第2話 海坊主
断崖に挟まれた浜と人里を遮る山の頂に廃寺がある。
間延びした木魚の拍子に、冗長で無際限に繰り返される南無阿弥陀仏のみの読経。本尊は木像、不動明王。なのだが、今は朽ち、かつてその背に燃えた迦楼羅炎と足首より下を残すばかりで、台座にはせめてもの代わりとばかりに烏天狗の面が立てかけてあった。
その面が、前触れなく倒れる。硬く乾いた音が本堂に渡り、廃寺の住職は木魚撥の手を止めた。
張り巡らせた鳴子が乾いた音を立て、驚いた烏が鳴き、林から飛び立つ気配がする。
おもむろに住職は烏天狗の面を拾う。枯れて骨張った手で、労るようにその表面を撫で、元の場所へ戻し、読経へ戻った。
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荒磯に砕ける波飛沫が、寒風を滑るカモメに届く高さに飛ぶ。
揺らぐ波のさざめきの拍と、寂れたカモメの調に乗せて、柿色の小袖の裾を膝上までまくった若い娘が岩肌をトントンと軽快に跳び移っていた。うろ覚えのハイヤ節を適当に口ずさみながら娘が跳ぶ度、腰の魚籠の成果がこすれ合い、ザクザクと鳴っていた。
名を、ふくと言う。
ふくは、ふとした時に足を止めては、足元の岩場や磯だまりに目星をつけていた。岩と岩の隙間を、鳶口という、鉤を先に設えた棒でほじくったり、ヘラで岩肌をこそいだりしては、巻貝やウニ、カニにナマコを物色していた。
鳶口は材木運搬の道具だが、磯漁におあつらえ向きだった。
久方振りに雪が止んだのである。獲れる時に獲って損はない。
「あっ」
と、思わずハイヤ節も引っ込んで、ふくは器用にそれの首根に鉤をかけて、磯だまりから引き上げた。
鉤には小ぶりながら活きの良いタコがかかっており、仰天とはこのことで、空でも掴んで逃げるつもりなのか、曇り空に頭足をうねらせている。
「ふふふ、空に逃げ場はないぞよ。神妙にお縄につけい」
躍る心のままに小芝居じみて独りごちつつ、今日は煮るか飯と炊くか、夕食を思い描くふくであったが、不意に鉤の先が引かれる感触を覚えた途端、鉤にあった重みが消える。
タコが消えていた。
引かれた方に目をやると、飛び去るカモメの影。尾羽側からでもはっきり目視できる、デロリと垂れたタコ足。
「ほ、本当に空に逃げる奴があるかー!?」
追っても跳んでも鉤を振り回しても、届かなければ後の祭り。岩礁の続く限り、カモメの行く海原を追うものの、終ぞその手は届かず、指を咥えて遠くなる鳥の姿を眺めるに終わってしまった。
しばし、ふくは呆然としていた。
「まあ……チビじゃったし……」
魚籠を揺らし、目方を量る。逃したタコは惜しいが、食って良し、売って良し、年越しの足しに良しの漁獲である。
砕けた波の白壁が高い。北風が吹けば身震いも起きる。冷えを嫌って素潜りは避けたふくだが、磯をうろつくだけでも細身には堪える季節だ。浜に焚き火を用意しなかった分、今日の磯漁には暖を取るといういつもの楽しみがない。
「これくらいにすっかね……と」
踵を返して浜へ向かう。
と、足首に冷たく硬いものがまとわりついた。藻か何かだろうと構わず足を運ぶが、おかしなことに、釣り針が根がかりしたようにビクともしない。
ふくの脳裏を、どこぞから伝え聞いた昔話が過る。
曰く、薩摩より南の沖の島には貝の化け物がおり、手や足を一度噛んだら放さず、満ち潮をじっと待ち、じわじわと水責めの如く人を溺れさせるという。
何故、言い伝えというのは、こう、余計な恐ろしさを孕むのか。
すわ、件の人喰い貝かと、恐る恐る、見たいような見たくないような気持ちで、ふくは足元に目を落とす。
ふくの足首に巻いていたのは、五本指。もとい、濡れそぼったごつごつの手が掴んでいた。
寺に置いてある古い仏像のように黒く、しかと掴んで放さない。出所を辿ると黒い腕が伸び、その先に更に黒い坊主頭の首が垂れている。
ヒュッ、と、ふくは息を呑んだ。
(海坊主!?)
黒くて海から出る坊主ならばそうに違いない。
海坊主の半身が、海から這い上がっているのだ。
ふくは鳶口を逆さに持ち替え、向こう脛に当たろうが構わず、一心不乱に足首を掴む手を柄で突きまくる。貝でもダメだが、海坊主はもっとダメに決まっている。海に連れ去られてたまるかと、ふくは一突き毎に南無阿弥陀仏、般若波羅蜜多、六根清浄どっこいしょと出鱈目に唱えるが、海坊主の手が緩むことはなかった。
一息に突けるだけ突いたが、とうとうふくの手からカランと鳶口が落ち、空いた手は止まり木を求めるように膝に突き、肩で息をした。
「こんにゃろー! 煮るなり焼くなり好きにしやがれー!」
最期の意地のつもりで叫んだふくだったが、辞世の自棄の尻がすぼむにつれ、違和感を覚えた。この手、しかと掴みこそすれ、ふくを海に連れて行く気はさらさらないらしい。
それどころか、落ち着いて海坊主を見てみれば、大柄は大柄な男だが、巨大と語られる妖にしてはそれほど大きくない。
そんなことよりも、悪いことに、男の背中には、皮下に梢を埋めたかの如く盛り上がった無数の古いミミズ腫れがあった。加えて、息の上がったふくに対して、男の息は波が凪いでも掻き消されてしまいそうなほど微かだった。
「ね、ねえ、ちょいと、あんた」
足首を鷲掴みにする手を、ふくの細指で解く。あれだけ乱暴に鉤の柄で突いても微動だにしなかった指が、まるでミカンの皮を剥くかのように解けていった。
うつ伏せでは苦しかろうと、全身を海から引き揚げ、身体を仰向けに返す。図体が大きいので一苦労であったが、乗りかかった舟だと割り切り、ふくは持ち前の負けん気でやり遂げた。
その顔は、触手を髭のようにしたタコだった。
(蛸入道の方かい!?)
と、身構えるのも束の間。普通のタコだった。その胴だけで男の頭を覆い隠す、鳥に盗られたものとは比べ物にならないほど立派なものだ。
それが、男の口と鼻を覆っている。
空を覆う雲の切れ間から、男に光の筋が落とされた。光は安らに暖かく、まるで、天の意思のように差していた。
「わ、わ、わー!? いけん、いけんよ!?」
ふくは血が引く気がして、遮二無二、タコの首根を力任せに絞めた。急所を攻められたタコはたまらず触手の拘束と吸引を解き、男から離れた。
男は、顔まで闇のように黒く、顔つきも独特の風貌だ。
「こりゃ酷いね……」
どう酷いか思うに至るにしても、見れば見るほど不思議な肌に気取られる。
育った骨に対して、見合わぬほど衰えた肉付き。濡れた肌は、頭の先からつま先まで、上等な漆器のように真っ黒だ。見える限りでは、白いのは歯と手の平くらいのものだった。
見慣れない姿だが、そんなことが些細に思えた。全身、特に身体の前半分に酷い火傷を負っているのだ。それなのに火の気のない海から這って来たのだから、尋常ではない。
息はあるが、衰弱は目に見えており、疑いようもなく、事は一刻を争った。
「きゃっ」
またカモメが、ふくの手のタコを目当てに来る。今度の獲物の在処は鉤ではなく素手。カモメの爪も嘴も羽ばたきも眼前まで迫り、ふくは驚き、たじろいだ。
その時、驚嘆の女声に、黒い男の目が見開かれる。
たまたまその手に触れる距離に転がっていたふくの鳶口を手繰るように寄せ、杖のように岩肌を突くと、その勢いで飛び起きるように立つ。
男はまるで身体の一部かのように鳶口を振り回し、背後に構える。素人目にも見事で、槍術、戦う術、突きの予備動作と伺えた。
鳶口が突き出される。得体の知れぬ男の躍動を目にし、ふくは目を強くつむる。
鳶口は一息にカモメの胴へ突き刺さる。見事な杖捌きの前に反応すら見せなかったカモメは、腹深くを揺さぶる一撃に悶絶し、タコと共に礒岩に落ちて前後不覚になりながらも、這う這うの体で海原を眺める空へ逃げ去った。
ふくは恐る恐る目を開けて、その有様から、この一瞬に起きた出来事を察する。
男は鳶口を振り抜いたまま動きを止めている。ふくは何を言うべきかわからなかったが、ともかく声をかけようとした矢先、男が立ったまま気絶していることに気付いた。
カランと鳶口が落ちる。タコの姿は波間に消えた。
ふくが気絶を悟った途端、男は糸が切れたように足腰が砕けて倒れ、ふくに身を預ける形になった。
「や、ちょいと!? 重……く、なかけど、やっぱり重か……」
図体の割に軽いが、それでもふくが支えるには重すぎる。気絶した男をゆっくりと岩肌に降ろす最中、手に感じる体温は、余りに冷たかった。
濡れたままでは、この北風の中では体温が奪われることは必至。火傷は冷やすに限るとはいえ、真冬の海に、一体どれだけ浸かったことか。身体の芯から冷やしては元も子もないだろう。ましてや火傷に塩水など。
しかし、ふく一人では、これだけの大男を担いで帰るのは難しい。
瞬間、考えをまとめ、ふくは決心したように頷いた。
