4人目 道端健悟 (9)
確認するまでもなく、健悟には電話の相手が翠であるという確信があった。
どういう訳かは知らないが、自死によって亡くなった者は誰が生者との電話の管理人をしているのかを皆一様に知っている。故に翠も死者との電話の仲介人を自分の夫が担っていることを知っているのだ。そのため彼女は自分の名を名乗った健悟に「やっとかけてきてくれた」という言葉を発した。ひょっとしたら此岸の健悟のように、彼岸にも死者と生者を繋ぐ電話の管理人がいてこちらの状況を逐一死者へ伝えているのかもしれない。
しかし、そんなことを気にかけている余裕は今の健悟にはなかった。久しぶりに聞く翠の声に思わず胸が詰まり泣きそうになる。それでも一雄が見ている手前、みっともない姿を晒すわけにはいかないと、
「今日は君に聞きたいことがあって」
と気丈に話を切り出した。
翠は生前となんら変わらない声でうん、と相槌を打った。それがどうしようもなく懐かしくて愛おしくて、健悟は「葵に君の死因を伝えてもいいかな?」と聞こうとして失敗した。
「どうしてあの日、君はあんなことをしたの?」
口が滑ったとしか言いようがなかった。慌ててなかったことにしようと取り繕う言葉を懸命に探したけれど、口下手な健悟に的確な言葉が見つかるはずもなく黙ってしまう。すると、翠は何食わぬ声音で
「あんなことって?」
と尋ねてきた。
あんなこと、というのは無論、自死のことであったがそれを直接口にするのは憚られた。唇を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していると仕方がなさそうに笑った翠が
「ごめんね、あんな風に死んじゃって」
と囁くように応えた。
「健悟のことだからもうわかってると思うけど、うつだったんだよね、わたし。もともと、生理の前とか不安定になることあったじゃない? 葵を産んでから二時間おきにあやしたりミルクあげたりしてるうちに酷くなっちゃったんだと思う。だってあの時のわたし、健悟が何を言ってくれてもやってくれてもけなされてるように思えちゃってたもん。あなたは一生懸命そばにいようとしてくれただけなのにね」
「……僕は結局何もできなかったから」
「ううん。健悟は一番大事なことをしてくれてたよ。わたしがあんなに癇癪を起して、物を投げても逃げずにずっと一緒にいてくれた。中津川に帰れって言われたらどうしようってずっとびくびくしてたわたしに、一度も帰れなんて言わないでそばに置いてくれてた。それだけでよかったよ」
受話器を握る手に力がこもる。
翠の声は至って明るい。自死をした人間とは思えないほど快活で、この世に未練などないと言わんばかりの声音が健悟には悲しく聞こえた。
いつだって、翠は健悟に優しい。病気になった時だって最後には自分が悪いと己を責め、健悟だけに咎を負わせることはなかった。そんな彼女を自分はどうしてもっと大切にしてやらなかったのだろう。
「ちょっとだけね。一日のうちにちょっとだけ眠れる時があって。その時だけは普通のわたしでいられたの。不安も悲しみも怒りも何にもなくなって、真っ白になれてああ、ずっとこのまま眠っていられたらなって思ってお薬めちゃくちゃに飲んじゃった。こんなことしたら死んじゃうかもな、でもそのほうがいいなって思った。だって、あの時のわたし、本当にどうしようもなかったじゃない。生きてるだけで迷惑になってるなって。葵のためにもあなたのためにもこんなわたし、早くいなくなったほうがいいなって、怖かったけどこのまま生きていくよりずっとそのほうがいいと思ったの」
人間には存在論的恐怖がある。
そんな話をした時に学生からされた質問を思い出す。人に死を恐れる心があるというのなら、自殺をした人はその恐怖を失った人なのかと。その時、死を上回るほど自分の生に対する恐怖が沸いた時、人は死を選ぶのだろうと健悟は考えていた。
翠も同じだった。
このままみじめな姿で周りの人に迷惑をかけながら生きていくより、死んだほうがましだと思ったのだ。自分は彼女に生きていくことの希望を見せてあげられなかった。死に救いを見出すほどに彼女を追い詰めてしまっていた。
ぼろぼろでも、癇癪持ちでもただ翠がそこにいてくれればいいと甘えたことを考えて、彼女を助けることを放棄した。その報いがこれだ。
一人で薬を大量に飲み込んだ時、翠はどれだけ怖かっただろう。
死の間際、ベッドの上で泣き喚く我が子を抱きしめてやれないことをどれだけ悔いたことだろう。
いつまで経っても帰ってこない夫を思って、どれだけ辛い思いをしただろう。
けれどそんな胸の内を明かすことなく、翠はいまだに明るい声音で健悟に語り掛けてくる。
「今はすごく後悔してる。あの時はさ、少しおかしくなってたの。よくある話だけど、うつって病気があんなに酷いとは思わなかった。笑っちゃうよね。あははは」
「……全然、笑えない」
無理に明るく振る舞う翠の態度が悲しかった。
どうして助けてくれなかったのか、と自分をなじってくれればいいのに。お前のせいで死んだんだ、と一雄のように怒鳴ってくれればいいのに。そうすれば、君を救うことができなかった不甲斐ない自分に少しでも罰を与えてやれるのに。
健悟は震える声で呟いた。
「僕は君がいなくなってから、考えないようにしようとしても、毎日君のことを思い出す。思い出すたびに僕には君しかいないんだって思い知らされて、その度に君がこの世にはいないって現実を突きつけられて失望する。どれだけ思っても願っても君はもう二度と、僕のそばには帰ってきてくれない」
