第7話 烏天狗

 山中に轟音の木魂。風が運ぶ焦げ臭さ、風上は来た道を辿る方角にある。

 鞍馬は悪い予感がして、見晴らしの良い場所へ急ぎ、空を見上げて愕然とした。

 遠眼鏡を出すのはおろか、深編笠や烏面ですら外すまでもなかった。浜の方角で、尋常ではない規模の黒煙が上がっている。

 身体の末端まで見る見る冷えていき、鞍馬は焦燥する。

 気づけば、その足は山を下り、街道へ出て、浜へ走り戻っていた。

 烏の黒羽の蓑が風を受けてたなびき、腕振りに邪魔にならぬよう、錫杖は後ろ手に構え、全走力で。

 黒煙、つまりは火事。範囲からして山火事か、集落に広がる大火事。

 鞍馬が浜を発ったその日の出来事である。偶然とは考え難い。しかし、頭の中で浮沈する記憶と、鞍馬自身の常識とを動員しても、火の手が上がるまでの納得できる筋書きまで紐づけられなかった。

 山で身を隠す道中、馬に乗った侍の姿を街道に見た。

 例えば彼らが、鞍馬の想像通りの追っ手だとする。鞍馬を強引に燻り出すなら火の一つも用いるかもしれない。しかし、あの入道雲かと見紛う黒煙からして、火を着けたとしても、集落諸共消しにかかっているとしか考えられない。

 たった一人、南蛮人の船から落ちのびただけの鞍馬を討つにしては、悪戯に損害を広げてしまう手口である。

 鞍馬が浜を離れたと知り、その人情に訴えかけ、おびき寄せるための策だとしても、やはりやり方が強引すぎる。

 浜の衆が鞍馬の気を引きたいばかりにしでかしたなど、考えることすら許されない。

 ただ確かなことは、恩人たちに迫る危機を見捨ててはおけないことだけ。鞍馬のその心情を利用した罠だとしても。

 それだけで、別れを心に決めた場所へ、疾く戻る理由たりえた。

 道に刻まれた蹄の跡を、己の足で踏み越えて行く。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 黄泉ツ丸が浜の舟着き場まで目前と迫る折、先刻の激しく一方的な砲撃から一転、不気味なまでに静かな様相を呈していた。

 浜には、黄泉ツ丸の現在位置に対して垂直になるよう横転させられた漁舟が並び、その陰に侍とも百姓とも知れない者が身を寄せて、怯えたカニかフナムシのように隠れている。

 見張り台の報告を受け、宗治郎が海難坊へ伝える。


「火消し、家財の搬出に回っている漁師はごく一部の模様です。やはり、多くは侍どもの傍におります。こちらの目的に気づいているものと」


 報告を耳に入れているともしれない一心の海難坊は、不乱に遠眼鏡を覗いている。

 黄泉ツ丸を駆る玄海水軍の目的は、水軍の有用性を示すことにある。有馬晴信の悪政、乱妨取りを白日の下に晒し、水軍潰しの過ちを徳川に認めさせる。したがって、証言者を生きたまま連れ出す必要があった。

 その際に、多少は身元不明の者が乗組員に紛れるかもしれないし、それが人買いに流れることもあるかもしれない。水軍の維持は、朝日を西に昇らせてでも優先しなければならないことだった。

 いずれにせよ、焙烙火矢で逃げ道を塞ぐことはできても、それを誰が紛れているとも知れない群衆へ向けて、不用意に放てはしない。

 だが、それは玄海水軍の目的に過ぎなかった。

 石や鍋に陶器や灰などを忙しなく運ぶ漁師たちを遠眼鏡に映す。海難坊の吐息が歯に当たり、スーッと鳴った。


「埒が明かん。大砲を放て。舟の一つでも砕けば怖気づこう」

「なりません。最早、上陸し、刃を交える他ありません。出来高を減らす真似は避けるべきかと」

「有馬に意趣返しができればそれで良い」


 海難坊、アンドレ・ペソア、カピタン・モールである彼の目的は、似て非なるもの。

 宗治郎からして、海難坊は強行ながら天性の威厳を持っている。彼ら玄海水軍ですら、一見の海難坊に熱狂した。難はあるが、頭領に相応しいとも。黒船を落とした手腕は漢たちを虜にして見せた。

 しかし、有馬の名を聞いた彼は、アンドレであったことを、宗治郎らは知らない。

 水軍の利に反することを平然と言いのける海難坊への違和感に、宗治郎は戸惑った。


「ですが、それだけでは」

「見ろ、宗治郎。舟を盾に隠れて一歩も動けずにいる奴らを見ろ。暴君有馬の手勢を削る好機に見えないか」

「左様です。しかし」


 尚も食い下がる宗治郎に、アンドレはカトラスを抜き、宗治郎の鼻先に切っ先を当てた。

 微動だにできない宗治郎を、アンドレが覗き込む。瞳に映るのは依然、海難坊。


「殺し、殺されが好きか」


 向けられたのは権力、害意。宗治郎は、声も出せない。

 波を越えて踊る船上。角度の変わるカトラスの刃が、陽の光に煌めく時は、一瞬にも永遠にも思えた。

 が、その時間は、海難坊が刃を納め、終わりを告げた。


「それも良い。勇猛なことだ。好きにしろ」


 海難坊はあっさりと意向を翻し、総員に上陸の準備を通達して回る。

 宗治郎は鼻先に残るカトラスの幻覚から、鼻を守って立ち尽くしていた。帆を満たす風の音、波を切り進む木造の船体、波音、軋み、船体の揺れに伴い動く積み荷が何かにぶつかる鈍い音が、やけにはっきり聞こえた。

