第5話 三郎坊

 雪の下に緑が顔を出し、春。

 浜で子供が鬼ごっこをしている。

 鬼に捕まった者が鬼と交代し、参加者を追う。ごくありふれた遊びだが、浜では新しい作法が生まれていた。

 最初に鬼になった者、鬼と交代した者が、一緒に遊ぶ子から、一つまみの煤を身体のどこかに塗りつけられる。最後に全身煤塗れになった者の負けとなる。

 年明けの法然和尚の説話、黒鬼に扮して亡者を供養せよという初夢のお告げ。それが子供たちの間で再解釈され、自分たちの遊びに組み込まれたのだった。

 さて、この説話が方便であることは、浜の大人であれば百も承知。それでも海辺で仕事をする漁師ばかりの集落であるので、煤を塗ったところで水に洗い流される。全身に煤を塗ったのは一度きりで、今でも継続しているものの、塗る煤の量は両頬に少し乗せるほどに過ぎない。

 しかし、今日は特別に、煤は顔全体に塗られている。

 三浦のお墨つきが出て、鞍馬が漁の手伝いを申し出たことを端に発する、少し変わった快気祝いであった。

 海女衆が見守る中、鞍馬は浅瀬に踏み入れ、銛を構えて魚影を追っている。正確に言えば、魚影の進路を予測し、その一歩先を狙っていた。魚は後退できない。逃げるにしても前進あるのみのため、銛で突いたり網ですくったりする場合、先回りが有効である。

 捉え、一息に銛を海中に刺す。

 引き上げると、捕えた大物が、活きの良い暴れっぷりを見せている。

 海女衆から歓声が上がった。

 特に、これまで看護を続けてきたふくの喜びようは人一倍で、全身を使って飛び跳ねたり、たまたま近くにいた海女に抱き着いたりして、滅茶苦茶だった。


「ほら見たじゃろ。やっぱり、あたいの目は狂っとらんかった。あの棒捌き、わかっとる動きじゃ。あたいの言う通り、男衆の舟漁に出さんで良かったとじゃろ」

「たまげたのう。あげな大物を涼しか顔で」

「鞍馬どん、潮時までに根こそぎ頼むったい」


 鞍馬は声援に手を振って応え、銛を抜いた獲物を網に入れ、次なる獲物に狙いを定める。

 引き潮時、海中に築いた石垣が顔を出す。浜と石垣に囲まれて逃げ場を失った魚を、網などで獲る、潮の干満差を利用したこの漁は、スクイと呼ばれる古い漁法の一つだ。

 ふくの見立てで鞍馬には銛が割り与えられたのだが、その働きは想像以上。冗談のつもりで誰かが言った根こそぎが、嘘から出た真になろうとしていた。

 浅瀬側が大漁に湧き立つ。そんな折であった。


「おーい! 手の空いた者は舟を出してくれ!」


 沖の方に出ているはずの舟が一艘、浜近くまで戻って叫んでいる。浜の注目が集まり、次の言葉を聞いた途端、湧き立つ浜が更に歓喜に染まる。


「クジラじゃ! 銛持って来んね!」

「クジラ?」

「時期外れじゃ」

「はぐれじゃ!」


 歓喜の矛先は鞍馬や、浜で休んでいる男手に向く。訳もわからず手を引かれ、浅瀬から浜に上がる鞍馬。クジラが何なのか尋ねて、非常に大きな魚だと知るや、故郷で話に聞いたクジラ漁を思い出し、率先して舟へ向かい、漁師らの力を借りて沖へ急いだ。

 そう遠くない沖に見える、小島ほどの背には激闘の跡、縄の千切れた銛が刺さり、その周りを漁舟が取り囲む。網で思うように泳げないクジラだったが、それでも舟への体当たりは脅威で、弱った今でも、あわや転覆寸前まで舟を揺らす体力を残しているようだ。

 近場の浦々を巻き込んだ大捕物は、鞍馬が着いた頃には佳境に入っていた。

 内、汗と飛沫で煤が半分剥げたのが、浜の漁師衆。鞍馬が居候で厄介になっている権兵衛が丁度、長大な銛を的中させた。

 鬨の声を上げる鞍馬に、権兵衛が気づいて呼びかける。


「鞍馬? 誰が鞍馬まで呼んだんじゃ! 素人にクジラは無理とぞ!」


 だが、鞍馬の様子は自信に満ちており、銛を構える姿は様になっている。


「病み上がりじゃけ、退く時は退けよ!」


 巨大な銛を手に、船首に立つ鞍馬が、もっとクジラに寄せるよう、漕ぎ手の連中へ号令をかける。さしもの銛突きの名手も、揺れる舟上では狙いが定まらないのかと思いきや、鞍馬の号令は止まない。これ以上は危ないと思いながらも漕いでいる内に、クジラの身体に舟体が当たる距離まで詰まった。

 今に銛を投げると思った瞬間、鞍馬は海に身を投げ出して、銛ごとクジラへ目がけて強襲する。銛に乗った全体重の威力をもって、銛は厚い皮下脂肪を突破し、急所を貫く。

 命知らずの漁法である。それはそれで驚きだったが、他の浦の漁師たちは、新参者の外見にもっと驚いていた。


「誰ね、今の。止めさせえ。銛が投げられん」

「じゃけど、深かぞ。いけるとぞ」

「待て。全身、がばい黒かとぞ」

「噂の黒鬼供養と? あげな熱心な者がおったとか」


 鞍馬はもう一本携えていた銛で追い打ちをかけ、銛の支えでクジラの背にしがみついたまま、海中へ引き込まれては、再び浮上する。

 鞍馬はクジラの身じろぎも、波のうねりもものともせず、クジラの背に両足を着けている。


「む、無茶苦茶じゃ」

「おらの目、眩んだと。あいつの煤……落ちてなかとぞ」

「う、うちの浜の鞍馬どんじゃ! 法然和尚の話を真に受けて、全身に入れ墨しよったんじゃ!」

「がばい阿呆じゃ、気に入ったぞ」

「しかし、合点がいった。病み上がりとはそういうことか」

「がばい信心深さじゃ。あげな振る舞い、仏様のご加護を信じとる者にしかできなかぞ」


 苦し言い訳を述べる権兵衛と、それを信じる純朴な漁師たちを他所に、鞍馬は銛に括った縄を頼りに舟に上り、縄を引いて銛を回収、再度構える。そしてまた、クジラを弱らせようと、自ら諸共、銛を捌く。皮下を貫く銛を支えにし、もう片方の銛を刺しては抜いて、徐々にクジラの体力を奪っていく。そして隙を見ては舟に戻り、この一連を繰り返す。

 本来、鞍馬が故郷で伝え聞いた話でも、捨て身同然の銛打ちはとどめの一撃とされており、二度も三度も繰り返す技ではない。しかし、今回の獲物の生命たるや漲り、致命傷をものともしない。

 弱ったりとはいえ巨体のクジラ。銛二本の支えだけで暴れる背の上に立ち、仕留めていく姿は、無謀の先を超えた、勇猛な雄姿で、海水に濡れて一層黒光りする姿は神々しさすら湛えていた。

 銛を握る権兵衛の手に力が入る。助走、跳躍、姿勢、鞍馬の動作を自らの身体に落とし込み、舟首で軽く再現する。

 無謀ではないと思い至れば、居ても立ってもいられなかった。

 鞍馬がクジラから離れたのを見届けて、権兵衛は雄叫びと共に、見様見真似で銛諸共身を投げる。

 鞍馬と違って、銛は手を離れ、クジラの上で踏ん張れなかったが、権兵衛の銛は鞍馬のものに負けず劣らず、深々と皮下脂肪を穿っている。むしろ、クジラの体表で止まっていた勢いが海中まで続いたことで、鞍馬よりも深く刺せている。


「鞍馬! おめえにだけ、良か恰好ば、させんぞ!」


 宣言する権兵衛も、技の再現を見届けた鞍馬も、良い顔をしていた。

 こうして、権兵衛の一撃が決定打となった。抵抗する力を削ぎ、沈まぬことにだけ注力するようになったクジラは浜まで牽引されて解体される。

 鯨一頭で七浦が潤うと言われるように、肉から骨まで余すことなく使えるクジラは、まさに大いなる海の恵みであった。

 そして、その大物を最も勇敢な方法で仕留めた鞍馬、権兵衛はクジラの上に立ち、舟々から飛び乗って来た漁師らが肩を組んで称賛する。誰からともなく大漁節を浴びるほど歌いつつ、解体包丁を手にする海女衆が待ちわびる浜へと帰還した。


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 クジラ一頭、肉に鯨油に骨に髭。浜に浦にと等分したところで、腹を満たして尚余り、余りを保存に回してもまだ持て余す。油の灯りは幾夜を越えて消えず、骨で作った道具の新調に予備をつけて尚売り物が出来上がるほどの収獲である。

 特に、新鮮な食肉は貴重。満潮時に牽引されたクジラの巨体は干潮時に岩棚へ乗り次第、急ぎ解体される。分配後のクジラの扱いは分担する。大急ぎで港町へ売りに回す衆、宴で振る舞う料理を担う衆、油を搾る衆に、保存用に加工する衆などに分かれるのだ。

 鞍馬は、近場の里へ売りに向かう衆に交じっていた。

 法然の黒鬼供養が知れ渡った今、多少なりとも煤を身体の一部に着ける習慣が続いている地域である。さすがに鞍馬ほど全身を黒くするのは子供くらいで、大の大人がそうしているのは珍しい。目にした里の者は驚きつつも、むしろ法然の説法にすら感じ入る純朴さと信心深さを兼ねた御仁であると、特に高齢の者から両手を合わせて拝まれて、長老方が受け入れるならばと里の者も絆され、迎え入れられた。

 徳の高い者のもたらした鯨肉。縁起物だとして、瞬く間に売れた。

 とっぷり日が暮れて、肌寒さを残す春先に、懐の温もりの頼もしさ。飲まねば、食わねば、歌い踊らねば嘘である。

 大漁を祝う宴に、どこもかしこも笑いが絶えなかった。

 ふくを始め、着物に化粧にとめかし込んだ海女衆に交じって、酒に興じて女装した男衆の踊り自慢や歌自慢が並んで、ハイヤ節にノンノコ節に謡え踊れや、三味線と笛と太鼓の調べに、揃い手拍子で浜が賑わう。

 クジラ尽くしの酒宴もたけなわになると、各々分かれて、酒の回り具合に任せて、好き勝手に騒ぎ始めた。

 ある者は、鞍馬の漁の手腕を武勇の如く箔をつけて語り、ある者は権兵衛も勝るとも劣らない度胸を見せたと、口々に讃え、即興の演舞に仕立てて披露している。

 そして、当の語らい草たちと言えば。


「相撲せんか、鞍馬」


 と、赤ら顔の千鳥足で誘った権兵衛。着物を脱ぎ棄てて褌一丁である。自分の尻を叩いて、良い音を鳴らした。

 同じく出来上がった鞍馬は、最早何もかもが愉快で、話半分に頷いて承諾した。

 権兵衛は地べたに座る鞍馬の手を引いて立ち上がらせ、互いに互いの肩を預ける格好で支え合うのも、何故だかおかしい気分にさせた。


「おめえ、相撲、知ってっか」

「なに?」

「相撲じゃ、す、も、う」

「あー、なに?」


 権兵衛は額に手を当て、大仰に嘆いた。


「わしとしたことが、今の今まで男の大事を伝え忘れるとは」


 権兵衛は近場の力自慢に呼びかけて、鞍馬に相撲の手本を示す。

 勝負は褌一丁。円から出たら負け、足裏以外が地に着いても負け。他にも禁じ手が幾らかあるが、初心者の鞍馬、しかも酔っている時に覚えるのは難しい。覚えている技で力量差が出るのもつまらないとして、四つ相撲から始め、姿勢を崩す程度なら大目に見るが、投げと打撃は無しとした。

 わかりやすい力勝負。鞍馬は快諾する。

 ここに、浜の大一番が始まる。

 取組の話はたちまち宴会場と化した浜一帯に広まり、老若男女が見物に集った。

 人が多く集まると、一捻り入れる者は出るもので、二人の勝敗で賭けを募る声が上がる。浜一番の腕っ節の持ち主、権兵衛か。それとも、巨躯の南蛮人、鞍馬か。


「おふくは、どっちを応援するとね」

「うーん……。二人とも気張るとぞー」


 賭けに乗る者の数は五分。衆目の評が割れ、喧々諤々で議論する者も出るほどだったが、太鼓が即席のお囃子を流して始まりを告げるや、全て歓声に変わった。

 西、権兵衛。東、鞍馬。


「見合って見合って」

「四つから始めるなら構えて構えてじゃなかとか」


 別にそうでもないのだが、外野に野次られた行司は素直に言い直す。

 権兵衛と鞍馬、廻し代わりの褌に、手が差し込まれる。


「はっけよい……残った!」


 両雄、激突す。

 砂地に円を引いた土俵に足が埋もれる。流動的で不安定な足場に対して、組みついた鞍馬と権兵衛の力は拮抗していた。ただ、松明に照らされる肉体の汗ばみと、肌から上る湯気、より影を濃くする筋肉の隆起が、膠着の裏の激闘を物語る。

