4人目 道端健悟 (5)
翠と健悟は学部時代の同期である。二人とも教育学部の心理学コースへ所属していて、それ以外の接点は特になかった。お互いに悪印象も持っていなかったと思うが、特別好印象を持っていた訳でもないと思う。
きっかけはよくある話で、心理学コースにおける第五実験という授業のグループメンバーで遊びに行こうという提案がなされたことに由来する。
第五実験というのは、学部三年生の時に行われる授業の一つであり、四年生で卒業論文を書く前段階としてのプレゼミのようなものである。健悟と翠はそこで同じグループになった。
この第五実験という授業、なかなかに課題がハードで終わってみればあっという間であるもののやっている最中は体力に自信がある健悟でもかなりきついものがあった。故に同じグループに所属する学生同士の間には妙な連帯感が生まれ、授業を終える頃には皆で遊びに行こうという話になったのである。健悟には今も昔も友達はいないが、当時からこうしたグループでの一時的な交流にはしばしば参加していた。
場所は地元では屋内プラネタリウムが楽しめることで有名な科学館に決まった。七月の夏の盛りであったため、海に行こうかという案もでたが日焼けをしたくないという女性陣の声に負けた結果の妥協案だった。
ところが当日、グループ五人のうち、三人から当日になって行けなくなったという連絡が入ったのである。一人は風邪、もう一人は予定のダブルブッキングの発覚、あとの一人は身内の不幸。どれもこれも致し方ない理由ばかりで、既に科学館前に集合していた翠と健悟は思わず顔を見合わせた。互いに図らずも二人になってしまった、という表情をしていたと思う。そこで気を利かせた一言が言えるようなら、健悟はあの当時、年齢=彼女いない歴を地でいくことはなかっただろう。
案の定、先に口を開いたのは翠だった。
彼女は少し汗ばんだ頬に張り付いた長い髪を耳にかけ、
「せっかくだし二人で見て回ろうか」
とはにかみながら言った。
健悟は何食わぬ顔で頷いてみたものの、胸の内では心臓が異常な速度で騒ぎ始めていた。なにせ、女性と二人で遊ぶなどという経験が健悟にはないのである。よく勘違いをされるが、当時の健悟はまだ大学生で顔には出ないものの人並みに女性への興味はあった。翠を恋愛的な意味で見たことはなかったが二人きりとなると話は別で、途端に意識してしまい緊張した。
おかげで子どもから大人まで楽しめるよう設計されているはずの科学館の内容は健悟の頭には一つも入ってこなかった。ただ、ミュラーリヤー錯視を眺めて面白い、と指をさす翠が眩しく、火力発電と電力発電、それから風力発電の違いについて勝手な考察を始める翠が可愛くみえていた。あまりにもちょろすぎる自分に呆れなくはなかったが、翠はもともと頭の回転が速く気遣いができる魅力的な女性であったことも手伝って、彼女と二人きりになった男なんてみんなこうなると半ばやけくそになった。
健悟は思った。
これはデートである、と。これが世間一般で噂されているデートなのだ、と彼は一人噛み締めていた。
二人は件のプラネタリウムへ行った。
柔らかい観賞用のリクライニングチェアに座った途端、緊張でカチカチに固まった体からふにゃふにゃと力が抜けていく。照明は暗く、視界には人工物とは思えないほどの満点の星空が広がっていた。そこに、落ち着いた調子のナレーションが加わればもうやることは一つだ。
寝るしかない。
健悟は夏の大三角形が瞬く美しい星空を見上げながら必死に睡魔と戦った。科学館を駆け回る翠を見つめていたせいで思っていた以上に疲れていたらしい。しかし、プラネタリウム中に寝るなど、そんなベタな失態を翠の前でしたくはなかった。否、人生初のデートで女子の前で恥をかきたくない。それはさすがに男としてのプライドが許さない。大学生の健悟は青かったのである。
結論から言おう。