 不意に、異音が上がる。

 右舷に鈍く固い音、微かに木の繊維の弾ける気配、間髪置かず波切りとは違う湿った音。

 浜側から、飛来物と思い至り、遠望する。空に黒い点を見つけ、間一髪で宗治郎は避けた。拳大の石が甲板に転がっている。


「印地か! 印地だ、物陰へ! 置盾も出せ!」


 視認した物がそのまま宗治郎の喉を通り、警告を響き渡らせる。

 水軍衆がすぐさま帆柱や物陰に隠れた直後、一つ、二つと、船体や水面を投石が叩く。

 印地とは、投石を指す。拳大の石を手ぬぐいなどで包み、手首を利かせて振り回し、遠心力で投擲する。命中精度の悪さを抜けば、調達は容易、殺傷力は矢を凌ぐ。漁師を加えて数に物を言わせれば、これ以上の脅威はない。


「見張りや弓引きは何を見ていた!」


 宗治郎の怒号を意に介さず、次々に飛来する石。その質が変わり、ひび割れる音がしたかと思えば、むせ返るような行灯臭さが広がる。

 投げ込まれたのは徳利などの口の小さい陶器。口を水で捏ねた灰で塞ぎ、中に液体を湛えた陶器が次々と船の横腹に当たり、内一つが甲板へと投擲され、割れて中身を撒いている。液体は高温で、運悪く被った船員は火傷に苦しんだ。

 灯りに使われる、鯨油特有の臭いが拡散する。


「弓と筒を放て! 休まず放ち続けろ! 油の次は火矢が来るぞ! 砲撃用意!」


 船体炎上の予感を宗治郎が察知する前に、海難坊の指示が飛ぶ。

 物陰に身を隠した水軍衆が、即座に命令を遂行する。


「油の近くの者は弓を使え、火の気は避けろ! 相手は侍だけではない! 漁師一人まで我らの船を沈め得る猛者だ! 玄海水軍の総力を挙げて臨め! イノシシどもに誰に牙を剥いたか教えてやれ!」


 長きに渡る雌伏の時を、牙を研ぎながら潜んでいた玄海水軍衆。思いも寄らない攻勢を示した相手を前にして、久方振りに血が滾った。奇襲で落とした黒船も、取るに足らない腰抜けばかりが乗っていた朱印船など、比べ物にならない高揚が、鬨の声として海難坊へ捧げられる。

 矢と弾の幕が、浜に倒れた舟の置盾へ絶え間なく降り注ぐ。予見した火矢は確かに船へ飛んで来たが、弾幕の中では狙いが甘く、油には届かない。

 しかし、印地の手は止まず、油入りの陶器が次々と投げ込まれ、船の急所はじわじわと広がって行く。

 船と浜、飛び道具の応酬が続く。双方で一人、また一人と凶弾に倒れていく最中、宗治郎の正面に海難坊が立ち、海難坊は僅かに身を屈めて、宗治郎の顔を覗き込んだ。


「どうやら出来高を減らさねばならんらしい。残念なことだ」


 そう言い捨てて、宗治郎の下を去る海難坊。

 途中、死角から飛来した火矢に、海難坊は一瞥もくれずカトラスで両断し、燃える鏃を踏み躙る。

 熱気に狂乱する戦場で、宗治郎は一人、薄ら寒さに震えた。

 そもそも、焙烙火矢で侍の退路を断つなど、やりすぎだった。黒船に勝ってから勢いに乗り、血の気が盛んになっていたのは否めなかった。

 しかし冷静に省みれば、撤退を促し、楽に漁師らの身柄を得ることもできた。だが現実は、背水ならぬ背火の陣にて、侍は漁師らと結託し、徹底抗戦の構えである。

 海難坊は遠眼鏡を覗いていた。聡明な海難坊のこと、浜側の兵法の予見は容易だったはずだ。事前に弓なり筒なりで牽制をしていれば、船に油を撒かれることも、ここまで大袈裟に火矢を恐れることもなく、ここまで切羽詰まることもなかったはずだ。

 あえて、玄海水軍に牽制を指示しなかったと考えれば。

 玄海水軍の総力を挙げざるを得ない状況を作り、海難坊の望む虐殺を成すために。

 玄海水軍の目的から外れた、ただ私欲を満たすだけの行いを。


「おのれ、我らを謀ったな海難坊!」


 その真意に思い至り、宗治郎は刀を取る。いついかなる時でも海難坊を倒した者を頭領と認めるとは、当の海難坊の言である。宗治郎は、堂々とその宣言に乗ったのだ。

 しかし、海難坊は背を向けたまま、一瞥もくれず浜を指す。


「火矢が来るぞ、宗治郎」

「戯言を!」


 刀をかざし、今にも海難坊へ振り下ろそうとするよりも速く、海難坊は振り返り、即座に宗治郎に身を寄せ、刀の柄頭を押える。

 宗治郎が身じろぎする間もなく、風切り音を海難坊が掴んだ。

 宗治郎のこめかみを目がけて飛んで来たそれは、浜から射られた火矢に他ならない。油の染みた布が巻かれ、行灯の臭いを撒きながら煌々と燃える矢に、宗治郎の毛先が少し焦げた。

