第9話 天狗令聞

 ある島に、一本桜を植えた無人の屋敷がある。

 桜の根元には、自然石を積んだだけの無記銘の墓標が二基、静かに寄り添うように建っている。

 最期の最期に交わることのなかった夫婦、伝三と白菊の墓。

 二つの墓に対して、香炉は一つ。線香を上げて拝むのは、かつて夫婦により海難坊から解き放たれた娘である。墓も香炉も、二人を弔った娘が、せめてもの供養にと用意した物だった。

 島の鼻つまみ者だった夫婦である。他に供養する縁はなかった。

 決して裕福ではない島の生活で、やっと用意できた質素な香炉。仏の数だけ用意できず、娘は忍びなく思ったが、どうか仲良く香を分かち合って欲しいと願いながら、二人の冥福を祈る。

 満開の桜が散り、根元に散りばめられた花弁の淡いこと。

 島の片隅に、極楽浄土が降りたようだった。


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 慶長一六年、西暦にして一六一一年。

 ポルトガルの使者が駿府に赴き、家康に加え、時の将軍徳川秀忠に謁見。

 使者は、アンドレ・ペソアが対応したマカオ騒擾事件についての弁解を始め、沈没したノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の損害賠償、長崎奉行の罷免を要求する。

 しかし、肝心のアンドレは死んだ。

 死人に口なしとは、幕府の目論見通りである。一連の責任は全てアンドレにあるとして取り合わず、ポルトガルに貿易再開の許可を与えるに留まった。

 ジョアン・ロドリゲス、ポルトガルの有力な仲介者であった男の追放もあり、ポルトガルの発言力が弱まるのも、むべからぬことであった。

 ロドリゲス司祭の空席を埋めたのは、イングランド人のウィリアム・アダムス。

 幕府にプロテスタントの息がかかるようになり、キリシタンは急速に幕府への影響を失うこととなる。

 しかしそれは、歴史の本文に過ぎない。


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 一方、ダ・グラサ号事件を通じて利権を争う二人。日野江領主有馬晴信と長崎奉行長谷川藤広の関係は険悪の一途を辿る。

 家康に伽羅を献上した有馬を快く思わない長谷川が、イエズス会と対立するドミニコ会に接近し、有馬の貿易利権の脅威となったのだ。

 また、失地の回復を期待して家康に尽くした有馬だが、いつまで経っても悲願の成就が叶わない。その焦りに付け込み、岡本大八なる人物に唆された末、長谷川藤広暗殺の嫌疑をかけられて流罪に処せられた後、切腹を命じられる。

 ほんの些細な失言が引き金となった嫌疑。言った言わないの無益な弁解に陥り、うやむやになりそうな嫌疑であるが、有馬は尋問の末、暗殺の意図を認めている。

 尋問がそれほど苛烈であったか。

 そうでなければ。

 有馬晴信の所業は、人攫いの逸話が残るほどのものである。幕府はそのような人身売買を認めぬ一方で、日本人奴隷の輸出は、日野江藩に限らず、南蛮貿易に着手する西国他、諸侯にとって重要な収入源でもあった。

 やり過ぎた有馬を裁き、同時に程々を弁える諸侯に釘を刺す。そのためだけに、奴隷貿易を名指しで罰するのは、さしもの幕府も気が進まない。それに、有馬も白を切るだろう。

 前者の不具合は、別の罪を作り上げれば解決する。だが、後者の不具合は、有馬の罪を知る者の証言が必要だ。

 歴史に真実はなく、膨大な記録が伝わるばかり。

 ただ、この物語には、岩永勝将がいる。

 歴史が問わず、また人に語られず、時と共に姿を消す者たちの活躍。それを信望するのは過ぎたることだが、夢想するのは、悪いことではないだろう。

 これは、歴史の与太話に過ぎない。


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 賑やかな港町に、剣呑な居酒屋がひっそりと建っている。

 その店主の前に、とんと一合枡が置かれた。中に黒い液体が注がれていて、柑橘の何とも爽やかな香りを漂わせている。

 自信ありげにそれを出したのは、マムシとカワズの落ちぶれ盗賊二人組。


「そいつで湯かけを食いねえ」


 マムシのツケは、人身二人分まで膨れ上がっていた。

 なのに、何を偉そうにと店主は思いつつ、手ずからクジラの湯かけを用意し、その黒い液につけて一口試してみる。

 店主の目の色が変わった。


「何ね、これ」

「南蛮人のポンスに、醤油と酢を混ぜたんだよう」

「人呼んでポン酢よ。どうでい、合うだろう」

「ああ、こりゃあ合うどころか……がばい旨か。酢味噌より良か」


 店主の反応に、二人組は手応えを感じた。見合わせた顔は、示し合わせたように大成功の笑顔だ。


「このポン酢、しばらく、親父の店に独占させてやらあ」

「本当か」

「おやおやおや、食いついたねえ、親父」


 マムシはカワズに算盤を催促し、片手で器用に弾く。


「ひとまずツケ分は卸すとしてだ、ポン酢一升、これでどうでい」


 店主とマムシの算盤合戦はしばらく店の賑やかしになった。

 二人のポン酢商売が東征し、フグ料理と出会って一財産築くのは、また別の話。


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 隻眼の二つ名で呼ばれる、凄腕のクジラ漁師がいるという。

 命知らずの突貫で、クジラの巨体に銛を突き立て、その背に乗って滅多刺しにするのだと言う。

 クジラを必ず仕留めるその男の名は、権兵衛。

 あるいは名無しにも聞こえるその名は、半ば生ける伝説と化して、まことしやかに津々浦々に伝えられたとか、いないとか。

 その帰りを浜で待つ、ハイヤ節の調べ。

 細腕で、愛おしそうに赤子を抱くふくが、我が子を寝かしつけているところだ。


「おふくさん」


 ひそひそと呼んだのは、三浦だ。

 ふくの出産後、母子の様子を常に気にかけてくれていた。

 三浦はおっかなびっくり、両腕に抱かれた赤子の様子を窺う。


「気持ち良さそうに寝ている。元気そうで良かった」

「旦那が張り切っとるったい、がばい稼いでくれるおかげ様じゃ」

「すっかり家族が板についたもんだ。はいこれ、今日の分。ちゃんとね」


 薬を渡して、三浦がその場を断とうとした時、ふと思い出したように口を開いた。


「そう言えば、求菩提山の噂、聞いてる?」


 修験道の霊山、求菩提山。

 その一角を担う犬ヶ岳は、いつしか山賊が住み着き、人々は頭を悩ませていた。

 そこに、青毛の馬に乗った烏天狗がふらっと現れて、山賊を全員のしてしまったのだという。

 それだけに留まらず、山賊たちに、自分たちが荒らした村々を直させ、山道に石段まで積ませたのだ。

 おかげで山伏の行脚も戻り、改心した山賊たちも加わって、大きく賑わいを見せているというのだ。


「そうかい……」


 風の噂に、懐かしい影を重ねるふく。

 烏羽の蓑を背負った天狗の令聞は、浜に生きる彼女たちの希望となって照らすのだった。


「達者でやってるんだね、鞍馬」


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 蛇足であっても語らねばなるまい。

 五島列島の遥か南、八丈島には、海難法師の伝説が残っている。

 島民らに謀殺された悪代官が、悪霊となって海から戻る言い伝えの起こりは、寛永五年、西暦一六二八年にまで遡るという。

 鞍馬の漂着から一八年後に起こる伝説は、単なる伝承か、事実にある偶然が重なり、悪霊伝説と関連づけられたものなのかは、やはり歴史の与太話である。

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