないふくをたしなめるつもりで呟いたのだろうが、縁起でもないと言って母は父を本気で殴った。

 ふくは、幼心に何がそれほどいけないのかわからなかった。可愛らしい小鳥が来るのなら、幾らでも夜更かしをしたいと両親に告げた。


「ふくや。コトリは、コトリでも、子供を盗ると書いて子盗りじゃ。ここの領主は無慈悲なお方で、子供を攫うと噂なんじゃ。攫われた子は、二度と戻れんらしかよ」

「おっとうとおっかあとも会えんくなると?」

「そうじゃ」


 きょとん顔のふく、理解が及ぶと、途端に涙が滲み、わんわんと泣いた。

 嫌だ、とか、盗られるなら父と母と一緒が良い、とか、最早ふく自身でも何を口走っているのかわからないほど錯乱し、両親は慌てて我が子をなだめるのだった。

 結局、子盗りが来れば両親が追い払うと約束したのが良かったのか、ふくの不安は和らぎ、泣いた疲れが勝って、いつしか寝息を立てていた。

 記憶は絡まる。濡れそぼった身体で、布団の中、無力に横たわる。

 その記憶は近いが、順序を正す。

 このように目が回る日々であったが、こんな幸せがずっと続いてほしいと願う親心は、ふくも知らないことである。

 その時が訪れたのは突然だった。


「進物じゃ! 進物じゃ! 領主様に進物を持て!」


 里の者が里中を駆けて触れ回るその文句は、事前の集会で厳に示した隠語である。

 異教に心酔した領主が、村々の子供を攫い、その総本山に捧げていることは、かねてから噂となっていた。それは、その魔の手が迫っていることを、暗に知らせるものだった。

 それを耳にした子持ちの者は、一斉に血の気が引いたことだろう。

 何の騒ぎか尋ねるふくに母は答えず、葛籠の肥しになっていたおくるみを何故か大急ぎで引っ張り出し、ただ父の様子を一緒に見に行こうと、ふくを連れ出した。

 繋いだ手が、恐ろしく冷たい。

 程なくして、大挙して里へ押し寄せる領主の家臣団。隠語を耳にするのが遅く、逃げ遅れた者は広場へ集められ、困惑する里の衆に構わず、その内の一人が書状を広げ、山々にまで届く声量で、仰々しくそれを読み上げた。

 キリシタンになるべし。さもなくば童を伴天連の進物に捧げるべし。これは領主、有馬晴信公の命である。

 歯切れの悪い返事しかできない里の衆を鼻で笑いつつ、家臣団は本気であると伝えるためか、里の衆の前に仏像の首を見せしめに転がした。霊験は変わらず、しかし、慈悲深く穏やかな表情は虚勢のようで、滑稽にすら見えた。

 にわかにどよめきが里に広がる。怯え以上に反発が、人々に伝播する。

 古い寺は不要。偽りの神仏を祀る寺社の資材は、真の神を崇め奉る南蛮寺の建造にこそ用いるべし。各々方はキリシタンになるにせよ、伴天連の進物になるにせよ、真に尊き教えをこの地に広める礎となる。これは領民の誉れである。

 同時に、その崇高な使命を阻む者は、領主、ひいては神に仇成す不埒者であるとも。

 それが家臣団の言い分であり、大義であった。

 声高の布告に、僅かでも反発の意思を、それこそ戸惑いでしかない振る舞いを見せれば、大義名分の下、武士は容赦なく抜刀し、その者を問答無用で斬り捨てた。


「二言はない。各々、弁えよ」


 最後通告に対し、里の衆の中でも喧嘩っ早い連中が先走り、抵抗したのが皮切りだった。

 一度、暴力に傾けば、形式的な徴集が実力行使の乱妨取りに変じるのは一瞬だ。

 百姓ばかりの集落である。野良仕事を通して力は十分持っているが、技は全くの素人。最初の内は抵抗できても、両者を兼ね備えた武士には及ばない。ましてや武士は集団。連携が加われば決着は一瞬である。


 山の中腹、遠くの無数の悲鳴が届く。ふくは不安げに両親の顔を見比べた。身を屈めて息を潜める。かくれんぼの気安さではないとは、肌で感じていた。

 大丈夫だと言い聞かせる父の顔は強張っていたが、精一杯、柔和に努めていた。父は、雀を獲る網をどこに張っているか、母に伝えていた。

 だが、猶予は残されていない。一家の家近くにまで武士の手が及び、中に人がいないと見たか、山を探せと檄が飛ぶ。この山、寺を有してはいるが、小さく狭い部類だ。見つかるのは時間の問題だった。

