14 【PM07:02  残り時間 マイナス2分】

 間に合わなかったのだ……。

 警察は最後まで、必死の捜査を続けていたはずなのだが……。

 だが、救いはあった。園山が続ける。

『ですが、3ヶ所とも廃園になった無人の幼稚園でした。被害者はいないようです』

 犯人は、時間通りに爆破するという宣言を守った。だが無駄な犠牲者は出したくなかったのだろう。

 それもまた、小野寺ならやりそうなことだ。犯人の偽装はそこまで徹底しているという証拠でもある。

 そもそも、午後7時の幼稚園にたくさんの子供が残っているとも思えない。犠牲者は、雅美1人で充分だと考えたらしい。

 有田君が苦しげに言った。

「ああ……こんなところにあったのか……。ダイナマイトに書かれている番号……今、見えました……。間に合いませんでした……申し訳……ない……」

 有田君は、そこに記されていた4桁の番号を告げた。だが、時計はすでに制限時間を超えていた……。

 終わったのだ……。

 すべて、終わった……。

 有田君は遺体の内臓を見下ろして、呆然と立ち尽くしたままだった。その目が、ゆっくりと腹に向かう。

 iPhoneがかすかに振動したことに気づいたようだ。当然、表示されたメッセージも読んでいる。

 案の定、有田君の表情が凍りついた。

 私の耳の中で東海林の声がする。

『〈君がすべての犯人だったことは分かっている〉と送ってやりました。先生、厳しい体調の中、ご協力いただいてありがとうございました。申し訳ありませんが、もうしばらくお付き合いください』

 大きく見開かれた有田君の目が、私に向かう。

 私は微笑んだ。そして心電図センサーを外し、体を起こしてストレッチャーを降りる。

 心臓はまだ正常とは言い難い。持病が緊張で悪化していることは間違いない。だが、差し迫った危機はとっくに去っている。その状態は、心電図でも確認できていただろう。

 大げさに騒いで見せたのは、有田君にダイナマイト周辺の解剖を任せて、その様子を観察するためだった。

 東海林から、そう要求されたからだ。その結果、有田君への疑いは確信に変わった。

 有田君の正面に歩み寄って、解剖台に手をついて体を支えた。

 遺体の腹の中でiPhoneが揺れる。

〈有田、いや、間宮孝典、公安はすべてを掴んでいる。指示に従え。協力すれば情状酌量の余地はある〉

 そして、耳の中で東海林が言った。

『奥さんが大学に着いたそうです。大きな怪我はありませんから、ご安心ください』

 長いため息が漏れた。

 雅美を救出できたのだ……。

 もう安心だ。私は長い一日を、ようやく乗り切ったのだ。

 役目を果たすこともできた。国民の1人として、大学教授として、監察医として、男として――私に託された仕事を、なんとか最後までやり遂げたのだ。

 緊張と恐怖を強いられた闘いは、ようやく終わった。

 そして、勝利した――。

 あとは、公安の手助けに徹するだけだ。

 捜査が急速に進展していることは、逐一耳の中のスピーカーで知らされていた。公安の意図も説明されていた。有田君には、もはや逃げ道はなかったのだ。

 雅美が駿河湾上の海洋調査船から救出されたことは、とっくに連絡を受けていた。怪我がないことも知らされている。

 何年か前に小笠原の赤サンゴを密漁した中国船を急襲した海上保安庁の特殊部隊が出動したという。助け出された雅美がヘリでこの病院に向かっていることも分かっていた。

 本当なら、私が迎えに行ってやりたいところだった。だが、雅美にも大事な仕事がある。それを終えたら、しばらくここに入院させよう。

 許されるものなら、私がずっと付き沿う。

 許されるものなら……。

 耳の中で声がする。その指示に従って、私は東海林の言葉を有田君に繰り返した。天井のマイクに拾わせるためだ。

「有田君、ありがとう。君がいち早く真実を明かしてくれたおかげで、警察は事件を解決することができた。このご遺体が小野寺のものだと君が教えてくれなかったら、彼らも真相には辿り着けなかっただろう」

