魔女と星の少女

藤野 悠人

魔女と星の少女

 昔々……というわけではないけれど、あるところに魔女が住んでいた。深い森ではなく、大都会の真ん中に。不気味な家ではなく、マンションの一室に住んでいた。光が当たると夕焼けのような輝きを放つ、美しい茶色の髪を持つ魔女だった。


 そんな魔女の住む部屋は、嵐でも過ぎ去った後のように荒れ果てていた。窓ガラスはひび割れ、家具はひっくり返っている。無事なのは魔女が座っている椅子ばかり。そして部屋の真ん中では、部屋を荒らした張本人である銀色の髪の少女が、仁王立ちになって魔女を睨みつけていた。


「……まったく、とんだじゃじゃ馬を拾ってしまったね」


 魔女は大きくため息をつくと、顔の前を飛ぶ虫を払うように軽く手を振った。


 すると、どういうことだろうか。


 ひび割れた窓ガラスは映像を逆再生するように綺麗に直っていき、家具たちは自分の持ち場を思い出して、ひとりでに元の場所へと歩いていく。そして、見る見るうちに部屋は元通り。魔女の家ではこれが「日常」だった。


 魔女の部屋に銀色の髪の少女がやって来たのは、今から3日前のことである。


―――


 その日の夜、魔女は買い出しに出掛けていた。魔法の道具を買いに……ではなく、食材を買いに出掛けたのだった。


 時刻は深夜2時。マイペースな生活を送る彼女は、起きる時間も寝る時間も自由気まま。近所にある24時間営業のスーパーまで、のんびりと歩いて向かっていた。


 いつも通り、明るく騒がしい夜だった。この街はいつもそうだ。


 スーパーまであと少しという所で、それは起きた。辺りが突然、真昼のように明るくなったのだ。それもただ明るいのではない。目を開けていられないほど、強く眩しい光が街全体を覆っていた。


 あまりの眩しさに、魔女も目を覆った。そして、光が収まると同時に、非常に、言葉には出来ない嫌な感じを受けた。


 それは魔女の直感だった。彼女の直感はよく当たる。


 魔女は直感に従って走った。『嫌な感じ』の正体も、何があるかも分からない。それでも魔女は走った。そうしないと大変なことになると、直感が告げていた。


 結論を言うと、今回も魔女の直感は正しかった。


 魔女が行き着いたのは、この街で一番広い、川沿いの公園だった。そこではひとりの少女を中心に、何人もの大人が倒れていた。地面には明らかに魔法で使う道具も散乱している。


 少女はひどく怯えていた。おまけに、夏でもなければ夜は冷えるというのに、とても薄着だった。


 魔女が少女に近付くと、少女は震えながら魔女を見た。


 魔女から見た少女の第一印象は「綺麗な女の子」だった。月に反射する美しい銀色の髪を持ち、陶磁器のように透き通った肌をした、小柄な少女だった。そして不思議なことに、少女はうっすらと光をまとっていた。


「大丈夫? 立てる?」


 魔女の質問に、少女は質問で返した。


「……あなたも、私を捕まえに来たの?」


 か細く震えた声だった。少女は更に続けた。


「……あなたも、魔法使いなの?」

「よく分かったね。そう呼ばれる人間だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、少女は大声で叫んだ。ほぼ同時に、魔女が少女の目元に手をかざした。


 すると少女の叫びはぷつりと途切れ、糸の切れた人形のように眠ってしまった。魔女は倒れた少女を抱え上げると、そのままマンションへと向かって歩き出した。


 普通なら警察に行くところだろう。しかし、魔女は警察がアテになるとは思わなかった。


 少女からは、強い魔法の気配がしたからだ。


―――


 そして、3日間の眠りから目覚めた少女は、魔女を見るなり叫び声を上げた。その結果が、さっきの荒れ果てた部屋だったのだ。今は魔法で「掃除」され、すっかりいつも通りの部屋に戻っている。