 賭けが後押しするのか、若い男二人の立ち回りがそうさせるのか。観衆の声援が最高潮に達する。

 十分大柄とはいえ、鞍馬と比べると途端に小さくなる権兵衛は重心を巧みに操り、両脚から根が張っていると錯覚するほど重い。

 対して、初めて相撲に臨む鞍馬に技はない。序盤は権兵衛に主導権を握られ、土俵を右往左往し、多くの砂を掘り返していたが、戦士として磨かれた才覚、黒船が落ちるまで苛め抜かれた後、浜の静養で見違えるほど蘇った肉体をもって、組合の中で立ち回りのコツを覚えていく。

 若木の芽吹きが、古木に追いつこうとしていた。

 両者の全力が全力を相殺し、抱擁にも似た一時が訪れる。機を窺っているようでいて、注力は増々高ぶる。最早、酒ばかりが紅潮の理由ではない。褌の喰い込みですら押し返す肉体の躍動、尚も相手を持ち上げようとする両腕、肩、背。

 ほんの一瞬に全力を注ぐのが相撲だ。やがて、耐えきれなかった方から、徐々に静かな悲鳴が上がる。

 両者の褌が、決着より先に音を上げたのだ。

 ぶつん、と、同時に緒が弾け、支えを失った二人の手がすっぽ抜け、勢い余った鞍馬と権兵衛が尻もちを突く。

 二人は何が起こったのか理解できていない様子で、狐につままれた顔で目を丸くし、互いの顔を見ている。

 男衆の馬鹿笑いと、女衆の悦びが見え隠れする黄色い悲鳴にハッとして、酒でも力みでもない原因で二人は顔を赤くし、前を隠した。それにつけても、真剣勝負から一転して下らない顛末に落ちたのがどうにもおかしく、二人も自然と笑いが湧いた。

 浜場所は両者、不浄負け。

 愚にもつかない決着に、ふくは一人、頭痛を覚えて頭を抱え、溜め息を吐いた。脱ぎ捨てられた二人の着物を拾い、鞍馬には手渡して、権兵衛には投げ渡した。


「ごめんたい、鞍馬どん。あの馬鹿につき合わせて。こげな恥ばかかせて」

「良い。相撲、楽しかっ――」

「この阿呆! 皆の前で鞍馬にとんだ醜態ば晒させよって!」


 鞍馬が言い終わる前に、ふくは権兵衛に向かって怒鳴る。

 駆け寄って、偉丈夫の耳を引っ張って、口酸っぱく叱る娘の図。権兵衛が吠え返せば、ふくの怒声にも力が入る。聞きようによっては憎まれ口の応酬で、鞍馬は内心冷や冷やしていたが、周囲は平常通りで止める者すらいない。

 心を許し合っているからこそなのだろう。

 一目では測れない二人の日常を鞍馬は好ましく思い、妙に納得した。

 両者反則で終わった組合だが、これを引き分けにするのか議論が重ねられたものの、勝者なしには違いないということで、ちゃっかり引き分けに一口賭けていた三浦の一人勝ちで、この取組は終いとなった。


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 人で賑わう長崎の港町。法然は適当な念仏を唱え、錫杖の遊環をしゃんしゃんと鳴らしつつ、托鉢に町内を練り歩いている。

 しかし、念仏があまりに猿真似染みているためか、誰も喜捨どころか聞く耳すら持たず、托鉢はただの町内見物に成り下がっていた。

 賑わいの絶えない同町内の一角においては珍しく、寂れた酒屋があった。

 そこに昼間から居座る者たちは、いわゆるゴロツキばかりである。


「だからよおー、あの鬼畜生がいなきゃあよお、俺あ、本当はあ、長者様だ今頃、ってんだよおー」

「マムシ、飲みすぎだって」

「馬鹿野郎、俺の金だぞコンチクショウ」

「おらの金だしツケてんだよう、マムシい」

「……この湯かけ、もっとこう、さっぱりできねえもんかね」


 その店の中で一等騒がしいのが、マムシとカワズの盗賊二人組。

 年末からこれまで、ずっとヤケ酒の日々である。クジラの湯かけに酢味噌の肴。ツケが膨らんで目の飛び出る額になっても尚、マムシの酌は止まらない。


「おい大将。もう一本、ぬる燗」


 強面の店主が押し黙って、乱暴に徳利を卓へ運ぶ。

 店主は店主で、ツケが男二人分の査定に迫ろうものなら、薬で眠らせて南蛮人の人買いに売りつけようと、虎視眈々と目を利かせている。

 カワズは戦々恐々としてならなかった。


「なあ、マムシ。もうあの宝のことは忘れようよう」

「馬鹿野郎この、忘れてどうすってんだい。おおん? 元のシノギに戻れってかい。この腕見て、同じこと言えるのか、ああ?」


 マムシは、肘の言うことが聞かなくなった利き腕を肩で持ち上げて、これ見よがしにカワズへ迫った。動かし方が悪かったのか、肘を押さえて痛がるマムシを、迫られた側のカワズが介抱する。

 見る影もなくなった盗賊マムシだが、それでもカワズは見捨てなかった。

 その騒ぎを意にも介さず、一人の町人風の男が、同じ卓にドカッと座った。


「一合、ぬる燗で、あと湯かけも頂戴」

「何だてめえ」

「ここのお兄さん二人にも、同じのお願いね。俺の奢りで」


 店主は相変わらず強面だが、あいよ、と低く返す。

 マムシも溜飲を下げざるを得なかった。

 僅かな沈黙の後、相席を容認されたと見るや、町人が声をかける。臆するどころか、興味が尽きないという風体で、威勢で自分を大きく見せるゴロツキとは違う、内に秘めた豪胆さがあった。


「お兄さん、何か大変だったらしいじゃないの。何でも、化け物に会ったとか、有り金失くしてオケラだとか。話、聞かせてやくれないかい」

「横取りしようって腹かい。酔ってるからって舐めてもらっちゃ、叩きのめすぜ」

「じゃあ化け物の話だけでいいや」


 町人は卓に銭を積んで、マムシに寄せた。


「酒の肴が欲しいだけなんだ。頼むよ」

「……チッ」


 悪態をつきつつも、マムシは指を三本立てて、積まれた銭を指し、手の仕草で催促する。

 町人は、ためらいもせずに、催促に乗った。銭が町人の手から離れた途端、マムシはそそくさと懐に納め、浜で遭遇した黒鬼の話を始める。

 酒屋の外で、法然は念仏を止め、耳をそばだてていた。


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 ある辺境の島にて。

 包丁がまな板を叩く、小気味良い拍子。

 白菊が台所に立ち、夕食の準備をしている背を、広間からアンドレが眺める。

 何気なく己の顔に触れるアンドレ。白菊の観察は絶やさず。表皮の全て剥がれた顔面を保護する、着物を割いただけの布は、清潔な真白い包帯に代わっている。

 追剥ぎ同然に人から奪った薄汚い着物も、新品を持って来た。

 アンドレの傍らに目を落とせば、貝殻の皿に一盛りの軟膏。

 どれも、白菊が命じられる訳でもなく、用意した物だ。

 島民に食料の他、数種の薬草や油を要求し、自ら調合。薬効の実演には、焼いた火箸を事もなげに白菊自身の二の腕に当てて火傷をこしらえ、水膨れを待ち皮膚を切除、露出した患部に塗って経過を見せた。

 今は着物の下に隠れた左の二の腕には、確かに傷がある。

 伝三には火傷を負った経緯をきちんと説明すると白菊はアンドレに誓っていた。約定に抵触する恐れがあっての申し出だが、そのようなことは問題にもならない。

 信用を得るためとは言え、いささかの躊躇も見せない白菊の静かな気迫。さしものアンドレも薬の使用を許すに至った。

 白菊が今、料理しているにしても、それに劣らない気配りがある。包丁がまな板を二拍子する間でも、仔細を思い起こせた。

 数日前のことだ。


「ところで、ポルトガルでは、どのような食事をされていらっしゃいますか」


 雑談の折に出た白菊の問いに黙する理由もなく、アンドレはバカリャウ・コン・ナタスを挙げた。

 南蛮言葉は耳に新しく、白菊は才女の印象に反して幼子のように目を輝かせ、中身が何かも聞かずに、是非賞味してみたいと浮かれた。


「勝手に作れ」

「できませぬ。是非ともお手本をお示しください」

「貴様、人質の自覚はあるのか」

「人質の自覚を持っても、指南がなければ割烹は務まりませぬ」


 減らず口に頭痛を覚えるアンドレだったが、原因が伝三の妻なので排除もできない。しかし、材料と調理法を正直に言うだけでも、白菊に多少なりとも意趣返しができるだろうと考えた。

 水に戻した棒鱈、玉ねぎ、ジャガタライモ、小麦粉、家畜の乳、チーズ、これに油、塩、胡椒があれば尚良し。バカリャウ・コン・ナタスとは、鱈のグラタンである。最低限、これらだけは用意しなければ話にならないが、当時の日本では半数を用意するのも困難である。ましてやこの島にあるとすれば棒鱈のみだろう。

 さしもの減らず口も少しは引っ込むかと思いきや、それどころか白菊は詳細な調理法を尋ね、知らない食材についてはその風味や食感、不明な調理具については構造など、アンドレの知識が曖昧であろうと些細なことまで深く掘り下げてきたのだった。

 白菊が納得した頃には、アンドレは気が疲れ果て、ドンと寝転ぶ始末。どちらが上の立場か、そもそも自分は何をやっているのかわからなくなっていた。

 それで、単なる雑談に終わるかと思ったこの話だが、今も続いている。

 白菊は材料を取り寄せて見せたのだ。

 今朝方、前任の人質の娘が笊や桶に食材を乗せ、文を添えて届けに来た。娘は届け物を手渡すと、屋内へは一瞥もくれず、そそくさと逃げるように去って行った。

 白菊は文に目を通し、床に上がって囲炉裏の火に文をしたためた紙をくべる。


「待て」


 アンドレは手紙をくべる白菊を制し、渡すように手招きした。

 手紙には、娘が寄越した笊や桶の食材の一覧。各品には目方が添えられ、注文に応えられなかった物については、いつ頃の到着になるかなどを記してある。

 不審な点はない。

 あるいは、そう見せかけているのか。

 同様に、遣いの者に渡す手紙にも目を通してきたが、どれも取り寄せる品の覚書ばかり。化粧や裁縫道具など、人質にしては余裕のある注文もしている点が不審だが、意味があるのか否かすら判然としない。

 結局のところ、何でも疑い、何でも警戒する他ない。

 白菊に手紙を返すアンドレ。受け取るや否や、白菊は改めて手紙を火にくべ、代用品ばかりだとの前置きと、本物には程遠いだろうと付け加え、申し訳なさそうに頭を下げた。

 そして、まさに今、台所に立つ白菊は、複数のペーストを混ぜた乳白の液と、干し鱈を調理している。

 炭火の薄明りの向こう、白菊は釜土に鍋を置き、具を煮つつ、へらで絶え間なくかき混ぜている。アンドレには、背を向ける女の姿に、ただならぬ妖気が昇っている気がしてならない。

 囲炉裏の炭火が爆ぜた。白菊は炉端も使っている。しゃもじにペーストをつけて灰に立て、炭火で炙っているのだ。火力が弱まると具合が悪いとのことで、アンドレは炭が少なくなると追加し、灰に刺した火箸を取って火に馴染ませる。

 特に、このような些細な瞬間に、白菊の妖気はその片鱗を見せるのだ。

 白菊の目が離れる時にアンドレが不意に動くと、必ずと言って良いほど、彼女はほんの僅かな瞬間だけ手を止める。まるで、衣擦れの微かな音一つにまで、こちらの様子に気を張っているように。

 命のやり取りをする者でなければ気付かない、一息の間。

 思うところがある、と言うよりも気紛れに、鉄の火箸を一本だけ灰に戻し、アンドレは残りを投げ矢のように持つ。白菊の右耳あたりに繋げた目線と箸を平行に構える。投擲の軌道をなぞるように数回前後させる。

 放てば当たるだろう。的が動かなければだが。

 もっとも、白菊は本当に動じなかった。アンドレが彼女の反応に気付いていないのなら由々しきこと。単に彼女がそこまでの人物だとすれば買い被っただけのこと。推測は蜃気楼の如く揺らいだ。確かなのは、一見すると、最初に火箸を取ってから、変わった動きがないことだけ。

 フン、とアンドレは鼻を鳴らし、残りの火箸を元に戻した。

 妙な真似をすれば人質を辞めるとの言の真意。尖ってもいない得物では、それを臭わせるまでの価値しかないと見える。これっぽっちでは嘘か真かさえ明かすつもりはないらしい。

 アンドレが戯れ程度の威圧を解くと、白菊は小皿を取り、鍋のややもったりした中身を箸ですくって味を見た。一息ついて、小皿に同じものを取り、何事もなかったかのように、アンドレの前に出す。