 有田君があんぐりと口を開いて、私を見つめる。

 当然、何を言われているか理解できないだろう。

 それでいい。東海林は、何をなすべきか分かっているのだから。

 私の今の言葉は、ネットで全世界に配信された。これだけ特大の〝劇場型犯罪〟で耳目を集めているのだから、当然だ。世界中の誰もが私の言葉に聞き耳を立てている。

 この犯罪を企てた〝黒幕〟もまた、注目している。

 iPhoneが揺れた。

〈君がわざと解剖を遅らせて時間を稼いだことは分かっている。だが、君の雇い主は今、君が裏切り者だったと確信した。君はこの先、証拠隠滅のために組織から命を狙われることになる。守れるのは、我々公安だけだ。我々に従え〉

 公安は非情だ。犯罪と闘うためには手段を選ばない。非道な犯罪に加担した有田君にとっては、当然の報いでもあるが。

 東海林が言った。

『秋月先生、止めを刺してやってください』

 私は有田君に微笑みかけた。

「君がギリギリまで時間を稼いでくれたおかげで、組織の解明も妨害を受けずに進められたそうだ。妻も船から救出された。まさか、小野寺の体を海洋調査船の上で手術していたとは……警察も、君に教えられるまでは気付かなかったと言っていた。最後の最後で良心に従ってくれたことに感謝する。船にいたテロリストたちも逮捕された。君はもう安全だ。約束通り、君にこの犯罪を強要した黒幕の名前を教えてくれるね」

 有田君は固く口をつぐんでいる。

 と、教授室の窓の中に動きが見えた。廊下のドアが開いて、東海林が入ってくる。

 その後ろに付き従っているのは――雅美だ。

 雅美は解剖室の私に気づいて一瞬笑顔を浮かべたが、すぐに目を伏せてしまった。

 東海林に促されて、有田に視線を移す。

 しばらく有田を見つめてから、しっかりとうなずいた。

 東海林が手にしたiPhoneに話しかける。音声認識ソフトのSiriでメッセージを書き込んでいるのだ。

 しばらくして、小野寺の腹のiPhoneに文字が浮かんだ。

〈今、秋月先生の奥さんが君の顔を確認した。君を研究船で見かけたことを認めた。もう逃げることはできない。君にこの犯罪を命じた者の名を、ここで白状しろ。しなければ、このまま君を解放する。明日までは生きていられないだろう。言えば、責任を持って保護しよう。新しい身分も与える。君にとっては、3っ目の身分になるのかな。今日死ぬか、別人として天寿を全うするか――今、ここで選べ〉

 有田君は黙ってiPhoneを見つめ続けていた。息が荒いのに、顔色は真っ白だ。沈黙が続く……。

 と、覚悟を決めたようにポツリと言った。

「榊原……半年前までJOメディカルの取締役だった男だ……」

 私が問う。

「その取締役は、なぜ君にこんな犯罪を犯させたんだ?」

 iPhoneにメッセージが浮かぶ。

〈榊原の目的は何だ? 今ここで、話せ〉

 一度口を開いた有田君は、もうためらいも捨てたようだ。

「JOメディカルを解体するためだと思う……。たぶん、海外の投資家集団から指示を受けていたんだろう……。本当のところは、僕には知らされなかったけど……」

 いい答えだ。だが、不充分だ。

「小野寺先生の研究を悪用して猟奇犯罪を犯し、JOメディカルの信頼を失墜させようとした――そういうことか? 企てたのは、JOメディカルを敵視する国外勢力だと言うんだね?」

「僕は、ずっとそう思っていた……。小野寺先生を手術した研究船には、とても個人の資金や権力では揃えられないような医療機器がふんだんに備えられていたから……。背後に誰がいるのかは、怖くて聞いたことはなかったけど……」

