第4話 歳神

 新しい名を得て以来、鞍馬の回復力は目覚ましかった。

 元より、衰弱した上で肉体を酷使した状態で、衰えるどころか旺盛な食欲があるのだから、不思議ではないと言えばそれまでなのだが、そもそもその前提からして驚異的であった。

 重湯から雑穀の粥に変え、加えて集落の衆の厚意で寄せられる食材も「カタジケノウゴザイマス」と律儀に礼をし、出された分は余さず平らげる。訪問医の三浦は仕事であるからともかく、権兵衛やふくの熱心な看護の手前、おかわりは遠慮していたが、腹五分目にも満たないことを虫の音で白状し、苦笑しつつ腹を満たす。人と囲む食卓に笑いは絶えなかった。

 プラムの塩漬けは今も苦手だが、残せばふくに怒られるので、米と合わせて頑張って食べている。シトラスの香りがする味噌のゆべしが楽しみになった。

 身体もかなり楽になってきた。散々苛め抜かれてカラカラに乾いた身体も瑞々しい張りを取り戻し、心なしか一回りも二回りも大きくなったようだと言われた。見る見る逞しくなる鞍馬に、権兵衛は一方的に対抗心を燃やし、二人はいつか力比べをする約束を交わした。

 肝心の火傷はさすがにまだ完治とはいかないが、それでも三浦を唸らせる生命力で、予想の倍は治癒が早いと言わしめるほどだ。今は湿布も半分で済んでいる。

 しかし、いくら快方に向かっていても前回ではない。今でも鞍馬の療養の場は病床が主で、殆ど家から出ない生活である。鞍馬の体力が戻りつつあると、それに従って目覚めている時間も長くなる。

 そして、きびきびと働く漁村の民。日中は静かで話し相手も限られた。いよいよ時間を持て余す。

 要は暇なのである。


「もっと言葉を学びたいと?」


 三浦がその申し出を受けたのは、鞍馬が長く起き上がっても平気になった頃だった。

 湿布を貼り換えてもらいつつ、鞍馬が首を縦に振る。


「ご厄介の上でおこがましいかと存じますが、皆さんと、皆さんの言葉で話せるようになりたいです」

「構わないけれど、どういう心持ちだい?」

「働いてお礼をしたいのです。会話ができれば、その助けになるかと」


 ほう、と三浦は感嘆し、頷いた。


「手習いに来る子供たちにも見習って欲しい姿勢だよ。感心、感心」

「手習い……三浦様は師匠までなさっていらっしゃるのですか」

「……うん……まあ、そうね」


 三浦は含みがあるのか歯切れ悪く、自信なさげに目を逸らして言った。鞍馬の怪訝な視線に気付くと、気を取り直して勉学の話に戻る。


「その気なら、今からどうだい?」

「しかし、三浦様、お仕事はよろしいのですか?」

「大晦日までは結構暇なんだよ。一二月は師も走るってのにね」

「……?」

「……ああ、師も走る? ってのは……えっと、まあ、言葉を学んでいけば、今言ったことの意味もその内わかってくるさ。それじゃ、とりあえず、権兵衛やおふくさんに伝えたい言葉から始めていこうか」

「……でしたら」


 この日、権兵衛の帰宅を「オカエリナサイ」と迎える声が増えた。同時に、ふくの来訪もまた「オカエリナサイ」で迎える。

 顔を見合わせて驚く二人をよそに、三浦と鞍馬は悪戯を成功させた童のように微笑み合った。


「驚いただろう。彼、教えたら教えただけすぐ覚えるんだ」

「あ、ああ……真に驚いた。わしらの名は曖昧じゃってのに」

「この間みたいに三浦先生が?」

「そんなのどうでも良いじゃないか。それより、ほら、二人とも、お帰りって言われたら?」


 狐につままれた心地の二人だったが、三浦の指摘ももっともだったので「ただいま」と答えると、鞍馬は言葉が通じたことに喜びを覚えた。

 ふくの料理に「イタダキマス」と頂戴する声も増えた。

「オイシイ」「コレ、ナニ」「ミソガユ、オカワリ」「ゴチソウサマ」言葉が通じるだけで、代わり映えのない献立も、何故だか豊かになった気にさえさせた。

 日本にそういない黒い南蛮人。二人は無意識に、姿が異なるだけで、どこか遠い存在と感じていた。しかし、こうして自分たちの言葉を通して示す意思に触れてみると、自分たちと何も変わりもしない。

 同じ囲炉裏を囲む人間だと、気付かされた。


「ゴーベー・ドン、オフウク・サン、カタジケナイ」


 礼の言葉にこめられた慇懃が砕けて、鞍馬と彼らを隔てる壁もまた、同じく崩れていくのだった。


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 三浦が町の用事でしばらく帰らないと告げてから数日、浜の集落がにわかに慌ただしくなる。

 ふくはともかく、権兵衛まで台所に立ち、普段では考えられない量の料理を作った上にほとんど手つかずのままで置いた時から、鞍馬は奇妙さを覚えていたが、翌日には家々で煤を払い塩を拭い、隅々を叩いて埃を浮かせ、徹底的に掃除が始まった時に、いよいよただ事ではないと悟る。

 それは鞍馬が厄介になっている権兵衛の家でも例外ではない、のだが。


「なしてこう、おめえは家事の手が遅いんじゃ、権兵衛どん! ほれ、さっさと高いところから埃と煤を叩く!」

「へいへい、しっかりやるとも」


 あまりに遅い掃除の手に痺れを切らしたふくが、権兵衛の家に押しかけて、はたきをずいと押し付けた。


「そうそう、しっかりじゃぞー。……ああ、それと、煤は集めて置いておくんじゃぞ」

「煤をか?」

「鞍馬どんのことば思い遣るなら残せよって、法然和尚がの」

「まーた和尚と。何に使うんじゃ」

「知らん。じゃけど、悪かことやなかとよ、きっと」


 平時と異なる焦燥感に満ちた集落の雰囲気も相まって、鞍馬はおろおろと手伝いを申し出たが、汚れは怪我に障ると、ふくに突っぱねられてしまった。

 鞍馬が療養する客間も当然掃除するわけで、鞍馬は着物にどてらを重ね着させられて、七輪を焚いた縁側に追い払われた。我がことながら不甲斐なく思う鞍馬だったが、無理をして今までの彼らの看病を無駄にするのも忍びなく、気遣いに甘えるを良しとした。

