15 【PM07:12  残り時間 マイナス12分】

 教授室へ通じるドアが開いた。最初に解剖室に入ったのは東海林だ。その後ろで、園山たち赤羽東署の刑事がぽかんとした表情で立ち尽くしている。

 彼らは、まだ何が起きたのかよく理解できていないようだ。

 有田君に仕掛けた罠は、東海林と私の2人だけの極秘の連携のもとに進められていたからだ。おそらく警察全体でさえ、真相を知っていた者は数人に限られるだろう。

 東海林は有田君に歩み寄ると、その腕を掴んで命じた。

「さあ、あっちでゆっくり話を聞こうか。改めて念を押しておく。逃げようとしても止めはしない。君は、君を雇った組織に命を狙われるだけだ。だが、我々に従えば必ず守り通す」

 有田君は、逆らわなかった。

 私と目が合う。

 有田君は平然と言った。

「僕は……小野寺先生の後継者になりたかったんです……。だから、ここで自分が携わった仕事を……最後まで見届けたかったんです……」

 後継者?

 自分が小野寺ほどの天才だと自惚れているのか?

 というより、この犯罪を〝自分の仕事〟だと誇っているのか?

 初めて彼に対する本心からの怒りが湧き上がった。

「小野寺を決して許されない手術の被験者にしてか? その上、命まで奪ってか? 最後は君が殺したんだろう⁉ 君が小野寺の首を切り落としたんだろう⁉ 君は、小野寺の成果をつまみ食いしただけの落伍者にすぎない!」

 有田は、私を正面から見据えた。その目の奥に、意外にも後悔の念のようなものが見て取れる。

 悲しげな表情だ。

「僕は……小野寺先生の業績を盗み出すために、榊原常務の手配でJOメディカルに送り込まれたんです。でも、彼のような天才にはなれないことはすぐに思い知らされました。今まで挫折を知らなかった僕が、本物の天才に出会ってしまったんです。苦しかった……どんなにあがいても、あれほどの業績を生み出すことはかなわない……悲しかった……なぜ僕には小野寺先生のような才能が与えられなかったのか……そして、憎かった……ノーベル賞級の成果を平然と上げながら、秋月教授への復讐だけを考えていた小野寺先生が、憎らしくて仕方なかった……小野寺先生は、遺体に仕込む罠をびっしりと書き込んだ手書きのノートを作っていました」

「やはりあいつは、そこまでしていたのか……」

「分厚いノートに細かく書き込んだ計画は緻密で、偏執的でもあった……そんな計画、片手間でできるもんじゃないですよ。なぜあんなことができたんです? あなたへの復讐心に囚われていた、その合間でしか仕事をしていないのに……僕をあざ笑うようなアイデアを次々に生み出していったんですよ⁉ なぜ、あんな天才が存在するんです? あんなにバカにされた経験は、僕には今まで一度もありませんでした……」

 その言葉は、私の心に突き刺さった。小野寺の私への復讐心は、それほどまでに強かったのか……。

 だが……。

「それでも小野寺は、私への復讐計画を実行することは断ったはずだ。違うのか?」

「だから余計に腹が立つんです! 綿密な計画を立てて動画にまで吹き込んでいたのに……僕が偶然動画を発見して榊原常務に見せた時、常務は――その時はすでにJOメディカルを辞めていましたが、榊原さんは近いうちに計画を実行させようと即断しました。断られるなんて考えてもみなかったんでしょう。あんな動画を見れば、誰だってそうです。確信が持てなかったら、危険を承知で榊原さん自身が交渉に姿を現わすことはなかった……。なのに、呆気なく断られてしまったなんて……榊原さんが正体を現した以上、小野寺先生をそのまま放置しておくことなんてできないでしょうが!」

 東海林が会話に入る。

「そのとき君はすでに焼死体を偽装してこの世から消え、研究船を管理していたわけだ。その間に榊原の配下の者がJOメディカルの医療データを改ざんした。そして小野寺先生も姿を消し、君が後を継いだ……ということだね?」

 有田がうなずく。

「何もかもお見通しなんですね……」

「秋月先生が遺体の正体を見破ってくれたおかげでね」

 有田の目が私に向かう。

「なぜ、分かったんですか? 偽装には念を入れたのに……」

「女結びだよ。小野寺は、絶対にしない」

 有田が息を呑む。

「たったそれだけのことで……?」

「もっと早く気づくチャンスはあったんだがね」

「え? なんですか、それ?」

「脇腹の傷だ。私がかつて治療した」

「傷……? そんなものありましたか……?」

「君も見逃していたのか」

「僕……失敗ばっかりじゃないですか……。 小野寺先生の仕事は、完璧に学んだつもりでいたのに……。それじゃあ僕って……犯罪者にもなりきれない、ただの道化ってことですよね……」