 海難坊は、その火の熱で宗治郎の顔を撫でるように矢先を運び、宗治郎の目の前で止める。

 戦闘中にあって、二人は嫌に静かな時を共有する。

 ようやく、海難坊が呟いた。


「三つ数えたら、今、この場で、この矢を手放す」


 今、二人の足元、甲板は熱された鯨油に塗れている。


「長の座を取るか、お仲間の船を取るかだ。選べ」


 矢先に灯る火の向こうに、海難坊の像は亡霊のように揺らいでいる。

 一も二もなく、宗治郎は海難坊から奪うように火矢を取り、船縁に身を乗り出して、燃え朽ちかけたそれを船の外に投げ捨てる。

 海が火を消し去るまで、矢を見届けた宗治郎に、背後から気配もなく海難坊は肩に手を置いた。

 そのまま耳元へ、かすれ声が囁いた。


「お利口だ。だが、折角守った船を、陸の連中は容赦なく燃やしてくる。しっかり守ってやれ」

「……この船は、貴様の私物じゃない」

「そうとも。航海は一人では成らん。伝三郎の遺志を継いだ私が魂で、貴様らが四肢。衆を束ねて初めて黄泉ツ丸となる。総意に従え、宗治郎」

「……その総意、事が済めば問いただすぞ、海難坊」


 海難坊は去れど、肩に乗った手と、耳に囁きの感触が絡みついたまま離れない。

 大砲が浜へ向けて放たれる。火矢の一本は海が消しても、加熱する戦意を鎮める術も、それを成せる者も、最早、海中を探せど見つからない。

 黄泉ツ丸は、火の山へ向けて進み続ける。


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 武装した海賊を返り討ちにする、浜に残された唯一の糸口。

 季節外れの捕鯨で浜にもたらされた、有り余るほどの鯨油である。

 炊いて着火しやすくした油を、古着や紙、綿に浸して、侍の矢に括りつけた即席の火矢。それに、油を詰めた徳利に、水で捏ねた灰で蓋をした油壷の投擲を合わせる。

 油壷に灯芯を挿して着火し、火炎壷にはしなかった。有り合わせの日用品で作った武器など、火急の場であっても信用がない。事故で浜側が全滅しては笑い話にもならない。

 そこで先に油壷を投げ、そこに火矢を浴びせる。手間だが、上手くいけば船の広範囲に延焼し、襲撃どころではなくなるだろう。

 矢の数が限られた中にあって、現状で最も木造船に有効打を与えやすい方法だった。船体は勿論、帆に的中すれば燃え広がって船足が落ちる。また、消火活動に割いた人手の分だけ攻撃の手が緩むため、浜側の守りにも繋がる策である。

 浜一帯に、煮えた鯨油の行灯臭さが漂う。

 黄泉ツ丸の玄海水軍にしてみれば厄介なことこの上ない。誰かが顔を出す度、船員は構えた筒や弓を放つ。が、浜の侍が火矢を一発放てば、置盾代わりの舟に隠れてしまい、射撃が通らない。

 射程内とはいえ、遠距離であれば命中率は勿論、弾速が落ちて、命中したところで殺傷能力は限られる。威力が減衰した鏃、鉛弾はもちろん、十分に水気を吸った舟底には火矢も満足に効果を発揮しない。

 焙烙火矢や大砲であれば余裕で通るだろうが、玄海水軍には手の打ちようがないはずだった。何故なら、火器の行使は投資も同然で、大きな戦でもない限り、投じた金を回収する見込みがある時か、損害を最小限にする時にしか使用されない。金目の物が期待できない浜に海賊がわざわざ襲撃をかける目的など、人狩りくらいしか考えられないためだ。

 侍たちが陣取る舟の置盾には、これ見よがしに漁師たちが身を寄せている。生け捕りが本分の人狩り、わざわざ獲物を損なうような方法で攻撃するなど、考えられない。

 しかし。

 轟音、大きな揺れと共に、舟の置盾前方で浜の砂が柱の如く巻き上がる。やや遅れて爆発音が、全身を揺さぶられて朦朧とする一同に届き、内、戦に詳しい侍が、砂の雨に打たれながら、その正体に思い至った。


「大砲! 大砲だ! 走れ!」

「いずこへじゃ!」

「いいから!」


 浜の衆に侍少々、機敏な者から誰彼構わず手を引いて、退避したところで、舟の置盾に砲弾が直撃し、何もかもが木っ端微塵になった。焚き火で熱していた油が辺りに飛び散り、引火して一面に火が上がる。

 殿を務める者が戸板の盾を持って避難者の背後を守るが、決して短くない歳月を潮風に晒された戸板は心許なく、矢尻も鉛弾も貫通し、少なからず負傷者が出た。

 周りが退避する中、岩永勝将は最後の一矢に火を灯し、番える。


「攻め手を変えるのに戸惑いがない。成果を捨てる判断にも。厄介な」


 悠長にも見える攻勢に、ふくが心配そうに声をかけた。


「逃げるとぞ、お侍!」

「これが最後! この距離なら当ててみせよう!」


 舟の置盾の陰で火矢を番え、立ち上がり、即座に岩永勝将が最後の矢を敵船へ放つ。

 即座に身を隠し、直後、船縁を弾丸がかすめ、木目を抉る。

 内心、今の射手の腕前は中々だったと感心しつつ、ふくや権兵衛らと示し合わせて、最早安全とは程遠い舟の置盾を放棄し、集落へと避難する。

 家々の陰に隠れた一同へ、岩永が統率する。


「岸に着けば切り込みが来る! 油壷の用意は!」

「鯨ば獲ったばかりったい、飽きるほどある! 松明の用意もあるとぞ!」

「結構! 各々方、海賊どもが間合いに入れば、焦らず投げ続けよ! 当てる必要はない、とにかくばら撒け! 火は某らが着けて回る! 火が阻めば、海賊も迂闊に攻め入られぬだろう!」


