4人目 道端健悟 (終)
翌日。
健悟と一雄は離れの寝室で揃って雑魚寝をしていた。すると、一雄を起こしに来た千鶴が、二人がまるで本物の親子のように寝入っている様子を見てけたたましく驚愕の声を上げたために、二人は起床を余儀なくされた。
母屋にて朝食を終えたところで、健悟は早速昨日録音した翠との電話のやり取りを千鶴と葵にも聞かせた。一雄が反対することはなく、録音機器を自ら母屋へ持ってくるなど、むしろ協力的だった。
千鶴は健悟から説明を受けている間、「死者との電話?」「管理人?」と目を白黒させていたが、葵はどういう訳か、大した反応もせず浅く頷くだけだった。
翠との電話のやり取りを聞き終えると、千鶴は服の袖で目に浮かんだ涙を拭い、
「ありがとう、健悟さん。もう一度、翠の声を聴かせてくれて」
と鼻声で言った。
彼女の隣に座った一雄は、優しく妻の背をさすりながら目を真っ赤にしていた。
一方、葵はというとどことなくぼんやりとしており、涙を流すこともなくぼうっとテーブルの木目を見つめていた。健悟は彼女に何か声をかけてやろうと思ったが、なんと言ったらよいか分からず、結局何も言えずに終わった。
健悟は葵とともに翠の墓参りに行ってくると、義理の両親へ暇を告げて翠の実家を後にした。
葵を後部座席に乗せ、墓地へ向けて発車する。
葵の隣には今日はブランケットだけでなく、千鶴が持たせてくれた花束が乗せられている。彼女は相変わらずヘッドホンを耳に当て、窓から流れる景色を見つめていた。
勾配のきつい坂を上ると広い駐車場が見えてくる。
車から降りるとどちらとも何をいう訳でもなく黙って歩き出した。花束は葵が持ってくれていたため、健悟は墓地へ備え付けられた水汲み場で水をたっぷり注いだ手桶とひしゃくを持つことにした。
まだ朝焼けのまぶしい、早い時間帯であるためか人気は二人以外にはほとんどない。自宅へ戻る交通時間のことも考えて早めに家を出て正解だったかもしれない。
二人は「綿谷家之墓」と書かれた墓石の前で立ち止まった。一雄の意向で翠の遺骨は道端家の墓には入れることができなかったため、綿谷家の墓石へと納骨される運びとなったのだ。
一雄も千鶴と同じく情の深い人だ。だから、娘を守れなかった健悟への怒りは人一倍激しいものがあったし、自分もまた娘を守れなかった一人であることを悔いていた。昨日の一件で健悟には痛いほどそれが分かった。
葵とともに花を供え、線香を焚いて両手を合わせる。
昨日電話をしたせいもあってか、墓の前に立つと翠が墓石の中でそっと眠っているような気がした。目を閉じて、彼女が穏やかな眠りにつけるよう祈りを捧げていると、不意に隣で健悟と同じように瞼を閉じた葵が呟いた。
「お母さんの声、初めて聞いた。わたしの声にそっくり。お祖母ちゃんにも」
「そうだな」
二人とも目を閉じたまま会話を続ける。
「お母さんはわたしを産んだから疲れちゃって死んじゃったんだね」
「それは……」
違うとも言い切ってやれず、健悟は口ごもる。
「だからお父さんはお母さんが死んじゃった理由をわたしに黙ってたんだ」
「……」
「どうして昨日、話そうと思ったの?」
「お前が知りたがったから」
「なにそれ。遅くない? ずっと前から知りたいと思ってたけど」
「……」
でも尋ねられたのは昨日が初めてだったしとか、いくら父親とて子どもの心を読めるわけではないのだしとか、いくつか言い訳がましいことが頭の端をよぎったがどれも言葉にはせず黙っておく。すると、横からちょいちょいと服の裾を引っ張られた。目を開け横を向くと、丸い瞳をした娘に見上げられている。
「わたしもお父さんに言わないといけないことがある」
「……何?」
彼氏でもできたのだろうか、とあからさまに嫌な顔をするとふふ、と笑われた。
「家、帰ったら言う」
そんなことを言われたものだから、気もそぞろのまま健悟は中津川から長距離運転をして自宅へと帰ることになった。途中、「言わないといけないことってなんだ?」と尋ねようと口を開きかけたものの結局聞けないまま、家についてしまう。なのに葵ときたら、妙に上機嫌でヘッドホンで音楽を聴くだけでは飽き足らず、鼻歌まで歌う始末であったためにいよいよ彼氏の登場か、と健悟は身構えた。
玄関へ着くなり葵は自室へと引っ込んでしまった。
なんだ、話があるのではなかったのか、と拍子抜けしていると段ボールを抱えた娘がリビングへと戻ってくる。冷蔵庫から麦茶を取り出しダイニングテーブルでコップに注いでいたところ、どんっという音とともに段ボールがテーブルの上へ置かれた。
重たかったためか、段ボールを運んできた葵はぜえはあと肩で息をしている。
「これ。お父さんに言わないといけないこと」
