第8話 照魔鏡

 燃え立つ戦船、黄泉ツ丸から時折飛ぶ火の弾は、引火した焙烙火矢である。

 歴史より排除された水軍衆の残党、いわば時代の亡者たちを葬る炎を背に受けて、烏天狗に身をやつした鞍馬が浜を走る。

 行く手もまた炎がうねり、砂と屍を焼いている。

 火の海を越えて対峙するは、有馬らへ復讐の念を燃やすアンドレ・ペソア。海難坊を名乗るその両手には太刀とカトラスが握られている。

 浜の騒動の首魁の間近には、進退窮まった浜の衆、ふくと権兵衛もそこに居た。


「鞍馬……かい?」


 砂浜の彼方、人形の大きさにも満たない山伏の姿を見て、ふくが呟く。

 悪漢と無辜の民の間を遮るように、砂地に錫杖の槍が立っている。

 既に放たれたはずのそれが放つ威光は、さながら邪鬼を払う結界か。海難坊は、浜の衆の中へ踏み出せず、接近しつつある乱入者を睨む。

 漁師たちが抵抗しなければ、人買いに売り飛ばすつもりだった。

 横槍が入らなければ、漁師たちを皆殺しにするつもりだった。

 全て、有馬晴信の領民であるために。

 しかし、相手が満足に武装もしていない民衆とはいえ、単身で乗り込むほど、海難坊は血に酔っていない。迂闊に手を出せば、追い詰められた者どもが徒党を組む。それに後れを取るなどあり得ないが、タコ殴りに遭うのは割に合わない。

 故に挑発し、乗った者から斬り殺す。その繰り返しで優位を崩さず、一人残らずなぶり殺そうというところだった。

 しかし、たった一人の乱入で御破算だ。

 海難坊の背後、砂地に深く刺さる槍が、語るべくもなく告げる。

 山伏の意図、敵対。岬から集落までを貫く槍の軌跡、その力、絶大。狙い、比類なし。

 漁師に構う余裕は失せた。


「つくづく厭うか、この国は」


 抜き身の刃、二振りを携えて、海難坊もまた、強者の方へと駆けて行った。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 侍の骸の傍に立つさすまたが、乱暴に抜かれた。

 砂を撒き上げるは新たな主人、鞍馬。

 山刀と合わせ、一槍一刀。

 間近に迫る包帯の怪人へ、渾身の勢いを乗せた槍を繰り出す。刃のないさすまたも、その気で繰り出せば鈍器の一突きと化す。

 対する怪人、海難坊には通らない。さすまたに対して脚を高く振り上げ、柄を踏み躙る。片手のみが掴むさすまたは、呆気なく鞍馬の手から滑り落ちる。

 否、落としたのは故意である。

 海難坊の姿勢が低くなる。踏みつけの勢いが余った。その頭上へ、鞍馬は逆手に持った山刀を振り下ろし、それを海難坊が太刀で払い除ける。

 無防備に晒された鞍馬の胴を、カトラスが襲う。

 だが、鞍馬の右腕は槍を放して自由だ。繰り出されたカトラスの持ち手を脇に挟む。捻り極め、両者は背中が合う。

 鞍馬の側頭に太刀の、海難坊の脇腹に山刀の柄頭が見舞われる。

 たまらず拘束が解かれ、睨み合う両雄。剥き出しの眼球も、仮面に隠れた目も、視線を交わし、火花を散らす。

 鞍馬の右手が、新たに隕鉄の刃を取り、山刀と持ち換える。本来は槍の穂先。だが、武器になれば何でも良かった。

 再び、両者の刃が幾度も交わった。

 軽量の得物を活かし、伏せも跳躍も織り交ぜた、変幻自在の手数で攻める鞍馬。それを受けるのは最小限に留め、見透かしたような回避で翻弄する海難坊。双方の疾駆が、周囲の炎を煽る風を生む。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 炎上する黄泉ツ丸にあって、未だ火の手を逃れる一角。

 二人の強者の戦場へ、砲門より口を向ける筒が一丁。射手は全身を黒く焦がし、息も荒く、今に絶えるものと思われた。

 宗治郎が、憎き海難坊に近しい姿に堕ちながら、狂う狙いを必死に定めようとしていた。

 燻るのは皮膚や毛、着物だけではない。

 焼け落ちる、玄海水軍衆の夢。その無念。

 走馬燈の如く、宗治郎の胸に思いが去来する。

 水軍衆前頭領、伝三郎は、水軍の再興に踏み出さなかった。倦怠と諦観に沈んだか、彼の傍らに他の理由があったのか、今となってはわからない。しかし、夢を諦めきれず、思いを同じくする同胞が好きで付き添い、今日まで恥を偲んで生きてきた。