 完璧だ。この完璧な答えが今、ネットを通じて全世界に発信された。

 小野寺個人の復讐劇だったはずの凄惨な劇場型猟奇犯罪が、実は海外投資家の〝日本つぶし〟の一環であったという事実が暴かれたのだ。

 私の耳の中で東海林が言った。

『秋月先生、ご苦労様でした。これで、中継を終えられます。お礼は改めて、ゆっくりとさせていただきます』

 教授室では東海林の指示を受け、ユーチューブの担当者が機材を操作し始めている。回線を遮断して撤収する準備だ。と、iMacの中継画像が消えた。

 全世界の耳目を集めたこの解剖室が、ようやくいつもの静寂を取り戻せるのだ。

 そして、機材を抱えた担当者が私に目礼し、去っていく。

 今日、最も重荷となった〝仕事〟も、どうやら無事に遂行することができたようだ。

 東海林の要求は過酷だった。

 私に〝名探偵〟を演じろというのだ。有田君に、誰から命じられたのかを白状させるために。それも、全世界にネット中継されている中で、だ。

 そんな大芝居など、一介の医師には難しすぎる。役者の経験など、もちろんない。どう振る舞えばいいかなど、分かるはずがない。

 それでも、やり遂げるべきだと思った。雅美を救出した警察への恩に報いるためだ。

 そして、小野寺の無念を晴らすためだ。

 小野寺は、確かにこの犯罪を企てた。だが、実行はしていない。実行するように迫られても、拒否したのだ。

 それを、証明してやらなければならなかった。

 役目は無事に終えられた。東海林は有田君の情報をもとに、JOメディカルに加えられていた〝攻撃〟を退けることができる。私は、日本の権益を守る役にも立てたらしい。

 そんな大それた役回りを担うとは、考えてもいなかったが……。

 事態が急変したのは、私が遺体の正体を見抜いた時からだった。

 遺体が小野寺本人なら、手術を実行したのは死んだことになっている助手だとしか考えられない。しかも厳格に管理されているはずのJOメディカルの個人データが書き換えられていたなら、背後には巨大な〝組織〟が蠢いていると予測できる。JOメディカルの奥深くに産業スパイが潜り込んでいた可能性も否定できない。

 多くのハッキングはソーシャルエンジニアリングと呼ばれる、〝詐欺師〟のような手口を組み合わせて行われるからだ。管理職への賄賂やハニートラップもその範疇に入る。

 疑われたのは、半年ほど前にJOメディカルを退職していた榊原だった。その予測が当たっていたことは、たった今、有田君の証言で確認された。

 海外で数多くのベンチャー企業を育てた実績を持つ榊原は、経営と特許管理のプロとしてJOメディカルに招聘された重要人物だという。それまでは医療現場とは無縁だったが、彼の権限があれば職員のデータ改ざんの下準備をすることは可能だっただろう。おそらく、JOメディカルを辞める前にハッキングのルートを仕込んでおいたのだ。

 私がきっかけを与えるとすぐに、東海林は事件のウラを読み始めた。JOメディカルのハッキングが途絶えていたのは、同じ組織が別の方向から攻撃を加える準備をしていたからではないか、と。

 一方で、中国マフィアがドナーを海上に連れ去ったことが明らかにされていた。そこで、遺体を作った秘密研究所は海上にあるのではないかという仮説が立てられた。

 警察組織を総動員しているにも関わらず、一向に疑わしい情報が上がってこなかったからだ。

 同時進行で、遺体に隠された携帯番号の調査が人海戦術で進められていた。残り4桁の番号を総当りで、携帯がある位置を端末に内蔵されたGPSで特定して行ったのだ。1万分の1かける2の確率のローラー作戦だ。

 だが幸いなことに、海上にある携帯電話を重点的に探すという思い切った方針転換が功を奏した。

 開始しばらくして駿河湾上にある携帯が発見されたのだ。つまり、船の上だ。研究所を海上に隠したことが、逆にその場所を絞り込みやすくさせてしまったわけだ。

 その船は環境保護団体と自称する『シーウルフ』を装った大型の海洋調査船だと特定された。シーウルフは捕鯨に反対する反日的組織で、中国から潤沢なウラ資金を得ているとも噂されている。