 急須に白湯、松の葉を入れて香りを移し、湯呑であおれば、身体の芯からじわりと熱が巡る。吐息は一層白く、こんな何でもないものが妙に楽しい。

 しかし、火に当たりながら、ぼおっと水平線を眺めるばかりでは、何とも場違いな気がしてならない。

 会話を覚えたところで、やはり概ね暇なのである。

 忙しそうに人が行き来するのを見ると、鞍馬はそわそわしてくるのだった。

 そんな往来の一人が、権兵衛の家の近くを通りかかり、足を止めた。


「おや、鞍馬どん。外でだなんて珍しい」

「こんにちは、アー……おナミさん?」

「はい、こんにちは。覚えててくれたのかい? 嬉しいね。……おや、七輪」

「はい、とても、暖かい」

「そうだね、暖かか。あ、さては大掃除の間、追い出されたんだね? 今日ばかりは仕方ないけど……そうだ、ちょいと待ってておくれ」


 なみが来た道を帰って行くと、しばらくしない内に戻って来て、イカの一夜干しを盛った笊を鞍馬に差し出した。


「お食べよ」

「アー、いけない。おふくさん、見る、ない、怒る。もらう、だめ」

「良いんだよ、どうせ亭主が酒の肴にしちゃうんだから。ほーら、もうゲソ炙っちゃった」

「アー、ウーン……、おふくさん、シーッ」


 口先に人差し指を立てる鞍馬。秘密を示す仕草を、そのまま真似るなみ。


「ええ、ええ。シーッ、ね」

「かたじけない」


 鞍馬はいつも通り、正座で居住まいを正して深く頭を下げた。


「あはは、やっぱりその言葉だけ達者だとむず痒か。ま、嫌いじゃなかよ。またね」


 干物の焼ける香ばしい香りと、なみの押しの強さに負けて、鞍馬は仕方なくそれを譲り受けた。

 悔しいかな、海を眺めながら、手ずから七輪で炙るイカは格別だった。


「お、鞍馬じゃ。……こりゃこりゃ、七輪で炙るんじゃったら味噌たまりは欠かせんじゃろ」

「あら、鞍馬どん。……お餅、たまりで焼くと、ぼっくい美味かよ。どうね」

「よう鞍馬どん。何じゃ、塩気ばかりじゃのう。干し柿、どうじゃ。医者いらずじゃぞ」

「濃いのう。どれもこれもばり濃か。柚子茶飲め、柚子茶」


 とまあ、通りがかるのはもちろん一人だけではない。

 人が通りかかる度、あれよあれよと言う間に見舞いの品が増えた。品の面々はともかく、量だけを取り上げても、托鉢ですらなかなか集まらない数である。

 こうして面と向かって施してくれるのは、単に異邦人への好奇心からか、少しずつでも集落が受け入れてくれたからか。人々の本心は鞍馬の知るところではなかったが、いずれにせよ、受けた恩を返しきれるか、鞍馬は彩り豊かな味覚に舌鼓を打ちつつ、内心でありがたい悲鳴を上げていた。

 ふと感じた人の気配に顔を上げる。

 家の陰に隠れて覗く、指を咥えた子供が三人、羨むような視線を向けていた。色々と七輪で炙っている内に香ばしさが広がったのだろう。三人の目当ては明白に、鞍馬の手の内にあった。

 鞍馬は三人を手招きした。

 戸惑って顔を見合わせる三人の内、意を決した様子で年長らしい男の子が前に出る。

 鞍馬は割くなり千切るなりで分けられる物を半分にして、大きい方を男の子に差し出した。男の子はためらったように食べ物と鞍馬の顔を見比べた。

 その迷いにずいと食べ物を割り込ませ、鞍馬は勧める。


「残る、ダメ。分ける、シーッ」


 ためらいがちに手柄杓を作る男の子に半ば強引に食べ物を渡し、鞍馬は微笑む。

 男の子は逸る気持ちが抑えきれないように、力任せにお辞儀をし、踵を返して残り二人の元へ駆けると、三人揃って跳ねるように走って行った。

 途中、振り返って、三人は手を大きく振りながら、口々に元気よく礼を述べて走り去った。

 鞍馬も手を振り返し、それを見送る。

 元は鞍馬が受けた厚意。おいそれと譲り流すのもどうかと思った。

 だが、決して自由ではない集落の生活に、我慢は多い。その我慢した分を、どこから来たかもわからない余所者に、普段は我慢を強いてくる大人が施し続けるのは、子供からすれば気分が悪いだろう。

 滅多にない出来事で、見知りの大人の手から贅沢品が離れるのだ。余所者を笠に目こぼしがあっても、構わないはずだ。

 何より、受け取った食料が多すぎるのが、いかにもそうしてくれと言わんばかりなのだ。

 どうやら、素直になるのを恐れるのは、鞍馬だけではないらしい。


「ご馳走じゃな」


 平坦な声音にゾッとして振り返ると、開け放たれた雨戸の隙間から視線が刺さる。ふくがこちらを覗いているのだ。きっと、子供たちの溌剌さに誘われたに違いない。

 手元の食べ物と雨戸の視線を往復する内に、鞍馬は困り果てて、恐る恐る食べかけのイカをふくに差し出したのだが、「いらん」と一蹴されてしまった。

 これは多分、素直な部類だろう。


「じゃ、わしが」

「権ー兵ー衛ーどーん?」

「やっぱり何でもなか」


 鬼気迫る女に怯える権兵衛が見せるのも、やはり素直さであろう。


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 すっかり埃を払った屋内は相変わらず古びていたが、それでも少し明るく、ただでさえ澄んだ冬の空気が清らに至る。

