番外編:始まりの物語

 突き抜けるような青い空、強い日差しが降り注ぐ中、真っ白なワンピースをまとい、大きな、これまた白い帽子を被った彼女は言った。

「私はね、皆がお日様の下を堂々と歩けるような居場所を作りたいの」

 帽子の下よりたなびく長い白髪が陽光を浴び、煌めく。

「君がお日様の下、ねえ」

「あら、何か引っかかることでもあるかしら」

「そりゃあそうでしょ。一般的に『君たち』はそういうイメージだもの」

「ふふ、パブリックイメージは怖いわね」

 彼女は笑う。

「……でもさ、皆がってのは難しいと思うよ」

「何故?」

「違うものを全部飲み込めるほど、人間も異種族もおおらかじゃない。歴史が証明している。みんな仲良くなんて夢物語だ」

「だからやるのよ」

 あの時は想像力が足りていなかった。彼女がどんな思いで理想を語っていたか。想像出来ていたとしても、あの時の自分では何も出来なかっただろうけど。

「あら、ヴィルヘルムが来たわ」

「うわぁ、凄く怒ってない?」

「ふふ、嫉妬ね」

「……君が大好きなんだね」

「どうかしら。案外、逆かもしれないわよ」

「……まさか」

 彼女の夢、その協力者足らんとするには、何もかもが足りなかったから。

 だから――


     ○


 右半身欠損、すでに致死量を超える失血、どう足掻いても人のままでは死ぬような状況だった。その日は雨で、残念ながらお日様は見えない。

 死ぬには最悪の日だった。

「……ごめんなさい、ひふみ。私の、せいで」

 彼女も負けず劣らずの満身創痍。僕らは勝った。何とかあの怪物を撃退した。けれど、その代償はあまりにも大きくて、少なくともどう足掻いても僕は死ぬ。

 だけど、それほど悔いはない。彼女の矜持を守ることが出来た。血を吸わない、最強の吸血鬼が最強ではなくなるほどの圧倒的ハンデを背負いながら勝てたのだ。

 夢に押し潰されそうになっていた、ただの凡人一人の命で夢が守れたのであれば安いものであろう。あとは彼女に任せるだけでいい。

 礎に成れた、それだけで十分。

「ぼくの、血を……啜って、くれ」

 地面に広がる血痕、もう体にそれほど多くは残っていないだろうけど、それでも彼女が生還するぐらいの役には立つはず。

 だから僕は心置きなく、逝ける。血の一滴すら、愛する彼女と共に。

「愛しているわ、ひふみ」

 僕もだ。その愛している、は僕にとって福音だった。彼女はゆっくりと僕の首筋に口づけをした。よかった。本当に、よかった。

 少しだけ自分が、誇らしく思えたから。

 だけど――

「……え?」

 何故か、眼が覚めた。死んだはずだったのに、眼が覚めて、自分の上に覆いかぶさるような灰を手ですくい、ようやく状況に気付けた。

「血を、啜らずに、送った?」

 致命傷は全て完治していた。人間では絶対にありえない回復力。

 自分は吸血鬼、眷属となった。

 そして彼女は、眷属を生むために血を送り、散った。

 千年生きた女王が、只人のために。

「あ、ああああ、ああああああああああああ!」

 彼女は最後まで理想を捨てなかったのだ。

 僕は彼女の灰を抱きしめ、雨と共に泣く。


     ○


 この世のものとは思えぬ地獄。形容しがたい光景が、人間の感性では受け入れ難い景色が、辺り一面に広がっていた。

 白き十字架、紅き十字架、骨と血が絡み合った奇怪なオブジェがそこら中に散らばっている。ここには元々、古い団地が立ち並び、耐震の法令改正に伴い再開発する予定の区画であった。更地にした後、メダイ機関の拠点を建造する。

 入札も無事終わり、あとは工事を着工するだけ、と言うところでの大事件である。高位の吸血種、『悪食』のヴァンヘルシングが再び姿を現したのだ。

 第一次侵攻の際、『鮮血女王』の手によって撃退された怪物が、短期間で多くの血を、命を奪い、力を増幅してやってきた。

 あの侵攻で『鮮血女王』は散った。もはやこの国に、一桁台の『悪食』を止める術はない。それでも放置は出来ない、とメダイ機関が動いた。

「……地形を変える、空の色も変える、やりたい放題じゃねえか」

 真っ赤な空、火山灰にさらされた空や大地と同様に、天地が血に染まっていた。天災の如し超規模の影響力、これが力を付けたヴァンヘルシングの力なのだろう。誰も勝てない。勝てるわけがない。