ふくは髪をまとめた長手ぬぐいを解いた。烏の濡れ羽のような長髪を振り乱し、手ぬぐいで男の身体の水気を粗方拭いた後、気休めかもしれないが、臆せず着物を脱いで男にかけた。
寒空の下、今日だけはと避けた裸であったが、迷いはなかった。
ふくは男の意識を揺さぶるつもりで大声を投げた。
「ちょいと待ってなよ! 男呼んで運ばせるからね!」
そう言い残し、ふくは「権兵衛どん」の名をけたたましく呼びながら、岩と岩を一足飛びで駆け、浜を目指す。息と違い、荷を置いて身軽、そして道草も食わぬため、浜の小さな集落まではあっと言う間だった。
当の権兵衛と言えば、どてらを着込み、火鉢をやぐらで囲い、布団を被せた炬燵に当たりながら頬杖を突いて横になって機嫌良くしていた。徳利の酒を注いでは煽るを繰り返して出来上がっていた。
微かに権兵衛の虫が騒ぐ。口に付けかけた枡を離し、何となく格子窓と戸口の方へ目を巡らせる。
風と波ばかり。静かなものだ。
気のせいとも考えず、続きと洒落こみたいところであったが、手も震えていないのに液面が揺らいでいる。
訝しむ権兵衛であったが、やがて今度は明確に自分を呼ぶ声が聞こえ、それはピシャと戸を乱暴に開けて、彼の家に飛び込んできた。
「権兵衛どん! 大変じゃ!」
「やかましいのう! 何じゃあ、おふく……か……」
ふくの姿を目に入るや含み酒、目を疑って二度見して、権兵衛は酒を噴き出した。折角の酔いも一緒に抜けた心地であった。
「おめえ、漁ならまだしも、独り身の男ん家に裸で来ることなかろう!」
「漂流じゃ! 人が流されて来た!」
瞬時に権兵衛の顔が引き締まる。機敏に起き上がり、どてらを脱ぎながら土間に足を下ろす。
「男か」
「男じゃ」
「なら、わしん家じゃ」
権兵衛は玄関脇の水甕に一直線に進み、水をそこそこ飲んだ後、残りが少なかったのもあって、豪快に甕を持ち上げ、引っ繰り返して頭から水を被った。
全身が縮むような冷たさに出かけた悲鳴を噛み殺し、ぶるっと身震いした後、両手で交互に胸板を叩き、気合を入れる。
酔いは、すっかり醒めた。
「おめえは火を焚いててくれ。どこじゃ」
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「人じゃ言っておらなんだかおめえ!? 海坊主の間違いじゃろ!?」
「坊主っちゅうからには人じゃろがい!」
「そういう話じゃなかとぞ……!」
ふくに言われた通りの岩場まで赴いてみれば、権兵衛が目にしたのは、岩に融けこむような黒い肌の海坊主である。他に人らしい人もおらず、ふくの着物がかかっていたので、これが話にあった漂流者に違いないのだが、それでも抵抗を覚える外見だった。
しかし、見るからに助けが必要な風体であったため、不承不承、自分より頭一つ大きな男を担いで帰ってきたのだ。
それにしても、こんな得体の知れないものだとは聞いていない。
戸惑う権兵衛をよそに、ふくはこの短い間で火の他に鍋に湯を沸かし、ありったけの桶に真水、あるだけの手ぬぐいを用意し、丁寧に布団まで敷いて待ち構えていた。そのくせ、一糸まとわぬことを気にも留めていない。
大男を運ばせるだけ運ばせた後は権兵衛の背から奪い、ふくは手柄杓で桶の水を汲み、塩水まみれの男の全身を手ずから洗い清める。真水で濡れそぼったところに手ぬぐいをポンポンと当てるように拭く。火傷で膨れ、海でふやけた皮を破かぬよう、丁寧に優しく。
権兵衛にしてみれば、見知った年頃の女子の白魚のような手が、どこの馬の骨とも知れぬ男の肉体を優しく撫でる様子は目の毒であった。
拭き終えたら、権兵衛をどやして布団に寝かせる。
その間に鍋の湯を桶の水で割る。今度は男の上体を起こし、その温かい白湯を手柄杓ですくい、その口へ運んだ。
男は、白湯を飲んだ。布団に横になる男は、呼吸も少し穏やかになったようだ。
ふくは息継ぎとばかりに胸を撫で下ろすものの、緊張を切らせまいと両頬を叩き、風のように権兵衛の家を後にしようとした。
「おふく、どこへ行くんじゃ」
「三浦先生ん呼びにじゃ」
「魑魅魍魎の類なら和尚さんじゃろう」
「このバカ」
「バカっておめえ、この……! いや、それよりじゃな!」
権兵衛は呆れたように、懐から丸めた布を出して、ふくへ投げた。
潮の香りに濡れたそれは、磯で男にかけた、ふくの着物だった。
「こいつはわしが看とるから、せめて着てけ! そそっかしいのう!」
そこで初めて自分の有り様に思い至ったように、ふくは耳まで紅潮させ、そそくさと着物を羽織って出て行った。
が、ピシャリと乱暴に閉じた戸を再び乱暴に開け放ち、顔を出したかと思えば。
「助平!」
と権兵衛を罵り、今度こそ本当に三浦先生のところへ駆け足で行ったのだった。
あまりの剣幕に身が縮む思いをした権兵衛は、不満げに溜め息をついた。
「誰が助平じゃ! あばずれめチクショウ! ……全く、誰のせいじゃと思って」
文句を垂れながらも、担いだ男の傍で胡坐をかく。先程まで酒を酌んでいた枡を桶でゆすぎ、代わりに白湯を汲んで、男の口元へ寄せた。
「飲みたきゃ飲め」
落ち着いたものの、男の息はまだ苦しげだ。目も覚まさないで横たわっているのに、鼻の先に湯をかざしただけで、自力で飲める道理もない。
権兵衛は頭を掻いて、黙って男の上体を起こし、枡に口を付けさせた。
男は白湯を飲んだ。
「全く果報者じゃ。くたばったら承知せんぞ」
甲斐甲斐しいふくの姿を思い起こすと、そんな独り言が権兵衛から漏れた。
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父の背には、左右に四本ずつの傷痕があり、その線はまるで深い渓谷を描いているようだった。獅子との対決で組みつかれた時、前脚で抱きつかれた時の爪痕だと言う。
父が言うには、心臓を槍で突いてもその獅子は止まらず、それでもやはり命に限りのあるもの。今際の際になり、腹いせのつもりで残した爪痕なのだろうとのことだ。
「どうせなら顔か胸に残せば良いものを。これでは背を向けたようで恰好がつかない」
過去を惜しむように口を曲げて言い捨てる父だったが、私の幼心には、父のその背の古傷が、何よりも輝かしく思えた。
父は、狩猟者たる獅子をも屠る勇者なのだ。
父が教える槍術、体術、狩りの手段、草木の知識……そのどれもが、私を父のように至らしめる財産だと、信じて疑わず、私は学び、楽しんでいた。
槍を教わり、負けて、物にし、教わり負けて物にする。修練の繰り返しは、私を成長へと導いた。
事実、歳を経る毎に私は、目指す理想へと着実に上っていた。
だが、強靭な獅子すら斃す者がいるなら、更にその者を討つ力があるのも摂理である。父は、私にそれを教える前に、私が問う前に、身をもって語らず、示したのだった。
あるいは、父すらその摂理を知らなかったのか。今となっては知る術がない。
全ては雷鳴の如き鉛の唸りと、筒より昇る煙の向こうに置き去りとなったのだ。
未だに、あの煙の臭いが、鼻から離れていないようにさえ思う。
ふと、煙の帳の向こうから、悲鳴が聞こえた気がした。
まだ生き残っている者がいるのなら、卵と言えど戦士である。戦わなければならない。
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東に山稜、日の出前の空の彩りを合図に、浜の集落の一日が始まる。
男衆は舟を出し、はえ縄を仕掛け、獲物を待つ。女衆は二手に分かれ、銛突きがてらすくい漁場に魚を追い込む海女の働きを期待しつつ、冷えた彼女らを迎える火の番をしながら磯漁に勤しんでいた。
今日も今日とて、ふくは鉤で磯の隙間をほじくっていた。
「お、ガゼじゃ」
昨日は見なかったウニがひしめいていた。嬉々として鉤でウニを岩肌に引きずり出し、棘が刺さらないよう、ふくは慎重に魚籠へ入れた。
ただの棘毬にしか見えないウニだが、注意深く棘を見れば、風に騒めく梢のように動いている。活きの良い証拠だ。
「時期外れじゃけど、そうも言っておれんしのう」
「じゃけどのう……」
と、同じく磯漁に励む女の一人が、微かにためらいながらも口を挟んだ。
「権兵衛んとこの黒かでかぶつ、ありゃ本当に人かい? あたいにゃ、物の怪にしか見えんと」
物の怪と言うか言わないかで、ふくはキッと女を睨んだ。女は気圧されて、台詞が尻すぼみになった。
黙ったところで、ウニの選別に戻ったふくは、反論する。
「三浦先生も言ったじゃろうが。ありゃ物の怪の類じゃなか。あの人は南蛮人さんじゃ」
「先生がか? あたいは和尚様が言ったと聞いたんじゃが……」
「……あの生臭坊主、余計な首を突っ込んで……。話がややこしくなったじゃろが……」
ふくは声を潜めつつ舌打ちし、気持ちを切り替えた。
「ともかくじゃ。この浜で困っている者がいれば、要らん世話じゃ言われてでも、浜の皆で助ける。それがしきたりじゃろう。じゃから皆、こうして物忌みの折に総出で稼いで……」