 このために、浜の衆に一帯の鯨油を集めさせた。他には投石に松明、網に銛、思いつく限りの物が、舟の陰に隠されていたが、敵の攻め手が思うより早く苛烈さを増して、多くが失われてしまった。

 岩永は、隣に居るふくと権兵衛、他の浜の衆へ、改めて礼を述べた。


「これよりここは死地となる。その方らは後方より助力を願う」


 ふくは返事の代わりに、頭に巻いた手ぬぐいを解いて石を包み、振り回して投げた。石は到着しつつある敵船の船体に届き、良い音を鳴らした。


「ちょろかね」

「すまない。あの海賊の血の気を見誤った。その方らの手出しがなければ、生け捕りで済むはずだったが……最早、そうも言っておれん」

「皆、覚悟しとる。他に行き場もなか。あたいらの浜ば、手前で守る」

「……その方ら、ご領主様の手を逃れるべくして逃れたようだ」

「死ぬんじゃなかよ、お侍」

「その方もな、お人好し」


 反目し合っていた浜の衆と侍衆がまとまりつつある中、とうとう黄泉ツ丸が舟着き場に到着した。

 漁舟を押し退け、波を切る、荒々しい着岸で、古びた桟橋が大きく軋む。

 そこに、異様な風貌の男が甲板から飛び降りた。

 背は成人の男より頭一つ高く、着物から覗く肌は嫌に白い。それ以上に目を引くのは、包帯が巻かれた顔に、隙間から覗く肉の赤。顔の皮が剥がれたように目玉と歯が露わになっており、赤い髑髏を思わせる相貌は、さながら物の怪である。

 物の怪が短剣と太刀を抜き、堂々と名乗り出る。


「有馬の馬鹿殿の家臣ども! 忘れているまいな! マカオの粗相も、幕府との結託で我らを陥れたのも! だが私は戻って来た! 天は我に生きよと、正義は我にありと仰せだ! ここで沙汰を下してやろう! 私はカピタン・モール、アンドレ・ペソアである!」


 その来歴、その名は、有馬の家臣たる侍衆の背筋を凍えさせた。

 動揺が広がる。得物を抜いた海賊らは、心を見透かすかのように、一斉に浜へ突撃する。

 長崎の沖で自決したはずの南蛮人が、恐ろしい風貌で蘇り、祟りに来たようにしか見えなかった。

 亡霊、怨霊、化け物。浮かぶ印象は、人智の及ばぬ者。途端に掻き集めた武器が頼りなく見え、顔を伏せて念仏を唱える者まで出た。


「怯むな! 武器を取れ!」


 岩永が檄を飛ばす。


「化け物などおらん! この世にある以上、刀も矢も石も火も通ろうぞ! 戦う前から折れるな!」

「し、しかし、その方も天狗なぞ恐れておるではないか!」

「天狗とは刃を交えて負けた! 某が恐れるは、あの天狗のみよ! 一度沈めた南蛮人なぞ、恐るるに足らず! 各々方、我らは一度、彼奴に勝っておるのだぞ! 我ら龍造寺を退けし日野江衆、今一度、彼奴を地獄に送り返すなど、雑作もないことであろう! 印地打ちだ! 進攻し、道中拾った石を投げよ!」


 怖気をほぐす言葉選びは古強者のなせる業。岩永の激励一つ一つに感化された侍たちは、寸でのところで持ち直し、自ら鬨の声を上げて己を鼓舞する。

 当の岩永でさえ、怖気は抗い難い。天狗の実在を知る岩永が、亡者然とした者のアンドレを名乗る様を目の当たりにしては、身体の震えも止まらないというもの。しかし、そこでその震えを武者震いに変える術を知る者が、勝ち残る者だとも知っていた。

 恐れを雄叫びで掻き消し、住処を守るのに必死な浜の衆を背に、戸板の盾を構えながら、進攻しつつ投石する侍衆。その後方、家屋を盾にする浜の衆の援護は油壷の投擲。

 敵に命中する物の多くは侍の放った石であるが、数に勝る浜の衆の油壷は着弾と同時に割れ、広範囲に油を撒く。これが加わることで、その威容は敵軍の脅威となる。

 しかし、弓射と比べ、不断の予備動作が必要な投石は、敵により長く身を晒す危険も伴う。船で待機する射手の筒や弓矢は、容赦なく投石手たちを襲い、じわじわと侍の衆に手傷を与えていく。