「お味を見ていただけますか」


 アンドレは小皿を受け取り、口をつけた。乳白の餡は乳を使ったように濃く、しかし、まろやかさが控え目に過ぎて不満が残る。代わりに、不足を補って十分の、何とも芳醇な香しさと、香り高い柑橘の風味があった。

 善くも悪くも、期待を裏切られたようだ。


「違うどころか、かけ離れている。話にならん」

「申し開く言葉もございません」

「いや、良い。このまま続けろ」

「承知いたしました」


 別に下ごしらえした鱈と芋を土鍋に入れ、二人が試食した餡を注いでしばらく焼く。火が通った後、ペーストの炉端で焦がした部分をしゃもじからこそぎ落として土鍋にふりかけ、刻んだ柑橘の皮を少々乗せる。


「お召し上がりください」


 一口、一口と食べ進めるアンドレ。張る頬がないため、餡を舌で絡め、具を匙の上で噛む形に落ち着いていた。黙々と食べ進め、感想と呼べる言葉はなく、アンドレはただぽつりと「呆れた女だ」とだけ呟いた。

 白菊は何を言うでもなく、静かに頭を垂れた。


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 空になった土鍋と控えめな器、他食器類を白菊は下げ、桶に貼った水で洗っている。土間に両膝を突き、ただでさえ細身なのが更に細めく姿。これに限らず、白菊の所作は一々画になった。


「島で育つ感性ではない」


 アンドレは料理を指して言ったのだと思った白菊は「夫共々、畿内より参りました故」と答える。


「そうではない」


 皿洗いの手を止め、アンドレに向き直る白菊。聞く姿勢を示したところで、アンドレが続ける。


「炊事に限らず、貴様の学識、胆力、どれも専らに修めた業だ。不均衡極まる」

「不均衡……で、ございますか」

「貴様ほどの才女ならば、幾らでも居場所がある。このような島に来てまで、ただの伝三に固執するなど、世の潮流から見ても不釣り合いだろう」


 アンドレの故郷を始め、当時の西洋一般で離婚は不名誉とされていた。対して、日本においては違う。男が戦国の世で覇を競ったように、女もまた覇者の隣に相応しい実績を示し続けるため、文字通り諸侯を転々と渡り歩くような時代であった。

 白菊は、そのような女の戦いに身を投じる一人に映ってならない。

 落ちる以前であればともかく、今やただの伝三に成り下がった男などさっさと見限って、次へ渡らなければ、持てる器量も才能も、時間諸共ドブへ捨てるも同然だ。

 にもかかわらず、白菊はきっぱりと首を横に振った。


「恐れながら、ただの伝三様であればこそ相応の、不肖の身にございますれば」

「そうか」


 腑に落ちない回答ながら、アンドレはそれきり口をつぐんだ。

 話は終わったと見て白菊は一礼し、皿洗いに戻る。

 口をつぐんでも、アンドレの疑問は消えなかった。

 白菊に限らず、この島の様子は不自然だった。幾ら辺鄙な島とはいえ、異国人が狼藉を働いたとあれば、呼べば侍が飛んで来そうなものなのに、成敗に来る気配すらない。助けが見込めないにしても、島民が犠牲を承知で徒党を組む覚悟を固めていてもおかしくないのだが、そのような兆候も見られない。

 静養に足る時が流れ、アンドレの傷の具合も許容できる程度に持ち直してきた。顔面の包帯を解き、血塗れの髑髏のような顔に薬を塗り、新しい包帯を巻き直す。

 カモメばかりの時節より小鳥の囀りが増し、芽吹きの到来も間もなくと見える。

 この悠長な時を許すのは、一体何なのか。

 天運の一言や、人智の及ばざる者の影がちらつくのを、アンドレは振り払う。

 そのようなものがあれば、船は沈んでなどいない。


「今、戻ったぞ」


 突然、断りもなく戸を開けて入って来たのは伝三だった。

 しばらく見ない内に髭が伸び、やや引き締まったと言うかやつれたように見える。左腕に包帯が巻かれ、滲んだ血が乾いていた。

 それを当然のように、「あら、お勤めご苦労様です」と、白菊は迎えようとしたが、腕の怪我を見て驚いたのか、洗う椀を落として駆け寄り、何があったのか、大事ないか尋ねた。

 しかし、伝三はバツが悪そうに「釘を引っ掻けた。もう塞がっている」と言い、白菊の腕を解いて、床に腰かけた。

 アンドレは何も聞かず、伝三の帰りを迎えた。


「遅かったな」

「面目ない。これでも大急ぎでな」

「このまま帰らず、良い物とは奥方との暮らしだった……と、草子のような話をなぞっているのではないかと疑っていたところだ」

「疲れているんだ。冗談も選んではくれんか、アンドレ殿。思わず斬ってしまいそうだったぞ」

「気をつけよう」


 しばらく見ない内に衰えたようにさえ見えた伝三だが、むしろ持てる凄みは研ぎ澄まされている。

 一体何を持ち帰ったのかと、重そうに置いた風呂敷包みに興味が湧いた。

 甘い結び目が解けたところから覗いたのは、輝く黄金色、小判の山だ。

 アンドレは息巻いて、カトラスに手をかけた。

 即座に洗い物から土鍋の鈍器と蓋の盾を構える白菊の後ろへ、腰を抜かして後ずさる伝三が吠える。


「ななな、何だどうした急にどうした」

「約束だったな伝三。つまらぬ物を見せれば斬ると」

「まだ見せておらんぞ」

「解けているぞ」


 アンドレが顎で指す先が風呂敷と知り、伝三は声を更に荒げた。


「それじゃねえよタコ。そりゃ、迷惑料だ」

「迷惑料だと」

「そうだとも。島の奴らにしてみりゃ、貴殿を満足させて、はい、お仕舞い。とは、ならんだろう。だから配るんだよ。掻き集めたんだ。言うなれば、この金はオマケだ。それを貴殿は……」

「わかった。話を急ぎすぎたと認める。詫びよう」


 さすがに疲れているのか、伝三は気が立っているらしい。アンドレがすぐに引き下がったところで、伝三は白菊に武器を降ろすよう伝え、気を取り直して告げた。


「白菊、全ての島民たちを集めて、この金を配るんだ」

「全て、で、ございますか」

「そうだ。招集にあたり、島民一人につき小判一枚を配って回れ。集めるのはこの家だ」

「……はい」

「額は訪れた各々の話をよく聞いて決めること。他に求めるものがあれば、後に用意する。余さず聞き入れること。任せるぞ」

「承りました」

「では、アンドレ殿。場所は貴殿が流れ着いたという浜だ」


 ふん、と、アンドレは、ただの伝三の、いかにも小心者が考えそうな小賢しい真似を笑い飛ばした。


「島民の注意をここに集約させ、その隙に物陰から、件の物の場所へ向かう。だろう」


 伝三は満足そうに頷いた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 かつて、アンドレが漂着した浜に人影が立つ。

 足元には屈強な男が二人、首筋に針を刺して、砂に倒れている。血は殆ど流さず、口から泡を吹き、白目を剥いて痙攣している。

 その側には小舟が一艘上がっており、鎧や刀が一式、筒、焙烙火矢など多数の弾薬が積まれているのを見るや、人影は焙烙火矢を二艇だけ盗り、残りは舟諸共、その全てを海に沈めた。

 更に沖、停泊中の弁財船に向け、人影は焙烙火矢一艇に点火。放たれた火は吸い込まれるように船に着弾し、炎上する。

 人影は火の手が積載火薬を誘爆させたのを見届け、残りの焙烙火矢を持ち、その場を静かに去って行った。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 ごくありふれた一軒家の前に、瞬く間に一山の人だかりができた。

 筋を通すなら、迷惑をかけた家々を回るのが謝罪のあるべき形だろう。しかし、誠意はともかくとして、用意した金には限りがある。足りないなら後で補填すれば事足りるのは確かだが、場当たり的に慰謝料を配れば、後回しにされる者が出る恐れがある。それでは具合が悪いと、一か所に島民を集めて、差し当たりの分配を話し合おうという名目だ。白菊は、その名目を通して見せた。

 白菊が集まった島民を数え上げるのだが、その声がバカみたいに大きい。家の裏手に控えるアンドレと伝三に、事前に伝えた数が集まったと知らせるためだ。しかし、大声を出し慣れていないのか、声が裏返っており、声を発する当人の苦労が良く伝わった。

 まさか、ここに至って白菊の不得手を知ることになろうとは。このようなどうでも良いことに関心を惹かれていることに、アンドレは我ながら驚いた。

 やがて、半ば自棄な調子で、示し合わせた数が叫ばれる。

 それを合図に、家の裏手の藪を抜け、目的地へ向かうアンドレと伝三だが。


「アンドレ殿、そちらではない」


 と、伝三が呼び止めて招く方向は、浜とはまるで逆である。

 当然の疑問を口にしかけるアンドレに先んじて、伝三は「寄り道するくらいの余裕はある」と独り言のように言って、アンドレを無視するように進んで行く。

 不承不承、その背を追うアンドレ。

 人払いの済んで静かな里道へ抜け、道なりに歩を進める。

 道に枝葉の陰りなく、薄く陽が照らす光の筋道が続く。


「島の者が聞き間違えたアレなんだが、聞いて欲しい。今は口に出すのを許せ」


 突然、そんなことを言い出した伝三に、アンドレは何も答えない。

 沈黙は肯定と取り、伝三は続ける。


「海難坊……その名に俺たちが抱く念は、畏怖だ。まるで海への、災いへの畏れ、怨霊や魑魅魍魎の妖気、忘れ去られた海賊、倭寇どもの恨みが詰まったような名だと思う。海に生きる者なら漏れなく、念仏を唱えずにはいられないだろう」

「……。……急にどうした」

「箔のある名だと、思っただけだ。俺たちの無念が宿っているようで、聞いた時にゃ、何故だか胸がすいた。気にしないでくれ。俺が勝手に伝えたかっただけだ」

「そうか」


 長い沈黙に、林の梢の囁きと、木立に遮られ遠く、波の音が彩る。

 道すがらアンドレは、伝三夫妻の隠し事の多さに思いを巡らせていた。

 妻、白菊は言わずもがな。伝三自身も同様に秘密を抱えているようだが、最も不可解なのは、渡す手筈の良い物が何なのか、今になっても伝三の口から打ち明けられないことだ。

 アンドレに必要なのは、最低でもマニラ帰還を叶える船。運用に併せて相応の備蓄や船員も必須となる。アンドレはそれを伝三に伝えていない。

 要求を欠いたこと自体は問題ない。アンドレは戯れていた。

 本当の求めは、叶えるには重すぎる。伝三が島内で用意できる物を出せば殺し、他の島民に船と航海に足る物資を要求する。あるいは島外で用意した物がつまらなくとも、到着時には当然、それなりの船が来島していることになる。補給なり風や潮を待つなり、滞在期間が発生する以上、その船を奪えば事足りる。

 察するに、伝三が耳聡いだけのほら吹きでなければ、彼は水軍出身者だろう。アンドレが言わずとも、要求を汲み取ると期待できる。

 傷が癒えるまでの退屈しのぎ。お楽しみのつもりでいたアンドレだが、伝三に奇妙な信頼感を抱いており、大した余興に思えなかったのは事実である。船を寄越すのは、不思議と確信を抱いていた。

 だとしても、あの家で、何を渡すのか、おくびにも出さなかったのは、幾ら何でも不自然極まりない。

 言う必要がなかったか、あるいは、白菊の前では言えなかったか。

 伝三の後を行けば、自ずとわかる。


「前に、俺はこの国を憎んでいると言っただろう」


 波の音に気づく頃、伝三は再び口を開いた。

 問いの体にもなっていない独白。アンドレは黙り、伝三は構わず続ける。


「徳川から逃れ、辿り着いたこの島で、いずれその首討ち取ってやるつもりで、ひたすら爪を研いでいた。だが、何年と潜んでいる内に、そんな気概も鳴りを潜めちまった。ただの伝三……隠れ蓑が存外、着心地良くてな。滑稽だろう」

「いや、臆病だな」

「滑稽との自嘲でさえ、飾り気があるってか。容赦ねえな」


 誹謗を咎めるでもなく、伝三は快活に笑った。


「だが、何の因果か、貴殿がこの島に来た。故は違えても、同じ国を憎んでいる。それに血気盛んときた。そこで、あれを渡してやろうと思ったのさ。そんな貴殿を一目見て、俺がこの島で腐っていたのは、この時のためだったんじゃねえかと、そんな気がしたからな」

「天運、定め……導きがあるとでも」

「んなもんねえよ」


 伝三は断言した。


「人ってのは所詮、結局は思ったようにしか生きられねえ。思い通りにならなけりゃ、そりゃ我を通そうとして具合が悪くなっただけで、思い通りに生きた果てよ。俺たちはたまたまこの島で出会い、難癖つけて、自分が満足するようにやった。それだけだ」

「ならば、俺は貴殿の意を汲まず、件の良い物を好きに使おう」

「ああ、それで良い。手放す以上、俺が口出しする筋合いはねえ。貴殿の物だ。海の漢は、勝手気ままが丁度良い。だけど、大事にしてくれよ。……もうそろそろだ。あそこを抜けたら」


