4人目 道端健悟 (8)

「翠と繋がる……なんだって?」


 一雄は床に転がったまま唸るように言った。健悟は公衆電話を抱きしめ、一雄に馬乗りになったまま息を切らす。


 なんと説明するか、判断に迷った。しかし、ここで下手に嘘をつけばあらぬ疑いをかけられるのは目に見えている。健悟は呼吸を落ち着けた後、静かに真実を告げた。


「これは、死者と生者を繋げる電話です」

「死者……?」


 健悟はひとまず一雄の腹の上から退き、固いフローリングへと腰を下ろした。一雄も話を聞く気になったのか、起き上がるとその場であぐらをかき膝頭に頬杖をつく。


 健悟は公衆電話を一雄と自分の間に置いた。それからややどもりながら一雄に死者と生者を繋ぐ公衆電話について話し始めた。


 自死によって亡くなった人間と一度だけ電話をすることができること。電話をするには死者の氏名、性別、生年月日、死亡年月日が必要であること。テレフォンカードが切れるまでしか死者とは話せないこと。そして、今はその電話の管理人を自分がやっていること。


 一雄は黙って健悟の話を聞いていた。健悟が話し終わるとふん、と鼻を鳴らす。


「そんなおとぎ話みてえなもんがあるか。お前、それ本気で信じてんのか?」

「今まで何人かの方の電話をお繋ぎしてきましたので」

「はっ、俺は知ってっぞ。そういうのはなあ、中二病って言うんだよ」


 一雄が信じないのも無理はない。

 健悟とて、依頼人が実際に死者と会話をする姿を何度か見てようやく信じられた話だ。その様子を一度も見たことがない一雄に今の話を信じろというのは土台無理な話だろう。


 一雄は腕を組み、公衆電話を訝しげにじろじろと観察した。


「……これを使えば、本当に話ができるのかよ。その、なんだ。死んじまった、その……」

「はい。翠さんとも話ができます」


 一雄はしばし黙り込んだ。

 健悟と公衆電話を見比べる視線が何往復かした後、彼はおもむろに


「お前、もうかけたのか?」


と尋ねてくる。

 健悟は首を横に振った。


「じゃあお前がかけてみろ」


 予想外の一雄からの言葉に思わず目を見開く。一雄は意外にも神妙な面持ちでじっとこちらを見ていた。


「本当に翠と電話が繋がるってんなら、今ここで、俺の目の前でかけてみろ。翠と電話が繋がってあいつが葵に本当のことを話してもいいと言ったら、考えてやってもいい」


 健悟は瞬きを繰り返した。

 自分が翠と話す。右田にも勧められてはいたものの、いざ本当に実行を迫られるとひやりとした。


 健悟はこの公衆電話を翠と繋がるための最後の手段として大事にしている。管理人の話を引き受けたのも、他の人間に管理人を任せたら自分が翠と話したいと思ったときにその管理人とコンタクトをとらなければならないのが面倒だったからだ。そのくらい、健悟にとってもう一度翠と話ができる最後のカードは貴重なものであった。


 同時に、彼は恐れていた。

 自分は翠と話せるものならもう一度話したいと思っている。しかし、翠はそうじゃなかったら? 自分を救ってくれなかった不出来な夫のことを恨んでいたとしたら? 死んだ彼女に拒否されたら、罵倒されたらと思うと、怖くてとてもじゃないが電話をかける気にはなれず歳月ばかりが過ぎていた。

 みっともない。今まで死者への電話をためらう依頼人や、電話をしたことによって取り乱した者へ偉そうなことを散々言っておいて、いざ自分が当事者になった途端、怯えてしまうだなんて。比べて、それでもなりふり構わず死者を恋い慕った依頼人たちの、堂々たる佇まいといったら。