頭上にはてなを浮かべながら段ボールの中身を覗く。見ると、中はどれも手紙ばかりでこれといって特別なものは見受けられない。何気なくそのうちの一つを手に取ってみると、宛先には健悟の勤めている大学の住所が書かれていた。ひっくり返して裏を見ると差出人は「花井霧香」と書かれている。健悟は思わぬ名前に眉をひそめた。
葵はそんな健悟の反応を見てやっぱり、とでも言いたげに肩をすくめる。
「お父さん、時々休みの日になると出張でもないのに出かける時あるでしょ? 友達もいないくせにこの人何しに行ってんだろって思ってたんだけど、お父さんが留守にしてる時に大学から自宅に電話がかかってきたの。道端准教授宛てのお手紙がいくつか届いているんですけどどうしますか? って。研究室宛てになってなかったから、お父さんのとこまで持っていっていいのか分からなかったみたい。だからわたしが代わりに受け取りに行ってた」
「なんで?」
眉間にしわを寄せた健悟から発せられたシンプルな質問に葵は笑う。
「だってお父さん、似たような手紙を一回だけもらったときにすっごい嫌そうな顔して破って捨ててたじゃん」
葵が言っているのはまだ健悟が依頼完了後、依頼人からの連絡をシャットアウトする前の話だろう。度々お中元やら手紙やらを律儀に送ってくれる者がおり、それがむずがゆいやら分不相応やらで途中から現在のように依頼人からの連絡の一切を遮断するようになったのだ。
「そんなに嫌なことが書いてあったのかなと思って見てみたら、死んだ人? と電話繋げてくれてありがとうとか、あなたのおかげで人生が変わったとか、めっちゃいいことばっかり書いてあって。なのに捨てちゃうなんて勿体ないなって思ってたら大学から電話があったから、もしかしてと思って見たらやっぱり。それ、全部お父さんへのお礼状だよ」
健悟はようやく事態を飲み込み、頭を抱えた。
そういうことだったのか。先日、右田と電話で話した際、健悟がクレームもお礼も一切受け付けていないことを知っていた彼は「でもさあ、君、自分の職業を考えればさあ」と苦言を呈していたことを思い出す。
大学職に就いているものであればわかるだろうが、大学の教員の名前はネットで検索すればいくらでもヒットする。時にはメールアドレスなどの連絡先が記載されている場合もあり、共同研究の打診や講演の依頼などがそこから行われる場合もある。
健悟のメールアドレスも、彼の勤め先の大学ホームページに載っている。道端健悟と検索すれば自分が執筆したいくつかの論文や教員紹介ページもヒットする。
無論、大学のメールアドレスのほうでも依頼人からの連絡はブロックできるよう設定はしている。が、健悟から連絡謝絶の憂き目に遭った依頼人たちは、それでもお礼を伝えたいと健悟の名前をネットで検索し、勤め先の大学の住所を探り当てたのだ。住所を大学名に、宛名を道端健悟にしておけばおのずと大学事務に手紙が届く。ただし、研究室宛てにはなっていないため学内郵便は使われない。
よって、健悟の自宅へ電話がかかってきた。健悟は大学事務に何かよほど緊急の用事がない限り、自分の携帯電話には連絡を入れてくれるなと口を酸っぱくして言っている。それは一重に面倒くさいからという理由からなのだが、幸か不幸か、健悟の不在時に葵が大学からの電話に応対し、父親には内緒で定期的に郵送されてくる彼への手紙をこっそり事務から受け取っていたというわけだ。健悟の寡黙な性格を知っていたために、事務もわざわざ「手紙、娘さんに預けましたよ」などとは告げずに済ませていたのだろう。
してやられた、と言わんばかりの健悟に向かって葵は
「なんでそんなに嫌がるかなあ。感謝されてるのに」
と唇を尖らせる。
健悟は手紙を段ボールへ戻しながら、
「別に感謝されるようなことはしてない。お父さんだって前の人から引き継いだ仕事を淡々とやってるだけで、こんなものを書かれるようなことは」
と言うが、すかさず葵が
「してるんだよ」
と言うので健悟の反論はそこまでで途切れてしまった。
「わたしのお父さんはね、人から感謝される立派なことをしてるの。無口で無表情で何考えてるのか全然分かんないけど、こんなにたくさんの人からありがとうって言われるような立派なことをしてるんだってわたし、知ってたよ。お母さんに教えてもらう前からずっと、わたしは知ってたんだよ」
そういうと葵はダイニングテーブルへ並べられた椅子の一つに腰かけた。健悟にも座るよう促してくるため素直に従って席につく。彼女は今までになく満足げに、穏やかな笑みをたたえて言った。
「さて、これでやっと聞けるわけだ。お父さん。あなたはなんで死者と生者を繋ぐ電話の管理人なんてものをやってるの?」
右頬にえくぼを浮かべながら楽し気に尋ねる葵の姿に、健悟は二、三度瞬きをした。その姿が、表情が、「道端くんはお金持ちなの?」とパスタを食べながら尋ねてきた妻にそっくりで健悟は思わず見惚れてしまったのだ。
