黒奴流離譚 TEN Grave'n ―黒人奴隷、極東の地に逃れ、烏天狗として生きる―
ゴッカー
第1話 聖母の恩寵
日暮れ、暗雲は益々色濃く、玄海との狭間に、ふわりと降る雪が大火に炙られ、中空に消えていく。
無数の筒の炸薬の、けたたましい破裂音が一つの的を目がけて響き渡る最中のこと。
一隻のガレオン船が燃えている。熱気の上昇に雪が翻り、避けた途端に、夜空を焦がす大火の気流に巻かれて、音もなく消えた。
洋上、マストに燃え広がる火の奔流は、有象無象の区別なく、抗えぬものを呑んでいく。
災禍に見舞われた甲板では、水夫たちが慌ただしく行き交っていた。この事態を予見していたかのように多く積まれたボートを次々と海へ降ろし、我先に避難する者たちだ。
その陰で、仲間の目を避けるように樽を転がす者がいた。
火事場に乗じて貿易の品を片端から詰めて、盗みおおせようというのである。
水夫二名が結託した火事場泥棒だ。一方が救命艇とは名ばかりの小舟を降ろして待機しているところへ樽を降ろす。船縁から顔を出し、海上で待つ片割れに声をかけ、荷運び役の水夫は縄で括った樽を注意深く降ろしていく。
ターッン、と、破裂音と共に、荷運び役の上体が大きく仰け反った。突如として頭から血を噴き、赤い軌跡を描いて倒れる男の手から縄が放れる。
救命艇の待機役を目がけて落ちる、金、銀、螺鈿、刀に鎧を詰めた樽。待機役は咄嗟に避けようとしたが、小舟を揺らすほどの波に脚を取られ、姿勢が乱れたところに樽が直撃する。頭蓋が鈍い音を立て、男は背もひしゃげて動かなくなった。
片や財を手放し、片や財に潰されて死せる船乗り。持ち主を失った積み荷を乗せ、小舟は夜の波間に人知れず消えて行く。
雪の結晶、一口に六角形と言えど、一つとして同じ形がないと人が知るには、少し早い時代であった。
慶長十四年十二月十五日。
極東の暦は年の瀬間近。対して、異邦の年越し間もなくの頃。西暦にして一六一〇年一月九日である。
長崎湾を抜けて大洋も目前のところまで来て、あるポルトガル船が立ち往生していた。
司令官アンドレ・ペソアを筆頭に、船員の逃走と船内籠城は、かれこれ四日四晩目となる。
最早これまで。焦燥がアンドレの胸を占める。
度重なる不運の上、味方が投擲する直前の手投げ火薬に敵方の鉄砲がまぐれで当たるなど、考えられないことだった。
甲板に上がる火の手、炉の中かのような熱がアンドレに重く圧し掛かる。動揺した船員は使い物にならない。積載火薬に引火するのも時間の問題だ。
侍をまいてマカオまで行けと命令を下し、退避させたが、そんな無茶が通る状況でないことはアンドレ自身が承知していた。
これ以上、平静を失ってはならないと、クルミを片手で割り貪る。ルーチンが理性を辛うじて繋ぎ止める感覚に縋るも、事態を打開する行為でないことを、アンドレは理解していた。
日野江藩主たる有馬晴信が寄越した艦隊が忌々しい。
その数、三十艘。兵員にして、四日の継ぎ足し継ぎ足しを経た目測、三〇〇〇名。
噛み合わぬ交渉、もとい抗議を続けた結果、日本側の反感を買ったのは承知の上。ポルトガルとて日本側の態度に不満を抱いている。貿易が振るわぬ折に、本拠地たるマニラで傍若無人に振る舞われ、商人たちの不満を逆撫でした日本に。
だがしかし、何故、有馬なのか。
有馬とアンドレは因縁深い。だが、事は有馬が飼い犬を手懐けられない馬鹿殿であることが発端だ。これまで散々、領民を進んで捧げてきたことを棚に上げ、没した船員の復讐とばかりに、とやかくと有馬が出しゃばるのは、領主に似つかわしくない逆恨みではないか。
事実、その怨念を裏付けるかの如く、異常な数の派兵であった。装備は時代遅れのお粗末な代物ながら、その数は、とても有馬の身内で済まされる数ではない。
その状況を手引きした者の船影も、この海にある。
銃声は止まず、内一発の鉛弾がアンドレの目と鼻の先の船縁の木材を抉る。
(長谷川め、生糸の取引を持ちかけておいて、返事も待てない唐変木なのか!? それとも先程のは有馬か!? 交渉中に主導権すら握れんのか!?)