 硬直したまま動かない健悟を一雄が不審そうに覗き込む。咄嗟に、


「一雄さんがかけてみたらどうでしょうか」


と健悟は逃げ口上を口走っていた。すると、一雄ははあ? と盛大に眉を吊り上げて


「なんで俺がお前のおとぎ話に乗ってやらなきゃならないんだ。お前がかけろ」


と吐き捨てた。

 それから彼は何か思いついたようにあ、と声を上げ、


「ちょっと待ってろ」


と言って立ち上がり、作業部屋に置いてあった大きな物置き棚から何やら電子機器をいくつか手に取って戻ってきた。ぱっと見たところ、スピーカーと録音機のように見える。

 一雄は再び健悟と公衆電話の前に腰を下ろすと、公衆電話の受話口へスピーカーを装着し始めた。


「お前に一人芝居打たれてもかなわんからな。本当に翠と喋ってるかどうか、俺にも確かめさせてもらうぞ。まあ、無理な話だろうがな」


 健悟が恥をかくところを想像したためか、一雄はいたずらを仕掛ける悪餓鬼のように笑った。この人が笑うところを久しぶりに見た、と健悟は思った。自分と顔を突き合わせる時、一雄はいつも怒っているか、無表情かのどちらかだったのだ。


 スピーカーを装着し終えた一雄は録音機のスイッチを入れると、ほれ、と受話器をこちらへ差し出してきた。おずおずとそれを受け取ると、さっさとしろと顎で促される。


 健悟は戸惑いながらもズボンのポケットに入れっぱなしにしていたメモ帳とペンを取り出し、道端翠の情報を書き付けた。一雄は興味深げにそれを見守る。翠の情報を数字へ直し終えたところで、テレフォンカードを持っていないことに気がついた。


「あの、テレフォンカード、持ってませんか?」

「テレフォンカードだあ? こんなどこにも繋がってねえ電話にそんなもんがいるのかね」


とぶつくさ文句を言いながらも、一雄は机の中を漁ってカードを探し当ててきてくれた。


「ほれ、五百円分のと千円分の、どっちがいい?」

「……千円で」

「あとで払えよ」


 ぽいっと投げられた薄いカードを受け取る。

 いつもとはまるで逆のやりとりにまだ戸惑いは消えないながらも、健悟はゆっくりと公衆電話へカードを挿入した。するりとカードを飲み込んだ電話の端に赤い数字が灯る。受話口にはスピーカーが装着されているため、受話器を耳に押し当てることはせずトランシーバーで会話をするときのような持ち方をして空いたほうの手をダイヤルへと伸ばす。


 くるくるとダイヤルを回している最中も、嫌な動悸が止まらなかった。

 翠が出たらどうしよう。いや、出なければ困るのだが、でも出てしまったら何と言ったらいいのだろう。いつものように管理人の道端健悟ですと名乗ればいいのだろうか。けれど、翠にとって健悟は死者と生者を繋ぐ管理人というだけの存在ではない。もっと特別な意味を持った……。


 そこまで思ったところで数字を回し終えてしまった。プルルルル、プルルルルとスピーカーから音がする。一雄は線の繋がっていない公衆電話が通信音を響かせたことに驚いているようだった。


 繋がってくれ。いや、繋がらないでくれ。


 どちらにも気持ちが振り切れない。今まで自分が出会ってきた依頼人たちもこんな思いに苛まれていたのだろうか。話したいけれど話すのが怖い。繋がってほしいけれどその先どうしたらいいのか分からない。健悟は初めて依頼人たちの心情を胸の中に思い浮かべた。今になって思えば、彼らはなんて勇気があったことだろう。それに比べて自分は……。


 その時、通信音がやんだ。


「はい」


 涼やかな女性の声がした。一雄も健悟も思わず息をのむ。

 二人は聞き覚えのあるその声に顔を見合わせた。健悟は緊張のあまり一度、唇を震わせ


「道端翠さんですか?」


と尋ねた。


「はい、そうです」

「管理人の……」


 そこまで言いかけて口を噤む。健悟はわずかに俯くと、大きく息を吸い込んだ。


「夫の、健悟です。久しぶり」


 スピーカーから軽やかな笑い声がした。


「あはは、久しぶり。やっとかけてくれたんだ」


 電話の相手は亡くなった健悟の妻、翠であった。

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