 そして、長きを経て遂に、黄泉ツ丸は船出に至った。

 それを、浜でチャンバラに興じている、あの大うつけの海難坊が、御破算にしたのだ。

 今の今まで荒くかすれていた宗治郎の息が、急に細く、静かになっていく。

 それにつれて、明瞭になる筒の狙う先。

 そう、海難坊さえいなければ、きっと、伝三郎と共に、宗治郎たちは今頃、海の覇者の名を轟かせていたはずなのだ。

 伝三郎も、きっと、意志を固めて。


「面白い男に会ってな」


 各島に身を潜める水軍衆の招集の折、幾年振りか、伝三郎と顔を合わせた時が、宗治郎の中に思い浮かんだ。


「南蛮人だが、幕府への恨みは本物だ。そいつに、水軍を継がせようと思う」


 宗治郎は絶句した。

 いきなり顔を見せたと思えば、藪から棒に突拍子もないことを、頭領ともあろう男が言い出したのだ。

 真っ白になった頭の中で、ふつふつと滲む反意を掻き集め、何とか口に出した。正気か、散々待たせておいてようやく聞かせることか、見ず知らずの男に従えない、頭領は伝三郎しかいない。

 伝三郎は、さっぱり諦めたような顔で、首を横に振った。


「俺にはもう、その資格はねえや。覚悟も度胸も素寒貧だ。……そいつに着いて行くかどうかは、お前らの目で見定めろ」


 思えば、この時、否、もっと前に、玄海水軍は終わっていた。

 それを、水軍衆が勝手に認めなかっただけだ。同じ栄光に浸り続けたいあまりに、駄々をこねる童のように、頑としてその場を動かなかっただけなのだ。

 時代の潮流に背き、見栄のために人生を捧げた末路など、今日のような日和など、水軍衆の誰もが思い描いておきながら、目を背けて蓋をして、知らない振りで通しただけに過ぎない。

 だが、それでも。

 筒の口は、烏天狗に向く。

 ここで玄海水軍をなかったことにすれば、本当に何もなくなってしまうじゃないか。

 引き金を握り、炸薬の弾けた硝煙を受けながら、宗治郎は目を閉じた。

 放たれたのは鉛玉だけでなく、火薬の飛び火。甲板から垂れた油を始め、大砲の近くに置いた火薬樽にも引火し、宗治郎の姿は爆炎の中に消えた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


「っ!?」


 背中から脇腹を抜くような熱さを覚えて、鞍馬が身じろいだ。

 炎上する船の方角から銃撃。同時に、今までにない強烈な爆音が、浜一帯に響き渡り、黄泉ツ丸は沈んでいく。

 烏羽の蓑を弾が貫き、その下に仕込んだ三振り目の隕鉄の刃が、運良く弾除けになったおかげで致命傷は避けられた。が、その一瞬は大きな隙となる。

 その瞬間を海難坊は見逃さない。

 大上段から振り下ろす太刀の重い一撃。

 真っ向から受ければ力で負ける。鞍馬は咄嗟に身を引いて避けようとしたが、切っ先は烏の面を捉え、割った。

 黒い烏の面の下から現れた顔もまた、この国において珍しい黒、アフリカ系の顔立ち。冠に結んだ頭巾の端が裂けたあたりで、額を僅かに切って流れる赤い血の筋が、つう、と鼻梁を避けて引かれた。

 その相貌を目の当たりにし、息を呑む海難坊。

 鞍馬は警戒も構えも解かない。


「……クク、なるほど、貴様か。モザンビークの猿。何故、日本人に肩入れする」


 嫌と言うほど聞いた、ある時期の呼び名。ポルトガル語の声音が、鞍馬の心をつんざいた。

 全身が凍るような鞍馬の心地を気遣うこともなく、海難坊、否、アンドレ・ペソアは続けた。

 目の前の奴隷は、どんな状態でも、主人に傾注するよう仕立てた、特上の家財なのだから。


「生きて……おいでとは」

「貴様もな。大方、ここの漁師に餌付けされたか。肉付きが良い」


 鞍馬の息が上がる。戦闘に注いでいた集中が途切れ、身体が甘え始めた。


「クハハ。そう畏まるな。欲を言えば、このカトラスで気づくべきだったが、この顔だ。刃を向けたことは不問にする。何より、猿、貴様は粗相が霞むほどの手柄を立てているからな。何かわかるか?」