 練度の高い戦士の数は、玄海水軍側が圧倒していた。

 玄海水軍の一番槍を挙げんと意気込む敵兵が迫る。

 やがて、残骸と化し、油の燃え盛る舟の置盾を迂回しようとした。


「網、網!」


 侍の合図を受け、さすまたの先に吊るした鍋から、油に塗れる網を取る。

 その一番槍を網で迎え撃つ。後続の者まで巻き込むほど広がった網には熱した鯨油を染み込ませており、身動きを封じた集団に向かって、松明が投げ入れられた。

 火は瞬く間に網に燃え広がる。網に囚われた者たちが逃れる術はなく、口々に絶叫を上げる火だるまと化す。

 そこに、砂浜の油壷が仕事をする。海賊を焼く火は更に燃え広がり、壁となって行く手を阻んだ。

 火の壁が敵の侵攻を阻むが、一面の壁には程遠く、隙の方がまだ多い。その隙に敵軍の流れが集中し守りを突破しようとする。

 それも、侍衆の読み通り。

 次はそこへ、煮えた鯨油を湛えた鍋が降る。

 鍋の弦を引っ掛けたさすまたは、網を運ぶだけが役目ではない。なみなみと湛えた油を、敵に向けて鍋ごとぶっかける。

 油その物の熱さも脅威だが、網と同じく燃える油だ。全身にべっとりとまとわる油に松明を当てれば、網の時とは比べ物にならない猛火が昇る。

 とうとう火の手は、さしもの玄海水軍も無視できない壁と化す。浜の衆が身を隠す家々へ押し入るには、手を焼く壁に。

 侵入口は一点に限られ、そこに両陣営の戦力が集結する。


「その方らの助力、恩に着る! 後は某らに任されよ!」


 白兵の戦端が開かれる。

 火攻めで数を削っても、頭数は未だに海賊が有利。しかし、浜を火の海にしたことで、場所を広く使えず、数の有利を活かしきれない。

 そこに侍の攻め入る隙があった。

 正面から火花を散らせば、侍側のジリ貧である。そこで、侍は二人一組で海賊を迎え撃った。一人はさすまたを構えて突撃し、海賊を取り押さえる。そこへ残りの一人の刀で急所を刺し穿つ。着実に海賊の数を減らす算段であった。

 だが、移ろう戦況は、一筋縄ではいかない。

 さすまたを突けば槍に組み伏せられ、その隙に海賊の接近を許し、斬り捨てられる者。松明に持ち換え、振り回す者に目を焼かれる海賊。その報復は砂の目潰し。刀が塞がれば、蹴りはおろか拳まで飛ぶ。

 斬り、斬られ、潰し潰され、鎬を削り、燃え盛る炎、刃の照り返しが、男たちに光の筋を差す。

 死せる者は倒れ、血脂の溜まりに沈む。生ける者は立ち続ける限り、鎧も身体も傷を増し、血の滴りで失せた気力を、雄叫び合って奮い立たせ、虚ろなりとも立ち続けるための糧として、誤魔化した。

 炎の戦場は、両者の血で血を洗う争いに染まっていった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 鞍馬は浜へひた走る。

 山火事の煙を追い、里へ至った頃である。燃え盛る炎の唸りと、熱気に煽られた灰や火の粉の降りしきるのも間近に迫るにつれ、焦りが積もる。

 駆け足は衰えるどころか、増々速くなる。

 浜へ続く畦道の先に人だかりを見つけた鞍馬は、声をかけようとしたところ、その中に見慣れた顔ぶれを見つけた。

 里の衆の前、侍に胸倉を掴まれてもがく法然和尚、それを止める三浦と、その教え子たちである。

 大の大人が寄ってたかって、非力な者や幼い者を羽交い絞めにする光景。

 それを目の当たりにした鞍馬の頭に血が上る。

 鞍馬の身体は独りでに動いた。

 畦道を外れて、耕された田を突っ切り、真っ直ぐに侍たちへ向かう。里の衆の人だかりすら無遠慮に押し退ける。侍が鞍馬に気づくか気づかないかで、まずは法然を拘束する侍の後頭部に錫杖を振り下ろし、昏倒させる。残りの侍たちは動揺しながら刀に手をかけたものの、鞍馬の身体と一体となった杖捌きの前に瞬く間にのされてしまった。

 鞍馬がとどめとばかりに錫杖を振り上げる。

 それを阻むように、法然の錫杖が遮った。


「もう十分や。良う戻った、鞍馬」


 荒ぶる鞍馬の呼吸が深まり、猛々しさは次第に落ち着いていく。

 法然はというと、そう言った矢先に、立ち上がろうとした侍の頭を、鞍馬と同じ造りの錫杖で殴り気絶させて、怨みを晴らしたかのように満足そうにするのだった。


「一体何があったのですか」


 鞍馬の問いに、各々が答えた。

 侍が乱妨取りに来たこと。法然らは身を潜めてやり過ごしたこと。突然、爆発と共に山火事が起きたこと。里側に逃げて侍に問い詰められ、山火事が彼らの仕業ではないとわかったこと。

 里の衆の一人に、浜が売られたこと。

 白状した者を始め、里の衆は怯えていた。たった一人で侍たちを倒した鞍馬。烏の面越しにでも血相を変えて問いただしているのがわかる鞍馬を相手に、罪を告白するのは勇気の要る行為だった。

