4人目 道端健悟 (6)

 夜。


 四人で食べる夕飯は通夜かと思うほど静まり返っていた。洞窟の中で食事をとっているのかのように食器が掠れる音、咀嚼する音が食卓に妙に響いて仕方ない。

 千鶴がこさえてくれたコロッケも、お麩の入ったみそ汁もとても美味しいのに、誰も千鶴に美味しいよとは言わない。否、言えないのだ。健悟と一雄が膝を突き合わせているこの状況で下手なことを口にすれば、何が起爆剤になるか分からない。


 一雄は健悟のことを毛嫌いしている癖に食事だけは離れではなく母屋で一緒に食べると決めている。千鶴曰く、綿谷家の昔からの風習らしくどれだけ酷い喧嘩をしようと嫌っていようと、家にいる限りは在宅している人間全員で食事をとるというしきたりがあるらしかった。一雄は健悟のことが嫌いだという理由一つで、今まで自分が守ってきた綿谷家の伝統あるしきたりを曲げたくないのだろう。


 健悟と一雄はほとんど食事にしか視線をくれず、もくもくと食べ進めている。一方、千鶴と葵は時折、それぞれの隣に座った男性二人を見ながら居心地悪そうに食事を口へ運んでいる。


 あと少しで一雄の食器が空になる、といったところで健悟は唐突に箸を置いた。


「一雄さん。折り入ってお話ししたいことがあります」


 途端に食卓に漂っていた緊迫した空気が凍り付く。それでも健悟は両手を膝に置いたまま、一雄から視線を逸らさなかった。一雄は健悟のほうを見ることもなく最後の白米の欠片を口に放り込み、ぱちっと箸を置いて両手を合わせる。


「ごちそうさま。離れにおる」


 その言葉は無論、健悟へ向けられたものではなく千鶴へ向けられたものだ。

 一雄は夕食後は大概趣味の機械いじりに勤しむ。そのまま離れで眠ってしまうため、今日も母屋ではなく離れで眠ることを千鶴に告げたのだ。


 千鶴ははい、と返事をしながら席を立つ一雄の背を見送った。その後、自分の夫が食卓から出ていったことを首を伸ばして何度も確認してから、健悟をきっと睨んでみせる。


「ちょっと健悟さん、どうしたの?」


と咎めるように尋ねられた。


 一雄がいなくなったことでそれまで張り詰めていた空気は幾分和らいだ。葵も不審そうに健悟へ視線をくれたものの、ずっと我慢していたのであろう、みそ汁のおかわりへと手を伸ばしている。健悟は箸を持ち直し食事を再開しつつ、


「僕は葵にそろそろ本当のことを話したいと思っています」


とだけ返した。

 鍋の蓋をとりお玉を手にした葵の動きが止まる。


「わたし? 本当のことって、あ……」


 そこまで言って彼女は察しがついたようだった。千鶴もあ、と息を呑む。健悟が言っている本当のことというのは、葵の母、翠の死因のことである。

 葵は自分の母がどうして亡くなったのかを知らない。この家で唯一、葵だけが真実から遠ざけられてきた。そのため、彼女はどうして自分の父親が祖父から嫌われているかも知らない。それは家族の形としては少々歪なものであると健悟は感じていた。


 葵はみそ汁をよそって一口啜った。それきり何も言わなくなる。唐突な父の言葉にどう返していいのか、分からなかったのかもしれない。一方、千鶴は向かいの席に並んで座った健悟と葵を交互に見比べ困った表情を浮かべた。


「でも、あの人がそう簡単に許すとは思えないけれど」

「だから話をしに行くんです」

「でも……」


 千鶴も一雄と同じく、自分の母親が自殺によって死んだことを知ったら、葵がショックを受けるのではないかと気にしているようだ。千鶴は、葵の顔を覗き込むと


「葵ちゃんは知りたいの? お母さんがどうして亡くなったのか」


と尋ねた。

 葵は視線を上げて、やや沈黙を挟んだ後、首を横に振った。


「別に。知りたくない」


 千鶴から安堵の息が漏れる。


「じゃあ、何も無理に教えなくても」

「葵は知りたがっています」


 健悟は千鶴の言葉を遮った。でも、と異を唱える彼女へ健悟は


「僕はこれ以上、葵に我慢をさせたくはありません」


と言った。それから先、何を言われても健悟は同じことしか返さず、千鶴はますます困惑し、葵は何も喋らなくなった。


 夕食を終えた健悟は千鶴の反対を押し切って公衆電話を抱えると一雄がいる離れへと向かった。母屋から一度外へ出て裏手へ回る。手入れの行き届いた緑の生垣をすり抜けながら歩いていく。つっかけを履いただけの足は冬の寒さに負けて冷えていた。 

 離れの前で立ち止まり、インターホンを鳴らすが応答はない。一雄からの拒絶にはずいぶん慣れたが、慣れたからといって傷つかないわけではなかった。けれど、一雄から拒絶されるきっかけをつくったのは間違いなく自分だ。


 一雄は葵を生んですぐに翠が亡くなったことについての責任が健悟にあると思っている。それは間違いではなかった。自分がもっと翠を支えることができていたら彼女は死ななかっただろう。そう思うからこそ、健悟は一雄からの手酷い仕打ちを甘んじて受けていた。葵に自分を産んだせいで母が死んだのではないかと思わせることがないようにという一雄からの忠言を律儀に守り、娘へ母親の死因を伏せた。


 けれど今日、ここへ向かう道中、葵から遠慮がちになぜお母さんは死んだのか、と尋ねられた時、このまま娘に本当のことを隠していていいのだろうかと初めて疑問が沸いたのだ。


 ふうっと吐いた息は白く、それだけで凍えてしまいそうな冷たい色彩を放っている。

 健悟は人の気持ちに寄り添うことが苦手だ。心理学を専門的に学ぼうと思ったのも、あまりにも他人と自分が違いすぎて人とうまくコミュニケーションをとることができなかったために、人の心を科学的に理解し人とよりよく接する方法を模索しようと考えたことがきっかけだ。


 翠の気持ちにも一雄の気持ちにも、自分は寄り添ってやることはできなかった。それでもせめて、葵の気持ちにだけは、わが子の気持ちにだけは父親としてできうる限り寄り添ってやりたい。


 健悟自身、自分の養父とはあまり折り合いが良くない。そのことで何度か虚しい思いをしたこともあった。今、健悟は葵に自分と同じような虚しさを味合わせているのではないかと危惧している。


 翠が生きていてくれれば、自分と葵はもっと普通の親子として色んな会話ができたかもしれない。けれど翠はもういない。葵を支えてやれるのは、あの子の気持ちを尊重してやれるのは、もはや自分しか残されていない。


 一雄と対峙するのは、正直に言えば怖かった。

 顔を見るたびに怒鳴られなじられ、罵声を浴びせられることは、大人であっても恐ろしいことだ。けれど、ここで引くわけにはいかない。


 健悟は寒さに震える手で玄関の引き戸を開けた。幸い、鍵はかかっておらず一雄と対峙するための道はあっさりと開かれた。

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