4人目 道端健悟 (7)

 離れに入るのはこれが初めてだった。

 一応、「失礼します。道端です」と叫んでみたが返事はない。「上がらせてもらいます」と一言断りを入れてから、健悟は土間でつっかけを脱いだ。


 玄関を上がってすぐの一室に一雄はいた。恐らく彼の作業部屋なのだろう。すりガラスがはめられた引き戸越しに室内に並べられたいくつかの電気工具やテーブルがみえる。

 戸の向こうに見えた義父の後ろ姿に、緊張が走った。唾を飲み込み、控えめにコンコンと戸をノックする。


「道端です。一雄さん、お話ししたいことがあります」

「……」


 一雄は珍しく、怒鳴りつけることもしなければ罵声を浴びせることもしなかった。ただし、入っていいという許可も下りない。待てど暮らせど進展しない状況に痺れを切らし、健悟はそろそろと遠慮がちな手つきで戸を引いて入室した。

 橙色の蛍光灯に照らされた室内で、一雄は部屋の隅にある椅子に腰かけてアルバムを開いていた。そこには幼い頃の翠の姿を収めた写真が並んでいた。


 健悟はあまり音を立てないよう、注意をしながら一雄の横へと移動した。健悟が傍らで佇んでも一雄は何も言わない。


「お話ししたいことがあります」


 一雄はようやく顔を上げた。深い皺が刻まれた瞼の奥から鋭い視線が向けられる。顔には出さなかったものの、義父の凶悪に歪められた相貌に健悟は思わず逃げ出したい思いに駆られた。が、これも葵のためだと思ってなんとか踏みとどまる。

 一雄は健悟が抱えた公衆電話へと視線を落とした。


「また電話か」


 低い声で唸るように言われた。彼の視線の先には、公衆電話のひび割れがある。前にも一度、一雄へは千鶴を通じて公衆電話の修理の依頼を申し出たことがあった。その時はテレフォンカードの差込口をつけてほしいという依頼であったため、修理というより改造に近かった。

 もともと右田が使っていた公衆電話は健悟が今使っている特殊簡易公衆電話ではなかった。いわゆる普通の、電話ボックスに設置された緑色の大きな公衆電話であった。右田は何の気なしにそれを自宅へ置き、依頼人を自宅へ呼びつけて死者との電話を繋いでいた。しかし健悟が管理人へと変わる時、自分の家へ置くには大きすぎるし、何より見ず知らずの他人である依頼人を自宅へ上げたくないという理由から持ち運びの可能な特殊簡易公衆電話へと切り替えたのだ。


 死者との電話を繋ぐ公衆電話の内部には、お守りの形をした特殊な基盤が埋め込まれている。右田の公衆電話から基盤を貰い受け、新しい特殊簡易公衆電話へと引き継ぐことで健悟は管理人となったのだ。


 一雄は健悟と話すことはないものの、電話の改造は引き受けてくれた。基盤を入れる際にも、見たことのないその形に不振そうな顔をしていたそうだが、適当な場所へ埋め込んでくれたようだ。健悟のため、というより彼は単純に機械いじりが好きなのだろう。


 電話を直してほしいというのもありますが、今日はそれが本題ではありません。そう言おうとしたのだが、間髪入れずに一雄に電話を奪われた。


 畳んだアルバムの上に電話を乗せた義父はひび割れの具合を観察する。それから棚から取り出したいくつかの工具でひび割れをがちゃがちゃやると、健悟には分からないやり方で電話の裂け目をつぎはぎしていった。


「明日、母屋に置いといてやるから帰れ。いつまでも突っ立ってんじゃねえ」


 こちらを見ることもなく、一雄はそう言った。

 健悟は両側に置いていた拳を固く握りしめた。帰れと言われてはいそうですか、となるのでは意味がない。今日はどうしても一雄と話さなければならない訳がある。


「今日、葵からお母さんはどうして死んだのかと聞かれました」


 修繕作業をしていた義父の手がぴたりと止まる。

 健悟は緊張に負けないよう、すくみそうになる足を叱咤した。


「葵がそんなことを聞いてきたのは初めてでした。その時は、一雄さんとの約束を優先して本当のことは伝えませんでした。しかし、僕は一人の家族として葵にも真実を知る権利があると思っています。今日は、葵に本当のことを話す許可をいただきたく、」