 家屋が見えなくなり林道を進んでしばらくすると、開けた場所に一軒の屋敷が現れる。庭先に桜が一本、蕾の膨らんだ枝に色が浮く。岸壁に飛沫、見えずとも、波の音が近い。

 林の出口、脇の樹木は一部の皮が削られ、鉛玉や鏃に穿たれたような跡がある。


「ところで、弓の心得はあるか」


 アンドレの些細な関心を見抜いたように、伝三はいずこからか弓と矢筒を持ち、差し出した。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 矢を番え、弓を押し支え、弦を引く。息を止め、意識を研ぎ澄まし、狙いを定め、風を読み、補正。放つ。

 アンドレが放った矢、その数三本。全て樹の幹の的、その一点に的中させた。

 伝三は手腕に唸った。腕を組んで、吟味するように頷いている。


「見事」

「気は済んだか」

「ああ。つき合わせて済まん。その弓はやろう」

「これが良い物なら、ただじゃ……」

「んな訳ねえ……てめえ、わざと言ってるな?」


 肩をすくめるばかりで黙するアンドレに、伝三は頭を掻いて気を取り直した。


「これは土産だ。来い。本当の良い物は、実はこっちにある」


 伝三に導かれ、アンドレは屋敷の前を横切るように行く。屋敷は小高い岬に建ち、また他方の岬との間に、隠れるような入り江を形成していた。

 その入り江を、促されるまでもなく見下ろすアンドレの目に、巨大な船影が映る。


「これは……」


 アンドレは続く言葉を失った。思わず、崖際まで足が向かい、踏んだ砂礫が直下の海に吸い込まれる。

 帆を畳んだ三本マスト、ガレオン船……を、真似てはいるが、根本的な構造が違う。船首は接ぎ木と鉄板の補強で延長されているようだが、取り払えば二形船の特徴が顔を出す。船首楼、船尾楼に見せかけているのは矢倉だろう。

 船だけではない。甲板には胴と脛当てを装備した水夫らが、十分な数だけ配置されていた。


「安宅船を改造したのか」


 アンドレの驚嘆とも取れる問いに、伝三は神妙に頷く。

 当代の日本軍船において、最大級の積載量を誇る安宅船が、新たな姿で生まれ変わっていた。


「歪な船になっちまったがな。船速は黒船に劣らず、だが相変わらず脆い。正面だろうが側面だろうがぶつかり合いなんざ考えられん。側面に大砲も積めるが、今は元々使っていた二門のみ。代わりに筒に弓に焙烙火矢と満載にした。沈め合いなら黒船にも引けを取らんだろう。野郎どもにも話は通してある。後は、上手くやるこったな」


 聞いているのか、いないのか。アンドレは両手を船影にかざし、その巨体を計るか、同型の模型を弄ぶかのようにしている。

 伝三は呆れたように、にやけた。


「これが良い物かって聞かないのか」


 その言葉は、暗に、これがそうだと告げていた。


「……船名は」

「俺は過去の亡霊だ。だが、あの世で大人しくするつもりはさらさらない。海の漢は幾度でも蘇る。故に、黄泉ツ丸」

「蘇りし船、ヨモツマル……。ヘグレッソ・ジェ・アージェス号、か」

「おい、ちょっ……」

「よもや期待を超えるとは」

「待て、勝手に変えるな。名付けの特権まではやらんぞ」

「気に入った」

「黄泉ツ丸の方だよな」

「勿論」


 下らない会話を交わしながら、船の全貌を望む両者の目は笑っていない。林より吹くは追い風。枝葉、梢の騒めきに、島の音が全て掻き消されるかのようだった。

 アンドレはカトラスを握り、伝三は刀の鯉口を切る。


「……右手の岩場が階段代わりだ。降りて行きゃ、隠し浦の船着き場だ」

「……ああ。望外の代物だ。これならば、徳川の鼻を明かせる」


 二人の瞳が風の源を探る。その過程で一瞬だけ両者の視線が交差。各々の得物に手をかけ、振り向きざまに抜く。

 二人は刃が硬く、しかし軽い物を弾く感触を覚えた。

 針だ。

 円錐に巻いた紙の尾羽。吹き矢が二発、放たれたのだ。

 茂みに隠れた下手人の姿は見えない。しかし、伝三は一所を凝視し、刀を正眼に構えて、親し気に声をかけるように叫んだ。


「駄目だろう、お詫び回りの最中に。おまえ」


 伝三はいつものように、その者をそう呼んだ。その者を迎えるように前に出て、わらじで針を踏み躙り行く。同時に、アンドレに入り江まで行くように、空いた手で促す。アンドレは従い、目を離さず、岩場へ後ずさる。

 対して、茂みを掻き分け、吹き矢の持ち主が姿を現す。不要とばかりに竹筒を捨て、新しい得物を抜いた。

 親し気に、慣れないなりに精一杯の大声で。


「駄目でしょう。笹船も浮かべないと、お約束なさったじゃありませんか……」


 短刀を逆手に持ち、黒髪をたなびかせる白菊であった。

 そよ風に揺れる花の如く、極端に緩やかな舞踏を彷彿とさせる歩み。掴もうとしても手をすり抜ける、感情の読めない能面のような顔が、今は更に冷たい笑みで凍っている。


「……ねえ。あなた」


 右半身を前にし、隠した左袖に仕込んだ棒手裏剣をアンドレへ投擲する白菊。歩みの鈍さに紛れる早業は意識の空白を突く。だが、強者の空白は余りにも微かで、伝三の打刀に一本が落とされ、その陰に隠されたもう一本もアンドレのカトラスに阻まれる。

 一度の動作にしか見えなかったが、彼女は二度、投擲していた。


「馬鹿、おめえ、アンドレ殿に当たるだろう」

「当てるつもりでおりました故。でも、伝三様がお邪魔なさるから」

「助太刀っつんだよ、こういうのはよ」

「いいえ、邪魔です。海難坊を庇ったのも、その実力を見込み、私めを人質の体で厄介払いなさったのも。その隙に、こんな物まで呼び寄せて……私め一人で臨まねばならないじゃありませんか」

「落ち武者狩りに誘った内府のお友達とは会えなかったのか」


 白菊が立ち止まる。氷の微笑の、目が僅かに泳いだ。


「何をおっしゃいます」


 伝三は歩みを止めない。


「おまえより先に、お友達へ文を出した。あれが動く。主らの顔は割れている。これより後の文は罠。別な者を盗賊に仕立て、少数を浜辺に寄越すべし。島諸共確かに焼くべし。……いかにも急ぎ筆を走らせたように、癖も潰れた字で。血痕のオマケをつけてな」


 これ見よがしに、伝三は左腕の包帯を見せた。

 浜で毒殺した、二人のならず者。焙烙火矢で沈めた、沖合の弁財船。

 白菊は、自ら味方を手にかけたと、伝三は言っている。

 白菊の目が、大きく見開かれた。絶やさぬ笑みに夜叉が宿るようだった。


「出鱈目を」

「心細いなら諦めろ、白菊。見逃せ」

「お断り申し上げます」

「正気か。浜のを手にかけたんだろう。おまえは謀反を起こしたも同然だぞ」

「誰がそれを内府に伝えるのですか」

「言ったな、おまえ。もう後戻りする気もねえってか」

「命を果たす時でございますれば」

「俺はあの船には乗らん。あの船を手放した後は、俺と船は無縁だ。これまで通り、ただの伝三のままでいてやる」

「世に乱れをもたらす力を、斯様な狼藉者に渡すのを、指を咥えて見ていられましょうか。あなたであろうと、南蛮人であろうと、戦船を駆るのであれば、企てを阻止するのが、私めに課せられた務めにございます」

「たった一人でか」


 二振りの刃が、夫婦が相対する。

 あと一歩で、打刀の間合い。短刀の間合いには、今少し踏み込まねばならない。


「それではこうしましょう。吹き矢のことはお詫び申し上げます。暗器のことも。あなたの姦計に踊らされたことも水に流します。……そうでした、アンドレ様よりバカリャウ・コン・ナタスなる料理を教わりました。代用品ばかりの似ても似つかぬ物ですが、私、献立を考えましてございます。後で作って差し上げます。いつか本物も作ってご覧にいれましょう」

「ほう。アンドレ殿の故郷の味か」

「ええ、ですので、伝三様、今、この場で、御身の手で、船に火をお放ちください。今なら、伝三様も、アンドレ様も、水軍衆も、一人の例外なく見逃して差し上げます」

「……なら前言を撤回しよう」


 白菊からは笑みが消え、伝三ではない男が狂喜に染まる。


「ただの伝三はもう止めだ。昔のように、この伝三郎と船に乗れ。ただの白菊」

「……嗚呼、ただの伝三のままでいれば、よろしゅうございましたのに」


 にわかに風が強まる。温かな春を告げる嵐、生半ではない。身をつんざき、凍える風の吹き荒ぶ最中、睨み合う両者の着物が、髪がばさついた。

 いずこからか飛んで来た枯れ葉の舞。

 内一枚の、伝三……伝三郎の目元を横切る、朽葉一色の瞬間。

 下段から斬り上がる刃を刀で受ける伝三郎。視界が塞がった一瞬で、白菊は距離を詰めた。前傾姿勢で体重を乗せた少歩数の加速。縮地の勢いは、細腕の君のものでも侮れない。もう片手で肘を支えた短刀は、見た目の心許なさに反して軸がぶれず、刃同士がギリギリと金気の音を立てている。

 枯れ葉を踏む音がなければ、伝三郎は斬られていただろう。


「生憎、私めは、内府の白菊です」


 決意を乗せた刃は、生身で受けるには鋭すぎた。


「行けい! 海難坊!」


 伝三郎の一声と共に肘の支えを解き、白菊の左袖より棒手裏剣がアンドレを追う。アンドレの首から下は崖際の陰に既に隠れており、寸でのところで首上も隠れ、棒手裏剣は宙を切る。

 白菊が忌々し気に舌を打つ。

 投擲により白菊の姿勢が僅かに崩れ、伝三郎は力任せに刀ごと白菊の身体を押す。正面の力勝負は伝三郎に分がある。たまらず姿勢を崩す白菊。

 が、伝三郎に手応えはない。白菊は手折られず、短刀で打刀の鎬を滑らせ削り、力を受け流す。伝三郎が振り下ろした刀を戻す手を、空かさず白菊は空いた手で押さえる。伸びきった腕は、軽い力で上から制され、一瞬硬直する。続けて白菊は短刀を逆手から順手に換え、最短距離をなぞるように、切っ先が伝三郎の首を目がけた。

 たまらず伝三郎は刀を手放し、身体を仰け反らせた勢いのまま地面を転がる。距離を取ったところで膝立ち様に脇差を抜く。事を急いたのか、柄を掴む手は、柄の頭を覆うように握られた。

 が、脇差は鯉口も切れず、つっかえた。

 白菊は、事もあろうに、伝三郎の指ごと、柄の頭を足蹴にしたのだ。


「っつ……!」


 伝三郎の攻め手を封じた格好の白菊。短刀の突きに繋がる筈が、しかし、人形のような顔立ちが一瞬、苦悶に歪み、たまらず柄頭から足を退ける。

 針だ。

 いつの間にか、伝三郎は、脇差の抜き手に、白菊が藪から吹いた針を忍ばせていた。

 対峙する時、伝三郎がわざわざ針を踏み躙ったのは、わらじにそれを忍ばせるため。打刀を手放して転がったのは、その針を怪しまれずに取るためだったのだと、白菊は思い至る。

 白菊は、伝三の仕組んだ罠を、たった一本の針を、柄の頭の確かな支えの上に逆立つ針を、まんまと踏み抜いたのだ。

 怯んだ瞬間を逃さず、伝三は居合いの型から脇差を斬り上げる。抜いた脇差は、距離を詰めた白菊を追い払う。


「助太刀無用! 船出だ、野郎ども!」


 岩肌を下るアンドレへ、水軍衆へ向けて伝三郎が叫ぶ。

 八艘跳びもかくや、時に断崖を滑り降り、奈落の底へ落ちる直前で、アンドレは次なる飛び石へ跳躍する。迷いも未練も何もなく、放たれた矢の如く船へ行く。

 対して、待ち受ける水軍衆。覚悟はあったが、いざ、さらばの時が来れば、動揺が隠せない。伝三郎曰く、雌伏の時は終わり、自分の見込んだ、頭に相応しい男に跡を継がせる。各地に潜伏していた衆を招集する折に触れ回っていたことだが、未だ腑に落ちない者も少なくない。ただ、頭の最後の命、しかと受けた海の漢らは、口の端を結んで、船出の準備を急いだ。


 場面は崖上に戻る。

 伝三郎は白菊に釘づけだった。

 針には当然、毒を仕組んだと考える。しかし、白菊の足捌きは衰えない。

 戦にはない漂う糸のような舞踊の脚運びは裾に隠れて何処へ向くか窺い知れず、逆手に戻った短刀で口元を隠すように構えている。真っ向斬りも胴斬りも、踊るように身を翻してかわす。旋回に煽られた木の葉が袖を追う。白菊は、刀を正面から受ければ先に体力が底を突くと理解し、立ち回っている。

