4人目 道端健悟 (3)

 それから数日後、妻の命日を翌日に控えたある日。

 

 健悟は車を運転していた。運転は得意ではないが好きである。特に高速道路を運転するのが好きだ。道路を時速百キロで走っているということは、自分は今有名ピッチャーが放った剛速球に乗って走り回っているようなものだと想像して愉快な気持ちになる。


 車の後部座席には一人娘の道端葵みちばたあおいが乗っている。葵は今時の女子の五人に一人がやっているボブカットという、健悟からするとおかっぱと何が違うのかよく分からないワンレングスに切り揃えた髪型をした女子高生である。顔はあまり健悟には似ておらず、ぱっちりとした二重瞼につんと尖った鼻や小さめの唇は妻に似ている。


 彼女は二月上旬だというのに太ももを剥き出しにした短パンを履き、上には軽めのパーカーを羽織っていた。寒くないのだろうか、と思ったが年頃の娘のファッションに何も言えないまま健悟は車に乗り込んでしまった。代わりに後部座席へブランケットを置いておいたのだが、使われた様子は今のところない。


 ちらりとバックミラー越しに葵を見る。彼女はヘッドホンをつけて音楽を聴きながら車窓から流れる景色をぼんやり眺めている。声をかけたとしても、娘の耳元で演奏を掻き鳴らす名も知らぬバンドのサウンドに自分の声はかき消されてしまうだろう。健悟は寒くないか、と尋ねようとして開きかけた口を閉じることにした。


 娘の葵とはあまり喋らない。

 今のように健悟なりに会話を試みようとすることはあるのだが、どのタイミングでどんな言葉をかけるべきか、判断に迷い口を開いては閉じるのを繰り返していたらあっという間に十七年経ち、娘は高校生になってしまった。

 そのせいもあってか、健悟だけでなく葵自身も家ではほとんど話さない。以前、夕飯ができたことを告げるため、彼女の部屋の扉の前に立った時、娘の大きな笑い声が聞こえてきて健悟はひっくり返るかと思うほど驚いた。相手は学校の友達だったらしいが、娘に笑い合える友達がいたことにほっとする気持ちと自分には一度もそんな大声を上げて笑う様を見せてくれないことを寂しく思う気持ちが一緒に沸いた。


 葵が健悟のことをどう思っているかは分からない。

 大学の准教授ということもあって、健悟の帰宅は遅い。妻が亡くなってからは葵の面倒は週末にやってきてくれていた義母にほとんど任せていた。小学校高学年辺りになってから義母の手が離れ、本格的に葵と健悟は二人で生活するようになったのだが、父子のぎくしゃくとした関係が改善されることはなかった。


 健悟は健悟なりに、葵のことを大切に思っている。しかし、大切に仕方が分からないため結局、最低限の衣食住を確保してやることくらいしか親の務めは果たせていない。


 妻がいてくれたら何か違ったのだろうか。

 野球ボールと同じ速度で進んでいく前の車両を見やりそんなことを考えていると、後ろから


「あとどんくらい?」


と声がかけられた。

 健悟は驚きすぎて急ブレーキを踏みそうになったがすんでのところで留まった。危ない、大惨事になるところだった。


「三十分くらい。トイレ行くか?」

「いかない」


 バックミラー越しに娘の姿をちらりと伺うと、彼女はいつの間にかヘッドホンを外していた。視線は窓の外へと向けたままである。


「おばあちゃんとこ行くんだよね」

「ああ」

「お父さん、おじいちゃんに嫌われてるよね」

「……ああ」


 本当のことだから否定のしようもないが、実の娘に言われると右田に言われるよりも辛い。苦虫を嚙み潰したような思いに気を沈めていると、続けざまに


「お母さんって何で死んだの?」


と尋ねられた。

 一瞬、気温が急降下したかのような緊迫感が車内に流れる。バックミラー越しに葵と目が合った。さきほどまで窓の景色を眺めていたというのに、今は父親の反応をミラー越しに伺っている。


 葵が母の死因について尋ねてきたのは初めてのことだった。健悟は咄嗟に本当のことを言いかけ、辞めた。義父との約束が彼の脳裏をよぎる。


「娘が死んだのはお前のせいだ。お前があの子を支えてやらなかったから、こんなことになったんだ。いいか、葵には絶対に言うなよ。孫に責任を負わせるようなことは絶対にするんじゃないぞ」


 厳しい口調と共に義父の目から流れた涙が蘇る。

 健悟はハンドルを握る手に力を込めた。


「お前は知らなくていい」

「……」


 葵は何も言わずにまつげを伏せた。その表情には父親から拒絶されたことを悲しむような色が浮かんでいた。

 健悟はフォローをしようと思ったものの、なんと言ってやれば葵の気が慰められるのか分からずに結局口を閉じた。


 娘は薄々、自分の母親の死因に気づいているのかもしれない。気づいているのだとしたら、こんな風にいつまでも隠しておくことは得策ではない。しかし、気づいていないのだとしたら義父の言う通り、真実を明かすことは彼女を傷つけることになるかもしれない。


 健悟の妻、道端翠みちばたみどりは十七年前に自殺した。睡眠薬を大量服薬し、眠っている最中に嘔吐して吐瀉物が喉に詰まり窒息死した。オーバードーズによる自死だった。


 葵が生まれて間もない、冬のことであった。

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