「本当のことだって?」


 一雄が机に手をついて立ち上がる。その拍子に、彼が手にしていた工具は床へ転がった。からんと金属が鳴る音がして、乾いた空気に反響する。

 一雄はこちらを睨みつけると一歩、ぐっとにじり寄ってきた。身長は健悟のほうが高いが恰幅の良い義父の体からは明らかな怒気が発せられていて、実際の背丈よりも大きくみえる。詰め寄られるたびにこちらが一歩下がるとさらに一歩、一雄が距離を詰めてくるのでいたちごっこに陥った。


「葵を産んですぐ、翠は病気になったよな。あいつは体調を崩してたんだ。だがお前は仕事漬け、毎晩遅くにならないと帰ってこない。帰ってきても会議だ研究だ、育児には碌に手も貸さない。中津川に住んでる俺たちとは違ってお前の親はお前たちの近くに住んでたよな? でも、お前たち家族は誰も翠を助けなかった」

「それは、」

「翠は俺たちに心配をかけまいと自分の不調を隠し続けた。たまに千鶴が様子を見に行ってたが、あまりにも痩せてきちまっておかしくなってたもんで病院へ連れてった。その時にしこたま薬を処方された翠は、授乳ができなくなった。赤ん坊なんてな、粉ミルクで育てたって大した問題はないんだ。でも、翠は病気のせいで授乳もできねぇ自分を責めた。そのせいであいつは死んだ」


 一雄の言葉に、蓋をしていたあの頃の記憶が健悟の脳裏に蘇る。彼に気圧されて一歩後ろへ下がるたび、記憶が、心が、あの日へと引き戻されていく。


 一雄の言う通り、葵を産んですぐ翠は抑うつ症状を呈すようになった。

 出産が母体へかける負荷は健悟の想像を絶していた。笑顔も口数も多かった翠は葵を産む前後から表情がなくなり、涙脆くちょっとしたことで怒るようになり毎日のように癇癪を起こすようになった。


 健悟は何度も病院へ行ったほうがいいのではないかと言ったが、言えば言うほど翠は反発し大丈夫の一点張りで、結局千鶴に引きずられていくまでは受診も服薬も拒否していた。受診後、毎日たくさんの薬を飲まなければならないこと、薬を飲むと授乳ができなくなることを知った翠は千鶴が帰った後、自宅で泣き喚きながら健悟に向かって訴えた。


「なんでわたしは普通のお母さんができることができないの!? あなただってわたしのこと、面倒だって思ってるんでしょ!? 役に立たない妻だって思ってるんでしょ!? なんとか言ったらどうなの!?」


 髪を振り乱し、涙を零しながら床にへたり込んだ翠は健悟へクッションや食器、本など手当たり次第に物を投げつけた。健悟は彼女の癇癪を収めてやることもできず、浴びせられる物や罵声をただ受け止めるだけで精一杯になり固まっていた。


 その時ベビーベッドに寝かせていた葵があああ、と声を上げて泣き始めた。葵はいつも翠の癇癪が始まり健悟が何もできずに防戦一方になると、それを嘆くかのように泣き始める。


 翠は我が子の声にはっと我に返るとぼろぼろの状態のまま、慌てて葵のもとへと駆け寄った。葵は翠に抱き上げられると少しずつ泣き声を収め、やがてすやすや眠り始めた。

 その寝顔を見つめながら翠はぼそりと呟いた。


「わたし、怖い。いつかこの子のこともあなたに向かって投げてしまいそうで怖い。この子のこともあなたのことも、めちゃくちゃにしてしまいそうで自分が本当に嫌になる。ごめんなさい、こんなわたしでごめんなさい」


 そんなことはない、きっと大丈夫。二人でなんとかやっていこう。僕も協力するから。それでもだめだったら中津川の家に帰っていいよ。


 今思い返すとあの時彼女へ向けて言うべき言葉は山ほどあった。けれどそのうちの一つも、健悟の口からは出てこなかった。


 このままで本当に大丈夫なんだろうか。

 当時、健悟は助教授から准教授へと上がるかどうかの瀬戸際で、いくつかの厳しい審査をパスしなければならない時期だった。大学の准教授以上のポストは限られている。時を逃せばチャンスは二度とやってこない。自分の仕事を守らなければ、家族を守ることもできない。

 大学へ仕事に行けば朝から晩まで働き詰めでへとへとになり、家に帰れば錯乱した翠に酷くなじられる。彼女をうまく落ち着かせてやることもできず、ただ立ち尽くしていると一日が終わってまた次の日の朝が来る。そしてまた大学へ行き、同じ毎日が繰り返される。