 捜査の進行状況は、耳のマイクで逐一私に送られてきた。そしてこれらの情報が結びついたとき、事件の真の構図が浮かび上がってきた。

 東海林は、その全てを私に語ってくれていた。

 取締役時代の榊原は、JOメディカルの業務とは別に、小野寺に免疫制御法の実用化を命じたようだという。倫理的な問題があるために表では扱いにくいが、将来有望な核心技術となる可能性を秘めている事実は無視できないからだ。

 そのために、安全で自由に使える極秘研究所――海洋調査船を装った〝病院船〟を調達した。研究材料として密かに胎児も供給されていただろう。必要な資金は榊原を操っている海外投資家たちから出たはずだ。

 シーウルフの名を騙っていた事を考えると、榊原はその頃からすでに海外勢力の手先となっていたに違いない。そもそもJOメディカルに招聘された時点で、先端技術を盗み出すために送り込まれた産業スパイだったと考えた方が納得できる。

 おそらく小野寺は、社外での時間の多くを研究船で過ごしたのだろう。小野寺にとっては、そここそが実力を完全に発揮できる唯一の施設だったはずだ。

 その間、有田君が専属助手として研究をサポートした。そして最後は間宮の死を演出して〝別人〟となって、小野寺の画期的な理論を貪欲に吸収していった。

 始めは榊原たちの目的も、倫理規定にとらわれずに小野寺の研究を育てることだけだったかもしれない。だが、革新的な免疫制御技術が完成されていくと同時に、小野寺を取り巻く情勢が変化していった。その研究成果をJOメディカルから切り離し、国外企業が自由に使える状態に移行することを要求されたのだろう。

 免疫制御法だけが目的なら、研究船に蓄積されたデータを持ち出して、先に発表してしまえば済む。先発表主義に守られて、その偉業は欧米企業のものになっただろう。

 だが、JOメディカル幹部になった榊原は、そこで他にも数多くの新技術が完成されつつあることを知ってしまった。未完の先端技術の宝庫だったのだ。

 技術的な詳細には近づけないとしても、おおよその研究内容やその進捗状況は掴んでいたはずだ。それらが完成されて権利関係が抑えられてしまえば、医学界での日本の立場は飛躍的に高まる。

 それは相対的に、欧米企業が没落することを意味する。それどころか、現在の地位を根底から覆される危険性を内包していた。危機感を深めた彼らは〝日本を潰す〟ことを優先させて、その手段を模索し始めた。

 同時期に榊原は、小野寺が私への復讐を夢想して計画を弄んでいたことを知ってしまった。そしてJOメディカルを〝破壊〟するために、個人的な復讐計画を利用することを思いついた。

 榊原たちは、小野寺に計画を実行するように迫ったはずだ。だが小野寺には、要求をはねつける理性が残されていた。

 小野寺はあくまでも医師であり、科学者であり、犯罪者ではなかった。

 だから、被験者にされてしまったのだが……。

 新たな計画に小野寺が協力しないと分かると、榊原は有田君を〝次の技術者〟として計画の中心に据えた。さらに間宮の新しい身分を偽装して、私の元へ送り込んだ。同時に有田君は、研究船で異形の遺体の創作を開始したのだ……。

 なぜ、榊原はそのような遺体を必要としたのか――?

 それこそが、東海林が――公安警察が捜査の指揮をとった理由だった。

 遺体を必要としたのは、榊原を操る〝黒幕〟だ。黒幕、あるいは黒幕たちは、JOメディカルが国産技術に頑なにこだわってその研究成果を厳重に秘匿していることに憤っていた。それは、数多くの医療利権から甘い汁を吸ってきた海外投資家たちにとっては最大の脅威だからだ。

 先端医療技術で囲い込んだ全世界の〝植民地〟が、またしても〝東洋の小国〟のパワーで崩壊させられる危機を孕んでいる。日本が効果的で安価な医療技術を世界に送り出せば、これまで彼らを潤してきた、そしてこの先も膨大な収益を約束する高額な医薬品や保険商品を駆逐していくだろう。