 そもそも武士らの手が回るのが早い。おそらく、降伏した者から、どこの家にどういった家族が住んでいるか聞き出したのだろう。

 武士らは目ざとく、藪に人が分け入った跡を見つけ、一家が身を潜める山中へ、狩人の如く足を踏み入れる。

 武士の足音と声が迫る。


「わかっとるな、おたつ。行け!」


 母の背を押し、何を思ったのか急に立ち上がり、杉の切り口に噛ませた楔に目がけて、斧の背を全力で叩きつけた。


「倒れるぞ!」


 と、白々しく雄叫びを上げ、武士らの方へ杉を倒す。慌てふためいた後、口々に怒声を浴びせる武士に、父は追い打ちとばかりに次を仕掛ける。今度は丸太を支える歯止めを鳶口で抜いて、斜面を転がしたのだ。

 その騒動から急ぎ離れる母の懐に、ふくは抱えられていた。

 父はどうするのか。幼心に湧く不安も、母の必死な顔を見上げると、口には出せなかった。口に出す前に、武士の叫びで引っ込んだ。

 二人を見つけたと、仲間に知らせる叫びだった。

 ふくたちを追う武士の草摺りが速まる、かと思えば突然音が止んだ。雀獲りの網が絡まり、もたついている。母は、山道と獣道を巧みに駆けて、武士の足止めになる道を選んでいたのだ。

 その隙に、母は山を越え、寺を過ぎ、足色が衰えたところに武士の気配を感じて、境内裏手の墓地の道すがら卒塔婆を倒して道を遮る。

 急場とは言え、亡者の供養に建てられた卒塔婆を倒したためだろうか。にわかに雲行きは怪しくなる。空に雷鳴が轟き、土砂降りの雨の最中、二人は一目散に浜の実家へ飛び込んだ。

 実家は祖母の一人暮らし。洗濯物を急いで取り込む手を引っ張られ、訳もわかっていない様子の祖母の事情など捨て置いて、息も絶え絶えの母はふくを祖母に押し付けて「あたいとふくは海に出る」と言いながら、持ち出したおくるみでその場にあった漬物石を包む。

 ふくを祖母に預けておきながら。


「領主の子盗りじゃ!」


 祖母のうろたえに先んじての一言。それで全てを理解した祖母は、ふくに床下に隠れるよう言う。身をよじって嫌がり、祖母を離れて母に縋るふくを、母は力尽くで張り倒した。


「言うこと聞けん子ば、コトリが盗るんじゃぞ!」


 赤らみ、じんじんとする痛みの残る頬を押さえて、ふくは泣いた。母は今まで見せたことのない、とても悲しそうな顔を見せ、ふくを置いて代わりに漬物石を抱えて海へ向かう。

 自然と後を追おうとするふくを祖母は手籠めにし、できるだけ声が漏れないよう、祖母は共に布団の中へ潜った。

 大勢の男らの声と足音が、豪雨に紛れて聞こえる。母の姿を見つけたようだった。

 足音が祖母の家から遠ざかる。

 ふくが僅かに落ち着きを取り戻すと、さしもの祖母も寄る年波には勝てず、抱きしめていた腕が緩む。その隙にふくは祖母の腕を解いて布団を、寝室を抜け出す。裸足で土間へ降り、玄関の前へ。

 前後も不覚になる豪雨の中、その光景は、雷光が直撃したように、はっきりと目に焼きついている。

 速足で浜辺に行く武士たちの背。その向こう、大荒れの海原を、櫂を漕ぐことすらままならぬはずなのに、一艘の小舟が行く。轟く雷鳴、荒れ狂う雨と波の音に掻き消されそうな、それでもふくの耳に届くほど通る声の、懐かしいハイヤ節。歌い手は母、いつ転覆してもおかしくない舟上で必死に立ち続け、おくるみをこれ見よがしに掲げている。

 尋常ではない光景に、さしもの歴戦の武士たちも慄いた。人の身で踏み込めない領域と化した荒海に、細身の女が船出し、災禍をものともせず歌って見せている。武士たちはその光景に釘付けになり、おくるみを、中の漬物石をふくと信じ込んでいるようだ。