 更に攻め時は容赦なく、じわじわと絞め殺す。真っ向斬りや胴斬りの出だしや振り切りを狙い、空いた手で伝三郎の手首を狙い、攻め手の隙を巧みにこじ開ける。こじ開けた隙に伝三郎の腕や肩を短刀で斬り、刀を手放させようと、無力化を狙ってくる。白菊は、一撃目に急所を捉えきれず、攻めあぐねている様子だった。

 いつ来るとも知れない縮地と併せ、静と動が自在に入り乱れる。

 我が妻としても、武芸者としても、戦地で味わえぬ技から目が離せない。

 手練れの短刀術は厄介極まりない。

 短刀は、刃渡りを犠牲にした分だけ軽く、どれだけ非力であっても片手で扱える。自由になったもう片手が特に曲者だ。伝三郎が刀を振り下ろす前、振りかぶって力を解き放つほぼ直前に、柄なり腕なりを止められてしまえば、力を乗せる前の得物はいとも容易く止まる。あるいは、力を乗せた一撃であろうと、かわして上から押さえてしまえば同様。その隙に刃の届かない懐に潜り込まれたが最後、短刀の切っ先で切り裂くだけでも、着実に傷が蓄積した。

 新品からボロになるまで、至るところを切り裂かれた伝三郎の着物に滲む血が、戦いの趨勢を物語る。


(最後くらいはこの手で倒してやろうなどと、とんだ思い上がりだった)


 伝三郎は不敵に笑っていた。

 勝つには、今しばらくかかる。

 この勝負、伝三郎の生死は最早問題ではない。その行方は、アンドレに託した船、黄泉ツ丸が握っている。

 船を無力化すれば、白菊の勝ち。

 そして、船がより沖へ行き、白菊の手の及ばない彼方に至れば、水軍衆の勝ち。

 つまり、伝三郎の役は時間稼ぎに徹すれば良い。

 夫婦喧嘩の結末など重要ではない。

 妻から一本取ろうと意気込むのは、夫の意地にすぎなかった。

 崖際に後ずさり、白菊と距離を取る伝三郎。崖下への道に近付くのは、戦いの目的からして伝三郎にとって悪手であるが、斬り捨てられては元も子もない。それを白菊は直ちには追わず、ゆったりとした独特の歩法で詰める。深く長い息を一つ、薄く汗を浮かばせる。

 伝三郎の脇差は相変わらず正眼の構え。

 風に揺れる一輪の白菊、脇差の間合いに踏み入ろうとする彼女に対して、伝三郎は岩のように動かない。

 白菊が伝三郎の間合いに一歩踏み出た瞬間、前に出た足の軸がぶれ、支えを失った上体が崩れかかる。

 その足は、毒針を踏んだ足。

 毒の効き始めを逃さず、伝三郎は脇差を真っ向に、白菊の脳天へ振り下ろす。

 その一撃は短刀で弾かれ、火花を散らす。白菊が初めて伝三郎の攻撃をかわさずに受けた。短刀から伝わる圧は腕を伝って足に至り、毒を食らった方の膝が崩れかかった。

 二撃、三撃と、伝三郎の攻勢が続く。白菊に隙が生じても大振りな斬撃は繰り出されず、素早く絶え間ない斬りつけばかり。踏み込まねば短刀の特性を活かせないが、片足が痺れた白菊では恰好の的になりかねない。極力、刃をかわしているものの、数をこなすにつれて、白菊は短刀と脇差で作る火花の数を増やしていく。

 夫婦の刀二振りに、刃こぼれが増していく。


 岩間の数々を飛び越え、アンドレは遂に中空へ身を躍り出す。

 降りた先は黄泉ツ丸の甲板。海面を揺れる船体の力を借り、全身を屈めて落下の衝撃を相殺し、水軍衆の目を集めつつ、アンドレはゆっくりと立ち上がった。

 船出前の慌ただしさから一転、波の音が耳に迫るほど静かになる。曝した皮下の肉を包帯で隠した異邦の者が、国の着物をゆるりと纏って、腰に異形の剣を携える。弓と矢筒まで背負っている。

 異物を見るような視線を一身に受け、尚堂々たるアンドレの声が船上に轟く。


「最後の船長命令を完遂してみせろ。言いたいことがあれば、その後に聞いてやる。俺は見張り台へ登る。そうだな……、貴様も来い」


 宣言の後、アンドレは手近な水夫を一人指し、無理やり腕を引いて見張り台へ登って行く。他の水夫たちは、気に食わないながらも、確かに受けた船長命令の手前、全ての帆を張り、あるだけの櫂を漕いで、黄泉ツ丸は海を行く。

 その後は、自分たちで南蛮人を見定めれば良い。

 助太刀を禁じられ、やり切れない闘争心が、各々の腹中で煮え立っていた。


 崖上に剣戟が鳴る。

 伝三郎と白菊の戦いから精練さが褪せ、荒々しい鍔迫り合いが繰り返されている。

 本来、白菊が避けたがる力勝負だが、伝三郎は先程からむしろ白菊が積極的にその戦いの場を望んでいると、短刀から感じていた。刀の軌跡を読み、避け続けるのは、精神をすり減らす。思うように動かない足では続かない戦法を諦めただけとは思えない。

 理由を悟れぬ内に、幾度目かの鍔迫り合いとなる。

 お互いの吐息すらかかる距離で睨み合う。白菊は突如、丸めた舌を突き出し、息を吹いた。伝三郎の瞼に刺さる痛み。口に仕込んだ針だ。

 怯んで身を引いた伝三郎。瞼が閉じて生じた死角、大外から短刀が振るわれるが、伝三郎は柄頭で白菊のこめかみを殴り、口に隠した残りの針を地にばら撒いた。軌跡が乱れた短刀の切っ先は間一髪、伝三郎の頬と鼻先を掠めるに留まった。

 両者、互いに受けた威圧に押されるまま、伝三郎と白菊が距離を取る。

 両者は滝のように汗を流しているが、努めて呼吸を操り、構えを解かずに、視線を交差させている。

 伝三郎の足元には血の斑点が、白菊の足元は毒により、わらじに喰い込むほど肉が膨らみ、患部より毒々しく赤黒い色が肌に滲む。

 白菊が短刀を順手に持ち変える。目の前の夫に向けた切っ先は、頭が揺れた影響か、揺らいでいる。同じく、揺らぐような歩み、直後、膝を突いたのは白菊の方だった。

 立ち上がろうとしても、足が言うことを聞かない。

 二人は決壊したように、どっと肩で息をした。

 脇差を下段に降ろし、伝三郎は項垂れた。


「ああ……、と、年甲斐も、ねえこと、するもんじゃ、ねえや。ひゃー」


 下段の構えを解かず、伝三郎は息を整えながら、白菊を中心に、彼女と対峙しつつも円弧を描くように歩く。

 片膝より下の自由が利かない白菊が、何とか身体と切っ先を、伝三郎に向け続けていた。


「あーあ、頭がふわふわしやがる。刀も、こりゃもう、のこぎりだぞ」


 と、文句を零しつつ、伝三郎の足は、手放して地に横たわる、己の打刀の傍に立つ。のこぎりとなった脇差を土に刺して立たせ、刃こぼれもほとんどない打刀を手に取る。

 激戦を終えた大刀は、ぞっとするほど冷たく輝き、酷く手に重い。


「……結局、おまえには、真っ当な勝負じゃ、勝てず終いだったな」


 一歩、また一歩と、伝三郎は白菊に歩み寄る。思い出の一片を語るその顔は、直前まで殺し合いに臨んでいた武士のものではなく、妻を慈しむ一人の夫のものだった。

 妻は、まだ戦う者の表情を解かない。

 見るも無残に傷ついた短刀の切っ先を震わせながら。


「受け流せもしねえだろ、もう、そんなんじゃ」


 打刀が、上段に振りかざされる。

 短刀は届かず、足は不足を補えず、刀で受けるには余りにも心許ない。


「本心がなくとも、良い暮らしだった」


 打刀を握る手に力が籠る。

 白菊は咄嗟に背を向けて、両腕で腹を覆うように身を丸めた。


「―― ……!」


 腹を―― 稚児。

 まさか。

 伝三郎の頭が真っ白になる。その空白を切り裂いたのは、腹にズンとくる熱さ。

 最後の力を振り絞り、足に鞭を打ち立ち上がる白菊の、全体重を乗せた短刀の一撃が、伝三郎の腹に深々と刺さる。夫に泣き縋り、抱き着く妻のように身を寄せる。白菊は短刀を捻り抜くと、革の水筒を割いたように、大量の血が零れ、溜まる。

 打刀を持つ手に力が入らない。この場で最も美しい姿を保つ刀が再び地に落ち、伝三郎は崩れるように両膝を折る。両手で押さえても止めどなく溢れる血が視界を占めつつある中、口からも血の塊が吐き出された。

 伝三郎が目を落とす先、血溜まりにそっと、凶悪に欠けた短刀が、笹船の如く浮かばせられた。


「もう、介錯すら差し上げられません。お武家様に戻られたのなら、それ相応の最期をお飾りください」


 踵を返す白菊。


「お慕い申し上げておりました、伝三様」


 その言葉を最後に、足を引き摺りながら、白菊は藪へ向かう。

 伝三と呼ばれた男は、目を落としたまま、苦し紛れに口角を歪ませた。


「そりゃ……ずりい……って」


 凪に草木も沈黙す。

 伝三の声が聞こえているのかいないのか、白菊は黙々と、もはや舞えない足で歩む。

 隠しておいたもう一艇の焙烙火矢。船はまだ射程内の筈だ。急ぎ取りに戻り、あの船を焼かねばならない。あの武力を解き放っては、やっと得られそうな天下泰平が、どれだけ遠ざかることだろう。

 今や、近くの藪も、遠く思えるほど、足が重い。

 しかし、企ては絶対に阻止せねばならない。

 使命を確かに抱き、全うすべく邁進する白菊は、うなじに鋭い感触を覚えて、前のめりに倒れた。ドサッという音を耳にし、伝三が顔を上げる。伝三は、その光景を神妙な面持ちで眺めている。

 急速に濁る視界の中、白菊が最期に目にしたのは、己の喉を突き破り、血に塗れた鏃であった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 黄泉ツ丸の見張り台に、決闘の決着を見守っていた二名、アンドレと、同船水夫。

 アンドレの手には反転した弓が携えられ、もう片手は矢羽を放した位置にある。

 放った矢は白菊の首に的中。

 見事な腕前に、全てを目撃していた水夫は言葉を失っていた。浜より船上の扇を射抜いた那須与一、否、足場の不安定な船上より、相対的に動く的を狙ったこの男の方が、稀なる技を会得しているのではなかろうか。


「伝三郎。最後まで食えん男だった」

「……それは、一体」

「貴様、名は」


 水夫が発言の真意を問うのに構わず、アンドレは尋ねる。水夫は聞かれるがまま、自らを宗治郎と名乗る。


「宗治郎。皆に伝えろ。決闘は誰が勝ったか。決着を見届けた上で、俺が射抜いたのは何者か」

「は……ははっ」


 畏怖を抱かずにはいられず、宗治郎は頭を下げた。見張り台より、直ちに甲板の同胞へ事の次第を喧伝する。

 傾注せよ。殿は、接戦の末、下手人、内府の白菊に討ち取られた。ここなアンドレ・ペソア殿は、この船を託された大恩を返すかの如く、憎き内府の仇敵、白菊を弓にて討ち取った者である。アンドレ殿は、殿の仇を討ってくださったのだ。

 悲愴、驚愕、同様が入り混じる甲板を、アンドレが睥睨する。

 騒然とする水軍衆らの注目を浴びる中、間の悪い気がして喧伝を繋げようとする宗治郎を、アンドレは制する。

 短くも長く思える時が過ぎる。

 やがて、甲板の騒めきはある時を境に一斉に静まり、波の音ばかりとなった時、アンドレは満を持して口を開く。


「この国に、水軍ここに在りと示す」


 それは、この場の誰もが望んだことだ。

 上辺だけの発言でも、耳を傾けずにはいられないほど、切望した。


「海の漢は奔放でなければならない。だが、我が友、伝三郎は、徳川の女狐の手前、奔放にはなれなかった。海の漢の魂である船ですら駆れず、雌伏の時を過ごしてきた。徳川に翻弄された、哀れな男だった。だが、彼の呼びかけに応じた、歴戦の船乗りがこれだけいる。彼の招集を信じて改修された船が、この海にある。伝三郎は、素晴らしい同胞に恵まれた」


 上辺とは思えないほど、アンドレの演説は聴衆の心情に寄り添った。


「だが、これだけの同胞と船がありながら、伝三郎自身は海に戻れなかった。何故だ」


 一拍の間、皆が思い描く者は同じ。


「かの女狐、白菊だ。白菊の存在が、常に伝三郎を縛っていた。現に、船に乗る算段がついても、あの女に阻まれたではないか。伝三郎は、夢半ばに倒れた。とても悲しいことだ」