 鞍馬は、いつの間にか肩を震わせている己に気づき、首を横に振って頭を冷やす。

 やるべきことは決まりきっていた。

 居ても立ってもいられず、山向こうの浜へ向けて走ろうとする鞍馬の手を、三浦が引き止めた。


「駄目だ。危険すぎる」


 三浦に言われるまでもなく、鞍馬は百も承知だ。手を振り払い、反論の一つでもしようとする前に、ふっと引き手の力が失われた。

 法然が三浦の首筋に、錫杖の一突きを見舞わし、気絶させたのだ。


「危ない橋を渡れんから、おどれの賭博はつまらへんのやぞ、全く」


 乱暴さが鞍馬の目に余るが、法然を咎めに口を挟む暇すらなく、あっさり聞き流されてしまった。


「おらおら、何をぼさっとしとんじゃ、皆の衆。こちらの法師様に馬を持たんか」


 里の衆は面食らった。


「う、馬とですか」

「せや。侍どもが乗って来たやろ。後ろめたく思っとるなら持って来んかい。それと、桶に水、ありったけや」


 腐っても和尚にそう凄まれては、里の衆が応えない訳にはいかなかった。里の衆は侍が乗って来た中でも、特に立派な青毛を連れて来る。

 それを引き受け、法然は馬の鼻を撫でて宥める。


「ええ軍馬や。火も恐れんで走る。乗れるか、鞍馬」


 鞍馬は頷く。


「わしが言ったことは覚えとるか」


 己の望みを知り、見失わず、望みの求めるものを選び、また選択に惑わされず、望みの成就の如何に振り回されてもいけない。

 鞍馬の目的は、追っ手を逃れ、鞍馬山で脈々と息づいた故郷の血脈を尋ねること。今ここで浜へ向かえば、未来が絶たれるかも知れない。それは望みを見失っていると言えるのではないだろうか。

 だが、鞍馬の心境は、鏡面となった湖面の如く揺らがず定まり、穏やかだった。


「迷いはありません」


 何故ならば、その目的は、浜の衆の達者を望んでの選択に過ぎないからだ。

 鞍馬は、選択に惑わされない。

 法然和尚は、鞍馬の一言に染みた教えを見透かしたように、満足そうに頷き、乗馬を促した。


「頼むで鞍馬。わしらは火事を何とかするさかい」


 鞍馬が鞍に跨ると、青毛は嘶き、棹立ちになった。

 荒ぶる馬を鞍馬は見事に御し、落ち着かせたところに、里の衆が水を浴びせる。これから火事場へ向かう一人と一頭に、水の守りをかける。

 迸る水の煌めきの尾を引いて、黒煙の昇る春の山へ駆けて行く騎馬の躍動は、雄壮であった。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 燃え盛る浜に刀が躍り、屍の原が築かれていく。

 精細な刀の躍りの中にあって乱れ落ちる刃が一つ、一人、また一人と、力尽きた者から横たわっていく。

 数に劣る侍の、戦の要は炎の壁。海賊に包囲を許さず、進攻路を一所に限ることで、鎧の守りもあって少数でも応戦を可能にした。

 だが、海賊も黙ってばかりではない。

 海賊の頸を斬られ、噴く血のおびただしいこと。刀が手から零れ、今にも崩れそうな膝を、己の最期を悟った海賊は、歯を食い縛って奮い立たせ、侍へ力任せに組みついて押しやった。

 押す先には一面の炎。


「水軍は不滅成!」


 海賊の、辞世の言葉であった。

 組みつかれた侍は海賊の意図に気づいて、脇差でとどめを刺そうとしたが、勢いのまま押し倒されて、諸共業火に包まれる。

 生きながらに荼毘にふされる業苦に、両者の聞くに堪えない悲鳴が、戦に臨む者どもの心に刻まれる。

 ある者は、得体の知れない畏怖に。

 ある者は、水軍が悲願を浮き彫りに。

 たとえ鎧を纏う侍といえども、決して金剛不壊の存在ではない。

 関節や顔回りなど、鎧の隙間は刃が通る。人数が少なければ、それだけ一人あたりが応戦する海賊の数も多く、戦い続ければ疲弊する。ましてや、アンドレ・ペソアの復讐とは結びつかない海賊が、炎を逆手にとって、死にもの狂いの道連れを見せれば、少なからず慄くだろう。

 斬り、斬られ、敵味方の血が混ざり、人の肉と脂の焼け爆ぜ、そこに行灯油が交じったむせ返るような臭いが戦場に充満する。

 侍たちが開いた地の利、奇策をもってして、ようやく海賊の数と互角に立ち回っていた。

 そして、惨憺たる炎壁の戦いは、遂に決着を見せた。

 血塗れの刀が腹を穿ち、背を貫く。

 海賊を刀で貫くは、古強者、岩永勝将。

 岩永は、海賊が炎に身を投げて無理心中を図る前に、身から刀を抜き、海賊の背後へ回って最後の一太刀を浴びせる。

 戦場に立つは、岩永ただ一人。

 全身を血で染め直した、さながら赤備えの出で立ちに、肩で息をする岩永は、それでもなお衰えず、敵船を背負い、高みの見物を決めている首魁アンドレ・ペソアを射抜かん怒声で雄叫びを上げた。