 私はひどく気になっていた。

「小野寺は協力を拒む時、どんな理由をつけていたんだ?」

「秋月への復讐心は、俺のモチベーションの全てだ。だから、それを失えば俺も滅びる。復讐計画を実行することは一生ない――そう言い切りました。同席した私も、はっきり聞きました」

「自分の立場が危険になることには気づいていなかったのか?」

「まさか……。あれだけ大掛かりな設備を用意されたんですよ。背後に巨大な組織があるからこそ、思い通りの研究が続けられるんだと知っていたに決まっているのに……。免疫デザインの研究をサポートしていた榊原さんの要求を断れば、厳しい懲罰があると分かっていたはずなのに……」

「だったら、なぜ……?」

「僕なんかに小野寺先生の気持ちが理解できるはずがないじゃないですか……。何もかも、常識じゃ測れないんです、あの人は……。でも僕は、羨ましかった……あなた方は傷つけあい、憎しみ合っていたけど、互いに不可欠な存在だった……10年間も離れていたのに……だからきっとあなたは、僕のつまらないミスから真実を見抜いてしまったんですね……そんな好敵手が僕にもいれば、何かが変わったかもしれないのに……」

 私にも小野寺の気持ちは理解できない。そうまでして研究を続けた真意もまた、分からない。

 だが結果として、小野寺は私への復讐を拒否した。それは、心のどこかで私を認めていたからかもしれない。あるいは、自分を生かし続けるための利己心からだけだったかもしれない。

 肯定的であれ否定的であれ、小野寺の中での私は重要な位置を占めていたわけだ。

 小野寺にとって、私はどちらの存在だったのだろう。

 今となっては、もはや確かめようはないが……。

 腹腔を開かれた遺体に目が移る。

 なぜか、小野寺は私を守るためにあんな姿になってしまったのだという気がした。

 東海林が尋ねる。

「詳しいことは後でゆっくり調書に起こすが、君はどこまで知っている? 研究船やドナーの調達、それに秋月先生の奥さんの誘拐や幼稚園への爆弾の設置は誰がやったか知っているか?」

 有田がうなずく。

「榊原さんが指示したはずです。具体的な計画を立てたのは組織のメンバーで、手を下したのは中国マフィアの連中でしょう。私もドナーの受け取りの際に、何人かの中国人には会ったことがあります。野蛮で愚劣な奴らですよ」

 ドナーの受け取り、か……。

 物扱いだな。みんな、自分自身を精一杯生きていたはずの人間だというのに……。

 有田は、自分自信がどれだけ野蛮で愚劣かということに気づいていない。

 私は尋ねた。

「君は研究船で小野寺を手術しながら、昼間は何食わぬ顔で私の助手を続けていたわけか……」

「研究船には、専属の医療スタッフが何人もいました。ほとんどは海外から来ていたようです。大学が休みの時に私が手術し、彼らが術後管理をしていたんです。小野寺先生の首を切断したのも彼らです……」

 どうやら、それが何かの言い訳になっているとでも思っているらしい。

 私は、ずっと気になっていた〝夢の中の疑問〟を確かめたかった。

「小野寺につないだ右足――君の代わりに殺された誰かの右足は、1ヶ月以上も保存されていたのか?」

 移植可能な状態で長期間保存できるなら、それだけでも画期的な発明だ。

 有田が言った。

「理研の発表……ご存じありませんか? 摘出臓器を低温で保存するのではなく、生体の血液循環を再現した〝臓器灌流培養システム〟を使って生体外で長期保存を可能にする方法です」

「それでも、1ヶ月もの長期間は保存できないはずだ」

「JOメディカルでは、もっと進んだシステムを完成に近づけていました。現在、基礎的な実験が繰り返されているはずです。研究船ではさらにもう一歩先を行く装置を製作して、極秘に臨床試験を進めていたんです。保存が完璧だったことは、右足の移植が実現できたことで証明されました」

 殺人の被害者の四肢を研究材料にしたのだから、それもまた倫理的に許されない。榊原の手術船は、JOメディカルにさえ知られずにグレーゾーンの実験を行う機関だったわけだ。その成果は、JOメディカルを弱体化させた後に、欧米企業から先に発表される計画だったのだろう。

