4人目 道端健悟 (4)

 翠の実家は岐阜、中津川の山奥にある。凸凹とした砂利道を進んでいくと、タイヤがもたつき車両ごとがたがたと揺らされる。しばらくすると林に囲まれた民家が見えてきた。木々にはうっすらと霜が降りている。都会の喧騒とは程遠い、静かな土地だ。


 民家の駐車場へ車を停め、降車した健悟は葵を後部座席から下ろすと、古めかしい家屋を仰いだ。いつ見ても昔ながらの日本の伝統をそのまま形にして残したような、趣のある家だ。

 瓦が敷かれた屋根は雪が降り積もらないよう傾斜がかけられており、木目を活かした壁や扉の模様からは温かみが感じられる。結婚の挨拶をするために、自分の実家に初めて健悟を連れてきた際、翠は


「ザ・実家って感じでしょ」


と言ってほんの少し恥ずかしそうにはにかんでいた。

 都会のマンションの一室にある健悟の実家と比べて自分の実家が前時代的なものに思えて照れていたのだろう。健悟からすれば何の趣もない無機質なコンクリートの塊より、人の手で丁寧に編まれたことが一目でわかる翠の住まいの方がよほど好ましく感じられた。


 健悟より先に葵が玄関のインターホンを押す。すると、奥からぱたぱたと忙しない音がしてエプロンをつけた老女が現れた。彼女は葵と健悟を見るなりぱあっと顔を綻ばせ、


「よくきてくれたわね! いらっしゃい」


と二人を歓迎した。

 寒いんだけど、と文句を言いながらさっさと土間を上がる葵に続いて健悟も敷居を跨ごうとする。と、それを見透かしたように家の奥から鋭い声が飛んできた。


「どの面下げてきたんだ!」


 ぴたり、と上げかけていた足を止める。

 怒鳴り声に驚いたのだろう葵が思わず肩を震わせ、目をぎゅっと瞑る。慌てて翠の母、千鶴ちづるは「大丈夫よ」と彼女を優しく抱き寄せた。


 顔を見ずとも声の主が誰かは健悟には分かっていた。義理の父、一雄かずおだ。右田にも葵にも言われた通り、健悟は一雄の不興を買っている。故に年に一回、こうして妻の命日の前後に義理の実家へ足を運んでも、健悟と一雄は会話らしい会話をほとんどしない。健悟のほうも無理に近づかないようにしていたし、一雄のほうは健悟の顔を見るのも嫌なようだった。

 今とて、罵声がこちらへ飛んでくるだけで、声の主である義父は一向に姿を現さない。


「葵はいい! だが、お前は綿谷家の敷居を跨ぐな! 何度言ったら分かるんだ!」

「お父さん、わたしが呼んだんです! 文句があるなら出てきて言ってくださいよ!」

「知らん! 俺は離れにおるからな!」


 見かねた千鶴が応戦するが、どたどたという荒い足音と共に罵声ごと一雄の気配は消えてなくなった。千鶴は葵の艶やかな黒髪を撫でながら、健悟へ向けて申し訳なさそうに眉を下げる。


「ごめんなさいね。相変わらずで。遠くからわざわざ足を運んでくれたのに。今日は泊っていくでしょ? 安心して、お父さん、お夕飯の時以外は離れから出てこないから」


 健悟はなんと言ったらいいか分からず、黙って頭を下げた。千鶴は困ったように笑うと上がって、と内履き用のスリッパを勧めてくれた。

 例年であれば、このまま一雄と健悟はほとんど顔を合わせずに終わる。しかし道中、葵に尋ねられた「お母さんってなんで死んだの?」という質問が健悟の中で引っかかっていた。義父との約束により、娘には真実を告げられなかった。けれど、彼女はきっと知りたがっている。

 このままでいいのだろうかと思いながら、健悟は靴を脱ぎスリッパを履いた。


 葵は自宅から持ってきたゲームをする、といって居間に引っ込んだ。

 葵は怒鳴り声が苦手だ。自分に向けられたものではないとはいえ、さきほどの一雄の怒声を聞いて参ってしまったのだろう。健悟は黙って娘を見送ると仏間へ向かい、一足先に亡くなった妻へお参りをすることにした。

 六畳程度の和室には仏壇と共に翠の遺影が飾られている。享年二十九歳。こんなに若くして死ぬ予定ではなかった彼女は、黒い縁取りの額の中で無邪気に微笑んでいる。翠は笑うとえくぼが右にだけでき、鼻先にしわが寄る。健悟は彼女のそのくしゃくしゃの笑顔が好きだった。