「正道殿」

「どうした、せつ子」

「せつ子ではなく刹那ですぅ。これ、戦闘の跡ではありませんか?」

「……そう、だとは思うんだが」

「歯切れが悪いですねぇ」

「戦闘の跡だとして、誰が『悪食』なんぞと戦うんだ? 俺たちだって特攻隊みたいなもんだぞ。正直、二ケタ台の道化野郎にすら、俺たちは勝てなかった。今度の相手は、まさに桁違いだ。日本にゃいねえよ、渡り合えるやつすら、な」

 最強の怪異、吸血鬼。普段、人の目に触れること、矮小なる者共が構築する世界に干渉することを良しとしない種族なのだが、『道化王』、『悪食』、最近は変わり者共がむやみやたらと干渉してくるようになった。

 人間は強くなった。総合力では最高の霊長であるだろう。

 されどまだ、局地戦で吸血鬼に敵う力は持たない。

「第二次侵攻、日本を滅ぼす気か、吸血鬼が」

 メダイ機関の特殊対策チーム、志願した者の中には元拳士の黒木も混じっていた。人間の限界を知り、心折れ、されど失った命への義務感が戦列から離れることを良しとしない。今はただ乾いた心でしがみ付くだけの亡霊である。

「黒木よ。吸血鬼じゃねえ。『悪食』が、だ」

「……それのどこに違いが?」

 吸血鬼への憎悪は充ち満ちているが。

「……今のお前さんに何を言っても無駄だろうが、少なくとも一次侵攻の際、『悪食』を撃退したのは『鮮血女王』、吸血鬼だ」

「なら、それはただの内輪揉めだったんでしょう」

「……ったく、若いくせにひねくれやがって」

 このチームの隊長である轟正道は顔をしかめた。彼もまた括りとすれば怪異、鬼種であり吸血鬼とは遠縁だが根は同じ。どれだけ綺麗ごとを吐いても、人と怪異は交わらない。それなりに力を持つメダイ機関でもそうなのだ。

 世界が融和する日など、来ないのかもしれない。

「隊長、この先に広場に、何かが、います。信じられない。何なんだ、あれは。死肉を、貪り食っている。骨の、化け物、です」

「骨の、化け物、だと?」

 景色の中で入り乱れる血と、『骨』。正道らも『悪食』の詳しい情報を持つわけではないが。少なくとも彼が骨を操るという情報はなかった。そもそも、そんな吸血鬼がいるはずがないのだ。彼らは己が血を操る術理に誇りを持っている。

 血、以外を武器とする吸血鬼など、聞いたことがない。

「強いか?」

「間違いなく。空気が重く感じるほどの、生命力です。桁が違う。レベルが違う。どうしようもない。勝てるはずが、ない」

 魔眼持ちの隊員が力なく首を振る。遭遇する前から、見えた時点で心が折れたのだろう。並の者では近づくだけでこうなってしまう。

「俺とせつ子が前衛を張る。麒麟寺は後衛で使えそうな奴を引っ張ってこい」

「俺は待機ですか、轟隊長」

「死にたがりに前張らせるほど、俺はテメエを信用してねえ。黒木よ、信用されてえなら、そのドブみたいな目を何とかしろ」

「…………」

「征くぞ、せつ子」

「あい。ただ、私は刹那ですぅ」

「おう。わーったわーった」

 メダイ機関日本支部が誇る最高戦力、伝説の赤鬼轟正道。そして退魔の超名門、阿僧祇が生んだ俊英、阿僧祇刹那が前衛を担当する。

 対するは――

「ォォォォォオオオオオ」

「……『悪食』じゃ、ねえな。あれは」

「では、何ですかぁ?」

「知るか」

 骨が幾重にも絡み合って造られた、巨大な化け物であった。まるで骨が脈動する血管のように蠢き、巨大なる悪鬼を形作っている。

 足元の死肉は、

「隊長! あの足元の死体が、ヴァンヘルシングです!」

 四肢を欠損し、再生する度に骨の異形に喰われたのだろう、歪な形となって再生を停止、つまり死んでいた。それでも白い獣は喰らうことをやめない。

 執拗なまでの攻撃性。『悪食』に対する憎悪が見える。

 理性を欠いてなお、絶対にあれだけは殺し切る。強過ぎる恩讐が、あの獣を駆り立てている。まさか、『悪食』討伐に来たというのに、正体不明の怪物がすでに『悪食』を喰らっていようとは、誰も思わないだろう。