 少女はぶるぶると震えながら、怒りと恐怖の混ざった声で魔女に向かって怒鳴った。


「私をどうするつもりなの? ここはどこなの? あなたもあいつらの仲間なの?」

「ちょっと落ち着いて。それと、質問はひとつずつ」

「落ち着けって? こんな状況で、どう落ち着けって言うのよ!」


 少女の目元に、見る見るうちに涙が溜まっていく。そして、震え声で魔女に訴えた。


「家に、家に帰してよ……!」


 少女の想いに応えるように、周囲の家具がガタガタと震え出す。しかし、また部屋を荒らされては魔女も堪ったものではない。自分も魔法で、暴れる家具を押さえつけた。


「ひとつずつ、質問に答えるわ。あたしは、あんたをどうするつもりもない。ただ、危ない目に遭ってたみたいだから助けただけ」


 しかし、少女は疑わしそうな目でじっと睨んだまま。


「次の質問。ここは、あたしの家。あたしが大家をしてるマンションだよ」


 魔女は少し辛そうに続ける。奇妙なことに、魔女はいつもより上手く魔法が使えなかった。彼女にとって、それは耳鳴りや胸焼けのような不快な感覚だった。


「最後の質問。“あいつら”ってのは、あの日あんたの周りで倒れていた奴らだね? あたしはあいつらの事なんて全く知らないし、あんたがどこの誰かも知らない」

「嘘よ!」


 少女の叫び声に応えるように、テーブルの上のコップが割れて弾けた。


「あなたも魔法使いでしょう? あいつらの仲間に決まってる!」


 今度は、電球が奇妙なリズムで割れ始めた。


「魔法なんて嫌い! あなたみたいな、魔法使いなんて、大っ嫌いよ!」


 そして、再び部屋を嵐が襲った。


―――


 部屋に二度の嵐をもたらした少女は、電池切れを起こしたように眠ってしまった。結局、魔女は再び魔法を使って部屋を「掃除」する羽目になった。しかし、やっぱり魔法の調子は良くない。


 まるで、寝ぼけた頭で難しいことを考えるような。ダルい体で難しい作業をするような。そんな「なんだかハマらない」感じだった。


 違和感を覚えつつ「掃除」を済ませると、ソファの上に少女を寝かせた。魔女は疲れたと言わんばかりに伸びをすると、窓をわずかに開け、小さな換気用の扇風機を回した。テーブルの上に置いていた煙草とライターを手に取る。煙草のデザインは、白地にたくさんの星。ぼんやりする時や、考え事をする時には欠かせない相棒だ。


 火を点けてゆっくりと吸い込み、吸い込んだ時と同じくらいゆっくりと吐く。煙は風に吹かれて、窓の外へと流れていった。


 今夜はよく晴れていた。しかし、明るい街の光に飲み込まれて、星の光はよく見えない。この街はいつもそうだ。しかし、星が直接見えなくても、魔女は星の位置を正確に把握することができた。それくらいできなければ、魔女など務まらないのだ。