 彼らには、第二次世界大戦で植民地を奪われた屈辱感と恐怖が骨の髄にまで染み込んでいる。だからこそ戦後70年以上も日本を押さえつけながら、一方でグローバル経済という名の新たな植民地システムを構築してきたのだ。

 国境を失くして人、物、金の往来を自由にするということは、富む者が貧しい者を搾取し続けるという構図を固定化する。今のアメリカや中国の姿が、まさにそれだ。

 いわゆるグローバル投資家たちにとって、日本が医療技術大国として世界を席巻する日が来ることは悪夢に他ならなかった。

 絶え間ないサイバー攻撃を仕掛けて研究内容を盗もうとしていたのはそのためだ。だが、東海林たち公安の守りは固かった。サイバーセキュリティの最先端国であるイスラエルの8200部隊とも連携し、実践的な防御体制を築いていたのだ。職員の身辺調査も厳しく繰り返され、榊原以外の協力者もなかなか得られない。

 業を煮やした黒幕たちは、遂に決断した。

 JOメディカルには、黒幕たちの〝血〟を注ぎ込まなければならない。それも経営の中核に、しかも大量に――。

 グローバル化を強要したかったのだ。

 しかし、JOメディカルは国家の方針に守られている。ならば、力づくで破壊するしかない。JOメディカルの〝強固な殻〟を打ち砕く〝ハンマー〟こそが、禍々しい姿の遺体だった。

 秘匿性が高い研究を行っているが故に可能になった〝前代未聞の猟奇犯罪〟が発生すれば、JOメディカルは国際世論のバッシングを受ける。しかも犯罪の主犯である研究者は、かつて倫理的な問題を起こして資格を奪われた医師だ。

 そんな人間を雇っていた上に、個人的な復讐心から研究成果を悪用してネットで全世界を巻き込んだとなれば、その破壊力は計り知れない。JOメディカルはコーナーに追い詰められてパンチを浴び続け、多くの情報は開示せざるを得なくなる。

 黒幕たちはJOメディカルをスキャンダルで貶め、日本のマスコミの力を最大限に利用して情報公開を迫ろうとしたのだ。研究員が起こした猟奇殺人によって、隠密性が高い企業体質が徹底的に非難される。非難されなければ、新聞の社説やワイドショーのコメンテーターに罵らせればいい。『歪んだ経済政策が生んだ汚点だ』と、物知り顔で叫ばせればいい。

 日本の国民は今まで、そうやって扇動されてきたのだ。時の政権が同じ方法で倒されたことも、数知れない。

 その結果、JOメディカルは、透明性を高めるために海外からのスタッフや資本を受け入れることになる。黒幕たちから見れば、監査役や役員を送り込むことが可能になる。研究員レベルでの国際交流も、拒むことができなくなる。

 そして、情報の完璧な囲い込みも骨抜きにできる――。

 JOメディカルはもはや〝日本の切り札〟ではいられなくなるのだ。

 東海林は、黒幕の正体は〝ブルーストーン〟だと予測していた。

 ブルーストーンはリーマンブラザースの生き残りが創設した投資ファンドで、今や石油や食料などの国家的戦略物資の取引をコントロールしているモンスターだという。しかも彼らは、江沢民の孫たち――〝紅二代(こうにだい)〟と呼ばれるグローバル資本家たちと結びつき、さらに強大な権力を貪ろうとしていた。

 だが、イギリスのEU離脱やアメリカ大統領選の番狂わせに表れたように、世界は行き過ぎたグローバリズムに拒否反応を起こし始めた。しかも変動は加速している。北朝鮮を中心とした核拡散の危機、牙を露わにする中国の膨張主義、不安定化するばかりの中東、そして崩壊の予兆に怯えるヨーロッパ、新型ウイルスのパンデミックによって縮み上がる経済――。