 一段落済んで、権兵衛とふくの二人は大掃除の仕上げを玄関に設える。


「おふくさん、これ、何」

「ん? これは、注連縄、じゃ」

「スメヌァワ……権兵衛どん、持つ、竹?」

「ああ、山で切ってきた。こりゃ、門松、じゃ」

「ケドゥマツ……スメナウア……何?」

「何、と言われても……ねえ」

「ねえ、も何も、正月の飾りじゃ」

「ショーガッツォ……?」

「そう。正月。年越しのお祝いじゃ」

「オイワイ……」

「この一年を無事に過ごせたお祝いと、これからの一年が良い年になるように願うんじゃ」

「おお……ん? ……ああ、大事?」

「そう、大事じゃ」


 二人が玄関に飾る見慣れない物に興味を惹かれる鞍馬。おおよそ丸ままの青竹に松の枝を括りつけたのを玄関の両脇に一対立てている。戸口の上にかけた放射状の藁の注連飾りは、橙の太陽を背負い、まるで羽を広げて天を仰ぐ鳥のようだ。

 目を惹く。ならば飾りは立派。これがこの土地で重要な儀式だと直感したが、ふくの返事を聞く限り、正しかったようだ。

 しかし、何がどう重要なのかはよくわからなかった。


「三浦先生がいれば、詳しく教えてくれるんじゃがのう」


 噂をすれば、山の方から牛の鳴き声。車輪の回る音が、三浦の到着を告げる。手を振り呼び声を上げる三浦に気付いた者から、口々に三浦らの帰りを周りに伝え、我先にと彼らの元に集う。

 三浦は集まった衆をなだめつつ、付き人と手分けして荷を捌いた。


「丁度良か。品の配り終えにでも、休んでってもらおうかの」


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 風呂敷を解くと、大きな餅が目立つ。他は酒に黒豆、屠蘇散、他調味料など。

 特に砂糖は上物、なかなかお目にかかれない逸品となれば、腕が鳴ると言って、ふくは早速、鉄鍋で黒豆を炊き始めた。

 囲炉裏に五徳、網を据えて、跳ねる体勢に縛った鯛を焼くのは権兵衛の仕事だ。その気になれば海の幸に糸目をつけなくても良いのは、漁師の役得だ。

 広間から聞こえる南蛮言葉の会話も、調理の加減に没頭するのに打ってつけの囃子である。


「年末……? 年はとっくに越したはずでは」


 鞍馬がさも当然のように言い放った言葉の意味を三浦は中空に求め、やがて難しい顔が合点のいったように解けた。


「ポルトガルとは暦が違うんだよ。僕らの年越しはこれからなんだ」

「暦が別に……?」

「わかるよ、奇妙な感じだ。あたかも天に定められた秩序のように思っていた暦ですら、人間の都合で決めたものだなんてね」

「ええ。海を渡った時よりも、余程、世界が広く感じます」

「ほう、それは……鞍馬には、学者の素質がある」

「滅相もございません。ところで、掃除や玄関の飾りは、年越しに関係が?」


 謙遜した傍から。と、三浦はクスッと息を漏らした。何か変なことを尋ねたかと心配そうにする鞍馬に、何でもないと告げて、やはり素質があると心に呟くと、三浦は問いに答えていく。

 曰く、この国の年末の風習は、家々に神を迎えるためにある。神の目に留まるよう目印として玄関を飾り、大掛かりな掃除をし、神の宿として餅を用意する。こうして迎えられた神は豊かな一年を授け、人々の魂を新しくするのだと言う。

 他に物忌みや、振る舞われるご馳走の食材一つにまで、細かい意味が込められていることを、鞍馬は知った。

 行事には意味がある。

 改めて考えれば当たり前なのだが、鞍馬は久しく忘れていた。幼くして両親から授かった知恵はおぼろげで、以降、半生の大半を人未満の者として必死に足掻いて来た。行事のある特別な期間は、鞍馬にとって精々、主人のお零れにありつける、少し得な日という認識でしかなかった。

 生きるのに精一杯で、文化の意義に注目する余裕はなかったのだ。


「どこか痛むかい?」


 三浦の心配に、首を横に振って鞍馬は答えた。


「ただ、胸が一杯で」


 そうか、と、多くは尋ねないよう、三浦は鞍馬の言葉の裏を噛みしめるようにした。汚れを払い、より透明な空気に包まれた浜は、直前までの騒がしさとは打って変わって、氷のように静かだった。

 ただ、豆を煮る甘ったるい香りが人の気配を知らせている。


「さて、僕もそろそろ、やり残した準備にかかろうかな。薬は多めに置いておくけど、何かあったら山の寺まで権兵衛を寄越しなさい」

「ええ、三浦様。お忙しいのに、今日までありがとうございました。また来年もお世話になります」

「それは、ここの皆にも言ってあげなさい」

「そうですね。良いお年を」

「良いお年を。そうだ、年末年始の挨拶、覚えておくかい?」


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 島に歳神来訪の兆しはなく、鬼が流れてより、死者五名。

 一人は斬首され、見せしめとばかりに島民の前に晒され、脅迫材料とされた。この時、鬼は海難坊と名乗ったという。

 これに薪割りに鉈を持った男衆二名が対峙し、果敢に挑むも、海難坊の洗練された剣技の前に瞬殺。この時に殺された男の内、一名の妻がこれに逆上し、背後から遺品の鉈で不意打ちを試みるも、一太刀も浴びせることも叶わず、あえなく斬り捨てられる。

 島民側の僅かな発言より、家主夫婦を失った家があると推測した海難坊は、現場に居合わせた者に案内させ、残された一人娘を拘束の上、人質にし、家を占拠。

 以降、食料と薬を要求し、幾日か。

 物資を持つのは指名した女性一名に限り許される。運悪く指名された女が、ある日、鬼を呼ぶ時にぽろっと「海難坊様」と呼び、怒りを買う。島民の耳には「海難坊」としか聞こえない名を繰り返し叫び、許しを乞う女の口に奇怪な短刀を突き立てる。