「それも小野寺の研究成果なのか?」

「その通りです。小野寺先生の免疫制御理論を応用することで実用化された保存法です。おそらく、1年以内にはJOメディカルから正式発表されるんじゃないでしょうか。榊原さんは、先手を打って特許を抑えようと模索していたようですけど」

 つまり小野寺は、免疫デザインの副次的な成果まで自分の体に取り込んでこの世を去って行ったのだ。

 ある種の研究者は、革新的な実験のために自分の肉体を提供することを恐れない。小野寺もあるいは、自らが実験台になることを歓迎していたのではないか……その結果を確認し、満足して死んでいったのではないか……とさえ思えてしまう。

 だとしたら、研究者としての小野寺は決して不幸ではなかったはずだ。

 私としては、せめてそうあって欲しいと望む。

 私は、最も重要な質問をした。

「小野寺は、意識があったのか?」

 有田は目を伏せた。まだ、少しは良心が残っているのかもしれない。

「分かりません……私が手術をする際は、当然全身麻酔がかかっていましたから。時々容態を確認しに行った際も、鎮静剤で眠らされていました。起きていた時があったかどうか、確かめもしませんでした。怖かったんです……」

 天才の心と体を踏みにじったのだ。怖くて当然だ。

「君は結局、なんのために小野寺を殺したんだ?」

「榊原が怖くて……逃げられなかったのか……それとも逃げたくなかったのか……。自分でもどちらなのか分かりません。成功すれば大金が支払われると約束されたことは認めます。でも、信じてもらえないでしょうが、それは目的じゃない。どんな結果に終わるにせよ、最後まで全てを見届けたかったんです。なぜでしょうね……何もかも放り出して、消えてしまいたいと思ったことは何度もあったのに……」

 有田はまだ、自分の気持ちを整理できずにいるようだ。

 それはいずれ、東海林がはっきりさせてくれるだろう。彼らの背後関係を完全に洗い出すためには、これから長い取り調べが行われるはずなのだ。

 私は目を背けた。

 そこに、花苗君が立っていた。

 花苗君は、有田を見つめている。だが、何も言わなかった。ただ、かすかに目尻に涙を溜めていただけだ。

 花苗君は黙ったまま、除細動器を乗せたワゴンを押して教授室へ戻って行った。

 私は、東海林に背中を押されていく有田の後を追って、教授室へ入った。

 これでようやく、解剖台から離れられる。ドアをくぐる直前、振り返った。

 そこにはまだ、小野寺が横たえられている。

 他人の四肢をつなぎ合わされ、首を落とされ、残った胴体に私への罠を張り巡らされた小野寺……。

 それでもこの遺体は、小野寺だ。自分が確立した画期的な医療技術を自らの肉体で実証し、死してなお私への復讐を遂げようとした小野寺だ。

 国際的な利権争いに翻弄されて壮絶な最後を迎えたが、それでも目的は達したのだ。いつかこの技術が正当に評価されて正しい軌道に乗れば、多くの患者を救って小野寺の名を未来に伝えるだろう。