「そう、今の時期は物忌みじゃ。物忌みに、よりにもよって南蛮人じゃ。じゃから余計に気味が悪か」
物忌みは言うなれば謹慎である。不吉や穢れを避けるなどの理由で外出を控える風習だ。
その理屈抜きにしても、寒空の漁は、いかにも身体に悪いというのが、本来であれば予定外の漁に引っ張り出された者たちの感想だった。
だが、ふくの知ったことではない。そもそも物忌みなど、普段は誰も気にも留めないというのに、この言い草なのだ。
「おなみ、それ以上抜かせばぶつとよ?」
「……ぶつ前にこれだけは言わせとくれ。皆が出とるのもじゃな、あんたを……」
なみの言葉がなかなか続かない。
言うべきことは確かだった。しかし、目に入った異変の前にして、言葉は喉で消えてしまった。
丁度その時、権兵衛の家で眠る黒い男が、臭いを嗅ぐように鼻を鳴らすところだった。
「あたいが何じゃ」
苛立ち混じりにふくが聞くと、なみは抱えた魚籠を落として、礒岩に貝をばらまいた。呆然とした様子で、スウと腕を上げ、ある方向を指した。
「あんたの家じゃなかと、あれ……?」
なみの話は要領を得ず、怪訝に思いながらも、ふくは指に促されるままその方向を向く。
浜の方向、家屋の並ぶ一帯が、日の出を背負って白んでいる。雪化粧が相まって、目を眩むような輝きだ。白銀の輝きは一筋の煙のように細い光の柱となり……。
血の気が引いた。
「あれ、煙じゃなかと!?」
「火の用心はどうしたんじゃ、ふく!?」
「ちょいと行ってくる!」
取る物もとりあえず、ふくは尻に火が着いたように、全速力で家へ向かった。
「ちょいとー!? 一人でかーい!?」
「あれなら何とかなりそうじゃー!」
大声が遠くなるにつれ、小さくなるふくの姿を追うなみ。小さな火種でも、燃え広がれば大火事になりかねない。子供以外、皆が出払った集落に、ふく一人で向かわせるのは余りに危険だった。
焦りが、むしろ彼女を冷静にさせた。
「……もう、一人じゃ心許なかろうに。おたえ、あたいらも行くよ」
「わかった」
「急ぐんじゃ。おまつ、あんたは他の女衆に知らせるんじゃ」
「うん」
「任せたとよ。……全く、やっぱり悪い物を招いたなんて、やめとくれよ」
仲間の心配を置き去りに、一足先に自宅の前に立ったふくは、愕然とした。
玄関、格子窓、天窓、その他隙間、家の至る所からもうもうと白煙が昇っている。文字通り煙に巻くような量に息を呑んだが、煙が黒くない内は手遅れではないと意を決し、家に一歩踏み入った。
目の前でさえも隠れるほどの煙、煙、煙。目に染み、喉が侵されて、咳が止まらない。
用心のため、玄関を入ってすぐ横の瓶の水を桶に移し、頭から被る。頭に巻いた手ぬぐいを解いて口に当て、腰を落として煙を避けて、火元を探した。
釜土だった。釜土にぎっしりと薪が詰められて、そこから大量の煙が噴き出ている。
否、薪とは名ばかりの生木がくべられているのだ。
「何ねこれ!? 誰の仕業じゃ!?」
悪戯では済まない。一歩間違えば火事もあり得る。ふくの頭では犯人探しが始まったが、火消しが先決だった。火箸で生木を取り出そうとしたが、みっちり詰まった生木は固い。愛用の鳶口を手に、無理やり引き抜いた。
燻る生木を次々に火消し壺に移していくが、燃え殻にもなっていない大量の木が相手では、荷が勝ちすぎる。
形振り構っていられる状況ではなかった。ふくは燻る生木を土間に掻き出し、水瓶を倒して一気に消火することで、何とか事なきを得た。
相変わらず、屋内は染みるほど煙たい。煽っても煽っても、煙が晴れる気配すらない。
「ゲホ、ゴホ」
ふく自身のものとは思えないほど、むせ返りが耳にうるさい。
「ゲッホ、ウェッホ! おい、大事なかとか?」
「コホ……何ともなか。騒がせてごめ……ん?」
男の声に何とはなしに返事をしたふくが違和感を覚えた。
この時間、浜の男衆は、老人と子供を除いて、舟で沖に出ているはずだ。
男の声質は、明らかに働き盛りの、今頃は舟を漕いでいるはずのそれだった。
咄嗟に振り返るふく。声の主を目にする寸前、その口が硬い感触に圧される。乱暴な勢いに成す術なく、背中に衝撃を覚えた時に、ようやくふくは自分が押し倒されたのだと気付いた。
鈍い光を放つ刃文、柄巻き麗しい脇差の切っ先がまつげにまで迫り、眼球寸前で止まる。ふくは息が止まった心地に襲われ、迫った刃に思考を切り裂かれた。
ガマガエルのような面の見知らぬ男。その腕がふくの口を塞ぎ、凶器を向けている。
「宝に、大事、なかとかあ?」
言っている意味がわからなかった。
酷く興奮し、舌を舐め摺り、唾を撒き散らしながら、カエルが半笑いで鳴いた。一丁前に人間を気取って鎧の胴と草摺のみを着た、髭も髪も藻のように茂った男だ。
ふくの震えが男の腕を伝わり、感情が筒抜ける。男の下卑た欲がくすぐられた。脇差の刃先を、これ見よがし緩やかに振り、ふくの目で追わせながら、男は続けた。
「ここらの浜にも着いとる筈じゃ。この刀もこの鎧も、生糸に漆器、螺鈿、金に銀に……ある筈じゃ。ある筈なんじゃ。何故、先に持ち出さん? こげな家、燃え落ちても建て直せるじゃろうに」
「おばあの形見の家じゃ! 燃えてたまるか!」
それにそんな大層な物が、こんなありふれた集落にあるなど、どういう了見か。この悪漢は狐に憑かれているのではないかと訝しむ一方で、ふくの脳裏には浜に着いた者の姿がちらついた。
今は権兵衛の家で寝ている男。
ガマガエルは、ふくの視線の機微を見逃さなかった。
「……ここではなかとか? どこに隠した?」
言い終える前に、男の顔にふくが手を思い切り捻じ込んだ。
手には魚籠から握られるだけのウニ。黒い棘が、男の横面に、瞳に突き刺さる。棘の短い下側を持つふくの手にも反動で刺さり、鋭い痛みが腕に走る。それでも構わずふくは力任せにウニを捻じる。殻は割れ、破片と橙の身がふくの顔に零れ落ちた。
さしものカエル男もたまらず絶叫した。激痛に顔を覆い、脇差すらもふくから離し、仰け反り悶絶した。
覆い被さり、体重で自由を奪っていた男の身体が浮く隙を突き、ふくはカエルの太っ腹を思い切り蹴飛ばす。
もんどりうっている男をよそに、ふくは急ぎ鳶口を拾って、刺し傷で思うようにならない手でもって、魚籠のウニを撒き菱代わりに、土間一面にばら撒いた。
遮二無二、玄関へ駆けるふく。
外へ出ようとしたその時、陰から長い腕が伸び、ふくの着物の襟が引かれた。
ふくが無理矢理引き寄せられ、叫び喚いて抵抗する。しかし、揉み合いの最中、棘の残る手を捻り上げられる苦痛には耐え難く、遂に羽交い絞めにされてしまった。
「嬢ちゃん、暴れなさんな。賊にで遭ったか?」
今度はヘビのような面のひょろ長い男だった。
尚も暴れるふくの首筋に冷たい感触が当たる。打刀の刃であった。
「……何の気を起こしたか知りゃせんが、宝なんてなかとよ」
「いけねえ。いけねえよお、嘘はよお」
刃が圧を強める。男はふくを弄ぶのが少なからず愉快なのか、にやついていた。
「ここいらの海辺沿いに、南蛮貿易で扱うような品がわんさか流れてる。ゴミみてえな燃えカスばかりだが、見ろよこの刀。ご丁寧に小舟で乗って来やがったんだ。俺らは見てたんだぜ? 家に籠ってりゃ良いものを、わざわざ磯で大騒ぎしてたと思えば、昨日の今日だってえのに、総出で浜だの海だのを漁りやがって。ありゃ、てめえだろう? てめえ拾ったんだろう? 知らねえとは言わせんぞ」
「まこと愉快な狂言じゃ。芝居を生業にしゃちゃどうね?」
「口に気を付けろ。俺あ、てめえを売っても構わないんだぜ」
「じゃあ精々、丁重に扱いな。傷物にしたくないじゃろ」
首筋に薄っすら血が滲む。それでも、ふくは引くどころか、ヘビ男に啖呵を切って見せた。男はそれが疎ましいどころか、好ましく思っているようだった。
「痛え!」
と、玄関口から水を差された気分になり、ヘビ男は顔を向けた。カエル男がウニを踏んだようで、片足立ちになって棘を抜いていた。
「痛えよお、マムシい! このアマ、おらにガゼを……見てくれ、この顔!」
「様あねえなあ、カワズ。情けねえ。てめえよか、この女の方がよっぽど骨があらあ」
「そいつ許せねえ。ぶっ殺しておくれよ、マムシ!」
「馬鹿。こいつは売るんだよ。宝探しにのんびりしすぎた。とっととふん縛ってずらかる……」
「マムシ後ろ!」
ただならぬカワズの叫びに、マムシは振り向きざまに刀を背後へ横薙ぎに振るった。咄嗟のこと、修練も何も積まない刀は、峰打ちとなった。
しかし、刃越しに柄を伝い、ぬるりとした感触をその手が覚える。血糊の感触、斬れぬ峰で。
マムシはギョッとした。
刀は何も斬っていない。湿布ごと体表を滑ったのだ。
マムシの背後には、人型のものが立っていた。長身のマムシをしてなお、見上げるような大男で、全身が湿布まみれの異様な出で立ち。痩せぎすに見えてしっかり鍛えられた肉体は金剛力士の如く筋肉が浮き出ており、マムシの一太刀で剥がれた腕の湿布の下から覗く肌色は漆黒であった。