 

 命日は明日だ。仏壇の前に正座をしてから鈴を鳴らすと、妙に澄んだ響きが健悟の鼓膜を揺らす。両手を合わせて目を閉じる。すると、仏間の引き戸が開けられる音がした。座したまま振り返ると茶と菓子を盆に載せた千鶴の姿があった。

 座卓へ茶と菓子を並べながら、千鶴は


「もう葵ちゃん、十七歳になったのね。あっという間。大学は行くの?」

「はい」

「そうよね、なんてったって、お父さんが教授ですもの。行かない手はないわよね」

「准教授です」

「あら、そうなの? どっちも似たようなものじゃない」


 准教授と教授では、大学における地位にかなりの違いがあるのだが、千鶴にそう言われると似たようなものかもしれないと思えてくるから不思議である。きっと、千鶴の声が翠にそっくりで、千鶴に言われたことはそっくりそのまま翠に言われているように思えるからかもしれないと健悟は考えた。いや、順番的に言えば逆か。翠の声が千鶴に似ているのだ。


 健悟は仏壇に背を向け、千鶴の方へ向き直ると改めて頭を下げた。千鶴は「やだ、何?」と気味悪そうな声を出す。


「毎年、お邪魔させていただき申し訳ありません」

「やだ、もう。こっちこそ忙しいのにいつもありがとう。ほら、二月って年度末で色々とお仕事も忙しい時期でしょ? わざわざこんな山奥まで来るだけでも大変なのに、うちの主人はいつまで経ってもあんなだし、ぴりつかせちゃってごめんなさいね。万年思春期なのよ、あの人。あれから十七年も経ってるのにまだあんな子どもみたいなことして」

「いえ。僕が悪いので」


 すると千鶴は目尻の皺を深くしてふふ、と微笑んだ。


「翠が言ってたわ。健悟さんはどれだけ怒っても口ごたえもほとんどせずに最後には折れてくれるからありがたいって。ちゃんと見放さないで最後まで付き合ってくれるところが好きって。主人だけじゃなく、あなたも相変わらずなのね」

「そう、でしょうか」


 自分は単に、頭の中で考えていることが口からうまく出てこないだけだ。翠は真逆のタイプで思ったことを思ったままに的確な言葉で表現することができる人だった。喧嘩になると負けるのはいつも健悟の方だ。大学の講義のような事前に決められたことを話すのなら得意なのだが、思ったことを自由に言えと言われると困ってしまう。

 健悟の口下手なところを翠は好意的に母親へ伝えてくれていたようだが、自分がもっと気持ちを言葉にすることができていたら、翠が死んでしまうこともなかったかもしれないと今になって後悔が湧く。口下手が祟って翠が生きている間も、彼女へ碌に愛情表現をしてやることもできなかった。


「ねえ、健悟さんは翠のどこが好きだったの?」

「どこ、と言われましても」


 目をキラキラさせて学生のように弾む声で尋ねてくる千鶴に健悟は弱る。どこ、なんて抽象的な質問には答えられない。それを察してか、千鶴は


「じゃあ何をきっかけに翠のことを好きになったの?」


と質問を変えた。

 健悟はしばし考えた。

 途端に走馬灯のように翠との思い出が蘇る。記憶を探ろうとすればするほど、普段は考えないようにしている彼女とのたくさんの思い出が濁流のように押し寄せて胸が詰まりそうになった。健悟は記憶の波を押しとどめるために急いで口を開くと早口に言った。


「パスタを食べていた時です」

「パスタ?」

「はい」

「何か特別な思い入れのあるパスタなの?」

「いえ。どこにでもあるパスタです」

「どこか特別な場所で食べたとか?」

「いえ、科学館に遊びに行った際に訪れた手頃なレストランです」

「えっと、じゃあその時、翠と何か特別な会話をしたとか?」

「いえ、特には」


 千鶴は首を傾げる。では一体、健悟は何をきっかけに翠に惹かれたのかしら、といったような表情だ。彼女が口を開きかけた時、廊下へ繋がる引き戸から葵がひょこりと顔を覗かせた。


「おばあちゃん、わたしもお茶ほしい」

「あ、はいはい。今持ってくからね」


 そういうと千鶴は葵と一緒に仏間を出て行った。

 健悟はもう一度、翠の遺影を見上げた。


 翠を好きになったきっかけ。

 誰にも理解はされないだろうが、健悟ははっきりと覚えている。うまく彼女に伝えることはできなかったけれど、あの時、健悟は初めて自分以外の誰かのことを愛しいと思ったのだ。

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