「黒船落としの日野江衆、その戦を目にして恐れぬならば、来い!」


 だが、その意気は、一発の銃声に遮られた。

 同時に、岩永は、砂地に力なく崩れ落ちる。

 岩永の陰が失せ、多少ばかり見通しの良くなった浜の先に、筒口より硝煙を立ち昇らせる海難坊の姿が揺らぐ。

 一発限り、次弾装填がなければ無用の筒を、興味も失せたとばかりに捨て、海難坊は浜の衆が身を寄せる集落へ、ゆっくりと歩み寄って行くのだった。


「船を出すぞ」


 その光景を甲板から見守っていた後衛組、宗治郎が騒がず静かに周囲へ伝える。

 突拍子もない指示に、古参の代表に就く義衛門が楯突いた。


「何故だ。閣下がまだお残りではないか」

「あれは夜叉だ。復讐に狂い、我らを利用するだけのたわけだ。あれを頭領に据え続ければ、我らは破滅だぞ」

「伝三郎様がお認めになった御方であるぞ。黒船も、朱印船も、落とせたのは、あの御方あってこそであろう」

「この有様を見て、まだそのような寝言を! 海賊稼業で力を蓄えていれば十分にもかかわらず、このようなつまらぬ浜に全力を注いだ挙句、侍どもの尻に火を着けたあ奴のどこが正気なものか! あの南蛮人が取り立てた新左エ門も死んだんだぞ! 踊らされていたんだ、我らは! 目を覚ませ!」

「頭領を気取るなら、閣下を討ち破ってからにしないか!」

「気を引くための方便なんだよ、それも!」


 宗治郎の手が先に出て、義衛門との取っ組み合いに発展する。

 周りの水軍衆が仲裁に回り、二人を引き離すも、一悶着に手を焼いた。

 玄海水軍の旗印に再結集した残党の、また残党たち。標榜するところの似て非なる将の下、わずかな針路の狂いが向かうは、凪の海か、渦潮のただ中か。一向に定まらぬ胸中に翻弄される時ばかりが徒労に過ぎて行く。

 そのような混乱が後衛で起きていることなど露知らず、知ったところで歯牙にもかけない海難坊は、屍の原に復讐の一端を果たした達成感を噛みしめながら、侍の無念を踏み躙り歩む。

 浜の衆の抵抗で、残り少ない油壷や、手当たり次第の投擲が迎え撃つが、船と比べて小さな的に素人の投擲が的中するはずもなく、良い線を行った物もあえなく避けられた。

 遂に、互いの表情の仔細を判ぜられる距離まで、海難坊が接近し、足を止めた。

 物陰から覗く顔を見渡す海難坊。浜の衆の威嚇か、しかめ面など海難坊には何の用もなさない。その上面の下に隠れた怯えは透けて見えていた。

 狂喜にも憤怒にも見える、剥き出しの歯を軋ませ、海難坊は口を開いた。


「酷い輩だろう、ここの領主は」


 思うところがある浜の衆では、問答無用に追い払うまでいかなかった。


「私は、私の管轄で悪さをする有馬の部下を成敗しただけなんだ。それを有馬どころか、この国の将軍まで、その不始末を棚に上げて、私を裁こうと言ったのだ。易しく経緯を説明してやろうと、わざわざこんな辺境下りに来てやったのに、見ろ。この顔を」


 血混じりの膿の滲んだ包帯の下、皮膚が失せ、肉も一部削れ、赤い髑髏のようになっているとありありとわかる顔を、海難坊は元の相貌を追うように、何もないところを撫でた。


「悪事の報いに白を切り、善良な者を生け贄とし、王座に醜くしがみつくのが、今のこの国の盛者の姿だ」


 マカオの暴動を償いもしないどころか、それを治めた功労者を謀殺遷都した日本。伴天連に人身を捧げる日野江。


「そのような偽りの栄華を世にはびこらせてどうなった。諸君らは食い物にされているだろう。そのような悪政には、否を突きつけねばならない。立ち上がるならば今だ、諸君。私は落ち武者のなまくらどもを束ね、有馬の精鋭を破った。私に着いて来い。私ならば勝てる。私と共に、この世に正義を示そうではないか」

「お断りったい」


 水を差された海難坊の眼球が、ぎょろりと声の方へ向く。

 ふくが鳶口を手に、浜の衆の制止を振り切って、物陰から白日の下に躍り出ようとする。権兵衛の手が強く引き留めたが、手負いで力が入らず、ふくは手を振り解いて行く。

 さしものふくも、海難坊と鼻を突き合わせはしない。距離は詰めず、姿だけを現すにとどめた。


「あんた今、自分が何を踏み越えたか、わかっとっとか」


 討ち下した侍たちだけではない。仲間だった海賊衆も全滅している。

 にもかかわらず、アンドレ・ペソアは、勝利を謳った。


「あたいは、あんたに背中を踏まれるなんて御免ったい」


 ふくの不信など、海難坊は気にも留めない。

 従うか、従わないか。カトラスの刃が、己を貶めた悪漢たちの喉に届くまで、生き死にを問わずして人を柱に埋め、土台を築く。復讐が叶えば、それで良い。

 ましてや、人に似た猿など、物の数に入れるのもおかしな話だった。


「領主も領主、民も民か」


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 樹々の燃え盛る山中、煙の幕を破り連ねるかの如く、青毛の駿馬が駆け抜ける。