 鞍馬は、主人のアンドレを凝視するばかりで、何も答えない。

 アンドレはアンドレで、猿が愚図なのは今に始まったことではないため気にも留めず、思惑を語り続ける。


「私に従うよう、漁師に伝えろ。貴様の言葉なら、どれだけ愚鈍でも聞き入れるだろう」

「……何故、従う必要が」

「何故? 何故と言ったか?」


 アンドレの中の怨讐、海難坊の側面が荒ぶった。


「俺と船を共にしていた貴様が何故だと? 忘れたか。俺の船が沈んだのも、俺がこうなったのも、貴様がここに迷い込んだのも、全ては有馬晴信が我が身可愛さに、マニラの暴動の罪を俺に押しつけたせいだ。この国の役人どもまで結託してな」

「それと彼らは無関係です」

「違う。ここは有馬の領地。聞くところによれば、漁師に限らず、領民は皆、有馬の悪政に苦しめられているようだな」

「人狩り……」

「ああ、形は違っても、俺たちに向けた逆恨みと根は同じだ。わからんか、一連の被害の根幹にあるのは有馬の暴虐だぞ」

「決起を促すおつもりですか」

「あの暴君を野放しにはできん。内輪揉めだけならまだしも、現に有馬は我がポルトガルに歯向かったのだぞ。奴を葬らねば、将来に渡って脅威になりかねん。俺なら奴を葬れる。人手不足が頭痛の種だったが、これはこれは、おあつらえ向きじゃないか」


 これ見よがしに、集落に隠れ潜む浜の衆を誇示する海難坊。


「人事は、復讐の道を助けている」


 火の海を従え、燃え盛る灯りに照らされた海難坊は、妖気を纏うかの如く笑う。

 人をかどわかす言霊に乗せた妖気は、重みを得たように圧を持つ。恐るべき主人を前にして、鞍馬は目を伏せ、上がった息を整えた。頭巾の冠を解き、それで額から流れる血を拭い、傷に当てて鉢巻のように巻き直す。

 にわかに、鞍馬を囲む景色が鮮明に見えた。辺り一面、焦熱地獄と死屍累々。それらは決して、浜の衆が望んだものではない。

 深い呼吸を一つ、全身に巡らせる。変わり果てた潮の臭いが、声の小さい者の慟哭を思わせる。

 指先まで凍えるようだったが、身体の内に熱が湧く兆しを、確かに感じた。

 熱が、山刀を、隕鉄を強く握らせる。

 熱は衝動となり、隕鉄に宿り、その刃は主人の亡霊へ向けて放たれた。

 投擲を辛うじて太刀で退ける海難坊。その隙に鞍馬は、斃れた侍の刀を拝借し、力任せに相手へ振り下ろす。鍔迫り合いの力勝負、海難坊は受け止めながらも、たじろいだ。

 互いの刃に息がかかる距離に、顔が迫る。


「あなたも領主有馬と同じだ」


 静かに怒りを燃やす鞍馬に、表情を失った海難坊は険しくなった。


「この死体の山は何だ。この浜の有り様は何だ。人手が欲しい? 暴力を振るいたいだけだろう。復讐心を満たしに」

「主人を疑うのか、奴隷風情が」

「答えろ、カピタン・モール」


 海難坊は刃を跳ね退け、太刀の切っ先を鞍馬に向けて、唾を飛ばす勢いで声を荒げた。


「貴様に口出しされる筋合いはない。どんな馬鹿も武威に屈する。未開の地で手下を得るには打ってつけの手段だ。貴様も良く知っているだろう。そもそも暴力は、貴様ら猿どもが好む手段だ。貴様の部族が何をして、何に負けたのか、忘れたとは言わせん」