「何……だ? 黒……鬼か!?」
「……! あんた!」
男は、紛れもなくふくが助けた黒い人間だった。
マムシが呆気に取られている隙に、大男は刀の持ち手と肘を掴む。その握力は尋常ではなく、肉が雑巾のように絞り上げられていく。振り抜いて伸びきった腕は、どうあがいても微動だにせず、やむなくもう片方の腕からふくを解放するが、遅かった。
マムシの腕はぎりぎりと、肘の曲がる方とは逆に反っていく。指先から力が抜け、打刀がむなしく零れ落ちる。力で抗うのは無意味という気付きと、眼前の光景が迎える結末への予感が、心を圧搾し、内から懇願の情が滲んだ。
「やめ……! やめて……!」
鈍い音の後、血を搾るような絶叫が、浜に響く。
あらぬ方向に曲がった腕を押さえ、マムシはヘビらしく地に這いつくばって苦悶する。一方で、大男の方も元より体力が底を突いており、目が眩んだように空を仰ぎ、片膝を突いて崩れてしまう。
「て……めえ、よくも!」
カワズは恐れながらも逆上が勝った。脇差を上段に構えて黒鬼へ襲い掛かる。
仲間を害した黒鬼は酷く恐ろしく見えたが、所詮は丸腰。マムシは不意を突かれてやられたが、正面から、しかも相手が弱っている今なら刀で斬り伏せるのは造作もないと考えたのだ。打刀に対して刃渡りに劣る脇差であってもだ。
「よくもマムシを!」
カワズの怒気が、助けた男に迫るのを目前に、ふくの肝が冷える。息を呑んで想起させられたのは、男が磯でカモメ相手に見せた棒捌き。
「あんた、これを!」
考えるより先に、ふくは男へ鳶口を投げる。男はそれがわかっていたかのように棒を受け取り、磯で見せたように構えた。
空かさず突き放たれる鳶口は、カワズの鎧の緒にかかる。全力で鳶口を引けば、まるで銛の刺さった大魚のようにカワズが引かれ、訳もわからない内に脇差の間合いの内側にまで、黒鬼が迫る距離となる。
黒鬼は、今にも気絶しそうな白目を剥きながら、狂犬じみて唸っている。
「ひい!」
カワズは眼前に迫る鬼の形相に気圧され、小さく情けない悲鳴を上げた。
黒鬼は足裏を、鎧の腹に当てていた。全力で、カワズの身体が浮くほどに蹴りつければ、胴の緒が切れ、鎧に綻びが生まれる。
更にその綻び、今度は胴の胸板に鳶口をかけて引っ張ると、鎧は木っ端微塵になったかと錯覚するほど、見事にばらばらの屑と化す。
力任せに守りを剥がされて、褌一丁になったカワズの心細い目には、目の前の鬼の妖気が増しているようにさえ感じた。
瞬時に、カワズの視界が白黒した。
面疔、露わになったみぞおち、金的に、間髪入れず鳶口の三連突きがめり込む。
急所を突かれ、胸中の空気を全て吐くカワズ。脇差は地に刺さり、両腕で腹を抱え、前のめりに倒れた。
同時に、さしもの大男も精根空になり、突きを食らわせた姿勢から、そのまま前に崩れる。それを目の当たりにしたふくは男の身を案じ、男に寄り添った。
(痛え……、黒鬼め。……倒れたか!)
激痛に散らされる思考をマムシは根性で束ね、無力を装いつつ事態を見届けていた。相棒は力尽きたものの、鬼と相打ちに持ち込んだのは良い仕事だ。
マムシの利き腕は逝っている。だが、片腕と刀が残っていれば、カワズと共に逃げる程度のことは造作もない。漂流物を狩るのは、別の浜でもできる。幾らでもやり直せば良い。
たかが腕一本の負傷に、全身の自由が奪われる。棚から牡丹餅で得た刀は指先に届くところに落ちている。マムシは身体に鞭打ち、愛刀へ手を伸ばした。
「へー、刀って存外、重かねー」
だが、見知らぬ女にあっさり拾われた。
ふくの後を追って来た、なみだった。同伴のたえは脇差の方を拾っている。
「おふく、こん男どもば何ね」
「こいつら賊じゃ! あたいん家に火を着けたんじゃ!」
「へー」
なみは打刀の先を小気味よく振り、マムシを等分するように値踏みした。マムシと言えばマムシだというのに、ヘビに睨まれたカエルのように、冷や汗をかきながら刃先を目で追うことしかできない有様である。
「まあ、引いて練れば、魚の餌になるじゃろ」
「めでたか。次の漁期にゃ魚は丸々と肥えとるじゃろう」
「あたいはカニとエビが良かね。味が断然変わる」
「ひえっ」
マムシは痛みが嘘のように飛び起き、暴力を尽くしてカワズを起こしたかと思えば「覚えてやがれ」とお決まりの捨て台詞を吐いて、瞬く間に山の方へ姿を消した。
「はいはい、おとといおいで」
と、見送りもそこそこ、ふくの前に横たわる黒い人型に二人は向き直った。
誰に尋ねられることもなく、ふくは口を開く。
「この人、あたいを助けてくだすったんじゃ」
黒い男の息は速く、浅い。帯刀した男二人にふくが敵う道理はなく、ましてや鎧を壊すなどあり得ないのだから、男が助太刀したのは疑いようがない。だが、そのような活躍が想像できないほど、その姿は酷く弱り果てていた。
物忌みの来訪者。
不吉と穢れを避ける物忌みには、別の所以がある。それは、身の内に溜まった穢れを外より来たる神に移さないための気遣いである。
浜の一員を救った来訪者を忌み嫌っていては、それこそ身の内の穢れであろう。
「権兵衛ん家だっけ?」
「え」
「この御人を置いとる所じゃ。あたいらで運ぶんじゃよ。ふくの恩人を無下にできんと」
なみとたえは笑みに降参を匂わせて、横になる男の背に手を回す。ふくは、助けた男が集落に少しずつ受け入れられるのを噛みしめながら、三人がかりで男を病床へ戻すのだった。
この日、肌の黒い奇妙な男は、肌の黒い恩人になった。
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獅子奮迅の武闘を見せた黒鬼に撃退され、這う這うの体で山中を逃げるマムシとカワズの賊二人組。
カワズが顔に刺さったウニの棘を抜いた後、マムシの折れた肘に添え木をしていた。
「マムシ、俺、悔しか」
「過ぎた失敗を引き摺るな、カワズよお。まあ、刀も鎧も惜しいけどよ」
「そうじゃなかとよ」
「あんだよ?」
「あげな化け物に訳も分からんまま負けたことがじゃ」
マムシが鼻で笑う。カワズの言を戯言と言い捨てた。
「漢の勝負なんざ捨てちまえ、カワズ。当世を牛耳るのは、武家でも公家でもねえ。商人だ。金と人を動かした者勝ちなんだよ。海岸を漁るのはその足掛かりだってことを忘れるな」
「……そうじゃったのう。じゃが、刀や具足を見つけたのは幸運じゃったが、今じゃ見ての通りじゃ」
「そうさなあ……。潮時を見誤っちまったかもな」
マムシの腕の固定が終わった。そこらの枝を、そこらの蔓で巻いただけ。満足な治療が施せていないが、今はこれが精一杯だった。
「俺は腕、てめえは目。治るかもわかんねえ。勘定に合わねえが、これまでの蓄えがあらあ。あれを元手に小さな商いから始め」
られそうにない。
「ない! ない! ない!?」
「どこにもなかとよ、マムシい」
「馬鹿言え、片目しかねえなら二倍探せ!」
これまで、各所に漂着した財宝を回収し、各地を転々としてきた二人。当然その旅路は換金と財産の運搬、隠匿にあった。
今回の隠し場所は道にも繋がらず、四方八方を灌木が多い、昼間でも光すら届かないような暗がりである。ここで更に穴を掘り、壺に詰めた金銭を埋めたのだ。
事前に知らなければ見つかりようがない。マムシとカワズもお互いに抜け駆けしていないことは確信していた。
だと言うのに。
「一体全体、どこに行っちまったんだよお!? 俺らの金え!?」
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断崖に挟まれた浜と人里を遮る山の頂に廃寺がある。
今日は木魚も読経も聞こえず、住職は般若湯と称して酒を煽りつつ、時折、土の着いた壺を揺らしては、重みから欲深い喜びを得ていた。
金と銀、小判に銭。
鳴子に呼ばれて、どんな獣がかかったかと思えば、思わぬ仏の思し召しであった。
烏天狗の面の前にも猪口が置かれ、酒が並々と注がれていた。
ふと、住職は酒を煽る手を止めて、おもむろに床板を一枚外す。徳利と自分の猪口、財宝の詰まった壺を抱えて床下に潜り、中から床板を戻して完全に隠れてしまった。
程なくして、外がにわかに騒がしくなる。財宝を失くして気が立っているマムシが、意気消沈するカワズを引っ張って、財宝を探し回っているのである。
「探すんだよカワズ。この廃寺にゃ坊主が居ついてる。何か知ってるに違いねえ」
「あるかのう、マムシ」
本堂に入った二人が中に探りを入れて数刻。酒臭さに怪しさを覚えても、供え物の臭気に過ぎない。本尊の裏や床下も調べ尽くしたが、何も出ない。
時間が経ち、苛立ちが募るばかり。
ここは用済みとばかりにマムシは戸を蹴り破って出て行き、次なる候補地へ向かう。