 翠だけでなく、健悟にも限界が近づいていた。

 もともと健悟は子どもが欲しいとは思っていなかった。どちらでもよかったのだが、翠との子なら欲しいと思って結婚し、彼女が望むままに出産にも賛成した。しかし、こうなってからは子どもなんて諦めて二人で慎ましく穏やかに過ごしていたほうがましだったんじゃないかと思えてならなかった。


 近場で暮らす健悟の両親の手を頼る、という発想もないわけではなかったが、自分の親子関係を振り返ってみるとあまり良い案ではなかった。ただでさえ、自分の子にすら無関心な親なのだ。翠や葵のことを気にかけてくれるとはとてもじゃないが思えない。


 中津川の実家に翠と葵を向かわせる、という手もあった。しかし、そうなると健悟は一人になってしまう。翠と出会って誰かといることの喜びを知った今、健悟は翠と離れることに恐怖を感じていた。一度、中津川へ戻ってしまえば翠はもう二度と自分の元へは帰ってこないのではないかという怖さがあった。そのくらい、今の自分は翠にとって頼りない存在であり、彼女に見限られてもおかしくないことは自覚していた。翠がいなくなり誰とも意思の疎通の取れない孤独の世界に戻ることが、こんな状況になった後でさえも恐ろしかった。


 進んでも地獄、戻っても地獄。

 翠か健悟か、どちらの糸が切れるのが早いか。時間の問題だった。


 悪い予感はずっとしていた。けれど結局、健悟は何の行動もできずその日も仕事へ向かった。そして家に帰ると、ベッドの上で泣き喚く葵とカーペットの上に転がった翠の姿を見つけた。翠は死んでいた。真っ白な、泣き腫らした顔をして大量の薬を床にばらまいたまま彼女は死んでいた。


 一雄の怒鳴り声が遠くの方で聞こえる。耳鳴りのように響く彼の声は追い詰めるべき人間を正しく吊し上げてくる。


「葵に本当のことを言うだって? お前の母親はお前を産んだせいで病気になって死にましたってか? 僕はそれを見て見ぬ振りした腰抜けですってか? 言えるもんならなあ、言ってみろってんだよ!」


 健悟の背中に壁が当たった。

 追い詰められた健悟はこれ以上、後には引けないところまできていた。怒りに燃えた一雄の顔がすぐ目の前にあった。健悟も一雄も、握りしめた拳は震えている。


「それでも、葵には知る権利があり、」


 言い終わる前に頬を殴られた。

 バランスを崩した健悟はそのまま床へ体を打ち付ける。こちらを見下ろす一雄は肩で息をしていた。額に脂汗を浮かべて、怒りを抑え込もうと必死に荒い呼吸を繰り返している。


「世の中にはなあ、知らないほうがいいことなんて五万とあるんだよ。そんなに権利権利言うんだったらなあ。俺にも聞かせてもらおうか」


 一雄はこちらへ背を向けると机に乗せた公衆電話を引っ掴んだ。健悟の前へそれを突き付け、乱暴にゆすってみせる。


「お前、これで何してんだ? こんな時代遅れの公衆電話なんざ、なんで持ってんだよ。もしかしてあれか、携帯で連絡とるとまずいやつでもいんのか。新しい女でもできたのか」


 健悟は頬を抑えたまま、何も言わなかった。

 すると、その沈黙を肯定ととらえたのか、一雄は口角を引きつらせてせせら笑う。


「お前はこいつをずいぶん大事にしてるみてえだな。葵から聞いたぞ。時々、こいつを持ってどっか遠くへ出かけるって。お前、こんなもんで一体何をしてんだ?」

「……」

「そうか、そうか。そんなにこいつが大事ならな、こうしてやる……!」


 一雄はそういうと手にした公衆電話を壁に向かって振り上げた。彼が公衆電話を壊そうとしていると認識した瞬間、健悟の体は反射的に動いていた。

 

 だめだ、やめろ。それがないと僕はもう二度と、翠と話すことができなくなってしまう。

 

 健悟はとっさに彼に飛び掛かった。一雄は必死に抵抗したが、年齢のせいもあって力では健悟には適わない。彼から公衆電話を奪い返した健悟は、今まで発したことがないほどの大声で怒鳴った。


「これは、翠と繋がるための最後の手段なんだ! あんたにだって壊させやしない!」


 決死の思いで叫んだ健悟であったが、一雄は彼の言わんとすることがわからず不審げに眉を寄せた。

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