 短刀は女の喉からうなじを貫き、絶命。

 もう幾つ、家の前に首が晒されることになろうか。島は年の瀬どころではなくなっていた。

 それでも、次の運び手は無慈悲に指名されるのだ。


「おい、あんたら、何の用じゃ」

「今は構う暇などなか。去れ」

「聞かんか」


 年明けも間近に迫ったある日のこと。

 新しい女が来る筈の日。

 根城の外がにわかに騒がしくなったかと思えば、一人の男が海難坊を訪ねた。

 邪魔をすると一言、返事も待たずに男が戸を開くや否や、男の顔の真横と戸枠の僅かな隙間に、銛が飛ぶ。銛は真っ直ぐに勢い衰えず、向かいの家の壁を穿った。

 男は瞼の一つですら全く動じない。代わりに、外野の喧騒は一気に鎮まる。

 海難坊は感心したように、微かに唸った。割る必要のない豆を手癖に任せて砕き、粉々になったのを口に運ぶ。

 男の風体は、くたびれているの一言に尽きる。伸び放題の髪を乱暴にまとめ、髭の手入れはずぼら。顔は皺が深く、老いたようにも見えるが、ピシッと伸びた姿勢や雰囲気からは、見た目とは裏腹に若くも見える。

 それは、男の瞳が銛に一瞥もくれず、海難坊を見据えているからだろうか。

 男が敷居を跨ぐと、ちゃぷ、と、手に下げた瓢箪から水気の気配がした。


「ここへ来ても良いのは女だけと伝えた筈だ」


 豆を片手で砕きながら言い凄み、男を睨み返す海難坊。着物を切り裂いて拵えた包帯で顔を隠しているが、一面血と脂が浮かんでおり、目は濁るも灯りを受けて爛々と輝き、裂けてめくれた口から牙が覗いている。

 その傍ら、刃の届くところに、人質の娘が縛られている。髪は乱れ、目は虚ろ、しかし痩せてはおらず、必要最低限の食事は与えられているようだ。

 ただ、ここ数日縛ったままにしては清潔に過ぎる。生娘にとっては、下の世話を鬼にされるのは相当堪えたのだろう。

 そんな恐ろしい風貌をじっくり眺めても、男はどこ吹く風で、おもむろに懐から取り出した物をひょいと海難坊へ投げ渡した。

 海難坊は手中の豆に構わず手で受け取った物をまじまじと見つめた。床に豆がばら撒かれる。

 男が投げたのは魚の干物である。開かれて平たくなっており、表面が塩の粒で覆われていた。


「何のつもりだ」


 問われて男が初めて口を開けた。


「似ても似つかないだろうが、バカリャウのつもりだ。故郷の味が懐かしかろう、ポルトガル人」


 海難坊、もといカピタン・モール、アンドレ・ペソアは、目蓋があれば目を丸く見開いていたことだろう。

 バカリャウとは、タラの塩漬けの干物、そのポルトガルでの呼称である。タラの身がペラペラに薄くなるまで徹底的に水分を抜くため、長期保存できる代物だが、手にしたそれは、お世辞にもそんな手間をかけたようには見えず、急ごしらえにもなっていないように見受けられた。

 それでもである。


「まさか、このような僻地の、貴様のような異邦の者の口から、バカリャウの名を聞けるとはな。……しかし、本当に似ても似つかん」

「こっちじゃ棒鱈と言う。拵えた分は使い切ったところでな。今あるのはまだ半乾きだ。本来、塩も振らん」

「南蛮人でなく、ポルトガル人と呼ばれたのも記憶にない。何故わかった?」

「昔、海難と聞き違えた言葉がある。仕事仲間がふざけて名乗っていたカピタン……あ奴はポルトガル人だった。バカリャウも、そいつの手土産だった」

「聡いな。話の分かる御仁、それも真に海の漢とお見受けする」

「恐縮。俺は、伝三だ」

「マカオのカピタン・モール、アンドレ・ペソアだ。デンゾー、氏は何と?」

「ない。ただの伝三だ、アンドレ殿」


 そんなばかな、とアンドレは内心で男の嘘を笑った。ただの平民の口から、ポルトガルやらバカリャウやらの言葉が出るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 ただ、当人に言う気がなければ、無理に聞くことでもなかった。


「まあ良い。特別に許そう。座れ」

「感謝する。その前に、そのバカリャウもどきの塩を落とそうじゃないか。囲炉裏に炭をくべて焼けば格別だろう。酒もあるぞ……げ」

「どうした」

「懐が湿気た塩で粘っこい。気色悪い」


 余りにくだらなく、アンドレは日本に来てから始めて腹の底から笑った。

 外野の野次馬は、家から漏れ聞こえる笑い声に騒然となった。


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 バカリャウもどきは所詮、塩辛いだけのタラの干物。網を置いて炭火で炙ると、身に閉じ込められた脂が浮かび、熱に当たって爆ぜた。

 皮目の焼ける香ばしい香りを肴に、故人から拝借したぐい飲みを手に、伝三は自分の酒を注ぎ、アンドレには手酌した。人質の女に微かに残った自我が、目で助けを訴えていたが、伝三は気にも留めなかった。

 アンドレは、今度は割らずに豆を口にした。


「して、カピタン……モール? の部分は知らんが、ともあれ頭領であろう。位の高い御仁が、寂れた島に如何なる用があろうか。ましてや護衛の一人も付けずに。……一体、何があった?」

「……ふん」


 伝三が酒を飲み干したのを見届け、口吻の失せたアンドレが酒を煽る。吸えもできないのは不便だが、天井を仰ぐように注ぎ、舌で受ければ何とかなる。期せずして、その飲みっぷりは品がないものの豪快になった。