 ひどく傷つけ合いはしたが、尊敬できる友人でもあった――。

 ドアを閉めた。

 雅美は解剖室に背中を向けて座り、首を捻って私を見上げていた。テーブルに両手を載せている。

 私は、その目を見返すことはできなかった。横の椅子に、並んで腰を下ろす。

 なんと言っていいのか、分からない。

 口を開いたのは、雅美が先だった。

「ご苦労様でした……大変だったでしょう……?」

 自然に雅美の手に触れた。

「すまなかった……私のせいで、こんな目に合わせて……」

 雅美は手を引っ込めない。きっぱりと言った。

「あなたの責任じゃありません。ただ、運が悪かっただけ。まさか、小野寺先生がこんなことを考えていただなんて……」

 その言葉には、小野寺への嫌悪感がにじんでいた。当然と言えば当然だ。雅美はずっと小野寺を嫌っていたのだから。

「あいつは、ただ考えただけだ。そして、利用されただけだ……」

 少し、間があった。

「あなたって、こんなことになっても小野寺先生が嫌いになれないのね。東海林さんから全部聞きました。あなたが私を救ってくれたことも、分かっています」

 私は、雅美の手を軽く握った。だが、まだその目が見られない。

 別れていた2年の歳月は、一瞬では埋まらない。

 まだ私には、一番大切な仕事が残されていたのだ。

 雅美との関係を、どうやって修復すればいいのだろうか……。

 と、花苗君が反対側に立った。血圧を測るマンシェットを持っている。

「秋月先生、すみません。血圧だけ計らせてください」

 花苗君も私には目を合わせずに、淡々と血圧を測った。

 その間、東海林が有田を連れて教授室を出て行く。

 戸口では、園山と槇原が私たちを見守っていた。

 私は花苗君に言った。

「君にもひどく迷惑をかけたね。すまなかった」

「とんでもありません。助手として充分に働けなかったことを、反省しています」

 そして不意に、声を詰まらせる。

 悔しいだろう。事情はどうあれ、付き合い始めた有田がテロリスト並みの、いや、考えようによっては日本の根幹を破壊することに加担した重大な犯罪者だったのだ。

 だがもちろん、花苗君の責任ではない。

 できれば、心の支えにはなってやりたい。だがそれは、私の仕事ではないだろう。時間をかけて忘れるしかない。せめて、心を許せる誰かがそばにいてくれればいいのだが……。

 そんなことしか言えない――いや、それすら言葉にできない私を、許してほしい……。

 花苗君は言った。

「血圧は正常に戻ってきています。体調はいかがですか?」

「良くはないが、ひどくもない」

 花苗君はようやく微笑んだ。無理をしている。

「1時間以内にはちゃんと精密検査を受けてくださいね。田渕教授が手ぐすね引いて待っていますから」

 そう言って、機材を片付ける。

 私たちを見ていた園山が、ようやく口を開いた。

「秋月先生、ありがとうございました。我々所轄も恥をかかずに済みました。先生が奴の企みを見抜いてくれたおかげです」

 礼を言うために部屋に残っていたらしい。律儀な刑事、なのだろう。

「企みを見抜いたのは、東海林さんです。私は言われるがままに駒になっていただけです」

「所轄刑事の眼力を甘く見ないでいただきたい。百戦錬磨の公安のお偉方が、あなたの監察医としての目の鋭さに感嘆していました。本当の罠を見破ったそうですね。それがなければ、東海林も事件を解決できなかったはずです。我々の鑑識と一緒に正木先生がこっちに向かっていますので、あとは警察におまかせください。先生はもうお休みいただいて結構です」

 心底疲れ果てた私には、ありがたい言葉だ。だが、事件の行方は気になる。

「公安は、どこまで捜査を進めるんでしょうね……?」

 有田を操っていた榊原は、警察の追及から逃れられないだろう。国外へ逃亡していたとしても、国際指名手配は免れない。

 だがその先には、アメリカやEU、そして中国の国益を担った組織が暗躍しているはずだ。果たして追及の手は、そこまで伸びるのだろうか……?

 たとえ東海林に聞いても、まともな答えが返ってくるとは思えない。

 園山は肩をすくめた。

「一介の刑事には荷が重すぎる質問ですね。国家間の政治問題になりますから。それでも、日本のカードは格段に増えます。戦わなければならない時は、非常に有効な武器になるでしょう。政治家たちに秋月先生ほどの胆力があれば、ですがね」

 確かに、その先は私たちが関知できる問題ではない。

「東海林さんやあなた方のような警察官がいるんですから、希望はありますよ」

 園山はかすかにうなずいてから、槇原に言った。

「さあ、俺たちも行こう」

 槇原はうなずいたが、部屋を出ようとワゴンを押す花苗君に不意に声をかけた。

「大橋さん、すげえカッコよかったです。今度、食事を付き合ってもらえませんか?」

 園山が呆れたように口を挟む。

「お前それ、今言うことか?」

「だって、次にいつ会えるか分かんないじゃないっすか」

 花苗君は目を丸くして槇原を見上げている。

 槇原がさらに言う。

「俺、背筋が伸びてる女が好きなんです」

 花苗君は、くすっと笑った。

「あなた、歳はいくつ?」

「29っす」

「4コも下」

「全然オッケーっすよ!」

 槇原は、へこむ様子もない。無神経なようにも見えるし、今の私からは花苗君の傷を埋めようとしているようにも見える。案外、そんな強引さが花苗君にとっては救いになるのかもしれない。

 少なくとも、笑うことはできたのだから。

 園山が苦笑いをこらえながら言った。

「その話は外で、な」

 二人を廊下に押し出す。そして、振り返ると私の前に歩み寄ってテーブルにiPhoneを置いた。

 園山は言った。

「有田の自宅をガサ入れしました。パソコンの中に、小野寺の復讐計画と一緒にこの動画が入っていたそうです。さっき送られてきました。JOメディカルでコピーして、元データは消去したんでしょう。たぶん、この動画を見たのは有田一人だと思います」