 しかし、魔女は今夜の夜空にも違和感を覚えた。


 何かが、足りない。本来、夜空にあるはずの何かが足りないのだ。魔女の目は、その何かを探してキョロキョロと動いた。そして気付いた瞬間、「あっ」と思わず声が出た。


 北極星の光がひどく弱くなっている。北に位置する道しるべの星が、とても弱々しく、今にも消え入りそうになっているのだ。


 何故、北極星があれほど弱っているのだろう。魔女は思案したものの、結局理由は全く分からなかった。


 その日は、いつもより灰皿の上の吸い殻が多くなった。


―――


 翌朝、魔女が起きると同時に、ソファの上の嵐のような少女も目を覚ました。


 少女は魔女に気付くと、再び睨みつけた。その様子に魔女はため息をつくと、独り言のように声をかけた。


「何か飲もうか」


 数十分後、魔女と銀色の髪の少女は、テーブルを挟んで座っていた。魔女は自分にコーヒーを淹れ、少女にはホットミルクを振舞った。


 少女は相変わらず疑い深そうに魔女を見つめていたが、差し出されたホットミルクに危険なものが入っていないと分かると、ちびりちびりと飲み始めた。


 魔女はつぶやくように、銀色の髪の少女に尋ねた。


「あんた、なんでそんなに魔法が嫌いなんだい?」


 魔女の質問に、少女はいつかの夜と同じように質問で返した。


「あなたは、どうして魔法使いになったの?」

「え、あたし? あたしは……」


 そこで、魔女の言葉は途切れてしまった。何か続けようとして、言葉が見つからずに飲み込んで、を数回繰り返す。そして、唇を舐めてからゆっくりと答えた。


「……親が魔法使いだったから、かな。蛙の子は蛙。魔法使いの子は魔法使い。ただ、それだけのことよ」


 魔女は苦いものを吐き出すように、それだけ言った。少女は手の中のホットミルクを見ながら――そこに映る、自分の瞳を見ながら――ぽつりぽつりと話し始めた。


「あなたたち魔法使いの力の源が、星や月だってことは知ってる?」

「もちろん。魔法を使う者の常識だよ。だから、あたしたちは昼よりも、夕方や夜の方が強い魔法を使える」

「私はね」


 少女はそう言って、少し息を吸ってから、思い切って続けた。


「北極星から来たの」


 少女の言葉に、魔女は我が耳を疑った。


 北極星から来た。普段なら「何を言っているんだ」と言っておしまいである。


 しかし昨日の夜、光の弱まった北極星を見たばかりだ。無関係だと考える方が無理だった。


「ゆうべ空を見たら、北極星の光がすごく弱くなってた。もしてして……」

「たぶん、私がいなくなったからだと思う」

「なんであんた、ここに来たんだい?」

とされたの」


 銀色の髪の少女は、既に温くなったミルクを一口飲んだ。


「魔法使いがね、いつでもどこでも強い魔法を使うために、星の力を欲しがったから。あの夜、地上まで引っ張られたの。私は、お母さんから北極星の力を受け継いだばかりだったの。お母さんだったら、地上から魔法で引っ張ったくらいじゃ、堕とされたりしないわ。でも、私はまだ弱かったから」


 少女はぐっとカップを持つ手に力を込め、振り絞るように続ける。


「だから、魔法なんて大嫌い。私を空から引きずりおろして、お父さんやお母さんから引き離した魔法使いも、大嫌い」

「……そう」


 魔女はそう答えるのがやっとだった。


 魔女にとって、魔法を習うこと、魔法を知ることは当たり前だった。好きも嫌いもなく、魔法を学ぶことに疑いを持ったことすらなかった。


 しかし、北極星からやって来た少女にとって、魔法は当たり前ではなかった。むしろ、自身を傷つけた魔法を心底嫌っていた。


 魔女も手元にあるコーヒーを眺めた。見慣れた自分の瞳が、黒茶色の液体の上で揺れていた。


 お互いにしばらく黙っていた。そして、唐突に魔女が口を開いた。


「あんた、名前は?」

「え?」

「名前だよ。いつまでも『あんた』じゃ、やりづらくてしょうがない」


 北極星の少女は、首を横に振る。


「私たち星に名前はないわ」

「名前がない? ふぅん……じゃあ、ポラリスと呼んでもいい?」

「ポラリス?」

「人間は、星にも勝手に呼び名を付けてるんだ。北極星のことを、あたし達はポラリスと呼んでる」

「ポラリス……」


 少女は口の中でもごもごと、その名前を繰り返した。


「綺麗な響きだね」


 そう言って小さく……本当に小さく、ふわりと微笑んだ。それは本当に年頃の少女のような、無邪気な微笑みだった。


 魔女は更に続けた。


「ポラリス。確かに魔法使いの中にも、いい奴と悪い奴がいる。あんたをそんな目に遭わせた魔法使い達を許す必要はない。でも、これだけはあたしを信じてほしい。あたしはあんたを傷つけるつもりも、あんたの力を独占する気もない」

「……本当?」

「うん、本当。それにあたしの見たところ、ポラリスにも魔法のセンスがある。さすがは魔法使いの力の源、星の子どもだね。もしかすると、魔法を使えば、あんたは北極星に帰ることが出来るかもしれない。でも……」


 魔女はそこで言葉を区切ると、少し言いづらそうに続けた。


「今のあたしは、魔法が安定しないんだ。だからポラリス、魔法を使って帰るなら、あんた自身が魔法を使った方が確実だと思う。魔法が嫌いなのは分かるけど、元の星へ帰るために魔法を覚える気はない?」