 炭火が弾け、火の粉が舞う。

 返答はない。再び豆を指で砕き始める。

 それでも、瓢箪の口を向ければ、ぐい飲みは応えてくれる。


「日ノ本が憎いか」


 伝三の脳裏には、軒先に晒された五名の首があった。ならず者とて、窮してなお取る所業ではない。

 酒が違うところに入り、たまらずアンドレは激しくむせ返った。


「貴様の口から出て良いことではないだろう」

「どうかな。俺はこの国が憎いがな」

「私が同類だと?」

「一目でわかったさ」

「結構。では同類だとして、憎む訳を、貴様は語れるのか?」

「徳川に負け、下らぬ命に従い続け、良いように使われた挙句、地位も名誉も剥奪。愛想も尽きたわ」

「……元を辿れば逆恨みでは」

「ハハハ、言ってくれる。事実、これは恨み節だ。祇園精舎の何とやら、今や半ば世捨て人よ」


 容貌を始め、話にも衰退の色が濃いのに反して、その気性は快活な伝三。一転、切れ味の鋭い武士の目に変わる。


「何より許せぬのは、徳川が水軍の力を削ごうと企てておることだ」

「……船を没収する、か」


 伝三は頷いた。

 江戸幕府は慶長一四年九月に大船没収令を発している。マカオの事件の陳弁のため、アンドレが日本に滞在している最中のことである。発令から四半年も経っていないにもかかわらず、辺境の島の民がこれを知るなど、耳聡いだけでは利かないだろう。

 アンドレの中で伝三の評価が上がるのをよそに、伝三は話を続けた。


「この国で名を上げた水軍は、元を辿れば痩せた土地の者。海に活路を見出し、逸早く船手となった野郎どもだ。俺たちはともかく、徳川に貢献した水軍も数多い。にもかかわらず、反逆の芽を摘むつもりか知らんが、豊臣が築いた集権を悪用し、用済みとばかりに切り捨てる。仇だ。我慢ならん。船は物ではない。俺たちの魂だ」


 船乗りとしてアンドレは同意する。今日のポルトガルの繁栄があるのは、オスマン帝国に支配された陸路を避け、海に活路を見出したからこそだ。異国の脅威に抗うにしろ、栄華を得るにしろ、民草の技術発展を支援こそすれ、抑制するなど、自らの首を絞める愚策に他ならない。

 反面、総司令としてのアンドレ、日本を憎む者としては、やむを得ないことだろうと思う。伝三の推察はその通り。加えて、日本の造船技術は遠洋航海に向かず、ポルトガルや西洋諸国が勢力を強める海に進出しても今更だ。もし身の程を弁えず、諸国のガレオン船に並ぼうものなら、今度こそ総力を挙げて撃沈するだろう。島に閉じ籠るような舵取りは腑抜けだが、同時に彼我の差を冷静に分析できればこその指針であろう。

 その点、徳川は臆病だが、悔しいかな、見る目はある。抗うだけの力ある者であったなら、今以上の脅威になっていただろう。

 忌憚のない意見をあけすけにするアンドレの話に、興味深く耳を傾けていた伝三。だが、後半の、下手をすれば幕府を認めるような話を聞くにつれて、不敵な雰囲気は失せ、それこそ抜き身の刀のような真剣さを徐々に滲ませた。


「頃合いだろう」


 そう言って、伝三は焼き上がったタラを、拝借した皿に移した。

 さも焼き加減が気掛かりで真剣だったのだと言いたいような振る舞いが、わざとらしすぎて、アンドレは内心で苦笑した。

 会話のない時間を、かじった肴と辛い酒が埋める。

 タラも酒も、豆も平らげた頃、伝三が口を開く。


「アンドレ殿よ、時間をくれよ。良い物を見せてやる」

「どれだけ待てば、どんな物が見れると言うのだ」

「期間は何とも言えんが、貴殿が喜ぶ物なのは確かだ」

「交渉が下手だな、デンゾー」

「俺ん家に来い。匿ってやるよ。代わりに、そこな娘さんを解き放つこった」


 諦めの漂っていた人質の娘が、パッと顔を上げた。


「話を聞いていたのか?」


 アンドレは鼻で笑い、論外だと突き放した。その理由を問う伝三。


「外の話が聞こえていた。デンゾー、貴様、さぞ厄介者なのだろう。下手をすれば、貴様の家につく前の夜道、諸共葬られる」

「ダハハ、こりゃ耳が痛い。……ならば」


 伝三は酔いに足を取られながら立ち、踵を返して出口へ向かう。娘が必死に呼び止めようと泣き喚いても、足取りは淀まない。淀ませるのは酒だけだった。

 戸を開け放つと、伝三は何者かを呼び寄せるような仕草をした。それに答えるように、静かな、それでいて一歩一歩に気品のある足音が近寄って来る。


「刀と脇差は戸の脇に立てておくれ。……そう、それで良い。入りなさい」


 伝三に従って家に入ったのは、見目麗しい女だった。

 手入れの行き届いた黒髪と吸い込まれるような白い肌の対比が美しく、ピシと着つけた上等な錦の着物すら霞んで見える。この島には勿体ない、器量の良い者だと、アンドレでも理解できた。


「カピタン・モールのアンドレ・ペソア殿だ。ご挨拶を」

「伝三の妻の白菊と申します」


 床に上がり、三つ指をつく所作に隙がない。不釣り合いな夫婦だとアンドレが思った矢先。


「娘さんと交換だ。父母も子もおらん俺が差し出せる中で、最も価値ある者だ。その娘さんのように縛らずとも、こいつは逃げん。貴殿の身の周りを任せてもらっても構わない。無論、指一本でも触れたなら、貴殿を叩き斬るがな」

「気前が良いどころではないな」

「そうか? 俺が本当に交換するものは人質ではない。俺は島民からの信用を預かり、貴殿には一時の安堵と枷の証を預ける。件の良い物を用意するまでのな」


 島民の信用は人質の娘、その解放。安堵と枷は白菊。伝三はそれぞれ指して言った。


「日本人が憎い。私が奥方を手にかけないとは限らない」

「い、いや、頼む。頼むから、それだけはやめておけ」


 伝三の反応は、アンドレが思ったものと違った。明らかに、非常に狼狽している。

 面を下げたままの白菊が、恐れながら、と付けて口を挟む。


「伝三はこれでも貴方様を気にかけておいでです。伝三への礼を欠く振る舞いをなさいましたら、それを境に私めはか弱い人質を辞めますので、そのおつもりでいらしてくださいまし」