彼は睡魔に負けた。完敗だった。コールドゲーム、満塁さよならホームラン。完膚なきまでに健悟は寝た。意識を失う直前、2018年に火星が大接近するとかなんとか、そんな話がなされていたような気がするが火星なんかよりも睡魔と大接近していた健悟は、とうの昔に夢の中で目を覚ました頃には辺りは薄明るくなりプラネタリウムは終わっていた。
意識が浮上した途端、寝てしまった罪悪感と共に飛び起きた。
辺りを見回すとあれほど静まり返っていた周囲の観客たちはぽつりぽつりと談笑し席を立ち、感想を口々に述べている。恐る恐る横へ座っていた翠に視線をやると、彼女はにんまりとしながらこちらを見ていた。
やってしまった。そう思って絶望しかけた時。
「わたしも寝ちゃった。気持ちよかったね。お腹すいたなあ、ご飯食べいこ」
翠はそれだけ言うと立ち上がってプラネタリウム会場を後にした。健悟は頷き、慌てて彼女についていく。
健悟は翠を疑っていた。こういう疑心暗鬼な面も彼がモテない一つの理由である。本当に彼女は眠っていたんだろうか。単に自分が眠っているのを見て、気を遣って合わせてくれただけなのではないだろうか。
健悟は彼女の横に並び立つと、もごもごと尋ねてみた。
「プラネタリウム、内容どうだった?」
「え? 全然覚えてない。最初の夏の大三角形の説明のとこからもう寝てたもん」
なんてことだ。僕より先に寝ていた奴がいるなんて。
健悟はあっけらかんと言いきる翠に少しだけ呆れたものの、大いにほっとした。
「僕、火星のとこから」
「あ、じゃあわたしよりは後じゃん。わたしの勝ちだ」
「先に寝た方が勝ちなの?」
「寝る子は育つっていうでしょ? たくさん寝たほうがいいことあるんだよ」
「それとこれとは話が違う」
「え? なんで?」
「寝る子は育つっていうのはそもそも赤ん坊に使う言葉だ。それにいいことがあることと寝ることの間には何の因果関係もない。反証として早起きは三文の徳って言葉もある」
「でも三文って九十円だよ? 頑張って早起きして九十円貰うより、朝ゆっくりしてよく寝た~って幸せに起きるほうがよくない?」
「貨幣の価値も幸せの価値基準も人それぞれだから何とも言えない」
「そんなこと言ったら森羅万象、人それぞれになっちゃうじゃん。もっとわたしはこう、僕はこうって主張し合える社会にしてこうよ」
「それは、和を以て貴しとなす日本の社会の中では難しい」
「じゃあせめてわたしたちの間だけではそういう社会を築いていきましょーよ」
不思議と翠との会話は弾んだ。
健悟は喋るのが下手くそだ。特に雑談が苦手だ。だから彼と話をしている人はみんな五分と経たないうちに話題に困り口を噤むか、彼の前からいなくなる。
健悟の口下手は先天的な特徴もあるかもしれないが、家庭環境も大きな要因の一つとなっている。
健悟の両親は彼が幼い頃、離婚している。本当の父親の顔を健悟は知らない。母は健悟を祖母に預けて仕事に出かけ、ほどなくして再婚し健悟は養父のもとへ引き取られた。母と養父と健悟、三人の家庭には会話らしい会話がほとんどなかった。正確には、子を交えた会話というものがほとんどなされなかった。
幼心に健悟は後からやってきた養父との接し方を図りかね、養父もまた健悟との接し方を図りかねていた。父子の間をうまく母が仲介してくれればよかったものの、母はそうはしなかった。する能力がなかったといったほうが正しいかもしれない。
結果、道端家には常に冷たい空気が流れていた。
夫婦で旅行には行くけれど家族ではいかない。食卓を共に囲むけれど会話はない。高校や大学への進学は親には相談せず自分で決めた。地元では有名な国立大学へ合格したことを報告しても、父はおめでとうはおろか、頷きもしてくれなかった。母はお祝いの言葉をくれたが、心の底では健悟の行く末など気にも留めていないことが見て取れた。
暴力を振るわれるわけでもない。罵声を浴びせられるわけでもない。衣食住が保障されていないわけでもない。