 瞬間、鞍馬の脳裏に、幼い頃の記憶の数々が蘇る。

 一族が負け、奴隷商に売られる前。父の武功に、何の疑いもなく憧れた頃。

 常勝無敗の父は、戦いの帰りに、多くの人を連れて帰った。両腕が縛られ、太い枝の首枷で連珠にされた人々の行列。

 父に負けた部族の末路だった。

 海から来る白い人の奴隷として売られるか、その時が来るまでは鞍馬の一族に尽くすことを余儀なくされる。

 かつて鞍馬は、父のように強くなりたいと無邪気に願いながら、小さく丸まって許しを乞い続ける奴隷の男を、容赦なく棒で突き、殴り続けたことがある。

 本音を言えば、楽しかった。

 幼少の頃の常識、生活の一部。今の今まで当たり前だと思い込んで、思い出しさえもしなかった記憶。

 鞍馬は己に愕然とし、また同時に、憑き物が落ちた心地になった。


「……そうだ。私たちは、取り返しのつかないことを、数えきれないほどやってきた。それに気づいた今からでも、改めていくべきなんだ」

「……一体、何の話だ」

「もう遅いかもしれない。それでも、この国の人に混じり、人並みに生きてみるんだ。アンドレ・ペソア」


 炎の爆ぜる音と、波の音ばかり。

 それ以外は恐ろしいほどの静寂に、かたかたと震える太刀が、海難坊の湧き上がる怒りを代弁していた。

 主人に向けた口ではない。また指図し、敬意の欠片もない口調だった。

 ただ、できるだけ対等であろうとする姿勢が、鼻についた。


「そう言えば、私の船に止めを刺したのは、貴様だったな」


 見据えるは、果たすべき復讐のみ。

 復讐に必要な条件を揃えるためならば、己の記憶すら偽って、偽りを心から信じて口にする海難坊。その思考は最早、怨念に憑りつかれ、一貫していなかった。

 言葉はもう届かない。

 武器を構え、両者が衝突しようとする。


「鞍馬ア!」


 突如、海難坊の背後から雄叫びが襲いかかる。

 海難坊は即座に振り返り、太刀を横薙ぎに振るう。が、切っ先に固い感触。表面を撫でるように振り抜くも、不意打ちに来た者は無傷だ。

 頭と胴を鉄鍋で護った権兵衛だ。

 太刀を振り抜いた隙に、権兵衛は、ふくから借り受けた鳶口を、海難坊の脳天目がけて振り下ろす。

 しかし、その一撃はカトラスが払い、権兵衛は腹に蹴りを刺され、突き飛ばされる。権兵衛の傷口に潮を帯びた砂が入り、苦痛に悶えた。

 徒労に終わった襲撃だが、本命がその脇を通り過ぎる。

 錫杖の槍。それをふくが持ち寄り、鞍馬へ投げたのだ。

 前のめりになって背中を晒すふくへ、海難坊は太刀を振り下ろそうとする。

 だが、凛とした遊環の金属音と共に、太刀は真っ二つに折れる。刀も山刀も捨て、両手で錫杖の槍を持った鞍馬が繰り出した鋭い突きの前に、激戦を経て傷ついた太刀が耐えられなかったのだ。

 槍を引いた鞍馬が次の突きを放つ。だが、海難坊は再び槍を踏み躙り、隕鉄の刃は砂に埋もれた。

 だが、刃は着脱式である。錫杖に捻りを加え、引けば分離する。

 最後の刃が蓑に残っている。錫杖の先をそれに刺し捻る過程で、錫杖が鞍馬の脇腹の銃痕に当たって生じた隙は、海難坊のカトラスが届くには十分であった。

 ふくが伏せて、海難坊の足に縋りついてさえいなければ。

 今度は海難坊が良い的になる。錫杖に装着された隕鉄の刃、両手持ちの力を乗せた一突きは、カトラス如きが払っても相殺できないと思われた。

 それでも咄嗟に、海難坊はカトラスを穂先に打つ。

 金属の割れる、甲高い音が響いた。

 槍の穂先が割れる。

 隕鉄の刃は、宗治郎の銃撃で脆くなっていたのだ。

 必殺の一槍が徒となり、海難坊は太刀を捨てて空いた手で錫杖を掴み、鞍馬の首へ目がけてカトラスを突き立てる。

 たまらず錫杖を手放し、鞍馬は前に身を躍らせ、回転して受け身を取る。海難坊の手に渡った錫杖は、ふくの手を殴打する。手の骨が折れる感覚に、さしもの負けん気も引いて、ふくは足の拘束を解いてしまった。