 世界は、混沌の時代に突入した。

 ウォール街の危機感も半端ではない。生き残りをかけた最終戦――対ナショナリズムとのハルマゲドンを優位に勝ち抜くべく、躍起になっている。

 そのために不可欠な武器の一つが、次世代を席巻するパワーを持つエポックメイキングな医療技術の獲得だったのだ。

 ブルーストーンは日本の技術力を奪い取り、それを武器にして一気にヨーロッパ勢力を吸収し、ナショナリズム潰しの総力戦に決着をつけようとしている――東海林は自分の見立てを私にそう語った。

〝JOメディカルの小野寺〟が事件を引き起こしたと知った東海林の脳裏には、『ブルーストーンが動き出した』という警告が発せられた。新たな、そして最終的な攻撃が始まったのだと直感した。そして、その攻撃を退けるために、瞬く間に警察組織を大規模動員して防御ラインを構築する権限を得た。

 東海林にはそれだけの地位と能力が備わっていたのだ。

 それでも東海林にとっては、おそらく官僚生命のすべてを投げ打った賭けだったろう。

 無駄に組織を混乱させれば、厳しい懲罰は必至だ。この事件に警察力を集中させれば、その間、他の犯罪への対応力は疎かになる。そこで何か別の大事件が起きれば、世論から徹底的なバッシングに会う。

 それでも、東海林は怯まなかった。

 その賭けに最初の結果が出たのが、多数の幼稚園への爆破予告だった。警察は、犯人は小野寺単独ではないとの確信を得た。ネットでの公開が要求されたからだ。

 それは犯人にとって、解剖室の公開が――マスコミを巻き込んだ〝復讐劇〟の拡大が不可欠だということを意味する。爆破予告がなければ、いかに雅美の命が脅かされていようと警察はマスコミの関与までは許さなかっただろう。

 この犯罪が小野寺の個人的な復讐であれば、ネット公開は必須とはいえない。対象はあくまでも私1人だからだ。

 一時は私も、注目を浴びて医学的な成果を誇示するためだと考えた。だが、一般には公開しなくても、医大で解剖すればその情報は否応無しに医学界に広がっていく。警察が医学的データを隠蔽するなら、世界中の大学に直接送りつければいいだけだ。

 多数の幼稚園児を〝人質〟にしてまで、己の罪を拡大する意味は小さい。幼稚園に爆弾を仕掛けるために、大金を投じて実行組織を雇う必要はなおさら少ない。

 警察はその時点で、これが単純な復讐事件ではあり得ないと判断した。そして、東海林を解剖室に送り込んできたのだ。

 その決断によって、雅美は救われた。

 駿河湾上の海洋調査を装っていた大型船は、海上保安庁特殊部隊のヘリに急襲された。小型ボートで脱出する準備をしていた数人の外国人船員が、なすすべもなく捕らえられたそうだ。

 船の内部は大型の医療機器や生命維持装置で溢れていたという。船底には本物のC4爆薬が大量に仕掛けられ、雅美はそこに捕らわれていた。

 事件を小野寺の責任にするためには、あくまでも彼の復讐計画に則ったエンディングを迎えるのが望ましい。だから遺体には、本当の携帯番号が隠されていた。タイムリミットが過ぎれば雅美は爆殺され、物的証拠となる研究船とともに水深数100メートルの海底に沈む。もはや誰も研究船の正体を暴くことはできなくなり、事件も迷宮へ沈む――少なくとも、そうなる予定だった。

 だから、有田君は私の助手になる必要があったのだ。

 計画は緻密に練られ、異形の遺体は完成度の高い〝凶器〟となった。一目で寒気を催させるおぞましさと、私の神経と心臓を極限まで痛めつける精密さを兼ね備えた〝マッド・サイエンティストの芸術〟だ。

 それでも、計画は計画に過ぎない。予定外の事態はどんな時にも起きるし、それに即応できる柔軟性がなければ目的を叶えることは難しい。

 まして今度の事件では、数ヶ月前に仕込まれた遺体の罠が思い通りに働く保証はないし、私がどういう手順で解剖していくかも確信が持てない。万一罠が失敗して解剖がタイムリミットより早く終わりそうなら、引伸ばさせることも必要になる。