「総出で囲っちまえば良かったんだ!」


 聴衆の一人が声を上げる。衆目の集まる先を辿り、アンドレはその一人を見下ろした。


「貴様は何だ」

「俺は義衛門だ! 総勢であの女をやれば、殿は今頃海に出られたんだ!」

「では義衛門に尋ねる。たった一人の手練れの戦士を討ち取るため、総員の乱戦を仕掛けたとしよう。水軍衆何人の被害で完遂できる。それは船の運航に支障が出ない数か。その間、船乗りを失った船が、他の手の者に沈められない保証は。あるいは、総員が敵の策に陥らない確証は。ここは女狐が伝三郎と共に長きを過ごした島だろう。多人数の襲撃を想定していないとでも思っているのか。貴様はどれほど、あの女を侮っているのだ」


 義衛門の反論を待たない、矢継ぎ早の問い。最初の問いこそ売り言葉に買い言葉で応酬しようと口を開きかけたが、増える問いに思考が割かれ、分散し、霧散する。義衛門の考えは形にならないまま、遂に口に出ることなく、ただアンドレの羅列した懸念の数々、それだけのことに考え至らなかった自分の無力を思い知り、奥歯を噛んで俯いた。

 再び、甲板は静寂に包まれる。


「伝三郎は承知していた。白菊の注意を引くなら、己一人が妥当だと。水軍復活の悲願を遂げるための生け贄は、己のみで十分だとな。我々は、伝三郎の命の上に立っている。この船は伝三郎の命の上に浮いている。ならば、我々は伝三郎の悲願を果たさねばならない。違うか」


 異を唱える者は、誰もいない。


「だが、くれてやるばかりではつまらん。俺は、伝三郎の仇敵、白菊をこの弓で討った。仇を討った」


 アンドレの掲げる弓に集まる眼差し。晴らすべき悔恨を晴らし、水軍衆の無念を射抜き、憎き幕府の一端を仕留めた弓。畏敬の念。


「続いて俺は、伝三郎の仇を討った者として、貴様らの、野望を宿す心を射止めなければならない。水軍ここに在りと徳川に示す。手始めに、紅毛どもの黒船、そして朱印船が徳川にもたらす財を、尽く討ち尽くす。この船と、貴様らがいれば成し遂げられると約束しよう」


 血気盛んな者から、手を力強く握り締めた。


「無論、ただ従えとは言わん。得体の知れない異邦人が、いきなり頭目風を吹かせて、誰が従うものか。だが、伝三郎に託された手前、甘んじてこの座に居座らせてもらおう。故に、貴様らには機会をくれてやる。俺の首を取った者に、次の頭目の座を譲ると宣言する。時と場所、手段は問わない」


 言うや否や、アンドレは矢を番え、即座に背後の甲板を射る。動揺広がる最中、ある者の足元近く、火縄銃に種火を着けた者の所に、矢が刺さっていた。


「貴様は何だ」


 後ろにも目がついているのではなかろうか。

 大言壮語を吐く南蛮人へ銃を放とうとした男は、恐れながら名を新左エ門と名乗る。


「新左エ門か。気に入ったぞ。戦では兵を率いろ。そして、義衛門は水軍衆の代表として忠言を許す。宗治郎は俺の補佐だ。三人とも、報奨は手厚くすると約束しよう。他の者も才を示せ。相応の働きには相応の褒美で報いる」


 頭目を気取った振る舞いを始めるアンドレだったが、名を呼ばれた三名を始め、反感を覚える者はいなかった。言葉巧みに知謀と武勇を示した見張り台の男に、心が傾きつつあった。


「では、相応の働きとは何だ。そう、水軍ここに在りと徳川に示す。あの古狸に一泡吹かせるには、貴様らの働きが欠かせん。貴様らの力を、知恵を、船に捧げた研鑽を、俺に預けろ。確かな筋を通し、貴様らに勝利をもたらしてやろう。水軍衆よ、名は何と言う」

「古い名は捨てました。殿は、我らを玄海水軍と」


 宗治郎の申し出に頷くアンドレ。


「玄海水軍衆よ、その名と共に、畏怖をもって俺の名を世に知らしめよ。玄海水軍ここに在りと、徳川に示すのだ。今より俺の名は」


 皆、固唾を呑んで、名乗りを待つ。


「海難坊だ」


 高らかな宣言に応えるよう、甲板より、野太い歓声が上がる。一部より海難坊の名を連呼する者が現れ、それが全体に伝播する。

 玄海水軍は、海難坊の名の下に陶酔し、一つの酔夢に束ねられる。


「ペソ……いえ、海難坊閣下、こちらを」


 熱気に湧く甲板上から、見張り台の宗治郎へ届いた物がある。刀袋に守られた中身は、語るまでもなく太刀。それを、宗治郎は恭しく献上する。


「かつて、伝三郎様が振るわれた宝刀にございます。貴方に相応しいと」


 鞘を掴み、海難坊は太刀の鯉口を切る。鏡の如き刀身に、禍々しくなった己の顔が映る。

 長尺の刀を抜き、天に掲げる海難坊の雄姿に、酔夢の熱狂は更に深まる。

 黄泉より来たる船の帆に一杯の風を受けながら。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 崖に血の跡が続く。

 血の跡の行く先は、手折られた女の傍ら。

 白く透き通る肌は血の気が引いて、この世の者とは思えぬ美しさを湛え、振り乱した黒髪の、乱れてなお流れるような艶めきを残す、麗しい女が、首に矢を受けて息を引き取っていた。

 何かを求めるかのように、薄く開いた眼にそっと、血塗れの手が手ぬぐい越しに、瞼を撫でるように閉じさせた。

 伝三の腹からは、もう殆ど血が流れていない。

 目に隈を作り、顔面蒼白。息も浅く、喉に血を絡ませながらも、意地で白菊の傍らまで、自らを引き摺った。その手には、今や形見の、今にも折れそうな短刀が握られている。

 目を閉じた白菊の顔は安らかに見える。

 ずっと眺めていれたらと、伝三は切に思う。

 眺めたければ眺めれば良いだけのことを、切に。


「薄々、こうなると、気づいてたんじゃ、ねえのかい、おまえ」


 答える者のいない問いは、風と木の葉に掻き消える。

 あるいは、伝三は、風や木の葉に問いを乗せて届けたのだろうか。


「俺たちゃ、案外、うまく、やれてたよ、な」


 伝三は、形見の短刀を腹に突き立てる。

 妻が開いた傷を広げるように、一思いに腹を斬り裂いた。斬り、抉り、振り抜いた短刀は、伝三の手を離れ、血溜まりの一つに落ちた。

 最期、手の一つでも握れたらと思っていた伝三だったが、次第に腕は重く、指は硬く、座したまま遂に倒れることなく、風と同じ体温になっていった。

 血溜まりが崖に二つ、色は同じと言うのに、いつまでも交わらない。

 ただ、二振りの刃のこぼれた数ばかりが、証に刻まれるのみ。

 屋敷の庭、桜の蕾が二つ、いつの間にか寄り添うように解けていた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 海と里を隔てる山中、落ち葉の敷き詰められた獣道のやや広まった所。藪に取り囲まれた一角にて、鞍馬は身の丈ほどの木棒を携えて立っていた。両端は綿を詰めた布が巻かれ、黒ずんだ液で濡れそぼっている。

 その棒を構え、周囲の気配を探る。

 この場を囲む藪に二つ、微かな騒めきに見えるのは、隠れて動く者の気配。丁度、鞍馬を挟み撃ちにできる位置に二つの気配が、時計回りに動いている。

 鞍馬は気配を耳で追う。いたずらに身体は動かさず、いずれ訪れる、姿を現わす瞬間に意識を研ぎ澄ます。

 やがて、気配が仕掛けに出る。

 鞍馬の前後に一人ずつ、藪から上体を表す者の影。筒のような物を構えて、その口を鞍馬に向けている。

 同時に、鞍馬は棒を支えにして高く跳んだ。

 影どもは意表を突かれたか、筒の狙いがぶれ、鞍馬の姿を追うのに精一杯の様子だ。何とか捉え、筒から黒い何かを吐き出したと思えば、鞍馬は適当な幹を蹴り、跳躍の軌道を変えて、その黒いのをかわしてしまう。

 そのまま、前方の藪の気配の方へ飛び掛かり。


「うぎゃ」


 と、高い声で呻くその者に、棒の先端をやんわりとながら、ぐりんと擦りつける。

 空かさず後方に急進する。こちらの筒も放たれた直後であれば、黒い物の量からして、二撃目は来ない。

 後方の影は慌てて身を隠すが、藪の騒めきが位置を明かす。音を追い、棒で一撃を食らわせようとする鞍馬だったが、再び上体を現した影に面食らう。

 影は新しい筒に持ち換え、今にも鞍馬を撃たんとして待ち構えていたのだ。

 だが、鞍馬は努めて冷静に棒を操り、筒の尖端を払い上げる。黒い物は明後日の方向に放たれて、影は武器を失う。再び隠れて次の筒の元へ移動しようと考えたのだろうが、鞍馬に言わせてみれば動きが緩慢。


「ううっ」


 藪に潜る前に棒の先を影の顎にそっと沿わせてしまえば、身動きも取れない。鞍馬はその肌をなぞるようにして横一文字の跡をつけた。

 今度は鞍馬が藪に紛れた。鞍馬が元いた場所に、筒から出た物と同様の黒い物が降り注ぐ。


「えっ、えっ、どこじゃ。おい、お前ら、鞍馬どこ行った」

「わしらもう死んだけん、答えたらズルじゃ」


 気の抜ける会話が、樹上と藪の間で交わされる。だが、それが命取りだった。

 にわかに鞍馬が藪より現れる。再び棒を使った高跳びで中空に躍り出て、更に幹を蹴り枝に乗り、それでも更に樹上に居座る声の主と相対する。

 鞍馬の手には、影たちが使う筒が握られており。


「うぶっ」


 後ろについている丁字の天突き棒を押すと、中の黒い物が容赦なく樹上の影に直撃する。

 慌てて平均を失った影は、腕を振り回して踏ん張るものの、健闘空しく枝から足を踏み外し、絶叫を上げて落ちて行く。

 考えるより前に、咄嗟に鞍馬は跳んだ。落下する影を空中で抱擁する。樹々の間を蹴り渡り、稲妻形に降りることで落下速度を抑制し、鞍馬は何とか無事に地上へ降り立った。

 それでも、重量が増した分だけ感覚が狂ったか、足が痺れて悶絶した。

 痺れを堪え、腕の中の者にぎこちない笑顔を向ける鞍馬。立てるか尋ねて頷いたその者を降ろす。

 顔が墨汁だらけになった、浜の子供である。

 鞍馬は子供に頭を下げた。


「危なかった。すまない。本気になりすぎた」


 この頃、鞍馬の大和言葉は、そこそこ流暢になっていた。

 下がった頭をきょとんと見上げる子供の元に、藪で成り行きを見ていた残りの二人が、頬と喉に墨の跡をつけて、鞍馬たちの元まで駆け寄って来る。その腕には、竹筒で作った天突きのような水鉄砲が二、三艇ほど抱えられていた。


「鞍馬、鞍馬どん。今のどうやったんじゃ。ばりすごかね」

「鞍馬どんは軽業師じゃったんか」

「カルワザシって、何?」

「今みたいにぴょんぴょんと、こう、身軽な技を持っとる者じゃ」


 降りて来た樹々を稲妻形に指差す子供の仕草を見て、鞍馬はようやくピンときた。


「家族は大体できた」

「まことかー」

「すごかー、行きてー」

「何じゃ何じゃ、お前らばかり盛り上がって。そげなすごか様じゃったんか。わしも見たか」

「じゃあ、此度はわしを抱えておりてくれんか」

「おい、ずるかぞ。わしからじゃ、な? 鞍馬どん」


 興奮冷めやらぬ男の子三人の騒ぎは次第に収拾がつかなくなっていく。鞍馬はけたたましく拍手を打って子供らの注意を集めた。


「さあほら、和尚様の所に戻ろう」


 言われてようやく、子供たちは、鞍馬と勝負をしていたことを思い出したようで。


「そうじゃった。わしら負けてしもたんじゃ」

「悔しかー」

「次は勝つぞ」

「もっとすごか筒ばこしらえよう」

「おー」

「ほらほら、私に考えばらしてるから。後ろから見てるから、先に行きなさい」


 真剣に遊びを楽しみ、勝負の結果に一喜一憂する子供たちは実に微笑ましく、鞍馬は穏やかな気持ちで、子供たちと廃寺へ向かった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 廃寺で四人を待つ二人、法然和尚と三浦隼経。