「アンドレェ!」


 鳶口を拾い、鞍馬が雄叫びを上げて突撃する。

 両腕で構え、頭上に振りかざした鳶口は、海難坊の首を狙う。対する海難坊は、中腰にカトラスを持ち、胴を支えにして、お互いの体重と勢いを乗せた刺突で迎え撃つ。

 鳶口の武器性能は、著しく低い。

 殺傷能力を持つのはワシの嘴大の鉄鉤の一点のみ。大振りで振り回さなければ突起は致命傷を生まず、突いても、僅かな鉤部分を外しても、棍棒以上の打撃は与えられない。

 僅かでも狙いが逸れたが最後、致命的な隙を生むのだ。

 鳶口の形状から、海難坊は致命的なその欠点を看破していた。

 故に、限界まで接近し、カトラスは腕ごと突き出す。距離感が乱れれば、鳶口の先は命中しない。

 先に敵へ凶器を見舞ったのは、海難坊。そのカトラスが鞍馬の腹を捉え、穿つ。刺したカトラスを捻り上げ、致命の一撃へ昇華する。

 遅れて、片手に持ち換えて間合いを伸ばした鳶口が、海難坊の頸を打つ。

 両者、衝突の勢いが余り、すれ違う。

 死闘の激動の後、束の間に静止する二人。

 永遠と思える静けさに、風すさぶ。

 カトラスを根元の限界まで刺した海難坊は柄を手放し、反して鞍馬は最後まで鳶口を放さず、鉤は傷を抉って引き裂き、頸動脈を断裂させた。

 海難坊の首から、おびただしい血の噴水が上がる。

 血を失う毎に痙攣を激しくする海難坊の、水っぽい叫びが天に向く。血を吹く傷口を押さえ、海難坊は苦悶に倒れ伏した。

 鞍馬が膝から崩れ落ち、肩で息をする。


「鞍馬!」


 身を案じたふくと権兵衛が、満身創痍の鞍馬の下へ、這う這うの体で身を寄せた。

 深く刺さったカトラスが痛々しい。どうしようもできず、慌てるばかりの二人の前で、ずるりとカトラスが落ちた。


「これ……」


 二人は言葉を失った。

 カトラスが抜けても、否、刺さっていたにも関わらず、鞍馬の白装束は血で染まる様子もない。カトラスの刃先は、懐に仕舞っていた法螺貝の笛が食っていた。

 カトラスは、法螺貝の口に噛んで、肉体に届いていなかったのだ。


「鞍馬……良かっ……」


 ふくは、言葉の続きが出なかった。しゃくり上げが邪魔をして、涙が止めどなく溢れて、両手では拭いきれなかった。

 鞍馬は、そんなふくを黙って抱き寄せて、子供をあやすように頭を撫でるのだった。


「良かところば、全部持ってかれてしまったのう」


 鞍馬以上に深い傷だらけの権兵衛が、強がり混じりに言った。

 鞍馬が頭を下げて詫びる。


「申し訳ない、遅くなって」

「いや、よく戻ってくれたったい、鞍馬どん。……立てるか」

「足が震える。恥ずかしながらきつい」

「わしもじゃ」

「ぐす……ふ、ふん。仕方なかとね。このおふく様が、大の大人二人に肩ば貸してやるったい」

「面目なか……。しかし、鞍馬どん、あの男ばどうすっとね」


 必死に出血を押さえ、悶える海難坊。砂浜に広がる血潮の赤が、彼に残された命を告げている。


「残念だけど、もう助からない。放っておいても危害はない。……それより、怪我人の手当てを……。つっ、私も、また世話になって良いかな」

「勿論ったい。じゃけど、鞍馬どんの手当ては最後じゃ」

「えっ」

「黙って浜ば出てった罰じゃ。我慢するんじゃ」


 ぐうの音も出ない鞍馬。

 軽口は零れても、笑いはなかった。すっかり荒れて、変わり果てた浜は、ようやく嵐が一つ過ぎ去ったばかりなのだ。

 ふくに支えられ、三人して集落へ向かう中、鞍馬は死にゆく元主人へ思いを馳せた。

 教化の裏で、他民族の奴隷化を同等以上の熱量で推進するポルトガル。敵対する部族を下し、奴隷として使役する故郷。付け加えるなら、この国で起きた乱妨取り。

 国は違えても、己の下に人ならざる人を置きたがる者は、どこにでもいる。

 立場や経緯が違えば、首から血を噴いていたのは自分の方かもしれない。

 鞍馬は、自戒を込めて、深く心に刻むのだった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 怪我人の手当てと、一通りの消火活動を終えて、集落の再建に大工仕事の音が飛び交う浜。