「味方、になったりせんよな」

「……目が合いましたが、どうやらダメみたいですぅ」

「その糸目が良くないんじゃねえのか?」

「目を閉じているだけですよぉ。あ、来ます」

「ちィ!」

 白き獣は二人を見て、強烈な敵意を帯びた咆哮の後、口にくわえたヴァンヘルシングの死体を彼らに向けて放り投げた。

 それを――

「やるしかねえかよ!」

 轟正道の紅き腕が跡形もなく粉砕する。人知及ばぬ怪力こそが、ジャパニーズオーガ、轟正道の真骨頂である。

 正道らを敵と判断したのか、白き獣が凄まじい速さで近づいてくる。巨大な質量の怪物である。人間では、誰も止められない。

 されど、この男なら、

「ファ○ク!」

 伝説の男、百戦錬磨の赤鬼、轟正道ならば受け止められる。力勝負なら、並大抵の吸血鬼には負けない。その自負がある。

「ォォォオオ」

「ぐ、おお。クソ、重ェな、このヤロウ」

 ただ、白き獣もまた信じ難い膂力であった。しかもその上――

「が、ぐ」

 全身が凶器でもある。何処からともなく飛び出た骨が正道の腹を貫く。その程度の損傷でどうにかなるほど、鬼種はやわに出来ていないが、

「オラァ!」

 正道の拳を受けた獣もまた、同じ。表面の骨が砕けただけ。鬼の拳ですら、肉にも届かぬまま。しかもそれらはすぐに再生してしまう。

「せつ子ォ!」

「あァい」

 打撃は通らない。なら、斬撃で勝負。細い身体の阿僧祇刹那は怪物同士の間に割って入る。退魔の名門、阿僧祇が一角、阿僧祇刹那に与えられたひと振りの長大な大太刀。斜めに背負わねば地につくほどの長さであり、当然彼女の背よりも長い太刀である。封ずるは幾重にも施された呪符。一枚、二枚と剥がれ――

「斬りますぅ」

 真っ赤な刀身が顔を出した。数多くの怪異、彼らの生き血を啜った妖刀『修羅村正』を担ぐように構え、彼女は力感なくそれを振るった。

 すると――

「オオ?」

 白き獣の身体が、美しい切り口で両断される。刃こぼれ一つせず、その刃は無数の骨と肉を、断ち切って見せたのだ。

「……厄介、ですねェ」

 だが、白き獣は骨も、肉も再生してしまう。斬ったそばから、両断したと言うのに、まるで何もなかったかのような様子で、阿僧祇に目をやった。

「……なんだ?」

 遠目で戦いの様子を見ていた黒木はいぶかしむ。阿僧祇刹那の斬撃はダメージの過多はともかく、間違いなく傷自体は与えている。すぐさま敵意を見せてもおかしくないはずなのだが、何故か彼女には敵意を示さない。

 轟正道には遠目からでも敵意を見せたというのに。

「敵として認識していないのか? 力不足か、それとも――」

 阿僧祇は前者と捉えられたのだと判断し、少しばかり顔を歪めた。普段、おっとりしている彼女であったが、自らの使命と技術にはそれなりの自負があったのだ。敵に侮られたままでは、阿僧祇とは呼べない。

 ゆえに彼女は『眼』を見開いた。

 その瞬間――

「ッ」

 白き獣が、彼女の魔眼、紅きそれを見てすぐ、敵意を示して無数に骨を殺到させた。眼を開いたからそうなったのか、眼を開いたから間に合ったのか、それはわからない。ただ、阿僧祇刹那はその攻撃全てを見切り、逆に――

「アァイッ!」

 縦横、縦横無尽に斬撃を走らせ、相手を断ち切る。

 ぱっちりと見開いた彼女の眼は、一瞬先を見通す魔眼である。集中した彼女に攻撃を与えるのは至難の業。しかも妖刀を操り、無双の斬撃を放つのだ。

 これが阿僧祇刹那の実力である。

 しかし――

「危ねえ!」

「ッ⁉」

 視界を塗り潰すほどの、無数の骨が無差別に全方位、吹き荒れた。先んじて動くことで回避可能であれば、阿僧祇刹那は攻撃を受けることなどないが、先んじたところで回避不能であれば、それをどうにかする術など彼女にはない。