 これから人質になるにしては強気な白菊に、家の中の皆が胆を抜かれたようにぽかんとした。これはまずいと伝三が動き、アンドレに小声で耳打ちする。


「アンドレ殿、悪いことは言わねえ。こんな花も恥じらう淑やかな女だが、見くびっては命取りだぞ。俺が白菊に勝るのは、背丈と目方と年の功、あとは顎で使った人の数だけだ」

「お言葉ですが旦那様、年の功も不相応に可愛らしゅうございますよ」

「やかましい。これ見ろ。耳打ちだぞ、み、み、う、ち。聞こえても聞こえない振りくらいしろ。それが愛嬌ってもんだ」

「では、愛嬌のない不出来な妻ではお役目を全うできませぬから、これにて失礼いたしますね」

「待て待て待て。すまん。この通りだ。お前は愛嬌のある良い女だから、頼む」

「貴様ら、私を惚気に巻き込むなら帰れ」


 いつの間にやら夫婦に挟まれる恰好になったアンドレが痺れを切らした。

 夫婦にとっては日常茶飯事らしく、何がおかしかったかわからない様子で、二人して小首を傾げていた。

 この馬鹿馬鹿しいやり取りが彼らの計略なのであれば、アンドレの毒気を抜いて見せたのだから、見事な勝利と言えよう。

 アンドレは大口を開けて、酒気の帯びた溜め息を吐いた。


「わかった、デンゾーの提案を呑む。しかし……顔を上げろ、シラギク」

「はい」


 毅然と見据える白菊の上目を正面から見返し、アンドレが重々に告げた。


「枷は着けん。しかし外出は許さん。他、妙な真似を認めれば、警告せずに斬る。デンゾーがつまらない物を寄越せば同じく斬る。良いな」

「元より承知の上でございます。アンドレ様が外出されず、妙な真似をされず、また、つまらぬモノをお見せにならない限り、仰せの通りに致すと契り置きましょう」

「コラッ、お前! やめなさい! はしたない!」

「構わん、デンゾー。奥方は領分の話をしている。デンゾー、シラギク、それで良い。契約成立だ」

「恐縮の至りにございます」


 白菊は深く頭を下げて応える。伝三は胸を撫で下ろし、アンドレに礼を言った。

 白菊が続ける。


「お望みなら、血判状も交わしましょう」

「デンゾーはともかく、奥方のものも、となると、解釈次第では契約に反する。必要ない」

「あらやだ。伝三様、引っ掛かりませんでしたわ」

「うん? 何がどうした?」

「はあ……伝三様……」


 約定に関しては余りに隙だらけな伝三に眩暈を覚える白菊と、何もわかっていない伝三を見るにつけ、これは確かに尻に敷かれているとアンドレは納得した。

 その後、身辺の整理と称して夫婦が一度引き、再び戻るまで、人質の娘は生きた心地がしなかったという。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 山の頂の廃寺で鐘の音が響く。

 捨てられた寺である。梵鐘など贅沢な物は無く、法然がどこからか持ち寄った半鐘が軒先に吊るされている。これを法然が手ずから木槌で突き、あくびが出るような間延びした拍子を作っている。

 軽く、高い金属音。続け様に突けば急場を思わせるそれも、間延びし森の木立を通せば、梵鐘にも劣らない厳かな音色にも聞こえる。

 同じ境内にある古びた書院では、窓の雪を頼りに三浦隼経が書を紐解いていた。ふと耳に届いた鐘の音にしみじみと感じ入りつつ、新たな年と知識への期待を込めて頁をめくる。

 年跨ぎに一〇八回の撞鐘。一年の締めくくりに、遅くまで起きて聞き入る者は少なくない。

 派手好きの法然にしては正直な除夜の鐘だが、これがいつ破綻するのか、和尚の人となりを知る者はハラハラしながら聞いていた。

 一方、鞍馬は違う意味でハラハラしていた。

 このような行事があることは聞いていたが、聞き慣れない鐘の音が急に何十回と鳴り続けるのである。年越しに集落が慌ただしいのは承知していたが、いつも通り眠る夜半、鐘まで忙しくするものだから、叩き起こされた心地になって、目が冴えてしまったのだ。

 一度目や二度目なら再びの入眠も容易かったが、こうも続けば嫌でも起きてしまう。

 しかし、真冬の真夜中。雲が晴れ、月に星の明かりに加えて夜目に慣れたところで、布団の中から見る物と言えば天井くらいしかない。布団から出て過ごすにも、火がなければ寒さが堪える。家主に断りなく火を起こす訳にもいかない。

 カーン、と、鐘の音が耳に届く。

 眠れない原因でありながら、今や長い夜の友のようにさえ思う。

 しかし、鐘の音のみを楽しみにできるほど、鞍馬はのんびりした性分ではない。変化のない時を過ごすにつけて、退屈しのぎに思案と追憶を繰り返す。

 船の襲撃からこれまでのことは勿論、夢でも苛まれる幼少よりの記憶、そして、これからのこと。

 言葉を覚え、仕事を手伝い、助命の礼とする。決意に偽りはない。

 しかし、その先は。

 浜に定住する考えが過ると、先日、この家を訪ねた里の者の言が気にかかる。長居はできない予感がする。それを抜きにしても、浜の方々の厚意にかまけるのは憚られる。

 最も穏当に自分の身を振るならば、ポルトガルの商館に頼るべきだろう。自分を省みなければ一番話が早く、一番波風が立たない案だろうが、あの生活に戻るなど考えたくもない。