 母が歌い終え、ふくは母と目が合った気がした。

 次の瞬間、母は満足したように身を海に投げた。

 大船すら呑みかねない荒海に、重い石を手放さず。

 それとほとんど同時に、祖母がふくの手を引いて、急いで家に戻した。

 魂が抜けたようになったふくに、祖母は絶対に布団から出るなと言い聞かせて、確かに布団で大人しくしているのを認めた後、大雨の浜へと駆け出して行く。


「おたつー!」


 皺枯れた声を張り上げて、祖母は武士らの元へ駆ける。

 武士らの塊を掻き分けて、真っ直ぐに波打ち際へ歩を進め、膝上を海に濡らしながら、我が娘の名を呼び続ける。

 ふくの母の壮絶な最期を目の当たりにし、胆を抜かれたある武士が正気に戻り、祖母を砂浜へ連れ戻す。連れ戻された祖母はその武士に縋って泣いた。


「娘が、娘が孫を連れて来たと思えば、今生の別れじゃ言って……お侍様! お助けくだせえ! 何卒! 何卒! 後生でごぜえます! 何卒……!」


 泣き崩れる祖母の姿を見下ろす武士。懇願が無意識に彼の首を海原へ動かす。大波小波入り乱れる海上に舟と追い求めた娘らの影はない。その影を切望せど、蘇る姿は嵐を背に鬼気迫る最期。身の毛もよだつ光景である。


「……あ、あの女は、伴天連の、……伴天連を」


 武士の脳裏に、おぼろげに浮かんだ糸口が、徐々に明確な意味を得る。糸口が確かな物になると、途端に武士は威勢を取り戻し、声を荒げた。


「そう、伴天連を拒んだ不届き者だ! 唯一全能のデウスを頂く伴天連を受け入れれば、斯様な末路を辿らなかった! 故にあれは伴天連の威光を恐れた悪鬼が化けた者だ! 各々方、天は我らを鬼退治のお役目にお導きくださったのだ!」


 誰からともなく鬨の声が上がり、次第に神を讃える標語に変わる。盲信の熱気は嵐をも味方につけるかの如く過熱し、武士らの意気は白熱する。

 異様な解釈を耳にした祖母は、雨が口に貯まるのも気に留めないほど呆然と武士たちの顔を見上げている。


「この老婆、如何様に」


 自分たちの過ちに気付いて尚、目を背ける武士たちは、老い先短い老婆に布教をしても役に立たないと言い捨て、一人、また一人と浜を去って行った。

 母の意を受け、祖母、一世一代の演技と、心からの本音が入り混じる慟哭が、嵐の中に木魂する。

 この世にはもう、母もふくもいないことになったのだ。

 布団の中、勝手に盛り上がる武士らの鬨の声を耳にしても、ふくは身じろぎ一つせず、死んだように横たわっていた。

 祖母まで失うのではないかと思い至るまで。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 ふくの両親、祖母は覚悟していた。

 仮に領主の子盗りが起これば、一家に逃げる術はない。領地の外へ出るにせよ、一家三人の道中、無事である保証もない。キリシタンなる教えに従えば見逃してもらえるという話もあるが、どこまで信頼の置けることか。

 ならば、一人娘だけでも死んだと見せかける他ない。

 鞍馬は言葉を失った。

 今、海は遠く、渚は凪いでいる。嵐の夜もあっただろうに、海とはかくも常に穏やかなものかと錯覚するほどに。

 ふくの瞳に映る海は、如何な模様か。

 三浦も沈痛な面持ちで、眼鏡を外し、目頭をよく揉んだ。


「ここの領主はキリシタンでね、それも熱心な。キリシタンになれば助ける話も、捧げる子供の数が足りなければ、貧しい家を見繕って、子供を差し出させたらしい」

「……何てむごい」

「ああ、むごい所業さ。さすがに人の心も離れた。元々、この浜はおふくさんの祖父母くらいしか住んでいなかったんだけど、それ以来、領主の目から逃れるように人が移り住むようになった。皆、当時の被害者さ。話を聞いた他の漁村の人も、皆を哀れに思ってね、海の暮らしもままならないだろうと、漁を教えるために移り住んだりしてね。普通に生きたい願いと、それを助けたい思いが集まって、今の浜の賑わいになったわけだ」

「ですが、だからと言って、その輪の中に私が入る余地など」


 住民のみの話である。同じ国の者ならまだしも、漂流した異邦人まで迎え入れるのは、さすがに人が好すぎる。自分は特異な姿をしているが、それでもここの住民からすれば、余計な教えを伝来させた異邦人の一派である。

 三浦も、その感想はもっともだと頷いた。


「きっと、君を見つけたのがおふくさんじゃなければ、ね。……海に消えた母親が、君の姿に重なるところがあったんだろう。それこそ、居ても立っても居られず、濡れた着物を厭わないで急ぎ僕を呼びに来るくらいにはね」