ややあって、住職は荷物と一緒に寺の裏手から現れて、何食わぬ顔で堂々と正面から本堂へ戻って行く。
最後に戸を建て直し、再び早めの晩酌に耽るのだった。
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父は、私たちは、敵対する部族との抗争に負けた。
海を渡って来た、面妖な火を噴く筒が、私の一族を蹂躙したのだ。
それからの記憶は断片的だ。
肥満体で、黄金色の豹紋の衣をまとった対立部族の男。配下に火を噴く筒を持たせ、獅子の革を幾つも敷き、黄金の玉座に就く者。これに飼われる。
躾。
訓練。父と異なる槍術、あらゆる武器の扱い方。
対立部族の男を下した、アラブ人の有力者。
更に熾烈な躾。
戦士の矜持を奪う重労働。
初めて見た、霊験を感じるほど白い肌の異国の者の提示した何かと、私は交換される。
同じ境遇の人ばかりの狭く暗い場所。日毎に臭みが増す。
ご主人様。異国の言葉。知らぬ世界秩序への戸惑い。
許容を超えた、教育の名目で振るわれる鞭。
飢え。
硬い寝床。
仕置き鞭。望まぬ傷ばかりが増え、私の背中は、父とは似ても似つかぬものとなった。
背後に人の気配。振り向けど虚空。だが、いつまで経っても気配は消えない。
父の咎めだろうかと愚考する。
この気配は常にあり、心休まる時はなかった。
気もそぞろで、ご主人様の命令も耳に届かない。
閃光に抱かれる。
嗚呼、母の腕の中が恋しい。
嗚呼、全てが力に奪われる。
今のように槍が使えさえすれば。
今、この手に槍があれば。
この悪夢は、始まりすらしなかったのだろう。
今、手放して久しい槍の感触が、この手の中にある。
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寝息の仕舞いに一等大きく胸が膨らむ。
薄目におぼろげな、滲んだインクのような景色が、次第に輪郭を得る。天井に木の梁、土塗りの壁。濃い緑の香りがする床。潮の香りが近くにあるが床は揺れず、ここが陸だと気付かされる。
身体を起こそうとしたが、楽な姿勢を少しでも崩そうものなら、力んだところから鈍痛がする。何もかもが億劫で、こんな苦痛を堪えてまで起きるのが馬鹿馬鹿しく思えた。
どっと力を抜き、力みで溜めていた息を吐く。
そこで、自分が布団に寝かされているのに気が付いた。
くたびれているが、ちゃんと綿の入った掛布団だ。床に直に寝ていた気がしたが、これまたくたびれてピタパンのように潰れた敷布団の上であった。
何が何だかわからない。
顔にまつわりついた汗を、一息に拭おうとした。
何かを握っている。
布団からそれを取り出して見れば、タカの嘴のような鉤爪の付いた棒を握っている。見覚えのない道具に、増々困惑が深まるばかりである。
ひとまず棒を置き、改めて汗を拭う。地肌以外の感触を覚え、両手で確かめたが、手で触れるより、両腕の有り様の方がわかりやすい。湿布だらけだ。臭いからして、獣脂と草木由来のものを混ぜた薬のようだ。
男には、これをやった何者かの意図が全く理解できなかった。
(槍は?)
男の身体の内に槍を操る感覚が残っている。男にとって、最も古く、最も誇らしい力の象徴。手に残るその感触。
まさか、鉤付きの棒がその代わりになっていようとは。
本物の槍を布団の中、部屋の中に求めるが、他にあるのは籠が一つ。終ぞ、槍は見つからなかった。
あれは、夢か幻だったのか。まとまらない頭でぐるぐる考える真似をしている内に、砂を踏む音が近付くのが男の耳に届いた。
億劫さも痛みも忘れて、男は跳び起きた。
何が何だがわからないが、とにかく、自分が手厚くされるなどありえない。何かの間違いか、とんでもない代償があるに違いない。男はそう決めつけて、部屋を隈なく見渡した。
いっそ清々しいくらいに何もない。悲しくなるほど力が抜けた身、鉤と籠で何ができるものか。
「権兵衛、邪魔するよー……。って、今頃は漁か。入用だもんねえ」
砂から土へ足音が変わり、戸が開く。知らぬ言葉、それだけで不気味だ。同時に男は、自分が長崎を離れる船に乗っていたことを思い出した。
見知らぬ部屋。であればここは未だ異国ではなかろうか。
船を襲ってきた侍は、まさに鬼気迫る武人に見えた。主人の言に従えば、日本人(に限らず異人の全て)は道理を解さぬ暴力的な野蛮人であると。主人の性格を思えば大いに誇張、しかし馴染まぬ土地ゆえ、得体の知れなさが風評に引っ張られた。
どのように不格好でも、隠れずにはいられなかった。
障子に影が落ちる。
「何だこれ……」
障子を開けると、そこには籠が寝ていた。
顔の部分が籠なのである。
「……権兵衛の悪ふざけかね? んな訳ないか」
籠は頑として動かない。否、動いてはおかしいのだが、殊この籠に限っては動かなければおかしい。中身があれば尚更である。しかし、今、籠は籠である。早く知らぬ人に立ち去って欲しかった。
来客は男であった。籠の網目越しに見える顔は、若いのだろうが老けて見える。小奇麗な格好だが、髪はぼさぼさに伸び放題で、雑に縛っていた。のっぺりした顔に眼鏡が貼りついている。
しかし困った、と眼鏡の男は腕を組んで思案もそこそこに、咳払いをして、一つ声を上げた。
「ふでもうへん」
何を言っているのだろうか。日本の言葉だろうか。
「ぼんじや」
籠はハッとした。籠をずらし、恐る恐るといった様子で、こちらを窺う眼鏡越しの瞳を見返す。
眼鏡の男がかけた言葉。前者はオランダ語、後者はポルトガル語で、おはよう、を意味する。
言葉が通じる。異国人相手では奇妙さが勝るが、心細さも幾分か和らいだ。
こちらの気を悟ってか否か、男はポルトガル語で続ける。
「僕の名は三浦隼経。人に頼まれて君を治療している。ここに運ばれて、三日かな。ずっと眠っていた……あ、いや、一瞬だけ起きてたんだっけか……。そうそう、君、おふくさんを盗賊から助けたそうじゃないか? 皆、恩人だって感謝しているよ。ありがとう」
身に覚えのない話だ。礼を言われる覚えもない。状況の把握だけでも一苦労の男の思考が更に混乱に陥る。
「いつまでも君だと無味乾燥だな。自分の名前は言えるかい?」
黒い男は瞬きすら忘れていた。籠の陰からじっと返事もせず、三浦を観察する。
三浦は、ややたどたどしいが、治療と言った。人に頼まれてとも。だとして、三浦は契約に従っているだけであろう。
言葉への理解、日本とポルトガルの貿易関係、そしてポルトガル人の持ち物である自分。利害を勘定できるなら、変なちょっかいはかけてこないはずだ。
船を襲った侍の同胞でない限り。
「失礼するよ」
返事がないのもお構いなしに、三浦が男の隣に腰を下ろす。ひとまずは身体のことだと、風呂敷を解いて湿布と軟膏を取り出して見せ、男の腕に張ってある分とで交互に指差しながら、「よろしいか」と問うた。
「三浦様はお侍様であらせられますか」
男が初めて、恐る恐る言葉を発する。触れられるのは時間の問題にせよ、その前に三浦の由縁を確かめられずにはいられなかった。
途端に三浦の顔が喜色ばむ。
「通じて良かった。ポルトガル語は少ししかできないものだから……」
三浦の言葉を遮って、男は慌てて言葉を正した。
「あ、いえ、横になりながらとは不敬極まりなく大変申し訳ございません……いえ、それよりこの籠につきましても甚だ不躾とは承知しておりますが何と申しますか、申し開きのできることではなく……」
男が早口で弁明を述べている最中、三浦は思わず吹き出し、快活に笑った。
男はますます分からない顔をした。
「いや、すまない。君みたいな偉丈夫が、そんな小さなことであたふたするのがどうも……。あいや、こちらこそ失敬。それに、僕は侍じゃないよ。こんな弱そうなの、いると思うかい? 僕は、えっと、時々自分でも何者かわからなくなるんだけど、一応これでも学者でね」
「学者、様……?」
「蛮学さ。南蛮の知識は興味深いね。もっとも、ほぼほぼ趣味なんだけど。たまーに本業の役に立つくらいで。あ、これのことね」
そう言って、三浦は湿布を顔の横に広げて見せた。
学者は自称。生業は薬師である。
「だけど、君と会話できたのも、その趣味の賜物なら、役得だね」
「……ご主人様方は」
「主人……? 南蛮人が流れ着いたなら、噂になっている頃だろうけど……。いや、でも現に僕らは……」
最後の方は小声の日本語で、男には意味がわからなかった。
「……何にせよ、どれだけ流されていたかは知らないけど、ここに着いて三日だ。まずは自分の治療に専念なさい。長く寝ていて自覚がないのかもしれないが、満足に食事もしていなければ会話も疲れるだろう。だけど生憎、ご飯はすぐに用意できないからね。ささ、湿布を換えよう。……あー、そろそろ籠を外してもらっても?」
三浦に指摘され、慌てて男は籠を脱ぐ。三浦が話を切り上げると、多弁から一転して、黙々と男の湿布を一しきり剥がしていく。慣れた手付き、本業に偽りはないだろう。