どうして自分が管理人をやっているのか。
それは翠が死んで途方に暮れていた時、知らない番号から突然電話がかかってきて、死者と生者を繋ぐ管理人になるためのテストを受けることを強要されて、あれよあれよという間に合格して右田と出会って。
その時、自分は管理人になることを渋った。とてもじゃないが日常生活が忙しくてそんなことやっていられない、と。それに翠が亡くなってまだ日も浅い時分であったため、死者と生者を繋ぐ電話の管理人なんていう訳の分からないものに従事したいとは思えなかった。
すると、右田はこんなことを言ったのだ。
「情けは人のためならず。いいかい、道端くん。誰かを助けるってことは、自分がその誰かに助けてもらうことと同じなんだよ。人の役に立つってねえ、気分がいいもんだよ。どんなに心が寂しさに満たされていても、誰かのために走り回るとねえ、不思議とこっちが救われるんだよ」
先日、これとまるきり同じことを言われたことを思い出す。あの時、右田は健悟が妻を亡くしたことで傷心していることを察していたのだろう。人との交流の結果、ついた傷は人との交流によって癒すしかない。あの時、右田はそんなことを健悟に伝えたかったのではないだろうか。
失踪した祖母と話す花井霧香を見て、親子の愛情の深さを知った。
亡くなった生徒と話す土井天馬を見て、人の思いの純真さを目の当たりにした。
姉に成り代わるため自分を殺した桐谷璃佳子を見て、自分の生を生き抜くことの難しさを知った。
健悟が出会った依頼人は皆真っ直ぐで、死者への後悔と愛情を等しく抱えた人々だった。
今になって右田から言われたことの意味が少しだけわかったような気がする。彼らを救っていたつもりが、いつの間にか自分が救われていた。死者とひたむきに向き合い、恋い慕い、なりふり構わず亡き人を愛する依頼人の姿に知らず知らずのうちに励まされていた。
成り行きではあったものの、おかげで健悟は昨日、ようやく翠と話すことができた。彼らのひたむきな姿に知らず知らずのうちに励まされていたおかげで、自分は昨日ようやく翠と本当の思いを打ち明けあうことができたのかもしれない。
さあ、次は葵と話をする番だ。
彼女には言わなければならないこと、謝らなければならないこと、説明をしなければならないことが山ほどある。なにせ、今までぎくしゃくと距離をとってきた十七年分の積み残しが二人の間にはたっぷりあるのだから。
けれど焦ることはない。葵も健悟も生きていて、毎日顔を合わせてその気になれば何時間だって話をすることができる。積み残しも多い分、残された時間も多くある。
一体何から話したものか、とうなじを掻いた拍子にあ、と思い出す。
「そういえば、葵の好きな桐谷美那子のサインを貰った」
「え!? 嘘! まじ!?」
「あ、でも正確に言うと桐谷美那子のじゃない……」
「え? ちょっと、全然意味わかんないんですけど。最初から説明して」
最初からか、と言われ弱った健悟はまたうなじを掻く。
最初、といえば右田はどうやって自分に電話をかけてきたのだろうと不思議に思う。それまで健悟と右田には何の面識もなかったのだ。管理人になる資格のある者を右田が探していたとしても、資格保有者を一見して見抜くことは難しい。どうして管理人になったのか、という最初の葵からの質問に正確に答えるためにはまず右田がどうやって己を見つけ出したのかを知らなければならないのだが、健悟にはどれだけ考えても皆目検討がつかなかった。
実は、死者と生者を繋ぐ公衆電話のシャープボタンを連打すると自動的に管理人候補者へ電話が繋がるようになっているのだが、健悟がそのことを知るのはもっと後になってからの話だ。
うーんと考えるばかりで何も言わない健悟に呆れたのか、葵は二つのコップに麦茶を注ぎ、そのうち一つを健悟へ差し出した。
依頼人の守秘義務を守りつつ、管理人として経験したことを娘にどう話したものか。
散々迷った末に口下手な健悟が見当違いなことを言って、葵から𠮟責を受けるまであと十数秒。
ごめんと謝ったはいいものの、教員のくせに口が下手すぎるといわれのない非難を浴びるまであと二十数秒。
それもこれもばからしくなって二人のお腹が空き始め、翠が残したレシピ帳を一緒に漁り始めるまであと一分。
道端親子はこれからの長い人生の中で何度だって話し合う。二人に制限時間はない。翠の死によって遠く離れてしまった親子の距離は、彼女の手によってもう一度引き合わされいつの間にか互いの呼吸がよく分かる距離まで近づいていた。
<了>
もう一度だけ話せたら、本当のことを言って欲しい 岩月すみか @iwatsuki_kisaragi
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