 自力で故郷へ帰る。どうやって。やはり商館に、他国の力を頼ればあるいは。と思ったところで、西洋諸国のどの勢力に頼っても、対応が変わる訳でもない。彼らの言によれば、鞍馬自身は人間ではないのである。

 この国の人々は、自分をどう思うだろうか。

 そう思ったところで、鞍馬は頭を振った。

 この国を頼るのは、少なくともこの国で通用する身の振り方を覚えてからの話だ。とにかく今は、目の前にある借りを返さなければ話が始まらない。

 つまり、目下のところは、尿意に自力で対処せねばならないのだ。

 鐘も、そうだそうだと言うかのように鳴っている。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 権兵衛のいびきを止めないよう静かに、鞍馬は着物にどてらを重ねる。囲炉裏の灰を除けて種火を火箸で扱い、油皿に火を灯す。厠へ行くにも夜道は夜道。前回と違って切迫していないため、準備は抜からない。

 道中の浜、満天の星空に白い息が吸い込まれていく。鐘は相変わらず鳴り止まない。布団の外、身の引き締まる寒空を仰いで聞く鐘の音は、何とも言い表せないが、違った風情であった。

 歩みを進める内に、ふと、小さな灯りと鉢合わせる。

 鞍馬と似た格好をしたふくだった。


「あ、鞍馬どんじゃ」

「おふくさん、こんばんは」

「こんばんは。こんな夜更けにどうしたんじゃ」

「しーしー」

「その言い方を教えたんは誰じゃ? 権兵衛か?」


 理由はわからないが、ふくが凄んで問いただした(しかし正解している)ので、鞍馬は咄嗟に「忘れた」とだけ言った。腑に落ちていない様子だったが、ふくは「これからは厠と言うんじゃぞ」と教えてくれた。


「おふくさん、コンナヨフケ?」


 と、問い返す鞍馬。ふくは山頂を指した。


「じき、一〇八回目の鐘じゃ。折角なら、外で聞こうかとの」


 言う傍から、一際大きな鐘の音がカーンと鳴り響く。耳にするや否や、ふくは嬉しそうに顔を上げ、鼻から胸一杯に深呼吸した。


「新年、あけましておめでとうございます」


 鞍馬に聞き覚えのある言葉がふくから投げかけられた。

 無事に新しい年を迎えられたことを言祝ぐ、一声目の挨拶だ。


「エケマステ、おめでとうございます」


 不格好でも、祝意が込められているのは同じ。

 夜明けは遠く、人々は家中に籠る刻。それでも鞍馬は、通じ合ったであろう心を通し、自分が確かにこの地に生きる一員である気がした。

 静かなる祝祭ながら、それに加わるのを許された。実益に関わる営みでなく、民族の魂へ触れる儀礼に混ざったと言えよう。

 鞍馬自身には何がそのような心情の変化をもたらしたのかわかっていなかった。

 しかし、心は枷が外れたように軽くなったのだった。


「しかし、除夜の鐘……。あの和尚にしちゃ、素直に終えたのう」


 と、ふくがぼやいた途端、山頂で無数の破裂音がけたたましく上がる。

 銃撃に似た音に鞍馬は雷に打たれたようになり、血相を変えて、反射的にふくを抱えて建物の陰に身を隠す。

 砂地に落ちた油皿が二つ、静かに燃え上がる。


「ななな、何じゃ何じゃ、いきなり」

「危ない、おふくさん、ここにいて」

「一体何の話さね?」


 思うように出てこない言葉にやきもきしながら、鞍馬は筒を構えて撃つような仕草をふくに見せ、山頂を指差した。

 きょとんとした直後、合点がいったようにふくは大笑いした。

 怪訝な顔をする鞍馬にふくが説明する。


「ありゃ爆竹さね。大方、和尚が華僑から仕入れたんじゃろう。ほら、あげな続けて放てる筒などなかとね」


 ふくに促されて耳を立てる鞍馬。冷静に聞いてみれば、炸裂音が軽く、連発している割に、音の出所は狭い。今の世に、そのような射撃が可能な銃など、話にも聞いたことがなかった。

 どこかの家から「やかましかぞ! 今何時じゃと思ってるんじゃ!」とヤジが飛んだ。

 夜中に鞍馬とふく、顔を見合わせて瞬き一つですら何だかおかしく、人知れず初笑いに興じたのだった。

 その後、二人して慌てて油皿の火消しに砂を撒いたのは言うまでもない。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 寝正月と言うように、昔の正月に過ごし方も何もなく、三が日は食っちゃ寝で過ごすのが一般的であった。中には初日の出を拝みに出かける者や、退屈で仕方ない子供らがこっそり遊びに出ることもあったが、この日は全国津々浦々、死んだように静かになるのが常だった。

 栄えた地となれば二日には初売りに動くのも珍しくなかったが、浜は田舎で、広く領地を見渡せど決して豊かではない。

 しかし、今年の正月は元旦早々に騒がしく。


「真っ黒被りの煤坊主、釜土に銭でも落としたか」

「真っ黒坊主の煤和尚、爆竹遊びは楽しかろう」


 と、鈴の音に乗せて、子供らの楽し気なお囃子遊びが聞こえるもので、家々から怪訝に思った浜の衆が外の様子を窺うと、気の抜けきったところに不意打ちを食らわすような光景を目の当たりにして、皆一様にギョッとした。


「おー、あけまして、おめでとさん」


 と、子供を引き連れた騒ぎの中心が挨拶するもので、呆気に取られたまま挨拶を返し、一同を見送るしかできない。

 やがてその集団は権兵衛の家の前に着き、戸を叩いた。

 寝ぼけ眼をこすりつつ、渋々と来客を出迎えた権兵衛は、それを目にして夢かと疑って更に目をこする。夢でないとわかった時には、飛び起きるように驚いた。


「よー、おめでとさん」


 来客は、手と顔に煤を塗りたくった法然だった。傾いた長い錫杖の遊環がこすれ、シャンと鳴る。

 権兵衛は開いた口をどうにか塞いだ。


「何があったんじゃ、坊さん。羽根突きで負けが込んだか」


 周りの子供たちが「あー! そうじゃ! きっとそうじゃよ!」と巻くし立てるのを、いい加減鬱陶しく感じていた法然は、白髭を逆立てて喝を飛ばす。子供たちは楽し気な悲鳴を上げながら逃げて行った。