治療を受けながら、男は覚束ない頭で考えを巡らせる。もし、自分と同様に、主人もどこかに流れ着いていたとして、自分が生きているのを知ったら。
正当に所有する財産を取り戻すのは当然である。
今の主人に買われてからのことは、できれば思い出したくない。嫌でもちらつくのは、鞭を背に受ける痛みと、籠城で取り上げられた食事、飢え、閃光……。
しかし今はただ、湿布と軟膏が冷たく、心地良い。
ただ一時でも、身を任せたくなる。
「あれ、三浦先生。いらしてたのかい」
今度の知らぬ言葉は、鈴を転がす女声であった。
「やあ、こんにちは。いらしてって、ここはおふくさんの家じゃないだろうに」
「ここらの衆は家族同然じゃ。ならどこも、おらん家同然じゃ」
「どういう理屈かねえ……。ほら、奴さん、目を覚ましたよ」
「……ええ!?」
何やら二人のやり取りの中に驚くべきことが語られたようで、女の方がどたどたと騒がしく駆け寄り、男の顔を覗く。と言うより、三浦を押し退けて、堂々と真正面で顔を合わせてきた。
「彼女が君を見つけた。そして、君が助けた人でもある。改めて紹介するよ。名はふく。皆、おふくさんと呼んでいる。人一倍、熱心に君を看病していたのも、この子だよ。今だって磯漁の最中だっていうのに……」
三浦のポルトガル語がどこか遠く、聞き慣れない言語に聞こえる。
視界を占めるふくの顔は、水を弾き、格子戸から差す陽光に煌めいていた。頭に巻いた手ぬぐいから漏れる、濡れそぼった長髪が白い肌に貼りつき、より一層黒く艶めく様。黒真珠のように曇りのない瞳に自分の顔が映る。
そして、背負っている棒、槍のような物に目を奪われた。
と、瞳が曇りを過ぎて雨模様に潤み、落ちた雫が男の頬を叩いた。
「良かったー! 南蛮人さん頑張ったよお! あの時はありがとうねえ!」
「うおお!?」
どういう了見か、ふくは突然、男にひしと抱き着いたのである。
「礼も言えんまま目が覚めなかったら、どげんしようか思って……思ってー!」
「おふくさん、色々あるのはわかるけど、彼、消耗はそのままだから……仏さんになっちゃうから……!」
三浦に止められて初めてふくは相手の様子を見たが、自分の手はしっかり首に回っており、男は黒い顔を青くして、泡を吐いていた。
「あやー!? 南蛮人さん!? どげんしょ!? どげんしょ!?」
「だから離れてって!」
「おふくよぉ、気掛かりじゃろうが、漁を抜けて呼び戻すわしの身にも……」
間の悪いことに二人の抱く姿を、家主の権兵衛が戻って見てしまった。
「な、なな、何じゃあ!? おふく、おめえ、人ん家で、おま、みだりな!!」
「あーいや、権兵衛さん、こりゃ違くてね?」
「うわあああん!! 南蛮人さん!!」
「おふくさんも落ち着いて!」
「おめ、こん南蛮人!! おふくを泣かせたんか!?」
「どげんしょー!!」
「こりゃあっ! 落ち着かんねっ!!」
南蛮人に対して柔和だった三浦の雷が落ちると共に、南蛮人が用心で握っていた鳶口が手から零れ落ちた。
╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋
昼には早い刻。特に見どころのない集落で、権兵衛宅前に人だかりができた。
ふくと権兵衛が拾った南蛮人が目覚めた。集落の恩人の一大事、一目でもその動く姿を拝みたいと、漁も炊事も放り出して、物珍しさに集まったのだ。
つまり、仕事を離れた馴染み同士が顔を突き合わせる訳である。
「おめ、わしの飯は!?」
「欲しけりゃ作りな! あんたこそ、油売ってんじゃないよ!」
「カレイじゃ! 売ってもねえ! 見舞いだよ、見、舞、い! 食えんでも煮汁吸ってりゃ精もつくじゃろ!」
男が縄を通した干しカレイをゆらゆらと出したのを、きょとんと見ていた女は、同じ干しカレイをその横に、比べるようにつけた。
「それでこそ、わし(あたし)の女房(夫)じゃ!」
こんな調子で、集落中から、思い思いの品を持ち寄っているのだった。
「喝アーッ!! 静まれい!!」
寒気が更に引き締まる一喝が響く。
一〇尺はあろうかという長柄の錫杖を突いて鉄の遊輪をシャンシャンと鳴らしながら人混みを掻き分けて、錫杖の半分に満たない小柄な袈裟姿の坊主が姿を現す。古狸もかくやと思わせる老齢と風貌で、寒々とした頭に対して、髭と眉毛は白くボウボウとしていた。
「法然様じゃ」
「和尚さんじゃ」
誰ともなく、人だかりの一人がその者の名を呟いた。
法然は民の前に立ち、シャンと一際大きく錫杖を鳴らした。皺深い顔の眉間を更に険しくして、咎めるような視線で人々の顔を刺した。
「全く、おどれら、目え覚ましたばかりの怪我人やろがい! この騒ぎやと落ち着くもんも落ち着かんわい! ちったあ気を遣うたらどうや! ああ!? それにな、魚も昆布もええけどな……」
法然は、背負った籠をまさぐって、手にしたものを高々と掲げる。色彩豊か、雄の羽、何とも雅な鳥である。
生唾を飲む音が聞こえた。
「東西東西! お目にかけまするは、珍味佳肴! 四条流が包丁式の認むれば雅なる鳥、御湯殿上の許しを……」
「キジじゃ……」
先に言われた法然は、腰を折られたようにずっこけた。
「まだ途中やぞド阿呆!」
「はいはい、東西東西。それにしても大物じゃ……」
「和尚さん、不殺生はどうされたんじゃ」
「境内を貸してな、磯衛門だか波平だかっちゅうのの網を干しておったらな、かかっとったんや。南蛮人の養生になれば、せめてもの供養にもなるやろ思ってなあ。世は無情やでほんまに……」
錫杖の持ち手で祈る法然。対してキジの骸と民衆は冷ややかだった。
「ここらに磯衛門も波平もおりゃせんが……」
「また狩ったんじゃ、この生臭坊主。見ろ、ありゃ撃って仕留めた痕じゃ」
「嫌だわ、この破戒僧」
「僧どころか、芝居の呼び込みだよありゃ」
「やーい、尾張の落ち武者」
「じゃかあしわい! 特に最後の! 誰や!? ここで長篠を見せたろか!?」
「法然様、怪我にキジは、余計にこじらせるなんて話じゃが」
「迷信やがな! 初耳やでわしゃあ! 何でも食った者が早よ治るんじゃ!」
「うるっさいのう!! さっきからガヤガヤがやがやと!!」
権兵衛の家の戸が乱暴に開かれ、ふくが包丁片手に鬼の形相で現れた。
丁度、法然和尚の真後ろ。肩を跳ねさせて驚いた法然がガバと振り返ると、刃を鈍く輝やかせながら、青筋を立てたふくが仁王立ちし、和尚を見下ろしていた。
「お、おふくさん……、こんにちは、良いお日和で……」
「こんな雪と時化ばかりの時に何言っとんのじゃ。早くに納めた仕事もまた増えたってのに。あーやだやだ」
「あの、キジ……」
法然からおずおずと差し出された、美しい羽艶の新鮮なキジ。座った目を落とすふくの沈黙に対して、間が持たずに愛想笑いする法然。聖俗が逆転した、妙な緊張感が人だかりに蔓延った。
集まった衆にも目を配り、ふくは各々の手土産を物色する。眼力の圧が、人々を身じろがせる。
「ふん」
と、ふくは鼻を鳴らし、むんずとキジの首を掴んで、法然から奪うように受け取った。他、三名が持ち寄った鳥の卵を一つずつ。一転、面を着け換えたかの如く、般若がお多福の顔に変わる。
「ありがたく頂戴します、和尚様。皆もありがとう。生じゃから、これから使わせてもらいます」
「お、おお、左様か……。ほれ見い皆の衆! やはりこの三郎坊法然、目に狂いは……!」
「黙れ」
「はい……」
般若のまま言い捨てられた方が幾らかマシだったと、法然は思った。
咳払い一つ、続けるふく。
「……でじゃ、皆の気持ちも嬉しいんじゃが、今これだけ貰っても使い切れんし、置くにも場所に困る。今日のところは気持ちだけ貰っておくし、南蛮人さんにも伝えとくよ。我儘言うようじゃけど、改めて頭を下げに窺うけ、その時に力を貸しとくれ。な? こう詰めかけんでも、皆のことは頼りにしてるんじゃ」
「おふく……」
「いつの間にかあんたも、立派に育ったんだねえ……」
「じゃーかーらー……」
ふくは胸一杯に息を吸って、今日一番の騒ぎ声を上げる。
「見せ物じゃなかぞ!! とっとと漁と飯炊きに戻らんね!! 諸共刻んで味噌で煮て食うてやろうか!!」
「おあ、磯女じゃ!」
「ふくが濡女になりおったぞ!」
「物の怪じゃ! 怖や、恐ろしや!」
子供たちの悪ふざけで化け物の誹りを受ける度に、ふくの癇癪は滅茶苦茶になり、獣のように吠え立て包丁を振り回しながら、野次馬を追い払う。
「騒がしくてすまないね。みんな、物珍しさ半分だけど、君を心配しているのは本当だから……許してあげて」
「はあ……、まあ……?」
その騒ぎに申し訳なくなりつつ診察する三浦と、客間からでは状況を把握しきれず戸惑う男であった。