 それは、つまり。


「ここの方は、私よりも、むしろ、過去の惨劇を想えばこそ……」

「その考えは無粋だ」


 ぴしゃりと三浦が一喝する。


「皆の本心は、僕も与り知らないさ。それは君も同じだ。けれどね、どうあれ君は皆の支えで生き永らえた。その事実は変わらない。おふくさんが君を受け入れたからだ。そこから君が信頼を勝ち取った結果だよ。招かれざる客と自嘲するくらいなら、おふくさんだけじゃなく、皆からの哀れみも全て自分のものだと、素直に受け取りなさい。でないと、おふくさんは、君が想像するような、皆が哀れむ女性のままだ」

「……私は……、私は、どうすれば……」

「どうすれば、って、鞍馬、何度も言うように君はもうおふくさんを盗賊から助けているんだ。……君は、人の痛みを想像できる稀有な人だ。だから、どうしても改めて自分の意思を示したいのなら、君が考えていることが、正しいと僕は思う。自信を持ちなさい」


 鞍馬の伏せた目の先には自分の両手がある。布団を握り締めたそれを解き、返して、じっと手の平を見つめた。

 その色は、この国の者に近しい色合いだと思った。

 おもむろに、鞍馬は椀を取り、すっかり冷めた重湯を一息に掻きこんだ。


「おふくさんに、お伝えしたいことが」

「どんなことを?」

「この国の言葉で、伝えたいのです」


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 ふくの追憶、その余韻。

 ここからの記憶は、夢が入り乱れているかもしれない。

 祖母まで失う恐怖が過った幼いふくは、いつの間にか、またも布団から抜け出して、幽鬼のように嵐の浜を呆然と眺めていた。

 その姿が、捕えるべき母子を悔恨を残す形で失い、意気消沈する侍の目に留まる。

 ふくに逃げる気力はなかった。

 このまま手を引かれ、祖母からも引き離されるだろう。わかってはいたが、理性は心の奥底に閉じ込められたようで、全く情が湧かなかった。

 侍たちが、ふくへ向かって歩みを進める。

 その両者の間に、黒い羽を広げた人型が突如として天より舞い降りる。

 黒羽の人は怒り狂った雄叫びを上げて錫杖を振るい、刀を抜いた侍たちを相手に、たった一人で圧倒していく。遊環鳴り響く大立ち回りを制したその者は、烏の顔をした天狗であった。

 この話をしても、心の傷故に、記憶が混濁したのだと思われる。忌々しい思い出と紐づけられているため、今ではふくですら思い出しもしなかった。

 母を失ったふくの傷は深く、長く声すらも失っていた。

 生気もなく、ただ時が零れ落ちるばかりの日々を、唯一の肉親である祖母と過ごす。否、正しくは、祖母の近くで置物になっていた、と言うべきだろう。それでも、祖母は甲斐甲斐しく、ふくの世話を焼いてくれた。

 しかし、ふくの記憶は堅牢に封をされたように重く、断片的だ。

 ほとぼりが冷めた頃に、祖母に連れられて、生家へ帰ることがあった。ふくの私物や、母の遺品を運び出すためだ。

 道中、荒れた墓に、打ち壊された寺を見る。

 張られたままの雀獲り網に、干からびた小鳥がかかっている。

 微かにふくの自我が戻る瞬間があった。

 祖母の手を振り払い、獣道を進んだ先に、光る物が見えた。

 木の幹に刺さった鳶口。父の愛用品に他ならなかった。

 一にも二にもなく、鳶口を掴み、頑として固く刺さったそれを、幼い膂力、全身の力で引き抜くと、積もった落ち葉の地面に尻もちをついた。

 手に握る鳶口に温もりはない。

 周りに父の姿もない。

 融けた心が涙となって溢れた。

 ふくはもう、年相応の幼さで、生きることはできない。

 ふくの迎えを待っていた鳶口は、達者で生きろという両親の遺言のように感じた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 床に置いた鳶口を、ふくは愛おしそうに撫でながら口を開いた。


「権兵衛どん、あんた、南蛮人さんを見て海坊主じゃーって言ったじゃろ」

「藪から棒に何じゃ」

「責めとるんじゃなかよ。あたいも思った」

「……それでよく助ける気が起きたのう」

「おっかあが海に消えてから、あたいはどうすれば良かったんか、ずうっと考えていたんじゃ」

「そげな無茶」

「そう思う。けど、考えた。一緒に逃げれば、おっかあは石と一緒に沈むことなんてなかった。仏様のお導きがあって、別の浜に流れ着いたかもしれん。でも、あの嵐の海のごり恐ろしか様じゃ無理じゃ。それでも……なんて、そげな堂々巡りの繰り返し。おっとうにしてもそうじゃ。足止めなんざ考えんと、一緒に遠くまで逃げれば……けんど、あたいと一緒じゃ侍に追いつかれたじゃろうし。実は全部、悪か夢で、二人ともひょっこり海から上がって、山から下りて来るかもしれんとものう。おかしか話じゃろ。あたいは、ずうっと、おっとうとおっかあの間をクラゲみたいにゆらゆら漂っとったんじゃ」

