後編 口付け
ぎしり、とラーシュさんの体重で操縦席のシートが軋む音がした。ラーシュさんがわたしの中に入ってくる。その重さを体に感じて、わたしは車体を震わせた。
ラーシュさんはシートに体を預けて、戸惑うように操縦席の中を見回した。それから、不思議そうな顔で目の前の操作レバーにそっと触れる。その指先の感触に、ひくり、とアームを動かしてしまった。
わたしの震えに気付いたのか、ラーシュさんはすぐに手を引っ込めて、小さく「すみません」と呟く。わたしはただふるふるとバケットを振った。
硬いシートだけど、リクライニングする訳でもないけど、少なくとも洞窟の地面と壁よりは居心地が良いはず。正直に言えば裸を見られているみたいで恥ずかしいけど、ラーシュさんには優しくしてもらったから助けたい。
でもそれは言い訳で、ただわたしがラーシュさんを近くに感じたかっただけかもしれない。
土埃で汚れたシートを、ラーシュさんの手が優しく拭う。
「俺のせいで、こんなに汚れて」
その手の熱にホーンが鳴りそうになる。今は身を潜めているのだから音を出しては駄目、と必死に堪える。音を出せないせいで、熱が車体の中に篭って逃せないような気がした。
「不思議だ。あなたは人のようには見えないし、生き物のようでもないのに……あなたを見ていると、まるで恥じらう乙女のようで」
つ、とラーシュさんの指先がシートを辿る。ホーンの音を耐えるために地面にバケットの爪を立てた。
くすりと笑う声とともに「可愛い」という呟きが零れてきて、シートの
ラーシュさんの泥で汚れたままの頬がシートのヘッドレストに押し当てられる。ラーシュさんの体温と吐息の熱さをシートに感じた。
「あなたの中は、温かい……」
ラーシュさんは自分の呟きにはっとしたように、その手で自分の口を覆った。戸惑いを映すように頬が赤い。苦しげに眉が寄せられる。
「すみません、俺、何を言ってるんだ……。全部、忘れてくれて良いですから」
小さな声でそう言って、ラーシュさんはシートに座り直して目を閉じた。
わたしには、ラーシュさんを抱き締めて直接温めることはできない。言葉を返すこともできない。初めて感じるこの苦しさをどうすることもできない。ただ、ラーシュさんの体の重みをシートに受け止めていた。
忘れるなんて無理だ。だって、わたし、初乗車だったのに。
日が沈む頃、ラーシュさんは目を開けて、気怠げにシートから身を起こした。ただ目を閉じていただけで、眠ってはいなかったのかもしれない。それでも、少しでも休めたなら良いけど。
「俺はこちらに行きます。領主の兵士たちはこちらから来るでしょう。あなたは、こちらに──大型の獣が多く人のあまり踏み入らない深い森ですが、あなたなら安全だと思います。そこで身を隠して、逃げてください」
夕暮れの薄暗がりの中、ラーシュさんの指差す方角を必死に頭に入れる。頭ないけど。
わたしは短くライトを点灯させてラーシュさんに返事をした。ラーシュさんはほっとしたように微笑んで、それでも心配そうな視線を残して、行ってしまった。
その姿を見送って、よし、とアームを持ち上げて気合いを入れる。
そもそもわたしには逃げても行くところがない。なんで油圧ショベルになっているのかわからない。どうやら日本じゃなさそうなこの場所で。そしてこの世の中に油圧ショベルなんか存在しているのかもわからない。そんな状況だ。
ラーシュさんはわたしを逃がそうとしてくれたけど、わたしはラーシュさんに無事でいて欲しい。だから、わたしがラーシュさんを追ってきている人たちを足止めできれば、ラーシュさんはきっと逃げやすくなるんじゃないかって、そう考えた。
怖いけど、でも大丈夫。
だってわたしは、油圧ショベルなんだから。さっきだって、矢を受けても少し引っ掻き傷のようになっただけで、どうってことなかった。
だったら、せめて。こんなわたしに優しくしてくれたラーシュさんのために、と思ったのだ。わたしのこの気持ちをラーシュさんに伝えることはできなかったけど。
日が沈む。わたしはライトを点けて、行く先を照らした。
小川を降りる途中で、木々の隙間から揺れる灯りが見えた。少しだけ岸に乗り上げて、地面の振動を感じる。何人かの集団で、きっとあれが領主の兵士たち──ラーシュさんを探している人たちだと思った。