 小野寺が自分のために残したものらしい。私にも関係があるのだろう。

「中身はなんですか?」

 真剣な眼差しで付け加えた。

「最後まで見ることを、強くお勧めします」

 そして教授室を出て行った。

 花苗君たちは外で待っていたのだろう。ドアが閉まると、ひときわ大きな彼らの笑い声が聞こえた。

 私の心も、少しだけ軽くなる。

 教授室に残ったのは、私と雅美だけだ。

 私は、目の前に置かれたiPhoneをじっと見つめていた。

 画面には、小野寺の顔が大写しになっている。中央には、円形の枠に入った矢印がある。そこを押せば、動画が始まるが……。

 雅美が言った。

「見なくていいの?」

 体が動かない。

「見るべきなのだろうか……」

 なぜ園山は、この動画を見ろというのか……。

 小野寺は、一体何を語ろうとしているのか……。

 と、雅美が手を伸ばして動画を開始させてしまった。

 私も、覚悟を決めた。

 小野寺がカメラを見据える。まるで、私を見つめているようだ。

 いや、小野寺は本当に私を見つめて語っていた。

『秋月……やっと分かったよ。俺は、お前を裏切ることはできなかった……。なんでだろうな。榊原があの計画を実現に移すなどと言わなければ、今まで通りお前を恨んでいられたのにな……。俺だって、お前が正しいことは分かっている。あの時だって、いつかは大学を追われるだろうと覚悟していたんだ……。それでも、研究を止めることはできなかった……。だから、おとぎ話のような復讐計画をこねくり回して、少しでも腹立ちを紛らわせようとしていただけだ。ただの空想で……たぶん、作家が気に入らない人間をどうやって殺すか考えながら小説を組み立てるようなもんだろうな。その間だけは、お前を恨んでいられた。自分は間違っていないと、信じている気分になれた。そうしていなければ、研究を続ける気力が維持できなかったんだ……』

 小野寺が私への復讐心をモチベーションにしていたことは事実だった。私は確かに、そこまで恨まれても仕方ないことをしてしまったと思う。

『大学を解雇されて、俺は落ち込んだよ……。JOメディカルに誘われて研究室を構えてからも……研究に没頭できる環境が整ったにもかかわらず……全く手がつかなかった……。なぜだろうと悩んだよ……自分でも理由が分からなかったんだ……だが、みんな秋月が悪いんだと叫んだ途端に、なぜか力が湧いてきた……。お前を非難している間だけは、罪の意識から解放されたんだ……。だから、最初から本気になどしていない復讐計画を弄んで、あの動画や計画書を残した。分かってるんだよ……正しいのはお前だってことは……。俺だって、あの実験に非があることは知っていた。だが、止められなかった……。自信があったんだ。確信を持っていたんだ。実験さえできれば……胎児さえ手に入れば、安全で恒常的な免疫制御の理論が実験で証明できる……数年の時間さえ与えられれば、必ず実用的な方法が見出せる……そうすれば、病気で苦しむ多くの人々を助けられる。臓器移植以外に治療法がない人々を救える。ガンに侵された臓器だって取り替えることができる。たったそれだけで、一体何100万人もの命を救うことができるか……人間の寿命を倍以上に伸ばすことさえ夢じゃないかもしれないんだ……だから、榊原の誘いに乗るしかなかったんだ……馬鹿でかい病院船まで用意されて……背後で妙な連中が蠢いていることは分かっていたが、それでもやるしかなかったんだ……』

 小野寺がそう考えていることは分かっていた。しかし、光があれば影もできる。光が強烈な分だけ、この影は底なしに暗い。

 小野寺の口調にさらなる苦渋がにじむ。

『デメリットだって分かっているさ。簡単に臓器を入れ替えられるようになれば、爆発的に需要が増す。全ての臓器が売買の対象になる。自ら臓器を売る者も出るだろうし、殺して奪おうという者も出るだろう。老化した臓器を次々に入れ替えられるなら、実質的な不老不死だって実現するかもしれない。富む者が貧しい者から臓器を奪い取る……唯一平等だった人間の死さえも、これからは幻になるかもしれない……そんな時代が来ることも考えてみたさ……』