 悔しそうに歯を食い縛り、わなわなと肩を震わせる和尚に対し、三浦は眼鏡に当たるほど頬を上げて嬉しそうにしている。

 墨だらけになって気だるそうに立つ子供三人と、落ちた子供を抱えた時のもの以外、汚れ一つない鞍馬を見比べて。

 三浦はうんうんと頷いた。


「結果は明白ですね。では、和尚様、約束通り、子供たちは学び舎に連れて行きますので」


 法然の震えが目に見えて激しくなる。しわくちゃの顔面が更にしわを増したようなしかめっ面で、今にも爆発しそうな怒気の矛先を錫杖に向ける。錫杖を何度も地に突いて遊環を無茶苦茶に鳴らしまくり、一しきり駄々をこね終えると、糸が切れたようにしんと静まって、何事もなかったかのように三浦の方を向いた。


「……約束? はて、最近、物忘れが」

「貴方の場合は物分かりの間違いでしょう」

「何やとコラ」

「ああ、いえ、失礼。物覚えの方でしたか」

「おどれ、舐めとったらどつくど」

「じゃあ、どんな約束だったか、そらんじてごらんなさいよ」

「おう、耳かっぽじって良う聞けよ。鞍馬とじゃりどもに墨のつけ合いさして、鞍馬方が勝ったら四人とも三浦の手習い、じゃりどもが勝ったら四人ともわしと修行を……あ」

「はい、良うござんす。語るに落ちる以前の問題でしたね」


 ぐうの音も出ない法然は観念したように肩を落とした。心なしか、長い白髭もしんなりとしているようだった。


「しゃーない。こりゃあかんわ。おい、鞍馬坊、手を出してみい」


 鞍馬はここで何故自分が呼ばれるのかわからなかったが、言われるがまま何となく法然に手を差し伸べた。

 握手でもするつもりかと思ったが、法然は懐から矢立を取り出した。矢立から筆を取り出し墨壺を開き、筆先に墨を吸わせて、鞍馬の手の平にピッと一文字を引いた。

 続いて、振り向き様に矢立を後方の三浦へ振るうと、墨壺の中身を撒いて、三浦は頭から墨汁だらけになってしまった。

 何が何やらわからない一同を置き去りに、法然は豪放に笑いのけた。


「見たかボケ。じゃり軍団総大将、この三郎坊法然、見事敵将とその手下を一刀の下に斬り伏せる大どんでん返し。勝負は最後までわからんってなあ」


 開いた口が塞がらないとは、この時のためにあった表現なのだろう。余りの浅ましさに、一同は極めて幻滅した。

 特に子供からは大不評である。


「何ね、この坊主……」

「クソ坊主じゃ」

「尾張の落ち武者」

「あの時そう言っとったんは、おどれか!」


 今にも子供に掴みかかろうとする怒れる老人の肩を掴む者がいた。頭から墨を被り、眼鏡まで真っ黒の三浦である。今しがた出来上がった色眼鏡の奥、目の色は窺い知れないものの、貼りついた笑顔が嫌に恐ろしくなっていた。


「今日と言う今日はただじゃおきませんよ」


 法然は三浦の顔へ何の躊躇いもなく錫杖の頭をぶつけ、脱兎の如く逃げ出した。老齢にもかかわらず、やけに足が軽く、灌木一つなら苦も無く飛び越えて見せた。運動不足の三浦が追いかけたところで捕まるはずもない。しかし、それでも三浦は珍しく怒りに任せて、えっちらおっちらと和尚の後を追うのだった。

 子供たちは子供たちで、そこまでして和尚の修行、もとい道楽に付き合うつもりはないと言って白けて、三浦の手習いを受けるべく、先に学舎代わりの書院へ向かった。


「墨は落とさない?」


 と、尋ねる鞍馬に、子供たちは、書院に水瓶があるから大丈夫、またね、と言い残し、手を振って去って行く。

 一人取り残されて所在なげな鞍馬は、手の平に引かれた墨の一文字をまじまじと見つつ、廃寺の濡縁に腰かけて、頭を掻いて苦笑いを浮かべていた。

 寺の軒先より、法然が飛び降りて着地するのを目の当たりにして仰天するまでは。

 鞍馬の気配に気づいて振り返る法然は、意外そうに目を丸めた。


「何や、鞍馬坊。自分、書院には行かんのけ」


 何事もなかったかのように振る舞う法然の声も耳に届かず、鞍馬は仰天した顔のまま、法然が行ったはずの森、寺の屋根、法然自身の順にぐるぐると指先を向け、ただただ目を回している。


「おい……おい、止めえ。ええ加減」


 法然は錫杖の遊環をしゃんと鳴らし、錫杖の先を鞍馬の肩にポンと乗せた。

 鞍馬が我に返った時には、法然が隣に腰かけていた。


「全く、あないな屁っぴり腰の青二才に後れを取るわしやないわい」


 聞きたいことが顔に出ている鞍馬へ、口にされる前に答える法然は、懐から竹の水筒の栓を抜いて、心底美味そうに煽った。息継ぎにまで甘露が表れていた。


「ほんで、書院には行かへんのか。……自分に聞いとんやで、鞍馬」


 どんと胸に当たる距離感で差し出された竹水筒を、鞍馬はおずおずと受け取り、一口。と、思ったが、一向に中身が流れず、幾ら降っても一滴しか出なかった。舌に落ちたのはただの水だった。

 鞍馬は何だかおかしくなって、鼻で一つ笑った後、法然の問いの返事を空の水筒へ注ぎに立つ。書院へ向かい、戦ごっこで飽き足らず中で鬼ごっこに励む子供たちの騒がしさを横に、瓶から水を汲み、わざわざ法然の元へ戻って、その隣で飲んで水筒を返した。

 法然の受け取った水筒は、ずしりと重い。


「勝ったのは、子供たちと貴方、と思う」

「あないな戯言を本気にしとんか。厳ついくせに初心やの」

「ええと、決めたことを守って戦うのは、遊び。決めたことを破ってでも勝とうとするのが本当の戦いと、私は思う」


 思い出されるのは、広く地平線まで続く、熱砂と低木の大地。鞍馬たちの一族は、外からやって来た武器、鉄砲を持った他部族に負けた。

 鍛えた身体、研いた技。地に伏したのは強者ばかり。優れた道具を持つ者が最後に立っていた。武勇を欠いた、到底認められぬ結果だけが歴然と示された。

 従来の、手に馴染んだ武器と武勇に拘り続けた一族は、負けたのだ。


「本当の戦いなら、私たちの負け。今の」

「悟った風に抜かしとるが、まだまだ半人前や」


 途端、神妙な面持ちになり、法然は鼻を鳴らして水を一口飲む。


「見てみい。じゃりどもを。わしに愛想を尽かして、勝った褒美に目もくれんと、三浦の手習いに書院へ行きくさっとるやろ。決め事を守らんで勝つ言うのは、人心を置き去りにしてでも勝つ、っちゅうこっちゃ。見限られたわしは、勝ったように見えるか」


 法然は鞍馬の瞳を見据えている。その視線には、鞍馬の根源的な部分を突くような、神通力が宿っているようだった。

 鞍馬は答えに窮した。言葉を紡ごうにも、心の奥で糸がもつれたように引っ掛かりを覚えていた。法然との修業が果たして本当に褒美なのかという疑問とは別の違和感。

 構わず法然は言う。


「何が何でも勝たなあかんなら、なりふり構ってられへんのも道理やけどな。急いたばかりに、成すべきことを見失のうてもしゃあないやろ。今のが良い例や。一度離れた人の心はの、あのじゃりどもみたいに中々帰らん。どころか、忘れた頃になって、思いも寄らんような厄介もんに化けて帰って来ることかて往々にしてある」


 丁度、戯れに死んだはずの三浦が、怒りに息を吹き返して、わしを追ったようにや。と、法然はがむしゃらに追い駆ける三浦の顔を思い出して嘲笑いつつ、悪党の武勇自慢のように語った。


「決め事を守るんは遊びや言うたな。決め事を守って戦った自分を、じゃりどもはどない思っとったと思う。どないな顔をしとった」


 思い起こすと、子供たちが鞍馬を見る目、鞍馬を囲んで見上げていた顔は、墨と、鞍馬自身の自惚れと願望で多分に彩られていた。

 その表情が、鞍馬への憧れと羨望を意味していたと、願わずにはいられないほど。

 再び、法然は竹水筒をどんと鞍馬の胸に当てた。

 受け取り、煽ると、喉が潤った。


「戦の渦中に身を投じると、決着が全てやと感じるやろう。せやけど、一歩身を引くと、勝ち負けなんざ明暗だけの話やて良うわかる。何が残って、何が失せたか。誰が倒れ、誰が立っとるか。人の縁なんざ、切れて、結ばれ、あるいは解け、もつれだらけで切るか放っとくかで、混沌としよる。そこで、混沌を鎮める助けになるんが、決め事や。じゃりどもを見とれば、自ずとわかるやろ」

「……とても難しい」

「ほんまにな。やけど、わからんなりにぼんやり考えとけ。今の話かて、どっちの善し悪しを量るもんやない。己の望みを知り、見失わず、望みの求めるものを選び、また選択に惑わされず、望みの成就の如何に振り回されてもあかん。生き残ってもうたなら、何はなくともまあ生きてかなやってられん、っちゅうことや」


 法然の話は難しかったが、鞍馬なりに聞いていた。

 負けた一族の生き残りである鞍馬が、負けてなお残ったものは何か。遠い記憶、父から譲り受けた技は、この身に刻まれている。鞍馬は生きている。

 嫌でも生きて行く。この先も、果てに着くまで。


「ほんでや、鞍馬。わしが勝った、っちゅうんなら、改めて聞くけどな。わしが勝って、何を得たか。何を失ったか。答えられるか」


 鞍馬は法然に竹水筒を返した。法然の髭に隠れる、老いぼれた胸にとんとんと二回当てて。

 受け取った水筒は、振ってみても水の感触がなかった。逆さに振っても、一滴も出ない。ただ、この問答の最中、鞍馬と飲みあった竹の容器が手にある。


「禅問答かいな……」

「ゼンモンドウ?」

「わしもわかっとらん。ほれ、鞍馬。上がれ。飯でもどうや。身体動かして小難しい話も聞いて、腹減っとるやろ」

「かたじけない」


 法然に促されるまま、薄暗い廃寺の本堂へ入る鞍馬。息の上がった三浦が寺の前まで戻って来た時には、右にも左にも二人の姿は見えず、いい加減に待ちくたびれた子供たちに呼ばれて、三浦は諦めて教本を開きに書院へ向かった。

 一方、本堂内。粗末な膳と食器に盛るのは、山盛りの雑穀山菜飯、きのこ汁、少々の漬物。不動明王を失い、台座と迦楼羅炎のみとなった本尊に、烏の面が二人の食卓を覗いている。

 カツカツと茶碗を鳴らして掻きこむ法然に対して、鞍馬の箸は進まない。


「何や、腹痛いんか」

「ここまで私に構うのが変です。おふくさんや浜の皆ならともかく、どうして貴方が、ここまで私に構うことが?」


 目覚めてこの方、ずっと思っていたことがある。

 鞍馬が長く浜に留まっていられるのは、浜の衆の献身的な看護だけが理由ではない。彼が南蛮人、すなわち人間だと集落に知らしめ、滋養のある食事を振る舞い、また耳馴染みの良い名を与えられ、肌を黒くする新しい風習まで流布された恩恵によるところが少なくない。

 その全ての裏に、法然の東奔西走が見え隠れしていた。

 仏僧の立場を考えても、異教を布教する南蛮人は目の敵に違いない。それにもかかわらず、法然は鞍馬を助けるように動いてきた。

 仏道に熱心になれば、そうなるのかもしれない。しかし、仮に法然がそのような高僧であったとして、それだけが世話焼きの理由たりえるのだろうか。

 大き目の飯の一口は、喉を通すのに時間がかかる。法然は飯を良く噛み、頃合いに汁を啜って流す。口腔に発話の余裕が生まれた。


「昔、当時の天下人に見初められた黒奴がおった」


 その名は、ヤスフェ。

 宣教師と共に天下人への謁見が叶ったヤスフェは、世にも珍しい黒い肌から、天下人の興味を大いに惹いた。黒いのは墨が塗ってあるからだと疑ってかかり、着物を脱がせて洗わせるなど、一介の従者としては類を見ない構い方をしていた。

 もっとも、それは方便だろう。天下人は、ヤスフェを一目見ただけで、秘めた力量を看破していたのだ。

 着物を脱がせれば、詳細に把握できる。鍛えられた筋骨は十人力の密度、巌のような猛々しさに似つかず、節々はしなやか極まる。

 才覚を認めた天下人は、ヤスフェを召し抱えた。

 その慧眼たるや、ヤスフェは期待以上の活躍を見せたことが、その証明だろう。


「待ってください。まるで全て見ていたようじゃないですか」

「見とったからな。わしはその天下人に仕えとったんや」


 法然の若かりし頃、切支丹国とも違う異境の者が、傭兵などでもなく、いきなり武士に取り立てられるなど、前代未聞であった。

 天下人の御心の手前、表立って物申す者などいなかったが、それでも多くの者はヤスフェを懐疑的に見ていただろう。生い立ちも知れない野卑極まる者が、自分たちと同じかそれ以上の身分で取り立てられたことへの不満。野卑故に道理を知らず、いずれ主に牙を剥くことになりかねないだろう、などと。