 北極星の少女は――ポラリスは、俯いたままだった顔を上げた。そして、初めて魔女の目をまっすぐに見た。魔女の目も、ポラリスの目をまっすぐに見ていた。


 ポラリスの目は青色だった。青空を映した海のような、透き通った美しい青色だった。


 魔女の目は黒色だった。雲ひとつない夜空のような、透き通った黒色だった。


 二人とも、このとき初めて、自分は相手の瞳の色すら今の今まで知らなかったことに気付いた。


 やがて、ポラリスが意を決したように答えた。


「分かった。あなたを信じます。私が元の場所に帰れるように、魔法を教えて」


 この瞬間、魔女とポラリスとの間に、初めて「信頼」と呼べるものが生まれた。


―――


 さて、大変なのは魔法を教わるポラリスよりも、教える側の魔女の方だった。


「違うよ。物を浮かせるには、もっと腕に力を入れて、こう、ググーッとやるんだ」

「腕に力を入れて、ググーッと……」


 魔女による基礎魔法の指導が始まったが、いまいちポラリスには伝わらない。魔女は困り果てて頭を抱えた。


「おかしいね。あたしはそういう感じでやれば、すぐに使えたんだけど」

「ねぇ、今まで人に教えたことって、ある?」

「何人か、弟子はいたよ。みんな気付いたらいなくなってたけど」

「……たぶん、教え方が良くないんだと思うよ」

「え」


 魔女は呆気に取られてしまった。教え方が良くないなんて、初めて言われたからだ。


「んー、例えば、私があなたに『あれ取って』って言って、何を取ってほしいか、わかる?」

「いや、何を取ってほしいかちゃんと言えって思う」

「あなたの教え方、それに近い気がするの」


 ポラリスにとっては何気ないアドバイスだったが、魔女はがっくりと肩を落とした。実は、魔女はいわゆる感覚型の天才肌で、「なんとなく」「普通にやれば」といった感覚だけで、たいていの魔法は使えてしまっていたのだ。


 しかし、天才肌は往々にして、自身の才能には無自覚なものである。彼女もご多聞に漏れずそのひとりで、今まで辞めていった弟子たちは、揃いも揃って根性ナシだと思っていたのだった。


 そんなわけで、ポラリスの魔法の練習と共に、魔女にとっても教え方を練習する毎日が続いた。


 魔女が上手に教えられる日も、そうでない日もあった。


 ポラリスが上手に魔法を使える日も、そうでない日もあった。


 お互いに上手くいかなくて、やっぱりケンカをしてしまう日もあった。でも二人とも一晩寝て、次の朝に起きたら、合言葉のように「昨日はごめんね」で元通り。


 そんな生活が、しばらく続いた。


―――


 2ヶ月が過ぎた。魔女は小さな弟子に毎日魔法を教えてきたお蔭で、少しだけ人に教えるのが上手になっていた。


 そして、ポラリスは非常に優秀な生徒だった。魔法使いの卵が苦労して覚えるような魔法も、ポラリスはすぐに使えるようになったのである。


 今のポラリスは師匠と同じように、自由に物を動かしたり、暗い部屋を照らす光を灯したり、火や水を出したり、風を起すことが出来るようになっていた。何より、弟子が次々と魔法を使えるようになって、魔女もなんだか嬉しかった。


 そしてある夜、魔女はとうとう魔法が使えなくなってしまった。


 しかしポラリスは例外だった。なんて言っても星の子どもだ。彼女が使う魔法は、特別なのだった。


「魔法、使えないの?」

「うん。やっぱり、ポラリスが空からいなくなったからだと思うよ」

「私が?」

「そう。星がひとつ空から消える。普通の人間にとっては大した意味はないけど、あたしたち魔法使いにとっては大問題なんだよ」

「どうして?」


 魔女はすぐには答えず、窓の外を見た。相変わらず星は見えない。しかし、魔女の目にははっきりと星空が見えていた。そして、本来あるべきはずの場所に、北極星の光はなかった。


「魔法っていうのは、自然のバランスに支えられているんだよ。自然のバランスが崩れれば、魔法は上手く使えない。川の水がせき止められて水が濁ってしまうように、魔法の力の流れが濁ってしまうからね」