 小野寺自身が、漆黒の影を直視していた。そして苦悩した末に、己が歩むべき道を定めたのだ。

『だが、それが長期間保存されていた死者の臓器だったらどうだ? 俺の技術は、それを可能にする。培養された人工臓器だったらどうだ? iPS細胞の実用化で臓器培養の可能性は広がっている。あるいは人間との親和性が高い豚の臓器だったら? 俺の免疫制御法と組み合わせれば、副作用が大きい免疫抑制剤の使用量も格段に減らせる。純粋なマシンと融合する可能性だって大幅に広がる。SFみたいなサイボーグだって実現できるだろう……。もっと身近なことなら、花粉症を完璧に抑え込む薬品だって開発できるかもしれない。それだけで、どれほどたくさんの人から苦痛を取り除けることか……どれほど巨大な薬品市場が生まれることか……』

 小野寺は、闘ったのだ。科学と倫理、理性と探究心の間に立たされ、心を磨り潰されるような思いをしながら、その重さを1人で真正面から受け止めた。

 決して逃げようとはしなかったのだ。

『秋月……それでもお前なら、神の意志に背く行為だと非難するんだろうな……。人が死ななくなれば、地球上の資源はあっという間に枯渇する。それは、人が死ねない社会でもあるからな。たぶん、争いも増えるだろう。世界は新たな社会を作り出さなければならないだろう。作れなければ、滅びるかもしれない……だがそれは、俺の本意じゃない。俺はただ単純に、苦しむ人を救いたいだけなんだ……俺だって、臨床を手がけたことはある。心臓移植の順番を待ちながら死んでいった子供を何人も見た。家族は、何もできない研修医の俺にさえすがって、助けてくれと懇願したよ……。奥さんにいきなり末期のガンが見つかってめちゃくちゃになった家族も見た。そんな人たちを助けたいんだよ……目の前にいる、苦しんでいる人たちを……俺なら助けられるんだよ……俺なら……。そんな考えじゃ……ダメか……? 俺のこの願いは、悪魔の所業なのか……?』

 小野寺は、私に答えを求めていた。だが、私ごときが答えられる問いではない。

 それは、世界を変える力を持つ発見や発明をしてしまった全ての先駆者が覗き込む深淵だ。その深みにかかった細い橋は、霧の中に消えて先が見えない。

 それでも渡りたい衝動を抑えられないのが、研究者だ。

 火薬も、飛行機も、原子力も、人類に大きな利益をもたらす一方で大量殺戮兵器にもなってきた。医薬品も同じだ。

 感染症を劇的に減らせる薬が発見されれば、人口爆発が加速される。土地や食料や資源の奪い合いで貧富の差が広がり、紛争や難民を増やして社会の不安定化を生む。地球そのものを破滅に追い込む危険性さえ否定できない。

 AIの爆発的な進化はすでに現実問題になっている。シンギュラリティと呼ばれる特異点を超えた時、その先にどんな世界が現れるかは、もはや誰にも断定できない。

 それが救済となるか、危機をもたらすのか――手探りのまま驀進し、止めることなどもはや不可能だ。

 それでも、人は進み続ける。

 少なくともこれまで人類は、そんな先駆者たちの懊悩の上に〝文明〟を築いてきた。その積み重ねを破綻させないためには、まったく新しい哲学や宗教が必要な時代が訪れたのかもしれない。

 小野寺はマッド・サイエンティストなどではない。真のサイエンティストだったのだ。

『秋月……お前に出会えなければ、俺の人生はもっと悲惨なものになっていただろう。いつまでたっても大学に馴染めず、病院と争い、心を歪めてドロップアウトしていたはずだ。お前と一緒に苦しい時期を乗り越えたからこそ、今の俺がある。だから、この画期的な発見を形として残せた。今なら素直に言える。ありがとう……。本当に感謝している。お前は……お前だけが俺の真の友人だった。だが、10年前は無理だった……そんなことはとても言えなかった……たった1人の友人だと信じていたお前に、裏切られたと思って……孤独のどん底に叩き落とされた。お前の裏切りが……裏切りだけが、俺には許せなかったんだ。俺を告発したのが他の誰かだったら、こんなことにはならなかっただろう。自分から日本に見切りをつけて、倫理規定もなく実験材料も使い放題の中国にでも渡っていたかもしれない。そんなことをしたところで、技術の移転が終わったら切り捨てられるか、ことによったら口封じに殺されるに決まっているけどな。あいつらは自分の利益しか考えない。不老不死を実現するだけならともかく、不死身の兵士さえ作りかねない。とどのつまりは、軍事技術に転用されるだけだ。それが分かっているから、他国に渡ろうとはしなかった。そもそも、移植ドナーに事欠かない中国からは、声もかからなかった。しかも新型ウイルスの猛威に屈服した今では、そんな余裕もないだろう。俺の目は正しかったということだ。なのに……こんな結果になってしまった。研究を止めることはできなかった……それが、俺の全てだからな。研究がなければ、俺も存在しない。だから、榊原の誘いに乗った。榊原は言ったよ。日本のためにリスクを冒してでも安全な免疫制御法を完成させたい――って。その言葉を信じた……いや、信じたフリをした。たとえ榊原の目的が己だけの利益だったとしても、免疫制御法が完成できれば世界を変えられると思っていた……。だから、お前への復讐計画を弄んでいたんだ。そうしている時だけしか研究を完成させたいという意欲が湧かなかったからだ。厄介なものだな、研究者ってやつは……。ヒトの免疫は自由にできても、自分の心はこんなことでしか制御できないだなんて……』