 しかし、ヤスフェは強く、またそれに驕らず、また忠に厚かった。

 試合、戯れの相撲、天下人の道具持ち。語らいを重ねる内に、ヤスフェが家臣の信頼を得るのは、そう時間がかからなかった。

 いずれ一国の城主になると噂が立っても、さもありなんと思えるほどに。


「やけど、その天下人も、二代も前の天下人や。今、この国を統べる者とは違う血筋のな。この意味がわかるか」


 天下人は反乱に遭った。

 討ち取られなかったものの、炎に包まれる寺を最後に、その姿を見た者はいない。

 ヤスフェと法然はその寺の惨状の最中にあった。天下人は最早これまでと憂いを断ち、二人は最寄りの拠点で籠城する子息だけでも救うべく、急ぎ救援に向かった。が、後で知ることになるが、時既に遅く、この時には拠点にて子息が自刃。守るべきものを失ったと知らず、それでも奮闘し、その甲斐も空しく、反乱軍の前に敗れ、投降。二人とも捕縛された。

 事が済み、反乱軍側の家臣は、ヤスフェは黒奴であり動物であると述べて、これを見逃す代わりに南蛮寺へ送ることにした。

 対して法然は死を免れないと思っていた矢先、ヤスフェが庇った。この者は動物である自分の世話を務める、言わば馬丁である。この者がいなければ、南蛮寺へ行くにも難儀する。などと、屁理屈を語ったのだ。


「どういう訳か、その屁理屈が通ってもうた。命拾いしたらこっちのもんや。ヤスフェとわしは、南蛮寺に着いた後、寺の者の隙を突いて逃げたった。わしは坊主に、ヤスフェは山伏に変装し、関所を避けて道なき道を進んで、ここに辿り着いた時には、ヤスフェもわしも、今のように老いぼれていた」

「ヤスフェ殿は」

「ここで乱妨取りが起こったんは知っとるか」


 鞍馬は頷く。

 三浦から聞いた浜と里の過去。奴隷狩りの惨劇だ。


「わしらは面倒に関わらんようにしとった。やから、山を迂回してやり過ごそうとしとったんやが、道中、虫の息の男が倒れとった。そいつが、山向こうを指して、妻子ん心配をしとる。わしが止めるのも聞かず、ヤスフェは浜へ跳んで行きよった。後のことは知らん。侍どもが、天狗じゃー、天狗のたたりじゃー、って、うわ言を言って逃げて行く気配がしただけや。戻ったヤスフェは、これがキリシタンの仕業や知って、我がことのように心を痛めての。ええ歳のくせして、世直しするっちゅうて、どこぞに旅立ちよった」

「止めなかったのですか」

「止めたわ、そりゃあ。歳の割にどえらい若く見えるっちゅうても、所詮ジジイや。野垂れ死ぬんがオチやてな。やけど、あん男は意固地やって、遂に聞かんかった。わしはわしで体力の限界やって、もう顔が割れる心配もあらへん、ええ加減、腰を下ろそうか思ってな。荒れた里と浜を捨て置けんっちゅうて言い訳して、ここに残った」


 それ以来、ヤスフェの行方は知れない。

 しかし、やはり別れに心残りがあったのだろう。法然は、鞍馬が漂着した報せを聞いた時、ヤスフェとの縁もあり、どこか他人事のように思えなかったのだと言う。友の孫が尋ねて来たような気がして、ついついちょっかいを出してしまったのだと。

 それが、過剰に構った理由。


「じゃあ、どうして私を鞍馬と」

「……この地より遥か東、扶桑国に鞍馬山っちゅう霊山がある」


 鞍馬山。無意識に、自らの名の由来であろう山の名が、鞍馬の口から漏れる。

 曰く、かの山にはとある伝承がある。名家の落胤である牛若丸が身を隠し、その折に、天狗という魔物から剣術の手解きを受けたという。天狗は烏の人型が山伏の姿を取った者で、力ある者は特に山の主とされる。


「天狗の話は諸国に腐るほどあるんやが、鞍馬山に限れば、天狗はほんまにおる。……何やその顔は。ホラやないど」

「しかし、とても信じられない。魔物がいるなんて」

「ほならこう言えばどうや。鞍馬山の天狗は、大昔に絹の道を通じて大陸を渡り、この地に辿り着いた者の末裔や。おどれと故郷が同じ奴らや」


 鞍馬は余計に信じられなかった。

 この地の常識に照らせば、人とかけ離れた見た目。山に籠ったところで、伝説となるような遥かな昔から今日まで、鞍馬の同胞が、血を絶やさずに続いているなど。


「わしはこの目で見た。奇しくも鞍馬山は、件の反乱が起こった所からそう遠くない場所にある。ヤスフェは長く国で暮らす内に、隠れ里に招かれたこともあったみたいや。その伝手で助力を乞いに行ったんや。結局突っぱねられたけどな。黒い肌に、あの頭の形、確かに、修験装束に身を包んで烏天狗や名乗られたら、そう思ってまうわ。見つけたか、思いついたか、いずれにせよ、ええ隠れ蓑やわ」

「私の同胞が、鞍馬山に……?」

「せや。鞍馬の名は、自分の道標になるよう願ってつけたんや」


 無論、鞍馬山へ行けなんて無理強いはしないと、法然は誓う。

 鞍馬は、浜で暮らし続けたいと願う一方で、自分のような異物が紛れては、浜の衆の安寧が脅かされかねないという懸念も抱いていた。浜を離れるとして、故郷に帰る伝手はなく、浜以外の場所で平穏に暮らす自分を想像できなかった。

 しかし、この地でも同胞が身を寄せて生きている場所がある。

 法然から伝え聞いた話は、思いがけず、鞍馬の希望に通じるものであった。

 しかし。


「……何や、辛気臭い面して。由来が気に入らんなら名を変えてもええぞ」

「鞍馬山の伝承は、いつ頃の話ですか」

「せやな……鎌倉の興った頃やから……大体、四、五百年前っちゅうところや」

「それだけの年月が経って、同胞はまだこの地に馴染めていない。伝説として、ひっそり生きている。きっと、人々と共に生きようと頑張った人もいるはず。それなのに、叶った様子がない。……私たちは、この地で、人として生きていけないのではないか、と」


 ふむ、と法然は一呼吸置いて顎髭を手櫛し、思案する。山菜飯、漬物、すっかり冷めた茸汁を平らげて、一心地つけたところで話を再開する。


「もう一つ、烏にまつわる話をしたるわ」


 かつて、国生みの神々の直系である男が、都に相応しい地を求めて軍を率いて遠征している際、幾つもの山を越えて尚、山が続く深みにて道に迷い、立ち往生してしまう。そこに太陽の女神が三本足の大烏を遣いに出し、男を導いた。その男は、後にこの国の初代皇帝となった。

 鞍馬山の伝承より、遥かに古い話である。


「先に教えた牛若丸もな、実は幕府の将軍に上り詰めとる。烏はな、ここじゃ太陽の化身、そして導き手や。鞍馬坊、わしは、鞍馬山に籠っとる連中がどう思っとるかは知らん。やけど、もし、自分が、同胞が大手を振って歩ける世の中がええと思うなら、自分が導くんや」

「私が」

「せや。思い描くばかりやと、願いは叶わんままや。もし自分が、心の底からそれを望むなら、やって見せたらええ」

「私にできるでしょうか」

「できるできないやないわい。さっきも言ったやろ……丁度ええ、己の望みとの向き合い方、おさらいできるか」

「……私の望みを知ること。それを見失わないこと。望みを叶える方法を選び、また選択に迷ってはいけない。結果が出てもくよくよしない」

「ちょっとばかし変わっとるけど、まあ、ええやろ。やれ言うた手前で何やが、一先ずは、本当にやりたいことが何か、考えたらええ」


 里での安息。彼方の郷愁。異国の地にあるという、同胞の痕跡。また、それらを阻む困難。鞍馬の中に欲望と打算が渦巻いて、考えるほどに深みにはまる。


「何はともあれ腹は減る。時が来れば、自ずと答えを見出すこともあるやろう。今は飯を食え。飯の後にええもん見せたる」


 募る思いで満ちた胸に、膳の食事は少しばかり多く見えた。すっかり冷めた飯は、それでも味は落ちず、一時の悩みすらも一緒に呑みこむ勢いで、鞍馬は平らげた。

 何を言われるでもなく二人分の膳を下げようとする鞍馬を引き留め、法然は失われた本尊の前に誘う。

 敷かれた茣蓙の前に台座、その上には香炉、脇に木魚、おりんの並ぶ横を通り過ぎ、法然が本尊の置かれた上段之間へ踏み入れる。おもむろに全身を使って本尊をどけると、床板を剥いで、床下から法然一人が入れそうな葛籠を、いかにも重そうに引きずり出した。


「開けてみい」


 促されるまま、鞍馬は葛籠を開ける。

 目を引くのは、法螺貝の笛と特徴的な梵天をあしらった結袈裟、新品の評も遜色ない白の鈴懸は、山伏と呼ばれる者たちの装束、その一式。

 しかし、一つ一つを広げていくと、殊更に特異な黒い衣があった。烏羽のみを使い、幾重にも織った外衣。鞍馬が両腕を広げても尚余裕のある丈は、風を受ければ巨大な烏が両翼を広げたように見えるに違いない。

 烏羽の外衣の内側には革の鞘が三つ、他、収納が幾つも縫われており、収納は空だが、鞘には諸刃の短剣が収められている。短剣は柄がなく、露出しているのは茎と言うべきなのだろうが、刃物によくある平たい茎ではなく、明らかに雌螺子のような筒状のものだった。

 留め具を外し、内一本を抜く。時刻は正午、南中の陽が廃寺の屋根の穴から降り注ぐ先に掲げられた短剣の身が黒く輝く。刀に特有の刃紋はなく、千波万波のごとき鈍色の筋が走っている。

 刃の美しさに目を奪われた。

 鞍馬は法然に、装束の由来を尋ねようとしたが、「これは」と口にするのが精一杯だった。


「いつか、ヤスフェが戻って来るかも知れんと思ってな」


 法然は目を細め、懐かしみ、いつになく和やかな声音だった。

 本尊、不動明王の足元を残すのみの台座に立てかけられた烏の面を取り、法然を追って顔を向ける鞍馬へかざすように向ける。遠近感で大きさがちぐはぐだったが、鞍馬と烏の面の合わせは様になっている。

 そして、迦楼羅炎の裏手に回り、背面に隠していた物を取る。法然が愛用する一〇尺丈の錫杖と同じ物が隠されていた。


「その短剣は槍の穂先にもなる。ほれ、錫杖のここをガッてやってグリンッや」


 錫杖の先に雄螺子のような部分があり、法然はそこを指し示して、勢いだけの説明をした。

 法然はその面を葛籠の中に納め、錫杖は納まりきらないため、橋を渡すように乗せた。

 一仕事終えた法然は、適当に床へドカッと腰を下ろし、一息ついた。


「ヤスフェももう来んやろ。来たとて、わしを見てみい。先に迎えが来そうや。やから、やる」

「……はあっ」

「全部やる言うてん」

「い、いえ、もらえ……いただけないです」


 どれほどの品かはともかく、素人目にも上等なものだとわかる。それを、何の対価もなしに受け取るなど、鞍馬には畏れ多かった。

 それを法然は、事もなげに構わないと言いのける。


「こんな要るかどうかもわからん代物を用意して、こんなところに居座ったんも、自分を待っとったからやと思えてならへん。今は要らん言うなら、必要になった時に、黙って持って行っても構へん」

「でも」

「老い先短いジジイの頼みくらい聞けや、若造が」


 今の話の流れで、どうやれば出せるのかわからない剣幕で怒鳴られた鞍馬は、頭を金槌で殴られたように身をすくめ、小刻みに頷いた。

 それを同意と見なし、法然は満足し、にっこりと頷き返した。


「あかん、自分、聞き分けがのうて話し込んでしもたわ」


 と、突然、法然は小走りに廃寺を後にする。

 どこへ行くのか尋ねる鞍馬に、便所とだけ答えて出口から踏み出した時、法然は振り返らずに言った。


「港の方で、浜に黒鬼が出たと吹聴しとる輩がおる」


 凍えるような法然の声音が、鞍馬の血管を巡るようだった。

 思わず、息を呑む。


「ここいらやのうて、浜や。名指しや。世迷言やて誰も相手にしとらんが、よくよく聞けば、勘のええもんならホンマやと気づくやろう。黒鬼供養の茶番もいつまで通じるかわからん。覚悟決めるなら早よせえ」


 凍った空気が一転、法然はいかんいかん漏れる漏れると、わざとらしくひょうきんに言い回して、その場を去った。

 残された鞍馬は葛籠の中の烏の面を手に取る。正面を見据える金色の瞳と、口の端を結ぶ紅の差し色が凛々しく鞍馬を見据えていた。

 鞍馬は面を持ったまま、書院へ向かう。中では丁度三浦が、子供たちに読み書きの手習いを施しているところだった。


「三浦様、お願いしたいことが」


 久しぶりに聞く、鞍馬のポルトガル語だった。

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