 頭に血が上ったのを、猛々しい息遣いで調伏し、咳払いを一つ、法然は改めて、困惑しっ放しの権兵衛に向き直る。


「鞍馬はおるか」

「お、おう、おるが」

「ほなら、邪魔するで」


 錫杖を鳴らしながら、家主に断りなくずかずかと家に立ち入る法然。煤まみれの異様な出で立ちに気圧された権兵衛は止めるに止められない。

 丁度、雑煮を吸っていた鞍馬は、来客を一瞥、直ちに二度見し、口に含んだ汁を盛大に噴き散らかしてしまった。涙が出るほどむせつつも、視線は法然から外せない。

 鞍馬の事情などお構いなしに、法然が話を切り出した。


「新年おめでとさん、鞍馬坊。何や、そりゃ雑煮か。うむ、ええこっちゃ、ええこっちゃ。食い気健勝、まこと重畳。ぬ、何やその目は? あー! せやせや! お主にしてみれば、わしゃ初対面か」


 鞍馬は何か言いたげだったが、口を挟む隙を尽く踏み潰しながら、法然は広間に上がる。流れるように懐から椀と箸を取り出し、囲炉裏の鍋でぐつぐつと煮える雑煮をよそい、熱がりながら一口飲んだ。

 話すか食べるか、どちらにもつかないような、一方的な発話が続く。


「わしゃ三郎坊法然や。そろそろ歩き回りたい頃合いと見込んで伝えに来たんやけど、鞍馬坊、お主、動くにゃ目立ちすぎるナリや。あー、言いたいことはわかる、話は最後まで聞くんや、辛抱せえ。不自由はさせん。木を隠すなら森の中、っちゅうてな。ここら一帯の村々の者を煤まみれにしちゃろうと、この三郎坊法然、一計を案じた訳や。下手に仕込む前に、お主だけにゃ伝えとかんと思て。どいつもこいつも煤まみれになりゃ、お主も目立たんちゅう算段やが……」


 熱さに慣れ、器用に話しながら雑煮を食べ進める手を止めて、法然は自分の煤けた手と、鞍馬の自然な黒い肌を見比べる。


「さすがに、ほんまもんには及ばへんな……。いや、不安はわかるで! せやけど、心配無用や! 万事わしに任せえ。仏様の御威光をお借りすれば造作もないこっちゃ。窮屈な思いはさせへんからな。楽しみに待っときや。……ほなら、わしゃこれで。雪解けの頃にでも、寺に来るとええ」


 最後に雑煮を平らげて、法然はせわしなく出て行く。

 途中、立ち尽くす権兵衛の腰を思い切り平手で叩き、「雑煮の出汁と味噌をケチるな、ボケ!」と文句をつけて、法然は家を後にした。

 ボーっと呆けていた権兵衛は我に返って、慌てて外に顔だけ出し「二度と来るなクソ坊主!」と、遠ざかる和尚の禿げ頭に向けて怒鳴りつける。

 話を聞いていた鞍馬だったが、言葉の洪水に溺れるばかりで、殆ど意味を理解していなかったという。ただ、呆然と法然の帰りを見届けつつ、よく味の染みた里芋に唸るばかりであった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 三郎坊法然が新年の挨拶回りと称し、和尚の初夢枕に立たれた仏様のありがたいお告げの説法は、正月早々、浜に里に、一帯の村々への行脚へと、老体を駆り立てた。

 挨拶も元旦からとなれば武家ばりにせわしない。諸所の庄屋や長老を使ってまで人を集めるのに、巣籠りから引っ張り出された皆はうんざりもするだろう。

 しかし、奇妙な煤まみれの出で立ちは人の興味を惹き、派手好きの生臭坊主の語り口調は癖になる響きで、かつ中身も珍しく、仏門の徒らしい敬虔なもので、語り始めの嫌悪に反して、聞き入る者は多かったという。


「東西東西。このナリは初夢枕、立たれるは目連尊者のお告げにござい。戦、病に、飢えに略奪、現世の乱れに、尊者曰く、あの世は仏と鬼が足らん。彼岸の迎えは久しく途絶え、人界は無念に死んだ者らが迷いあぶれておる。哀れに思われた、かの目連尊者はおっしゃった。全身に煤を塗り、釜番の黒鬼にただ扮すべし。さすれば、黒鬼おれど手を下さぬ場、即ち迷える魂に赦しを与える場となりて、仏様の導きを待つ束の間の安寧を、一時なれど与えられよう。さあさ、各々方、順番待ちは伸びるばかり。煤を被るは、瞬く間にぞ。先祖に己ら子々孫々、御霊の安寧を願うなら、塗って見せよか黒い煤。さあさ、塗ってみい。東西東西」


 法然は剥げかけた己の煤を、聴衆の目の前で塗り直す。すると面白がった子供が、我も我もとこぞって塗り競い、あるいは雪合戦ならぬ煤合戦の塗り合い。一度始まれば、ありがたい説法の力が押して、大人の間にも広がり始める。

 全身が真っ黒になった人々は、遠目に見れば鞍馬の同胞のようにも見えた。この中に彼が紛れれば、大手を振って歩けると言う寸法だった。

 筑後は久富という地に伝わる盆綱曳きなる行事の発祥は、まだ少し先のこと。

 久富盆綱曳きでは、子供らが身体に煤を塗り、地獄の釜番たる黒鬼に扮し、綱を引いて町を練り歩くことで、霊を慰めるのだという。

 南蛮貿易の玄関口近くに伝わるこの祭は、ひょっとしたら、鞍馬のようなはぐれ黒奴を匿うための方便から始まったのかもしれないが、そのような由来を伝える物は、今日、まだ見つかっていない。

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