「おめえは浜におる。魅入られてなか。ちゃんと海から上がっておる。人にもちゃんと頼れておるし、面倒見も良か。そげん悩まんでも、しっかりしとるわ」


 権兵衛の語気は強かった。


「……アハハ、そげんはっきり抜かされっと、調子が狂うんじゃが」

「そりゃ、わしの台詞じゃ」

「……そうじゃな、お互い様じゃった。……ありがと」

「んん、今、何と?」

「何でもなか。……でじゃ、もう考えているのも気付かんくらい考え続けての、白状すると諦めたんじゃ。親が蘇るでもなし、栓無しじゃとな。けど、磯であの人を見た時はあれじゃが、弱り目じゃとわかった時には、細かいことは抜けて、気付いたら身体が勝手に動いとった。助けられた。南蛮人さん、ああしてちゃんと飯も食っておる。じゃからって、昔の口惜しさが消えるわけでなか。……じゃけど、肩の荷が下りた気がしたんじゃ」


 ふくの視線が、椀から権兵衛に移った。


「おっとうとおっかあは、こんなんで浮かばれたんかの」


 ふくは気丈だった。告白の中身に似つかわしくないほど、普段通りに。自らの心に暗い影を落とす記憶に向き合っているにもかかわらず。ふくの苦悩は当人だけのものだが、いつしか両親の冥福について気にかけているあたり、その問いかけは、彼女の中で整理がついたことを意味するのだろう。

 権兵衛にふくの両親を知っているが、ほとんど覚えていない。ましてや家庭内の様子など。それでもきっと、互いに大好きだったのだと感じた。

 肩から降りた荷を解けば、きっと両親の心残りがあったに違いない。


「ああ、極楽からこっちを眺めて、自慢の娘じゃ孝行者じゃと胸を張っておるじゃろうて」


 いつになく柔らかな顔を浮かべる巌のような男に奇妙なむず痒さを覚えながら、ふくは何だかくすぐったくなって、微笑み返すのだった。


「御免」


 玄関から聞き慣れない声がした。

 呼ばれて家主の権兵衛が戸を開けると、これまたどこかで見たような見ていないような男が寒さに身を縮ませて立っていた。笠と蓑を着込んでいてわかりづらいが、恰好からして農民のようだ。