 小野寺が復讐計画の実行を拒否した理由がはっきり分かった。今でも私たちは〝戦友〟だったのだ……。

『研究が完成した時、榊原は正体を現した。俺に復讐計画を実行しろと命じてきたんだ。その時、JOメディカル自体を売りとばすのが榊原の狙いだと察した。その場で断ったよ。そもそもが本気でお前に復讐しようなんて考えちゃいなかったんだからな。だが、俺だってバカじゃない。少しぐらいは世の中の仕組みは見てきた。この話を断れば、俺は不要になる。いや、邪魔になる。俺にへばりついてる助手が榊原の回し者だってことは最初から感じていた。いわば、見張り役だ。あいつは、俺から全てを吸い取っている。俺の代わりになる気だよ。アイデアに形を与えた俺は、もう用無しだ。基本理論さえ構築できれば、あとは退屈な改良の繰り返しだからな。そんなことは、俺じゃなくてもできる。だからきっと、俺は近いうちに殺される。たぶんあいつらは、俺が練り上げた復讐計画を実行に移すんだろう。俺の仕業に見せかけて、死んだ俺に濡れ衣を着せるつもりだろう……』

 分かっていたのだ。こんな事態が訪れるだろうことを、すべて予見していたのだ。

 小野寺は、自分が殺されると知りながら、それでも自ら執刀することを拒んだのだ……。

『秋月……お前には迷惑をかけてすまない。だが奴らの狙いは、JOメディカルを意のままに操ることだ。だから、お前に危害を加えることはないと思う。そんなことをしても利益はないからな。俺の計画では遺体にダイナマイトを仕込むことになっていたが、奴らがそれを真似たとしても、たぶんダミーを使うだろう。騒ぎを大きくすることが目的だから、お前が傷つけられることはないはずだ。ただ……お願いだからあいつらに負けるな。お前のことは、ずっと遠くから見てきた。一流の監察医になったことも知っている。今のお前なら、俺が考えた罠を――奴らが仕込むだろう罠ぐらい、きっとかわせるはずだ。だから、どんなことがあっても諦めないでくれ。俺の代わりに真相を暴いて、榊原たちを叩き潰してくれ』

 私は、小野寺の遺体と闘っていた。小野寺が知恵を絞った数々の罠と闘っていた。たった1人で、その最前線に立たされていると思っていた。

 違ったのだ。

 小野寺は、私と共にいた。私が小野寺ならこう考えるはずだと予測した場所に、罠を仕掛けていた。その罠そのものが、私を導く道標でもあったのだ。

 私は、小野寺と共に闘っていたのだ……。

『俺は……俺はもう、成すべきことを終えた。いつ死んでも悔いはない。むしろ、これまでお前たちに迷惑をかけてきたことへの、当然の報いだと思っている。俺が発見した免疫制御法がこの世に残りさえすれば、もうそれで充分だ。だが、お前は生きてくれ。俺の唯一の友人として、俺のことを覚えていてくれ。できれば、いつの日かこの動画がお前の目に止まることを望むよ。今の俺がお前を恨んでなんかいないことを分かってもらえれば、どんなに嬉しいか……』