ただ、健悟の両親は健悟への関心が決定的に欠けていた。故に、健悟は次第に人との接し方が分からなくなり、誰と過ごしても一人でいたほうが気楽だと思うようになった。ご飯だって家族と食べるより、一人で黙々と食べたほうがずっと美味しい。健悟にとって、誰かといることなんて緊張のもとでしかないのだ。だから健悟にはこの歳になっても親しい友人の一人もいない。
科学館だってみんなで遊びに行くことにはなっていたものの、内心では一人で来た方が楽しいだろうと思っていた。
けれど、今見たプラネタリウムは、二人ともあっさりと睡魔に負けて陥落してしまったプラネタリウムだけは一人で見るよりも翠と二人で見た方が楽しいような気がした。そんな気持ちになるのは健悟にとって生まれて初めてのことだった。
お昼は科学館に併設されているフードコートで食べることになった。翠はクリームパスタを、健悟はトマトパスタを食べることにした。
不意に、ドラマや漫画でまことしやかに囁かれている典型的な男女の食事の掟が健悟の脳裏をよぎる。
「こういう時って僕が奢った方がいいのかな」
「へ?」
パスタをフォークでくるくると巻き付けていた翠が首を傾げる。健悟は首の後ろを掻いた。
「いや、女性と二人で食事をする時は男性がご馳走するものなのかなと」
すると、翠はフォークをかちゃりと皿の上に置き、うーんと腕を組んで考え込む。それから伏せていた瞼をおもむろに開くと、
「道端くんはお金持ちなの?」
と尋ねてきた。
「え?」
「道端くんはご実家が会社を経営してるとか、実は石油王とか、そういう類の生まれなの?」
「いや、違うけど」
「わたしの記憶が確かなら、道端くんってガソリンスタンドでバイトしながら学費自分で払ってたよね?」
「うん」
「なのにどうやってわたしの分のご飯を奢るの?」
「そ、それはまあ、奨学金を使えばなんとか」
「奨学金ってそういう風に使うものじゃないよ?」
それは確かにその通りだった。
黙っていると翠が快活に言った。
「道端くんがお金持ちなら奢ってほしいけどそうじゃないならいらない。だって、一回でも無理してご馳走してもらったら、気軽に道端くんとご飯食べにいけなくなっちゃうじゃない。お互い学生でお金もないのに、どっちかが無理したらしんどいよ」
そう言って笑った翠の頬には右にだけえくぼが出ていて、鼻にはくしゃっと皺が寄っていて、健悟にはそれがどうにも眩しくてキラキラしてみえてしまった。
「そうだね。ありがとう」
「いーえ」
二人は再びパスタを食べ始めた。
その時、健悟は一人で食べるパスタより翠と食べるパスタが何倍も美味しく感じられることに気が付いた。
それが健悟が翠を好きになった瞬間だった。
どこをどう好きになったのか、未だに言葉ではうまく言い表すことができない。けれどあの時、健悟は初めて一人の人間としてきちんと尊重され、大切に扱われたような気がした。そうして自分を大切に扱ってくれた翠を、この世の誰よりも大切にしたいと心から思ったのだ。
けれど彼女に率直に好きだというのは恥ずかしく、科学館を訪れた後、二人で数回遊びに行った帰り道、ようやくの思いで「付き合いませんか?」と言った。翠はにっこり笑って「よろしくお願いします」と応えてくれた。それから数年後、同じような不器用さで「結婚しませんか?」と言ったら翠は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに「はい」と言って目じりに涙を浮かべた。
思い返すと彼女にストレートな愛の言葉を伝えたことは一度もない。理由は恥ずかしいからという口にだせば取るに足らない、つまらない理由である。今になって、そんなつまらない理由で彼女に自分の気持ちを伝えることを躊躇わなければよかったと後悔している。けれど、もう何もかもが遅い。どれだけ後悔しても、今更大好きだよと伝えたところでもはや虚しい独り言にしかならないのだから。
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