 胸元に、木組みの十字を下げている。


「どなたかの」

「山向こうの里の藤吉と申す。急に押しかけてすまんが、尋ね事で近場を回っておる」

「こげな年の瀬に?」

「庄屋様が、成果に至れば褒美をくださるんじゃ」

「ほう、そりゃまた結構なお遣いじゃ。して、ひょっとして、盗賊のことか?」

「盗賊?」

「ついこの間、追い払ったんじゃ。そっちは見ておらんのか」

「いやあ……さっぱりじゃのう。こげな年の瀬に難儀なことじゃったのう。大事なかとか?」

「浜一番の別嬪が怪我を負った」

「何と」


 そう言って囲炉裏のふくを指差す権兵衛に、ふくはわざわざ近寄って、バシッと背中を思い切り叩いて、元の場所に戻った。背中越しの耳が赤い。


「いやいや、要らん心配のようじゃの」


 藤吉は良いものが見れたとばかりに、ニヤニヤとした。

 権兵衛は背中をさすりながら、バツの悪そうに話に戻る。


「盗賊じゃなかとなら、如何なことじゃ?」

「まあ、そう畏まらんで聞いてくれ。そうそうある話でもなか。何でも、庄屋様は南蛮人を探しておられての」


 権兵衛はもちろん、広間で目刺しを噛んでいるふくも、思わず息が止まり、暑くもないのに嫌な汗が出た。

 気取られないよう平静に努める裏で、藤吉の言葉の続きが辛うじて耳に届いた。


「海沿いに漂流しているやもしれんとのことじゃ。何か思い当たることはなかか?」

「ううむ、何者かでも流れ着いておるんじゃったら、ここらで噂になるはずじゃが……そんな話は聞かんのう……」

「その、盗賊が来た日はどうじゃ? そもそも盗賊が南蛮人じゃったとか、人目を掻い潜るような人影を見たとかいう話は」


 権兵衛は顎に手を当てて髭を撫でながら、思案気に上向いて考える真似をした。背後で不自然なまでに微動だにしないふくに、内心で自然に振る舞えと念じながら。


「そうじゃ、のう、浜一の別嬪さんや、あんた、盗賊の顔は見たかい?」

「ヘビとカエルみたいな面じゃったけど!」


 上ずった声の早口で、背を向けたまま答えるふくを怪訝に思う藤吉。権兵衛が慌てて、あまり思い出させるなと注意したことで、その疑念も紛れた。

 藤吉は肩を落として、白い息をぶはぁと吐いて、息に顔が隠れた。


「そうじゃよなあ。ま、覚えておいとくれ。南蛮人を見かけたら、わしに教えてくれんかの」

「それは構わんのじゃが……そちらの庄屋様は何故、南蛮人を探しておいでなんじゃ?」

「それが、実はのう、詳しくお尋ねしても教えて……いや、あのご様子じゃと庄屋様もご存知ないのやもしれんのう……。察するに、お上からの下知のようじゃして、火付、盗賊の類、あるいは下手人か……」

「何とも曖昧じゃのう……。よもや名や人相までわからんのか?」


 そう問われた藤吉は、きょとんと目を丸めて、間を置いて盛大に笑った。


「いやいや、漂流する南蛮人じゃぞ? それだけで中々おるまいよ。一目見ればわかるじゃろう」

「そうじゃろうがの、知っての通り、生憎ここらは田舎じゃ。わしはこの目で南蛮人を見たことがないんじゃ。こやつがヘビだのカエルだの言う面がどうかは知らんが、気が逸って見間違えを伝えても迷惑じゃろ?」

「それは……確かに具合が悪かねえ」

「じゃろう? 大体で構わん。南蛮人じゃとわかる人相を教えてくれんと?」

「とは言うが、あれじゃろう……髪は黒か赤、鼻は高けえ、目は窪んどる、肌は白か赤らんでおるかくらいで……わしもこれ以上は知らんぞ?」

「ふむ……承知した。思うところがあれば、知らせるからの」

「かたじけなか。では、これで失礼」

「ああ、待て。里の方には盗賊が出たと伝えてくれんか」

「おうとも。飯時に邪魔したの」


 藤吉が戸を閉めると同時に、権兵衛は気の抜けた声を流しながら、胸一杯の息を吐き出した。固まるばかりで何もしなかったふくも一緒だった。

 一先ずは誤魔化せた。と、思って良いだろう。


「あ、そうそう」


 と思った矢先、再び戸が開き、隙間から藤吉が顔を出す。権兵衛とふくは心臓が飛び跳ねるような思いで、慌てて居住まいを正した。


「なな、何じゃあ驚かせるんじゃなか!?」

「おっと、こりゃまた失敬。言い忘れたことがあっての」

「な、何じゃ……」

「ここの干鰯は良か肥しじゃ。来年はもっと庄屋様へ卸してくれんか?」

「お、おう……わかった。皆にも伝えよう」

「頼み申す。娘が育ち盛りの食べ盛りでの、実入りは多いに越したことばなかでな。まこと、かわいかぞ。里一番の別嬪になるとぞ」

「ハハ、そりゃあ結構じゃ」

「では今度こそこれで……あ、それと」

「今度は何じゃ!」

「……良かお年を」


 ニカッと気持ちの良い笑顔で藤吉はそう言い残し、その足音が遠ざかって行く。緊張はなかなか解けなかったが、数刻して、今度こそ去って行ったことを確信した。

 広間の縁にどかっと腰を落とす権兵衛は、土壇場から生還したかの様に息が上がっていた。


「紛らわしかのう! 肝が冷えたわ!」

「あ、あたい、変じゃなかったかい?」

「おふくは何もせんかったじゃろ……」


 障子の向こうで耳をそばだてていたのか、三浦がもう藤吉は行ったかと、広間の二人に問いかけた。帰ったと伝えると、音を極力立てずに障子が引かれ、作った隙間から三浦が首を出す。