「そうなんだ」


 ポラリスはそう答えると、決意したように魔女と一緒に夜空を見た。ポラリスの目にも、魔女と同じ空が見えていた。


「私、そろそろ帰らなきゃいけないね」

「……うん。きっと、帰れると思うよ」

「私が空に戻ったら、あなたはまた魔法を使えるようになる?」

「たぶん、そうだと思う。それに、あんたを空から引きずり下ろした魔法使い達も、今は魔法が使えないはずだ。帰るなら今がチャンスかもね」

「うん」


 そして、次の日の夜。魔女とポラリスは、マンションの屋上にやってきた。

 

ポラリスは魔女からチョークを借りて、屋上に大きな魔法陣を描いた。大きな丸を描き、魔法陣の中に呪文を綴っていく。普通の人間には読めない字だったが、その呪文はポラリスの『祈り』だった。


『元の場所へ無事に帰れますように。』

『お父さんやお母さんに会えますように。』

『友達に会えますように。』


「……そういえば、星にも家族や友達がいるんだね」

「もちろんよ」


 不意に、ポラリスは手を止めた。何か忘れ物をしたような表情を浮かべて。


「どうしたの、ポラリス」

「……私、あなたの名前を知らない」


 魔女も、あっと声を上げた。そういえば、2ヶ月も一緒にいたのに、魔女は名乗っていなかった。ポラリスも、ずっと「あなた」と呼んでいるうちに、いつの間にかそれが当たり前になっていたのだ。


 二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。


「教えて、あなたの名前は?」

「まさか、最後の最後に名乗るなんてね。本当に面白いよ」


 魔女は笑いながら続けた。


あかね。あたしの名前は、茜だよ」

「茜……うん。あなたの髪の色にピッタリな名前」


 そう言って、ポラリスは呪文を書き足した。読める人間には、こう読めたはずだ。


『茜がこれからも元気でいますように。』


 最後の呪文を書くと、ポラリスは手についたチョークの粉を払いながら立った。新品だったチョークはすっかり短くなっていた。


 二人ともしばらく無言だったが、やがてポラリスがぽつりと呟いた。


「それじゃあ……行くね」

「うん」


 どちらともなく顔を見合わせる。ポラリスの目には涙が、茜の顔には優しい笑顔が、それぞれ浮かんでいた。


「元気でね」


 ポラリスの背を押すように茜が言った。ポラリスは泣いた。泣きながら、笑った。


「ありがとう、あなたもね」


 魔法陣の中心に向かって、ポラリスが歩き始める。ポラリスが一歩を踏み出した瞬間、魔法陣が微かに光り始めた。ポラリスが中心に向かって歩くたびに、少しずつ光は強くなった。


 魔法陣は、様々な色に光り輝いた。ポラリスの瞳のような青に、ポラリスの髪のような銀色に、レモンのような黄色に、新緑を思わせる緑色に、光を浴びた茜の髪のような夕焼け色に。


 不意に、声が聞こえてきた。ずーっと遠くから響くような、でもすぐ近くから聴こえるような、不思議な声だった。


 ――おかえり。


 ――おかえり。


 ――どこに行ってたの?


 ――どうして泣いているの?


 ――心配したんだよ。


「ただいま!」


 魔法陣の中心に立ったポラリスがそう言った瞬間、光は真昼のように強くなった。目も眩むその輝きに、茜は顔を逸らした。


 いつまでそうしていただろう。気付けば、茜はマンションの屋上に、ひとりぽつんと立っていた。ポラリスの姿も、魔法陣も消えていた。


 茜は夜空を見上げた。地上の光に飲み込まれて、やっぱり星の光は見えなかった。


 しかし、どれだけ地上の光が強くても、夜空に浮かぶ星々を読み取れるのが魔女。茜の目には、まるで最初からそこにあったように、北極星が輝いていた。


 かくして、北極星は己の居場所へと帰ったのだった。茜は煙草を咥えて、ライターを出そうして手を止めた。指先に力を込めてみると、愛用しているライターと同じような、小さな火が灯った。


 指先の火が煙草の先端を舐める。慣れ親しんだ煙草の味が口の中に広がった。ゆっくりと吸って、ゆっくりと煙を吐いた。北極星を眺め、茜はふわりと笑った。


「元気でな、ポラリス」


 夜空に向かって呟いたその声に、遥か遠くから誰かが応えた。






 ――茜も、元気でね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女と星の少女 藤野 悠人 @sugar_san010

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