 深編笠に烏天狗の修験装束、濡れた烏羽の蓑を纏う鞍馬が、その手綱を握る。

 青毛はなるほど、確かに名馬である。

 一面の火の海でも臆さず走り、多少の小火は踏み、障害は難なく跳び越える。騎手の行く先を理解しながら通るべき道を、あるいは次善の道を適切に選ぶ賢さもある。

 火の手の薄い方角、このまま行けば、浜を挟む南北の岬、その北の方に出るだろう。

 馬の実力に頼る鞍馬は、逸る気ばかりが膨らみ、知らず知らずに手綱を張り、馬の腹に鐙を押していた。

 駈足の乗る山道の先、焼けた木が突如として、一騎の前に倒れて来る。

 制止は間に合わない。飛び越えるには早すぎる。駈足を更に速め、潜り抜けようと試みる。

 だが、鞍馬の巨体は弧を描いて、馬上から投げ出されてしまう。

 青毛の大腿を、焼けた倒木が打ったのだ。幸い直撃ではなかったが、さしもの青毛も不意の一撃にはたまらず倒れてしまった。

 受け身し損ない、身体を打った鞍馬は痛みに構わず、ここまで連れ立った友の元に駆け寄った。怪我を見るや、竹筒の栓を抜き、中の水を残さずかけた。

 青毛の鼻梁や頬、首筋を撫でて宥め、支え、立たせる。後ろ脚を引き摺っている。今は走れない。が、火の海を抜けるのは目前まで至っている。

 青毛は、やり遂げたのだ。

 鞍馬は手綱を引き、青毛を火の海の出口へ導いた。

 景色が開け、面がなければ目も開けていられない突風が、緒の弱った深編笠を飛ばし、燃える木の枝にかけた。

 潮風に乗るのは、火の粉から淡い桃色の花弁に変わる。

 開けた岬の端に、桜が一本。風向き、下生えの具合から、延焼の危険も少ないだろう


「かたじけない」


 青毛を労い、一時の別れを告げる鞍馬。

 万が一、火の手が回らないとも言い切れない、逃げ場のない場所。脚の怪我の具合も気になり、気休めではあるが手綱は縛らず、放しておいた。

 鞍馬は岬より目下、浜の様子を窺う。

 予想だにしない光景が広がっていた。硝煙の臭い、船着き場には見慣れぬ巨大な船。浜を二分するような炎の壁。遠眼鏡で覗けば、船の甲板上には筒が転がり、浜に向けると侍を始めとした多くの骸が横たわる。その先には刀を抜いた人物と、集落内に潜む浜の衆の姿があった。

 心臓が早鐘を打ち、耳にうるさく、胸を締めるような緊張が走る。

 浜の衆に手を出される前に、あの者を何としなければならない。

 状況が一度に上手く飲みこめない。が、この山火事を起こすには、並々ならぬ火力が要る。だとすれば、侍ではなく、船側の仕業と考えると筋がいくような気がした。

 船を無視できない。見過ごせば、集落へ向かったところで背中から撃たれる恐れがある。また、ここから全力で集落へ向かったところで、あの者の手出しを遮るには遅すぎる。

 歯がゆさばかりを覚える鞍馬。

 その時、ふと風に乗って、重厚な行灯臭、鯨油の臭いが漂って来た。

 再び、船へ遠眼鏡を向ける。嫌に濡れた甲板はぬらぬらと鈍く光り、それを水夫たちが懸命に拭いているようだが、間に合わないほどそれに塗れていた。

 鞍馬は、弾かれたように笈を降ろし、中身を探った。

 取り出したのは苦無、そして、箱に詰めたおが屑、その中には法然が正月に余らせた爆竹。

 鞍馬は苦無に爆竹を巻き、森から火種を取り、爆竹に着火する。

 それを、目下の甲板目がけ、思い切り投げたのだった。

 空かさず、錫杖の先を腰の裏、烏羽の蓑に設えた隕鉄の刃に突き刺し、捻り、ガチリと噛み合わせた。


 小競り合いを続ける宗治郎と義衛門、その足元近くに、どこからともなく爆竹苦無が投げ込まれた。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 無数の破裂音が、海難坊の耳に届き、振り返る。

 何気ないつもりが、息を呑み、瞼を失った目を見開く心地に襲われる。

 黄泉ツ丸が炎上していた。

 真昼にあって大火は煌々と浜を照らし、海難坊の影は色濃く伸びる。


「落ち武者どもめ、留守番すらこなせないのか……!」


 目を離した一瞬、浜の衆の方から気配を拾う。

 振り向き様に太刀を振り払い、己に向けて投げられた銛を両断する。投げた張本人である漁師は、神がかった反応に思わず慄いた。

 その恐れに狙いを定めるが如く、海難坊は太刀の切っ先を浜の衆の方へ向ける。


「諸君らを生かす意味がなくなった」


 いささかの無念も含まぬ、待望に喜色ばんだ笑みを湛え、海難坊は殺戮に身を乗り出した。


╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋ ╋


 岬の上、鞍馬は身を弓弦のように引き絞り、蓄えた力を錫杖の槍に乗せて、解き放つ。

 槍は真っ直ぐ、海難坊の前に立ち塞がり、浜の衆、ふくと権兵衛らを守るように凛と鳴って突き刺さる。

 再び振り返る海難坊。船の炎上は水軍の不手際ではない。火の手と槍を差し向けた何者かの姿を追い、その姿を岬の上に認めた。

 岬の上から飛び降りる、白黒い装束。

 身に縄を巻き、それを一本桜に括っており、縄が伸び切ったところで山刀を抜いて戒めを解き、残りの高度は黒羽の蓑を翼の如く広げて、砂浜に舞い降りる。

 その姿は、この国の伝承にある烏天狗に他ならなかった。


「アンドレ・ペソア……、気の毒に。……あれは、強か、ぞ」


 降臨を伏せて拝む岩永勝将は、そう呟くと、意識が闇の底に沈んで行った。

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