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キジは血抜きが済んでいるので、さっと湯に通し、羽を毟る。残った羽毛は火に炙って取り除く。
内臓を破かないように注意しながら取り除き、身を洗う。
身を捌き、出汁が出易いように骨を断ち、一部の肉は骨から削いで包丁で叩き、挽肉にする。
別に用意した湯から昆布を取り、ネギと骨付きキジ肉を入れて炊く。
灰汁が出なくなるまで取ったら、米と挽肉を入れ、溶き卵を回しかけて更に炊く。
残った内臓は綺麗に洗い、串に刺して塩を振り、囲炉裏で炙る。
権兵衛の目は、終始、ふくの手捌きというか肉と米に釘付けで、生唾も飲むのが間に合わず垂れていた。新鮮な肉はもちろん、粟でも稗でもない飯を見るのも、いつ以来のことだったか。ふくと三浦の味見すら羨ましく思えた。
「こんなもんじゃろ。重湯か粥のつもりじゃったが、思いがけず豪勢な雑炊になったのう……。三浦先生、南蛮人さんの食欲はどうじゃろ?」
囲炉裏のある広間から、ふくが客間の方へ尋ねる。
三浦はふくの言葉を翻訳し、男に伝える。男の返事に怪訝そうな顔をして三浦は問い返したが、やがて目を渋く細め、首を傾げながらふくに伝えた。
「自分には勿体ないから食べてくれ。だってさ」
「ほーん。じゃあ、おふく、わしは大盛りでな」
嬉々として椀を突き出す権兵衛の手首を、ふくは鍋から抜いた杓子で思い切り打った。権兵衛は手首を労りつつ、転がった椀を拾い、埃を払う。
「怪我人のくせに何の意地じゃ。それに、あんたはあたいの恩人じゃぞ。遠慮は無用じゃ。あんたのためにこしらえたキジ雑炊じゃぞ。たらふく食え」
三浦がふくの言葉を男に伝える。返答。
「残ってたら貰う。って」
「なら全部食っちまおうかね」
権兵衛の椀のくだりの繰り返しのため中略。権兵衛は椀を拾うついでに、串焼きの具合を確かめて、焼き面を裏返す。
ふくは客間に入り、布団の足元から男の顔を見る。布団から上体を起こしており、視線は下を向き、虚ろ。体格は権兵衛よりも立派だというのに、肩は巻いて小さく、今にも縮んで消えてしまいそうな風体である。息も浅く早い。消耗は目に見えていた。
「隼経どん、まさか、たばかっちゃおらんじゃろうな?」
「た、たばかるって何を?」
「キジ雑炊欲しさに、言っとることデタラメに伝えとりゃせんじゃろうな?」
「や、やめてよ。そんなバカな真似はしないよ。権兵衛じゃあるまいし」
「聞き捨てならんな先生」
「権兵衛どん、座っとれ」
「お、おう……」
「先生、今言ったんは真じゃろうな?」
「真もまこと。だからそんな凄まないで。別嬪さんが台無しだよ」
二人の言い合いをよそに、男は黒い顔を更に暗くして、俯きながら記憶と向き合っていた。
長らく、給餌で良い思いをした覚えがない。
口にするのを許されるのは、ご主人様が食事を始める前と終えた後だ。食事前は毒味と称した遊びで、食後は食べきれなかったものや、気に召さなかったものを床に落とし、良いと言われた時だけ採餌が許される。貿易の荷運びの重労働に対して心許ない量。それでも貴重な活力源のため、恥も外聞もなくがっついた。細かいルールがある。例えば、感謝を述べる前に食べる素振りを見せれば仕置き、家財や自分の身体に汚れを残せば罰。飢えたまま疲労困憊で働いた後、そんな規則を正しく守れる筈もなく。たまに上手くできればお恵みが増えて、ご主人様が足で自分の頭を押し、食べやすいように配慮してくださった。
気力は常に削がれていた。では、反抗する意思は。背中の傷から流れ出たように思う。私は臆病になっていた。
ただ、一刻も早くこの身に不幸が降りかかり、生に幕が下りる日ばかりを望み、しかし、自らは踏み切れぬ臆病さが、この生き恥を強いたのだ。鉄鎖を解かず、檻に安堵し、明日の鞭を恐れる、飼われる者の臆病さが。
船が沈んだであろうあの日、あれこそが天命で、待ち望んだ終わりであれば、どれだけ楽になれたことか。
しかし、現実に、私は生き永らえている。
千載一遇の好機も逃し、また隷従が待っているだろう。心は冷たく、反射的な受け答えで誤魔化し、二度と目覚めぬ夢を待ち焦がれる日々に戻るのだ。誰しもいつか叶う夢を。
「そろそろええじゃろ」
串焼き番の権兵衛が、頃合いを見て、焼き上がった三本を手に客間に行く。
「ほれ、おふく、三浦先生、串食え」
「ええ、じゃけど……」
権兵衛の勧めに二人は面食らったが、権兵衛は毅然と言い放つ。
「モツはとても食わせられん話じゃったろ。血生臭いし、脂っこくて、断食明け同然の怪我人には適わん。先生が言ったんじゃぞ。わしらでこれ食って、後は残すんじゃったら、こやつも文句なかろうが」
「……いやはや、まさか、権兵衛が理詰めだなんてね」
「驚いた。あんた、力任せのクマかイノシシとばかり……」
「やかましいわい。人ん家でくたばられたら縁起でもないじゃろ。それだけじゃ」
もっともらしい言い訳を述べつつ、権兵衛は串焼きを三本取り、内一本ずつを二人へ回した。全員が手にしたら、男に「おい」と声をかけ、三人に注意が向いたところで、一口大の串焼きを食べて見せた。
「じゃ、僕もご相伴にあずかりまして……」
「かーっ、うんめえ! 酒!」
「飲んだら誰が南蛮人さんを看るんじゃ」
「言われんでもわかっとるわ。飲まん飲まん」
困惑したように、自分を囲む人々を見渡す男に対して、三浦が告げる。
「皆、食事を終えたから、後は君の好きなだけ食べなさいってさ」
ふくが客間と広間を往復する。帰りに椀に雑炊をよそい、盆に乗せて。出汁と卵をたっぷり、ブツ切り肉を少な目に。副菜は梅干しと菜っ葉の漬物。食器は三浦の勧めで、箸でなく匙。
男はいよいよ困惑が隠せない。
自分が居る建物や、囲む人の恰好を見るに、三浦はともかく二人は庶民に違いない。外に集まっていた者たちも同様だろう。
それが、肉と卵の入った贅沢な雑炊を差し出している。
いよいよ、身に覚えのない恩の正体が怖くなってきた。
本音を言えば、食欲を誘う香りに先程から卒倒しそうなのだ。だが、常々、種族を異にする人間の甘い誘いには裏があった。対価により過酷な労働を課せられたり、効能の真偽が不明な薬を飲まされたり、碌でもない目に遭ってきたのだ。
「どうぞ、お食べなさいな」
ふくから差し出された雑炊の湯気が顔に当たる。匙のある、食器に盛られた食事。食べては、受け取ってはいけないものだと、刻まれた教育が警鐘を鳴らしている。まさに望外、望んではならない待遇が、手の届く距離にある。
この後に待つ仕打ちが恐ろしく、身じろぎ一つできない。
「いっそ床に撒いてくれた方がマシだ」
「ええ……?」
「先生、今のは何と言うたんじゃ?」
「……詳細は恐れ多くて言えない。言うなれば、あなたに対してすごく無礼で、雑炊に対してすごく罰当たりなこと」
「ほーう、ええ度胸じゃのう、南蛮人?」
痺れを切らしたふくは、男の顎を潰すつもりで握り、無理やり口をこじ開けた。
「カッカッカッ! このおふく様に会ったが運の尽き! 年貢の納め時じゃ!」
「煮えた米でか」
「黙りな!」
権兵衛の茶々を遮るふく。
男に抵抗する暇すら与えず、ふくは雑炊を匙ですくい、熱々なのも忘れて突っ込み、これまた力任せに口を塞いだ。
煮え立ちの熱々である。口腔を襲う熱湯を転がすように、男の舌が暴れ、男の手がふくの細腕を必死に離そうとする。見た目に反して、ふくの腕力は尋常ではなく、男が雑炊を呑みこんで脱力するまで、離すことは叶わなかった。
息が上がって倒れそうな男を支えつつ、三浦はふくの無茶に呆れていた。
「あのね、あんまり体力を使わせちゃ駄目なんだけど?」
「肝心な体力も食わねば尽きるじゃろ」
「まあ、だけど……いや、そうだね」
だとしても短慮に過ぎる。という旨の言葉が三浦の胸のところまで上がっていたが、何かを諦めたように腹に戻した。
「さあ、自分で食わなねば今一度食らわすぞ冷まさんぞ」
との、ふくの啖呵を三浦が伝えると、男もたまらず椀と匙を慌てて受け取った。
「うんうん、やはりそうなるじゃろ。できたてはゆるりと食うに限るじゃろ」
「本当、おめえ、色々と感心するわい」
「含みがあるようじゃが、権兵衛どん」
「気のせいじゃろ」
二人の会話の遠いところで、男は、まじまじと椀を見つめていた。
火傷の治療を施されたはずが、口の中に新しい火傷をこしらえて、また同じ目に遭わせるぞと脅され、たまらず受け取ってしまった。
手に入る筈がない、必ず罰があると思い込んでいたものが、今、自分の手中に収まっている。火傷は増えたが。
手の中の椀から上る湯気に乗った鳥の濃厚な香りに、唾液が止まらない。今すぐにでも掻きこみたい。しかし熱い。ゆっくり冷まそうものなら、持ち手ごと椀を叩かれて、熱い雑炊を顔にぶち撒けるなどというしっぺ返しもあり得る。男の生きた世界はそういうところだった。
男がこれまで生きてきた世界。
父の背中を追った時代はどうだ?