わたしはそちらに向けて、ライトを点灯させる。わたしがここにいると知らせるために。灯りの進みが止まる、そしてこちらに近付いてくる。わたしはライトを点けたまま、小川を下ってゆく。
揺れる灯りがわたしのライトを追ってくることを確認しながら、わたしは離れすぎないように、でも追い付かれないように森の中を進んだ。
ラーシュさんを探している人たちは、他にもいた。時々ライトを切って身を隠しながら、少し距離を稼いでライトを点けて、わたしは森の中を走り回る。わたしはラーシュさんが逃げる間、時間を稼げば良いだけだ。
そうして夜の間中、わたしは走り続けた。
たくさんの木は、わたしの体には邪魔だった。ライトで照らしても、見える範囲は狭い。追われて焦るような経験だって初めてだ。わたしはきっとうまく判断できていなかった。
後ろから追ってくる灯りと足音を気にしていて、気付いた時にはもう、別の足音の集団が前方の近いところにあった。まずい、と一度バックして方向を変える。わたしのシューだと急な方向転換ができなくて、焦る。
「あいつと一緒にいた化け物だ!」
思ったよりも近くから、その声が聞こえた。
がつん、と体への衝撃を耐える。どうやら、石が投げられたらしい。大丈夫、少し痛かっただけ。
転回を終えたわたしは、石に追われながら、スピードを上げてうっすらと朝靄のかかる森の中を進む。気付けばもう夜が明けそうだった。
「まだ一緒にいるかもしれない、追え!」
「回り込め!」
後ろから投げられる石に気を取られていたその時、目の前に槍のようなものを持って、こちらに向かってくる人の姿が見えた。このままだと轢いてしまう!
咄嗟に、バケットでその体を薙いだ。柔らかな人の体が呆気なく吹っ飛んで、きっと今のわたしに目があったら閉じていたと思う。それでも、轢くよりはましだと思ってわたしはシューを止めずに走った。
がつん、とまた車体に石が当たる。人の体を吹き飛ばした衝撃にも、石の痛みにも堪えて、ゆるやかに曲がったとき車体が大きく後ろに傾いた。そのままずるずると滑り落ちる。
シューを回転させるけど足元の落ち葉が絡んで虚しく空回りして逆に落ちてゆく。落ち葉で見えなかったけどその下は平らじゃなかったらしい。わたしの体は窪みに落ちてしまった。
近付いてくる足音に焦って回転を早めるけど傾いた体は戻らない。バケットも地面に届かない。
朝靄が晴れて、朝日が木漏れ日になって落ちてくる。傷だらけで泥だらけで、みっともなく動けないわたしの体が、人の目に晒される。
しばらく遠巻きに見ていた人たちも、やがてわたしが動けないことに気付いたのか近付いてきた。
「生き物にしては変だな」
「馬車みたいなものじゃないか」
「じゃあ、中に誰か乗って動かしてるのか?」
そんなことを口々に言いながらわたしの車体を眺め回す。振り回すバケットが届かなくて、せめてもの抵抗にホーンを鳴らす。
その音に周囲の人たちは少しだけ怯んだみたいだけど、すぐに音だけだと気付かれてしまった。
「あれ、ドアじゃないか」
「お前ちょっと見てこい」
知らない男の人の手がわたしの車体に触れる。わたしの体によじ登ってくる感触にぞっとして、車体が震えてしまう。そんなのも構わず、その手が操縦席のドアに触れた。
(やだ! 来ないで!)
ホーンを鳴らして、ドアを開けようとする手に力一杯抵抗する。
「固いドアだな」
がん、と剣の柄でドアを殴られた。その衝撃に怯んだ隙に、ドアをこじ開けられてしまった。このままじゃ乗車されちゃう。涙が出るなら、きっと泣いてたと思う。
(怖い……助けて……ラーシュさん!)
その名前を呼ぶつもりで、わたしはホーンを鳴らした。
「その手を
わたしのホーンに応えるように、ラーシュさんの声がした。わたしによじ登っていた人の体が吹っ飛ぶ。ラーシュさんはその勢いのままわたしの車体に飛び乗ると、そっと優しくわたしのドアを閉めた。
「もう大丈夫だから、もう少しだけ待って」
囁きを残して、ラーシュさんは青い瞳で鋭く周囲を見回した。
ラーシュさんだけじゃなく、立派な鎧を着込んだ人たちもたくさんいた。ラーシュさんとその人たちが、わたしを追いかけていた人たちを蹴散らし取り押さえてゆく。
(助かった……?)