将軍の望む値で生糸を寄越せば身の安全を取り計らう。とは、休戦中の今朝方、交渉に訪れたその長谷川藤広の言である。
有馬は生糸貿易に顔が利く。対して長谷川は、その有馬の眼前で堂々と、奴の食い扶持を掠め盗ろうと言ってのけたのだ。
ただでさえポルトガルが有馬の恨みを買い、一触即発の緊張の中である。長谷川は有馬を出し抜くと豪語していたが、蓋を開けてみればこの惨事だ。
たとえ、長崎奉行が将軍の覚えめでたく、当代長谷川藤広が筋金入りの業突く張りで、この国では誰一人として西側の論理を解せぬとしても、返答を辛抱できないほどのバルバロイであるとは埒外であった。まだオランダ人相手の方が、よっぽど話になるだろう。
アンドレの脳裏に、生糸を紡いだ絹の綱を引き合う、二人の馬鹿殿の顔が浮かんだ。
また思えば、この絹綱引き、ある意味で御前試合である。
まず、取引の姿勢を見せた有馬と長谷川。
そして、関船や小早のような大砲も満足に載せられない時代遅れの船と当方の武器性能差でもって、アンドレらのガレオン船を足止めせしめる無数の侍。不利益な戦闘で見せて良い執念ではない。
武士は食わねど高楊枝という言葉がこの国にあるそうだが、現実としてあり得ない。彼らの無謀な襲撃を成立させるのは、幕府からの報奨に期待してこそに違いない。
(国が、たかが地方領主風情の仇討ちの肩を持つだと)
そうでもなければ、この船がここまで追い詰められることはなかったと、アンドレは確信する。
しかし、風向きと潮流が悪かった。
季節は冬、大陸より凍える風が吹く。逆風が吹き荒ぶ中、風を捉えようと手を尽くしたが、海流までアンドレらを裏切り、長崎湾へ押し戻そうとした。
これ以上、侍の本拠地に押し戻されることだけは避けねばならない。やむを得ず、風向きと潮目の変わる時を待つため錨を降ろす。
進退窮まり、座礁も同然だった。
それでも、戦術的勝利は目前だった。あと少し持ち堪えれば、駐日の援軍が来る手筈だった。否、援軍を待たずとも侍を撃退するに余りある火力を有していたのだ。
しかし、これまで侍に釘付けにされていたのもまた事実。戦に狂う侍の執念が、ポルトガルの兵器技術と拮抗し、運命の悪戯が加担することで、逆転せしめたのだ。
貿易がもたらす富に目の眩んだ長谷川が、藩民殺しで顔に泥を塗られ、癇癪が燻る有馬を焚きつけた。駿府の将軍が、その後押しをしている。
であれば、銭の勘定に口うるさい日本人のことである。祖国との関係を台無しにしかねない此度の行いの裏を想えば、将軍への陳弁を後回しにされ、先着の当方を差し置いて、後着のオランダが悠々と謁見するのを見過ごしたのが致命的であった。あるいは、スペインに使い捨てられたとも考えられる。
(用済みだと……? マカオの総司令、カピタンモールである私が、こんな、銀を掘るしか能のない、辺境の野蛮人どもに……!)
予感はあった。寄港するや否や、日本側が船員殺しの罪をちらつかせ、積み荷の売買交渉で強硬だった時から。使者が交渉失敗の報を持ち帰った後、駿府がわざわざアンドレを招いた時に、それは確信に変わった。荷も最低限しか降ろさず、出港準備に踏み切った判断は、今でも最適と確信する。
だが、風向きにも潮流にも、世の流れにも裏切られた。
海賊紛いの妨害でポルトガルの築き上げた貿易圏を食い破ろうとするオランダ。苛烈な競争は、貿易の旨みの争奪戦である。その味に魅了されたのはポルトガルとて同じ。オランダに好きにされるがまま、対日本の商機をむざむざ明け渡せば、どれほどの損失を被ることか。
アンドレらが欲に目を眩ませ、交渉の道を惜しみ、ぎりぎりまでと言い聞かせ、悠長に潮時を眺め、ようやく日本離脱に漕ぎつけたのは年明けである。
人事は総崩れで、天運にすら見放された。アンドレの憤りはもっともである。
腹の底で煮える怒りが、異国を野蛮と断じる。その悪態とは裏腹に、船倉に降りたアンドレは身に付けた上等なジュッバやシルワールを脱ぎ、生まれたままの野蛮な姿になっていく。
アンドレはそれを、彼のほど近くで、顔と両手先に丹念に白粉を塗りたくる大柄な男へまとめて投げつけた。
不意であっても受け止めて当然の軽さ、しかし、大男はまるで精根も底を突く目前のようによろめいた。体格に見合わぬ覇気のなさで、むしろ僅かに背が低くも健康優良なアンドレの方が巨体にも思えるほどだった。
「サルには勿体ない服だ! ありがたく受け取れ! もたもたするな!」
よたよたと、覚束ない手取りで脱ぎ捨てられた服を拾う男。服を抱えて一杯になった両手に、アンドレはずいと一本の木の棒を押し付けた。