ならばここは、どういう世界なのか?
長崎の港の外は、男にとって未知。
気付けば、男は口実を探していた。口実があれば構わないと思っていた。この世の理屈がカピタンのみでないことを祈り、我慢の限界を目前に、目を絞るようにつむり、見開く。
匙を拳の形で持ち、たどたどしい手付きで雑炊をすくい、吹いて冷ます。
そして、いよいよ口にした。
「……」
固唾を飲んで見守られているのがわかる。
口の中の火傷に響く。だが、歯に当たる柔らかな穀物の感触と、舌に踊る溶き卵、スープはまるで乾いた畑に染みるように喉に消えていく。
喉から先で、雑炊が瞬時に身体の一部になったようで、奇妙だが食べた心地がしない。
一口、また一口と、確かめるように食べ進め、雑炊が程よく温くなるにつれ、匙が速まる。するすると底抜けの喉に雑炊が通り、やがて匙は椀の底を突き、湯気だけが残った。
ただ、その腕から目が離せない。
「おかわりは?」
ふくの言葉に男が顔を上げる。
言っている意味は分からないが、既に杓子には雑炊があり、ふくは微笑みを湛えて男の椀に手を差し伸べていた。
椀を返したのかどうか怪しい動きを敏感に察知したふくは、半ば奪うように椀を取り、流れるように雑炊を注いで、男に返す。
また、熱く湯気の立つ雑炊。同じように食する。
半分ほど食べたところで漬物を、匙ですくえないので摘まんで噛み、残りの雑炊を掻きこむ。
伺いを立てるように椀を出しておかわりを求め、ふくが応える。
同じく食する。
今度は梅干しを口に放り込む。
「んぐ!?」
脳天を突き抜けるような酸味が、口を蹂躙した。余りの酸っぱさに、自分の顔が口に吸い込まれそうだった。
男は目で三浦に助けを求める。
「えーと、プラムの塩漬け? 身体に良いよ。ほら、ご飯食べて」
施しを無駄にはできない。男は覚悟を決めて、酸っぱくなった口に雑炊を混ぜる。これが想像以上に相性が良かった。
薄らいで爽やかになった酸味に、塩味が増した雑炊が進む。
塩味が徐々に増しているように感じる。
しゃっくりが上がるのは、身体が食事を拒んでいるからではない。鼻が水っぽいのは、過度な香辛料の刺激からではない。目から込み上げるものを落としてはならない、厚意を無下にするな、不手際で味を変えてはならないと思えば思うほど、止めどなく、男は見せてはいけない姿を三人の前に晒した。
海綿が水を吸うように雑炊が身体に染みるのは、旨いからだと、男はようやく気が付いた。
全て、男のために用意された、食事であった。
男の涙は見せ物じゃないと思ってか、見守っていた三人は、男がむせるか喉を詰まらせるか火急のことでも起きない限り、食事が終わるまで思い思いのところに目を向けるか、目を閉じるかして、男のおかわりを黙って待っていた。
(ああ、忘れていた。これが、満ちるということか)
╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋
「いやあ、これを平らげるなら心配ないね、きっと」
三浦は驚きと感心と安心をないまぜにしながら、鍋を覗いた。米一粒残らず空である。急遽用意した殻入れの椀にはキジ一羽分の骨が盛ってある。雑炊をよそうのも一苦労だったと、ふくは腕を杖にして仰け反りながら呟いていた。
これを一人で食い尽くした当人はというと、食い終えた途端にぷつんと糸が切れて、ばたんと倒れた。すわ往生かと枕元へ寄る三人だったが、満足そうに穏やかな寝息を立てている様子を見て、胸を撫で下ろすのだった。
「全く、落ち着きのない男じゃ。食わないだの食うだので一騒ぎで、食い終わったら終わったで、すぐ寝る。礼の一つもなければ、こっちは名前も聞いておらんのじゃがのう」
「そんな言い草するんじゃなかよ」
「へいへい……。で、三浦先生、こやつ、例の一つでも言ってから寝たんじゃろうな?」
「あー言った言ったったい」
本当は言っていない。権兵衛の小言は三浦をして面倒であった。
同じく緊張の糸が切れたのだろう。権兵衛の悪態を諫めるふく。いつもの光景だった。
対して、三浦は神妙な面持ちで口を開いた。
「彼の卑屈を極めた態度で確証を得た。彼はこちらで言うと奴婢の身分だ」
一瞬、ふくの息が止まった。かと思えば、普段通りの調子で口を開いた。
「って言うと、年季者かい? にしても、嫌に卑屈なようじゃが……。いずれにせよ、そう珍しくもないじゃろ」
「口減らし、借金、あるいは野望、理由なんざありふれておる。南蛮人も人の子というわけじゃな」
「乱取りだよ。それも聞く限り、生半可じゃない」
乱取り。その一言で二人の息が一瞬だけ止まった。沈痛な面持ちになる。
戦乱が起こる。農民を徴兵する。戦で浪費した月日は本来農作業に費やされる時間だった。その間の収入はどうなるか。一季節でも耕作放棄された畑が息を吹き返すのはいつになるのか。将来に渡る損失を、戦を先導した大名で賄えるのか。
最も簡単な解決策がある。
大名は、戦地での略奪行為を黙認すれば良い。物資はもちろん、人も含んで。
それすなわち、乱取りである。
織田、豊臣と、天下人らによって兵農分離が始まり、乱取りを取り締まるようになったとはいえ、実際問題、乱取りは戦乱に付き物であった。
別離にやむを得ない事情、筋があるなら、怨みを覚えこそすれ、腑に落ちずとも理解できる時が来るだろう。果たして、戦にそれが当てはまるだろうか。
「あたいらと、一緒……」
そう小さく呟いたふくは、途中で首を振って「違う。あたいらは落ちのびただけマシじゃ」と訂正した。
権兵衛も、彼我の違いを補強するように口を挟む。
「乱取りじゃども、ここらに流れたんじゃ。貿易商の奉公人じゃろ。大したもんじゃ」
「確かに、中には身を立てる奴婢もいるらしい。でも、こと彼に限っては、そんな良いものじゃないと思う。見ただろう? 飢え死に寸前で食べ物を前にしながら、あの怯えっぷり。堅物じゃ片付かないし、狐に憑かれてもああはならない。背中の傷に、火傷に紛れていたけど、胸の焼き印だってそうさ。この人の主人は、彼を人の形をした物だって思いたがっている」
「それも、蛮学で学ばれたんで?」
「いや、彼が着いた日に、法然和尚様からね」
「あの生臭坊主が!?」
ふくと権兵衛は声を揃えて仰天した。
「どうしてあれの言うことを素直に聞き入れるんじゃ!」
「いや、なかなかどうして、和尚様は狭くて尖ってる割に浅いけど、蛮学ばかりでは知り得ない南蛮の知識をお持ちだよ」
「いやいやいや! 狭くて浅いと言うておるが!? それが信用に値するかと言っとるんじゃが!?」
「うーん……」
しばし顎に手を当てて考える三浦。やがて、どんと張った胸を叩き、顔に貼った眼鏡を正した。
「この三浦隼経の眼鏡に免じて」
二人はずっこけた。
「それは、和尚を信じる先生を信じろと……?」
「まあまあ、いずれにせよ、のっぴきならない事情があるのは、二人ともわかるだろう? 和尚様は言いすぎかもしれないけど、過酷な奉公から逃げたのかもしれないし、そうだとしたら、せめて怪我が良くなるまでは匿いたくなるのが人情だろう? それとも、今の彼を、ろくでなしかもしれない主人に返せるかい?」
「そりゃ……ねえ?」
「う、ううむ……なあ?」
「だろう? 皆に伝えた通り、彼のことは他言無用だよ。この浜の衆の内の秘密だ。考えられる限り最悪の事情を抱えているとすれば、浜の外に噂が流れるだけでも面倒なことになりかねないからね」
こくこくと頷く二人。
「まあ、今言ったことは憶測も憶測。これからのことは、彼から直接事情を聞かせてもらってから考えよう。ささ、おふくさん。次は君の番ね。首の切り傷と手の刺し傷、見せてごらん」
「こんなん、何でもなかとよ」
「それは薬師が決めるから」
ふくの首と手の包帯が解かれる。殆ど消えた首の刀傷と、未だ深く残るウニの刺し傷。それは、マムシとふくの生きる意志の重さを映すようであった。
╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋
断崖に挟まれた浜と人里を遮る山の頂に廃寺がある。
法然はいつぞやからここに住み、坊主の真似事をしていた。
「合縁奇縁とは、これを言うんやろか。のう、大将」
権兵衛宅の墨のような異邦人へキジを差し入れた後、今日は木魚を叩かず、本堂で永楽通宝を三枚、手の中で鳴らしながら、烏天狗の面を眺めて過ごしているのだった。
壺の中身は少し減っていた。
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