「いよっ、二人とも、役者だね」

「いや、頑張ったの、わし……」


 まあまあと権兵衛をなだめ、三浦は囲炉裏端に腰を下ろす。眼鏡を正して、考えを整理するように、誰に語るでもなく切り出した。


「しかしまた、妙な話だ。南蛮人の捜索なら伴天連が先んじるだろうに。キリシタンに顔が利くこの地なら尚のこと。今は、お役人の出る幕じゃ……」

「それよりも……じゃな……」


 ふくは、僅かに憔悴した様子で言葉に詰まりながら、やっと重い口を開いた。


「あの人、何ぞ悪かことしたんじゃろか……?」

「んな訳なかぞ。見りゃわかるわ」


 三浦が口を開く前に、権兵衛が語気を強めて割り込んだ。男の救助に自身の無念を重ねていたふくの手前、根拠がなくとも黙っていられなかった。

 しかし、やはり根拠がなければただの不思議な慰みで、きょとんとするふくと、目も合わせられずに力む権兵衛の対比が、何とも微笑ましく思いながら、三浦は助け舟を出す。


「ま、名指しはおろか、あれだけ目立つ外見のことも触れなかったんだ。もっと難儀な事情があるんだろうさ。それに、彼の人柄は僕も保証しよう。伊達に南蛮言葉で話してないんだから」

「……うん、そうじゃな」

「そうそう。この話は彼の口から聞くまで気にしないこと。僕も港に寄った時にでも調べてみるよ」


 やることが山積みだと嘆く三浦は、気を取り直して二人に知らせた。


「彼の仮の名を、これから鞍馬と呼ぶことになったんだ」

「先生、何故鞍馬なんじゃ」

「和尚様と賭けに負けて……」

「まーた和尚かい。先生も、そりゃ悪癖じゃぞ」

「あー、耳が痛い。ほら、名前が決まったんだから、二人とも挨拶しておいで」


 三浦にぐいと背中を押された二人は、話に納得できないものの、この場合は名付けを祝うべきか謝るべきか考えあぐねつつ、男のいる客間に移る。


「呼び名が決まったらしいの。……鞍馬」


 と、権兵衛が自分を指して言うのに男が指し返した。


「ゴメス」

「だから権兵衛じゃ」

「ねえ、鞍馬」


 呼び止めてふくは、胸に手を当てて、初めて男に名乗った。


「お、ふ、く。ほれ、呼んでみとくれ。お、ふ、く」

「オファック」

「おふくじゃが」


 鞍馬の名誉のために言及するが、この言い間違いで多くの人が連想するであろう単語はポルトガル語で「フォデル」であるため、彼にそのような意図はないことは確かにしていただきたい。

 現に、鞍馬は深々と頭を下げている。

 それは、南蛮人らしからぬ、日本の礼儀であった。


「オファク、ガンバッタ。クラァマ、タスカル。カタジケノウゴザイマス」


 ふくが驚いたように目を丸く見開いた。瞳に光がよく集まっているように見えた。


「うん……うん、こちらこそ、かたじけのうございます」


 居住まいを正して、鏡返しのように頭を深く下げると、ふくはすぐに柔和な笑みを作って、空の椀のある盆を持ち上げた。


「おかわり、いるじゃろ?」


 二杯目の重湯は、ふく自身が震えてなかなか盛れないようだったが、文句を言う者も、広間に聞き耳を立てる者もいなかった。

 ふくの涙で味を変えないようにと思えば思うほど、落涙は止まらなかった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 黄昏時のある島の浜。

 ひと気のない時刻に、一人の男がうろ覚えの念仏を唱えながら、漂着物を漁っている。

 ここ数日、浜に着く物が多い。多くは木片であったり、焼けて駄目になった物であったりなのだが、この男は偶然に無事な生糸を見つけて以来すっかり味を占めて、ごみ漁りが日課となっていた。

 貧しい島では年も満足に越せない者も多い。したがって金目の物はありがたく、きっと仏様が哀れに思われて島にお贈りくださったものだと、男は調子良く解釈していた。

 それでも、祈りを絶やさなければ信心は本物にも見えよう。

 しかしながら、生糸よりこの方、目ぼしい物はなく、そろそろ潮時かと思っていた矢先のこと。

 木板に覆い被さるように、うつ伏せに倒れた人影を見つけたのである。

 仏は拝んでも、こちらの仏は望んでいない。と、心底勘弁してほしいと思う男。

 しかし、遠目ながらその姿は人の形を保っている。万が一にでも息があるかもしれない。それに、最初の生糸に釣られてこの方、仏の哀れみも全く音沙汰がなくなって、諦めようかと思った矢先に見つけた人である。これもまた仏様の導きであれば、実は名のある豪商で、助けた暁には、生糸など目ではなくなるほどの褒美を取らせてくれるかもしれない。

 そうとくれば、一刻も惜しい。

 男は人影の元へ急ぐ。声をかけても揺さぶっても返事はない。

 恐る恐る仰向けに返した途端、男は悲鳴を上げながら腰を抜かし、後ずさった。

 顔から胸元にかけての皮がない。

 体格からして男、それも武人の作られた身体。削がれたのか焼けたのか、頬肉をごっそり失い歯が剥き出しになった表情は、さながら赤い肉の髑髏のような面で、目蓋も無く見開かれた目は血走り、怨念さえ感じられた。鬼が居れば、このような顔かもしれないと、男は思った。