 現場で事件を見守りながら軌道を修正していく〝監視者〟は、絶対に欠かせない。しかも、解剖を担う私のすぐそばに付き添い、一挙手一投足を確認できる位置にいることが望ましい。

 そのためには私から信頼される助手になるしかない。遺体の罠に精通し、高度な医学的知識を持った有田君以外に、その役割を果たせる者はいないのだ。

 だから黒幕たちは有田君の経歴を詐称し、私の元に送り込んだ……。

 有田君の経歴が作り物であることは、公安の捜査によって早くも明らかになりつつあるという。

 3か月という時間をかけて私の信頼を得ることに成功した有田君は、遺体に爆発物が仕掛けられていると分かれば自分が助手に選ばれるだろうと考えたに違いない。

 花苗君がレントゲンを手配に来た時は、予定通りだとほくそ笑んだだろう。心臓が悪い私の助手につけば、解剖を妨害する隙も狙えるはずだからだ。

 だが、花苗君の強情さにまでは思いが至らなかった。

 有田君の狙いはここで大きく狂ったが、一方の小野寺の計画は完璧だった。録画には罠の細部は記録されていなかったそうだが、几帳面な小野寺のことだ、〝緻密な設計図〟を何らかの形で残したはずだ。でなければ私が〝小野寺と闘っている〟と実感し続けることはなかっただろう。

 その記録は、いずれ発見されるに違いない。

 私は小野寺の裏をかこうと知恵を絞った。だが、結局は小野寺が導こうとしたルートに乗せられたにすぎなかった。小野寺のとの対局は、いつもこうだった。今回も、勝ったのは小野寺だ。

 有田君は、小野寺の完璧なプランを実行した〝現場作業員〟にすぎない。

 有田君が犯人一味だという可能性に気づいたのは、東海林だった。東海林は、有田君が遺体のダイナマイトに対して真の恐怖心を見せなかったことに疑問を抱いたという。

 有田君は、ダイナマイトが偽物であることを知っている。ダミーだと知っていながら、恐れる演技をしていた。

 本物を使えば、万一の事故で爆発する危険が避けられないからだ。それでは全てが破壊され、JOメディカルを無力化するという最終目的が達成されない危険性が残る。

 有田君は小野寺の手技を見事に習得できた、極めて優秀な医師ではある。だが私と同様、役者ではない。

 それでは、公安は騙せない。

 公安は、人の心を読むことに長けている。ほんの小さなほころびからでも、人間の本質を見抜く技を身につけている。だから、東海林は私に命じた。

『心臓病で倒れたフリをして、有田さんに解剖を任せてください。表情を観察してください。本心からダイナマイトを恐れているどうか、感じ取ってください』

 私は解剖を進める有田君を見守ったが、確信は持てなかった。確かに、爆発を恐れているようには見えなかった。

 だが、単に大胆なだけかもしれない。個人的に付き合っているはずの花苗君に、無様な姿を見せたくなくて虚勢を張っているのかもしれない。

 そう、考えた。

 いや、考えようとした。

 3か月間共に働いてきた有田君が、最初から私たちを陥れるためにこの大学に潜入したとは信じたくなかったのだ。

 決定的な姿を目撃したのは、有田君がブービートラップに引っかかって床に伏せた時だ。あれは、時間を稼ぎたかった有田君がわざと〝失敗〟して見せた芝居だ。だが、その芝居が逆に真実を暴いてしまった。

 私は、いったん固く瞑った目をすぐに開いた。有田君を観察するためだ。

 解剖室の機材はステンレス製が多く、鏡のように反射する場所も多い。有田君は、解剖台の陰になって誰からも見られていないと思っていたはずだ。だが、ストレッチャーに横たわった位置から、伏せた有田君の横顔が、その口元がはっきり見えていた。

 有田君は、笑っていた。

 声のない、氷のような冷たい高笑いだった。

〝雅美の死〟を、笑っていたのだ。

 私も、かすかな笑いを浮かべていたはずだ。その時すでに、雅美が研究船から無事に救出されたことを教えられていたからだ。

 悲しい笑いだった。

 有田君……君にはもう、逃げ場はないんだ。

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