 動画は、そこで不意に途切れた。だが、小野寺の本心は分かった。

 小野寺は今も、真の友人なのだ……。

 数分の沈黙が過ぎる……。

 雅美がぽつりと言った。

「小野寺さんの研究……どうなるんだろう……。やっぱり、海外に取られちゃうのかな……」

 ずっと考えていた。

「それはないだろう。小野寺の画期的な仕事は、世界中の医療従事者の誰もが目の当たりにした。JOメディカルには基礎データが揃っているだろう。同じ理論を発表したら、自分たちがこの犯罪の黒幕だったと明らかにするようなものだ。おそらく、JOメディカルから近いうちに発表があるだろう。あくまでも、小野寺悟の発見として、ね」

 是非ともそうなってほしいものだ。 小野寺は自分を貫き、実績を残し、そして去って行った。せめて、その仕事には小野寺の名を冠してほしい。

 小野寺の研究は世界を変える。救われる難病患者は数知れないだろう。小野寺が、願った通りに。

 と同時に、世界に〝重く鋭い問い〟を突きつけることになる。答えを出すまでに、そう多くの時間は費やせない。パンドラの箱は開かれてしまったのだ。

 試されるのは、人類だ。

 果たして、箱の底から〝希望〟を掬い上げることができるのだろうか……。

 それでも小野寺は、結果の全てを受け止める覚悟を持っていたはずだ。

 小野寺は将来、人々からどう呼ばれるのだろうか。救世主と崇められるか、悪魔と罵られるのか……。

 残された我々には、どのような答えを導き出すのか考え続けなければならない責任がある。私はその試練に加わり、共に苦悩し、見守っていこう。信念を貫いた小野寺のためにも――。

 雅美がつぶやく。

「男の人って……なんだか、羨ましい」

 雅美の視線を感じる。私は、かすかに涙を溜めていたようだ。だが、まだ見返せない。

「こんなに傷つけあったのに、か?」

「傷つけあっても、分かり合えてる……」

 確かに、その通りだ。

「腐れ縁……だからな……」

 だが、ふと思った。

 有田は、なぜこんな動画を自宅に保管していたのだろうか? 保管しておいてしておいて、何の役に立つのだろうか?

 後々榊原と対立した時に、脅迫か取引の材料にしようと考えたのか……?

 確かにここでは、榊原と有田の関係にも少しは触れている。だが、語られているのは小野寺の主観に過ぎない。これだけで何かの証拠になるのだろうか……? 

 そして気付いた。

 有田は、小野寺の才能を妬んでいた。自分も小野寺のようになりたいと願っていた。だから、消去できなかったのかもしれない。

 有田もまた、私たちが羨ましかったのだろう。

 私は、雅美の左手を軽く握ったままだった。指先に目を落とす。

 薬指に、結婚指環の跡がくっきり残っていた。

 思わず、声に出た。

「指環……今でもはめていたんだ……」

「うん……なんだか、外せなくて……」

 どうしても答えてもらえなかった質問が、不意に頭に浮かんだ。

「雅美……なぜ、私と結婚したんだ? 他にもふさわしい候補がいたのに、なぜ私を選んだ?」

 答えてもらえるとは思っていなかった。

 間違いだった。

「解剖を終えたご遺体が、とてもきれいだったから……。ご家族の気持ちを真剣に考えている人なんだな……って。私、そういう人と暮らしたかった……」

 私は手術が下手だ。医師としての致命的な欠点だ。

 だが、それを知っているからこそ、遺体の処理にはいつも気を使った。どんな監察医よりも自然で美しい遺体を家族の元に戻したいと願い、腕を磨いてきた。

 そしてなぜか相手が死んでいれば、集中することができた。

 つまり、私の欠点が雅美を引き寄せたのだ。欠点だらけの私だからこそ、受け入れてくれたのだ……。

「まだ私を恨んでいるか?」

 答えはすぐに返った。

「いいえ……あなたの気持ちは分かっていたの。ずっと分かっていたの。いけないのは、私。意地ばかり張って……。でも、どうしていいかが分からなくて……」

「だが、こんな恐怖まで味あわせてしまった……」

「捕まっている間、ずっと考えていました。なんであんなに意固地になっていたんだろう、って……。あなたは今でも変わらない。私を救うために全力を尽くして闘ってくれた。それなのに……」

「許してもらえるだろうか?」

「私こそ……」

 私は、指環をポケットに入れていたことを思い出した。取り出す。

「帰ってきてくれるか?」

「はい」

 私は指環を雅美の指に戻し、目を見つめた。

 一瞬で、2年間の苦しみが溶け去った。

 それはまるで、小野寺が〝戦友〟の私に与えてくれた福音のようだった。


                           ――了

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邪なる骸 岡 辰郎 @cathands

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