棒の尖端には、松脂に浸した布が巻かれている。
「良いか、着替えたら火を着けろ! 侍どもをできるだけ引きつけて、斬られようが射られようが死ぬ寸前まで引きつけて、死に際を悟ったら、火薬樽にくべろ! わかったな!?」
呆然と俯く男に、アンドレは唾を飛ばし飛ばし命令を下した。
もうこの船は駄目だ。人員の退避は済んでいる。船長の命運は船と共にあるなど、美学に殉じる気は毛頭ない。誹りを受けようと、断固として退避する。この決定事項は目の前の奴隷の働きによって完成する。
中々返事がない。アンドレは苛つきながら、俯きがちの男の頭を掴み上げ、無理やり視線を合わせさせる。
男の唇は渇き、呼吸は枯れた音を上げていた。男の意思か、呼吸のかすれが偶然そう鳴ったのか、ともかくアンドレはそれを肯定と受け取り、忌々し気に鼻を鳴らして男を突き放した。
これで技術漏洩の問題は解決したも同然だ。この船を姿のまま残すのは、ポルトガルの兵器を日本に明け渡すに等しい愚行である。残置物から技術を盗まれることだけは万が一にも阻止しなければならない。その代償が私財一つと引き換えであれば安いものである。
目下、最大の問題を片づけたアンドレは、敵の目を掻い潜れる順路を思案する。
片や大男、アンドレの最後の命令を、今にも止まりそうな思考を奮い立たせ、理解しようと努めた。
しかし、二つ下された命令の一つ目がとんと見当がつかない。
二つ目にしても、仔細が思い返せない。
これでは、またきつい罰を受けるだろう。
煌々と目の前を照らす、場違いなランタンの火に蕩ける景色と、自他の境界に命令の断片が浮沈する。粘るような闇を掻き分け、探るようにもたげた腕を、光に伸ばす。
死に際を悟ったら、火薬樽にくべろ。
はたや、今こそ、に疑いない。
男は、ランタンの火を松明に移し、何の躊躇もなく火薬へ放り投げる。
この船を消し飛ばすのに十分な量の樽の山へ。
「……っんの猿が!」
新年を迎えた異人に、年の暮れへひた走る国。同じ時代を生きながら、暦を異にする両者の間に渡る溝は底知れなかった。
この前年、有馬晴信が派遣した朱印船、その乗員らがマカオでの取引を巡り起こした騒擾事件を、アンドレ・ペソアが武力でもって鎮圧した。
貿易の繁栄にある日本が、商売敵の華僑や欧州列強の進出に頭を抱えたポルトガル人らの本拠地に、越冬のためとはいえ寄港した。日本との商機が途絶えて久しく、ただでさえ積もり積もった緊張感が、短期間に張り詰めに張り詰め、遂に弾けた影響は、後に極東の島国を大きく動かすことになる。
日野江藩に多数の死者を出したこの事件を発端に、日本国内外の諸侯が貿易の利権を巡り立ち回り、またある者の報復への怨念が合わさり渦を巻く。
各々の私情が複雑に絡み合い、さながら繭を織り、そこから羽化した闘争は、一艘の異国の船を渦巻く爆炎で海の藻屑にし、歴史の澱として消し去った。
死者は黙する。アンドレの口を封じれば、一連の事件の一切の責任を彼に負わせるなど、幕府にしてみれば造作もない。ポルトガルから責任追及があったとしても、聞く耳を持たなければ良いのだ。
後世、この事件は、マードレ・デ・デウス号事件、あるいは、沈没したその船の名をポルトガルの残した資料を参照し、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と呼ばれることとなる。
絹で織り、伽羅香にくぐらせた、人々の欲望と思惑の絡み合い。この先、日本が鎖国へ舵を切る騒動が待ち構えているが、今は誰もその未来を知らない。
だが、それは歴史の本流の話である。
積載火薬の総力を内から爆発させた船影は、炎を背にし、崩れゆく。有馬、長谷川の両陣営の武士らは、己が死生観に則り、南蛮人船長の壮絶な散り様を口々に讃えたという。
数々の炎を束ねた火焔は益々盛り、曇天を突く火柱となる。聖母の恩寵を冠する船から上がる火柱は、その名とは裏腹に、数多の雪花をその奔流で絡め取り、徒となした。
だが、立ち昇る熱気を、逆巻く気流を掻い潜り、火の手に翻弄されてなお、海に至る白雪の一片もある。夜の黒い大海に融け、その一部となる雪もあったのだ。
水底へ沈みゆく人影。溶けた白粉が白い尾を引き、一人の男の素性が暴かれる。
この地において世にも珍しい、黒い肌の男が、海の流れに身を任せ、人知れずどこかへと消えて行った。
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