受話器を持つ手が震えた。
こんなことを言いたいわけではないのに。なじられるべきは自分なのに、気づくと健悟は自分を置いて死んでしまった翠を責めていた。どうしてこんなことを言っているのだろうと健悟は自分の感情をうまく整理できないまま、絞り出すように口走る。
「君がいなくなってから、僕はずっと寂しい」
ぱたぱたと床に大粒の涙が滴り落ちる。誰が泣いているのだろう、と疑問に思い自らの頬に触れると涙の感触が指先に伝わった。ああ、自分が泣いているのかと思ったらなぜだか納得した。
そうだ、自分はずっと寂しかったのだ。
この世の誰よりも自分に最大限の注意と関心と、愛情を向けてくれる存在がいなくなってしまったことが悲しくて悔しくて、寂しくてやるせなかった。
翠に電話を掛けられなかったのは、彼女に拒否されることを恐れたからだけではない。彼女が本当に死んでしまったのだということを、もう二度とどれだけ恋しく思っても最愛の人が戻ってくることはないことを告げられるような気がして怖かったからだ。
ずずっと鼻を啜ると、翠も一緒にすすり泣く声がした。彼女は涙声で
「ごめんね、ごめんね」
と繰り返す。
健悟は震える喉を片手で絞めるように抑えつけながら、
「謝らなくていいから、帰ってきてくれ。僕と一緒に、もう一度生きてくれ」
と必死に訴えた。
自分でも随分非科学的なことを言っているという自覚はあった。それでも言わずにはいられなかったのは、心の底から翠にもう一度自分の傍で生きてほしいと願ってしまったからだ。もうどれだけ願っても叶わないのに。どれだけ懇願しても死んだ翠は戻ってこないのに。
翠は健悟からの懇願に何も言わなかった。ただ嗚咽を酷くして、取り返しのつかない現実へ涙を流す。二人はしばらく、互いに涙を零すばかりで話すことができなかった。どのくらい経っただろうか。ふっと翠が嗚咽を堪えるように息を深く吸うと、震える声で問いかけてきた。
「わたしね、もしあなたがわたしに電話をかけてきてくれたら、もう一度だけ話せたら、あなたに本当のことを言って欲しいって思ってたの。聞いてくれる?」
「……何?」
「健悟はわたしのこと、好き?」
くしゃりと視界が歪んだ。
翠はきっと、ずっとこのことを自分に尋ねたかったのだと思った。
口下手な健悟は直接的な愛情表現を翠にしたことがほとんどない。こんなにも大切に思っていたのに、今更になって言葉にしなかったことが悔やまれる。翠はずっと不安だったのだろう。健悟からの愛情表現があまりに乏しかったために愛されているという確信が持てないまま、絶望の淵に立ち不足した愛情に背中を押されるように死んでしまったのだ。
今からでも、自分が持っている愛情なんかで君を繋ぎ止められるというのなら、うんざりするほどの愛情を花束のようにくるんで君に贈ろう。生きていた時も死んだ後も、自分が愛してやまないのはたった一人、翠だけなのだから。
健悟は震える声で、しかしはっきりとした口調で告げた。
「愛してるよ。今でもずっと。これから先もずっと」
「じゃあ生まれ変わったらもう一回、お嫁さんにしてくれる?」
「必ずする」
左手薬指に嵌められた指輪が鈍く光った。
手の甲で涙を拭った拍子に赤い数字が目に入る。数字は随分減っていた。別れの時が近づいている。健悟は葵のことを思い出し、翠との別れを惜しむ心に蓋をして口早に告げた。
「今、君の実家にいるんだ。それで、葵にも君がどうして亡くなったのか、本当のことを言おうって一雄さんとも話をしていて」
視線を上げると、一雄は目を真っ赤にして何度も頷いた。涙を零しはしないものの、彼とて決壊寸前のようにみえる。
「そっか。明日だもんね。わたしの命日。葵には伝えてあげて。わたしが死んだのはあなたのせいじゃない、誰のせいでもないってこともちゃんとね」
「うん」
「お母さんにはね、たまには旅行でもいって家事から解放されてねって伝えて」
「うん」
「お父さんにはね、ちょっとでいいから運動してって伝えて」
「うん」
「葵には、あなたのお父さんはとっても口下手で表情だって全然変わらないけれど、とっても優しい人だからたくさん甘えなさいって」
「うん」
「それから健悟。あなたにはね、わたしのことを大切にしてくれたのと同じくらい、葵のことを大切にしてあげてほしい。そうやって一人じゃどうしようもないことも家族みんなで支えあって、みんなで一緒に生きて、誰も一人にならないようにしてほしい」
「うん、うん、わかったよ」
これ以上泣いてくれるな、と思うのに溢れ出した涙を止めることはできなかった。赤い数字がゼロへと変わる瞬間、
「健悟、大好きよ」
という声が響いて通話は切れた。
後に残ったのは、プープーという終了を告げる機械音と、涙でぐしゃぐしゃになった二人の男だけだった。
健悟はぐっと胸倉を掴まれたかと思うと、そのままの勢いに任せて抱きしめられた。肩口では、一雄が涙を零しながら荒い呼吸を繰り返している。健悟よりもずっと広い背中に手を回し、ぎゅっと抱き返してから
「お義父さん、ごめんなさい。僕……」
と言いかけ、途中で喉が詰まって言葉が出てこなくなった。
一雄はそれ以上何も言うなとばかりにぶんぶんと首を振り、
「許さん。お前なんか絶対に。だから必ず、毎年葵を連れて翠の墓参りに来い。俺が死ぬまで続けたら許してやる」
と嗚咽交じりに言った。
はい、と返した自分の声は情けなかったが、一雄の耳にはきちんと届いた。
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