ラーシュさんの黒い長い髪がなびくのを見て、わたしはほっと胸を撫でおろした。実際には胸がないから、アームがだらんと伸びてバケットが落ちただけだったけど。
「逃げろって言ったのに」
立派な鎧の皆さんに引っ張り上げてもらって体の自由を取り戻したわたしに、ラーシュさんは溜息混じりにそう言った。
(でも、ラーシュさんを助けたくて)
しょんぼりと、力なくアームを下げてバケットを地面に降ろすわたしに、ラーシュさんは怒ったような顔で言った。
「あの光景を見た瞬間、心臓が止まるかと思いました。今回は無事で良かったけど……危ないことはもうやめてください」
そう言いながら、ラーシュさんがわたしのアームを撫でる手つきはとても優しい。だからわたしは大人しく怒られていた。
近くにいた鎧の人が変な顔でラーシュさんに話しかけてきた。
「それ、生き物なのか?」
「意思疎通ができるので」
ラーシュさんの声に、鎧の人がますます変な顔をする。
まあ、油圧ショベルだからね。わたしだって油圧ショベルをこんな風に可愛がる人がいたら、ちょっとこんな顔になると思う。自分で言っててちょっと悲しくなってきた。
「俺には……馬車とか、そういうものに見えるけど」
「可愛いんですよ、それにとても健気で」
ラーシュさんはそう言って、わたしのアームを抱き寄せるように腕を回した。咄嗟のことに、わたしは体を固くするだけで何もできなかった。元から硬いけど。
鎧の人は最後まで変な顔のまま「うん、そうか、良かったな」と曖昧なことを言って、そっと離れていった。
ラーシュさんはそんな視線を全く気にしていないかのように、わたしのアームを抱きかかえたままアームにおでこをくっつけた。
「行きずりの俺なんかのためにこんなに傷だらけになって……本当に、健気で可愛い人だ」
わたしに腕があったら、ラーシュさんを抱き締めることができたのに。わたしに声が出せたら、ちゃんと言葉で伝えることができたのに。わたしに体温があれば、この熱が伝わるのに。
そんな気持ちを抱えたまま、油圧ショベルになってしまったわたしはラーシュさんの抱擁をただ受け入れていただけだった。
森を抜けた先に街があった。鎧の人たちは何かの組織らしい。ラーシュさんも関係者なのかな。そこの馬車小屋の隣に、わたしは車体を置かせてもらえることになった。
見知らぬ場所に一人──油圧ショベルって一台って数えるんだっけ?──で落ち着かず、そわそわしていたら、ラーシュさんが水を入れた桶と布を持ってきた。
それで、わたしはラーシュさんに車体を拭かれてしまった。わたしの体は泥だらけだったから。
わたしの体を一人で綺麗にするのは大変だと思うのだけど、ラーシュさんは他の人の手伝いを断って、一人で拭いてくれた。時にはわたしの上に乗って、隅々まで。
最後にラーシュさんが操縦席のドアを開けてわたしの中に入り込んできた時には、わたしはもう息も絶え絶えだった。元から息してないけど。
ラーシュさんが土で汚れたシートを優しく拭う。その感触にわたしはアームをぴんと伸ばして、それでも堪えきれずにホーンを鳴らしてしまった。
恥ずかしい。なんだかもうお嫁にいけない気がする。いや、考えたら油圧ショベルになった時点で無理だと思うけど。
「貯めていたお金がまとまった額になったので、故郷に戻ろうと思っていたんです。田舎の、小さな孤児院なんですけど」
わたしのシートに体重を預けながら、ラーシュさんは少し頬を染めて、優しく微笑んだ。
「もし、あなたが良ければですけど、俺と一緒に来てくれませんか?」
返事のつもりで、わたしはアームに付いているライトを点滅させる。
(はい……!
操縦席のラーシュさんから、外のその光が見えたかわからない。
それでもきっと気持ちは伝わったんだと思う。ラーシュさんは嬉しそうに笑って、それからヘッドレストに口付けをくれたのだった。
高校生女子、異世界で油圧ショベルになっていた。 くれは @kurehaa
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