 あまりに恐ろしい形相に、浜漁りの男の目が滑る。すると、流れ着いた男の腰に、見慣れぬ形の短刀が携えてある。柄に護拳が設えてあるそれがカトラスと呼ばれることは、知る由もない。

 カトラスが夕陽に眩く、柄に使われる真鍮の色合いはまるで黄金のようにも見えた。


「ええい、もうこれっきりじゃ。これっきり」


 未知なる宝への欲に負け、男は免罪を乞うように念仏を唱えつつ、震える手をカトラスに伸ばす。鬼に近寄るにつれ、念仏は強く、手は重くなっていく。

 手が柄に触れた瞬間、ギュルと鬼の瞳が男を向き、鬼の手が男の手を跳ね除けて、流れるようにカトラスを抜く。


「うわぁぐぶっ……!?」


 口を狙い突き刺したカトラスは男の舌を押さえ、刃にガチガチと歯が当たる。命は獲らず口腔を僅かに切るに留め、声のみを殺す、技の光る一刀であった。

 屍かと思われた鬼が、息を吹き返す。むせ返り、海水を吐いて、辛うじて息が整った後、顔から胸にかけて走る激痛に苦悶しながら立ち上がる。潮風に皮下が晒される痛みは、いっそ素直に死んだ方がどれだけましなものだったか。

 とっくに手を離れたカトラスが、ようやく男の口から滑り落ちた。

 逃げる機会は今しかない。そのはずなのだが、男は恐怖のあまり、砂浜に尻を縫われたような心地だった。


「有馬あ……長谷川あ……徳川あ……おのれ、おのれ……」


 両手で顔を覆い苦悶する、ある筈の肉の手触りを見失った鬼が、呪詛めいた声音で、人の名を繰り返す。


「お、怨霊……」


 鬼の目が指の隙間越しに男を睨んだ。怖気づいた男の喉に、息とも悲鳴ともつかない空気がかすれた。

 顔から離した片手で、砂浜に刺さるカトラスを抜き、幽鬼の如くふらふらと立ち上がる。カトラスの切っ先を男に向けた。


「薬と食事を寄越せ。さもなくば殺す。私はカピタン・モールだ」


 カピタン・モール、アンドレ・ペソアは流暢な日本語で言い放った。

 しかし、目の前の男は怯えて震えるばかりで、使い物にならないと判断する。

 アンドレは血肉を欲していた。

 辺りを見渡すと、遠く灯りが見える。集落か野営か、何にせよ、人が居れば物もある。目の前の軟弱者が当てにならないのであれば、自らの足で探せば良い。

 男に興味を失くしたアンドレは、カトラスを構えた手をだらりと下ろし、ふらふらと灯りを目指して砂浜を歩み始めた。

 鬼が男を避けて、集落に足を向け、通り過ぎて行く。

 恐怖に心臓が逆転しそうな男だったが、自分の故郷を目指す得体の知れない化け物は、さすがに看過できない。


(ちくしょう、ちくしょうめ。これっきり、これっきりなんじゃ)


 生まれてこの方、度胸とは無縁の男であった。だが、生まれて初めて、ノミほどのちっぽけな度胸が奮い立ち、握り拳を作り気合を入れて、震える両足を叩いて御し、鬼と共に漂着したであろう木板を手に、鬼の背後へ忍び寄る。

 板を振りかざし、鬼の頭目がけて振り下ろす。


「猿が」


 忍び寄ったつもりでも、砂地で、歩調も合っていない。砂を踏みしめる音の鳴り放題で追跡など、見つけてくれと言うも同然だ。

 アンドレは、覚束ない足取りが嘘のように身を翻して板の一撃をかわし、男が面食らっている一瞬に背後へ回る。片腕で首を絞め、間髪入れずに無防備な首筋へカトラスを突き立て、即座に引き抜いた。

 血の噴水、日没の刻。ノミの度胸に差す光なし。

 絶命し、倒れた男を、カトラスの血を舐め取りながら見下ろすアンドレ。おもむろに男の身ぐるみをはがすと、着物を引き裂き、即席の包帯を作る。痛みが酷い箇所にその包帯を巻くと、今度は男の首を斬り、それを携えて再び集落へゆらゆらと歩みを進めた。


「これで、話も、早くなる……くく、くくく……」


 首の断面から滴る血。気紛れに吸うアンドレの口元は、表情を失ったとは思えぬほど、歪んでいた。

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