 ようやく死者を弔う余裕も出た折に、ある報告が上がった。


「アンドレ・ペソアの遺体が見つからないだと?」


 侍唯一の生き残り、岩永勝将が聞き返す。

 銃痕の包帯を換える折、力みすぎて傷が痛んだのか、岩永は身を縮めた。手当てする浜の者は呆れながら包帯を換えた後、バシッと傷を叩いて喝を入れた。

 情けない姿は意地でも見せまいと、岩永は歯を食い縛って話を続ける。


「詳しい状況は」


 浜の衆曰く、おびただしい量の血溜まりに、特徴的な包帯の者の影も形もなかった。ただ、燃える松明が血の中心に置き去りにされていた。

 別の者は、漁舟が一艘だけ足りないと言う。

 遺体はともかく、舟は騒動の中で流されたとも考えられる。だが。


「ペソアは松明で傷を焼いて塞ぎ、逃げ延びた……とは、でき過ぎか」

「苦しかあまり、火に身投げばしたんではなかとですか」

「焼けた仏の中に紛れている、か。あり得なくもないが……。いずれにせよ、話に聞く傷の具合で、碌な得物も残っていない。再び襲われることは、ないだろう」

「だと、良かですが」

「案ずるな。あれは独りで何かを成せる玉ではない。それに、これで筋書きも決まった」


 日野江の侍衆が進物を募りに浜へ訪れた時のこと。

 奇しくも、浜は海賊の襲撃を受ける最中だった。

 侍衆が総力を挙げて海賊を追い払うも、被害甚大にして生き残りは岩永のみ。

 海賊は今も近海に潜んでいると思われ、装備も尋常ではなく、警戒が必要である。

 よって、進物を募るどころではなく、領地の守護、監視に当分は人手を割かざるを得ない。

 それが、岩永の描く、事の顛末。そして、領主の蛮行に歯止めをかける策であった。


「そげん上手か話が通るとですかね」

「天狗に負かされ、天狗に救われた。今後、某の生涯に如何なる波乱が待とうとも、それを凌駕することはあるまい。万事上手くいなそう。岩永の名にかけてな」


 根拠のない自信だったが、堂々たる振る舞いに、浜の衆は一時の安堵を覚えるのだった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 身支度を整え、鞍馬が焼山の麓に立つ。

 深編笠程度ならすぐに用意できたが、割れた仮面と隕鉄の刃の一振りだけはどうしようもなく、残骸を笈に仕舞っている。

 旅の道連れに、侍から拝借した青毛の駿馬。

 山火事が鎮まるまで大人しく待ち、無理をせず休んだ賢い馬だ。脚の具合は見た目ほど酷くなく、歩く分には異常は見られない。しばらくは連れて歩くに留めて、馬子なり医者なりを探して診せる予定にしている。

 その一人と一頭を見送るのは四人。ふく、権兵衛、三浦、法然である。


「鞍馬どん、もっとゆっくりしていけば良かね」

「そうじゃ。怪我も満足に治っとらんじゃろ」

「皆、かたじけない。浜の再建、最後まで手伝いたいけど……やっぱり、私は余所者だから」

「誰も余所者ば思ってなかよ」

「そりゃ浜の中の話や。わしも言うたやろ。理由は知らんが人探しが嗅ぎつけとるって」

「そうだね。今回ばかりは和尚様の言う通りだと思う。また今回みたいなことにならないとも言い切れないからね」

「鞍馬どん」


 寂しげに目を潤ませるふくに、強く引き留められている感覚を覚える鞍馬だが、頭を振った。


「今度は、ちゃんとお別れする。烏天狗の良い噂、きっと流れるように、良いことして旅をするから。噂が便りの代わりと思って」

「ほれ聞いたか。漢が覚悟しとんのを引き止めるんが良い女か? ん?」


 余計な茶々を入れる法然の髭を掴んだふくは、それを思い切り上げて吊るし、ほどほどのところで放した。

 ふくは鞍馬の傍に寄り、懐から火打石を取り出した。鞍馬に右肩を降ろすように願い、そこにカチカチと火花を散らした。


「切り火じゃ。旅路の厄除けにする願掛けったい」

「……カタジケノウゴザイマス」


 鞍馬はおどけて、最初に口にしたように、その言葉を贈る。

 ふくも皆も、何だかおかしくなって、口々に笑い出した。


「達者での、鞍馬どん」

「おたっしゃで、おふくさん、権兵衛どん、三浦先生、和尚様。皆にもよろしく伝えて」


 鞍馬が馬を連れ、燃えて開けた山を越えて行く。

 見送る四人は、その姿が見えなくなるまで、名残惜しそうに見送り、鞍馬もまた、道中何度も名残惜しそうに振り返る。

 この浜にいる誰もが、似た者同士であった。

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