「あー、クソ。また乙女に怖がられちまう」

「……油断しました。すいません」

「いい。攻撃を受けるのも、俺の仕事だ」

 彼女の盾となり、全身に骨が突き立った正道はひざを折る。さしもの赤鬼も、これだけ体に刺されてしまえば、万全とは言い難い。

「一旦後退してください!」

 後衛からの援護射撃、雷が白き獣を穿つ。その瞬間、骨だらけになった正道が阿僧祇を背負い、全速力で後退した。

 少し戦ってみてわかった。おそらく、あれは現状まったく本気ではない。『悪食』への敵愾心は、彼のみに向けられていたのだろう。あくまで追い払うためのモノ。そうでなければさすがに正道とてこんなには動けない。

「……正道殿」

「……見ての通り、こんだけぶっ刺されたが、急所にゃ一つも当たってねえよ」

「…………」

 白き獣は叫び、威嚇しながらも、むしろ一歩、二歩とかすかに後退するかのような動きを見せた。後衛の要、麒麟寺の雷に慄いたわけでもないだろう。何故そのような行動を取るのかがわからない。わからないまま、獣はさらに苦しむような声を出す。何かと葛藤しているような、そんな、悲鳴のような声を。

「何を、してんだ?」

 獣は突然、地面にこびり付いた血を舐め始める。

「血を、舐めている? 啜って、いるのか?」

「目の前に新鮮な血が、こんなにあるのに、か?」

「た、確かに」

 正道は自らに突き立った骨を抜きながら、何とも言えぬ表情で獣を見つめていた。何かに、必死に、あの獣が抗っているように見えたから。

 それは阿僧祇刹那も同じ。

「……逆、か? 俺たちの血を吸わないために、あの血を、ヴァンヘルシングの血を啜って、渇きを癒そうとしている、のか?」

 黒木にも、そう見えた。

 獣が藻掻き苦しみながら、何かに抗い、こらえているような――

「だが、そう長く耐えられるもんじゃねえだろ。種族特有の衝動って奴は、呪いのようなもんだ。理性なしで耐えられるほど、やわじゃねえ」

 轟正道は首を振る。今が好機、阿僧祇の攻撃は通じるのだ。五体バラバラにして、肉にさえ届けばあとは正道の拳で粉砕し切るだけ。リスクは高い。成功の確率は極めて低い。それでも、あの獣を野放しには出来ない。

 ゆえに彼は非情の決断を下さんとする。

「やめておいた方が良い。『悪食』と戦って弱っているとはいえ、血の薄い小鬼程度や賢しい半人間風情にどうこう出来る相手じゃないさ」

 少年のような見た目の男に、声をかけられるまでは。

「え、そんな、探知に、引っ掛からなかった⁉」

 索敵担当の隊員は戦慄する。

「……吸血鬼のバーゲンセールだな」

「軽口は嫌いだよ、小鬼。死にたくなければ僕に下らぬ言葉を投げかけないことだ。ただでさえ、僕は非常に気が立っている。ああ成って、まだ狭間に立とうとする義兄さんを見て、哀しいやら、虚しいやら、心が張り裂けそうなんだ」

 少年の髪は白く、短く切り揃えられたものであった。漆黒の外套をまといつつ、短パンと言うよくわからない出で立ち。小さな身体も相まって、威圧感はない。少なくとも、常人であれば何も感じなかった。

 常人以外は、言葉も出ぬほど空気に飲まれていたが。

「君たちが現れるまでは、手を出す気なんてなかった。力を求め、目的を達成し、そのまま朽ち果てるのもまた美しい終わりだと、そう思っていたからね。でも、まだ義兄さんが、残っているのなら、僕は僕の責務を果たそう」

 少年は一人、獣へ向かって歩む。

「な、何者ですか?」

「……知らんが、一つだけ言える」

 轟正道は眉間にしわを寄せながら、

「あれには、誰も勝てん」

 そう断言した。

 少年は微笑む。その眼は理性無き獣にしか見えない。だからこそ、少年は絶対に見せない、本当の貌をしていた。

「血の盟約があって、僕はヴァンヘルシングと戦えなかった。我が名代として戦った眷属、千賀一二三。主たる、我が名の下に、貴様を救済せん」

 その貌はすぐに消え、次の瞬間には戦闘狂の貌と成った。

「我が名は序列第四位、『鉄血』のヴィルヘルムなり」

 少年、ヴィルヘルムは自らの貌の前に手をかざし、兜をかぶるように手を引き下げる。その瞬間、真紅の兜が顕現し、同時に真紅の鎧が展開された。

 その紅は深く、黒く、何処か鉄にも見える。

「……て、『鉄血』、って」

「現存する、おそらくは最強の、吸血鬼だ」

 正道らの目の前で、巻き起こるは化け物による戦闘。いや、ただの蹂躙であった。明らかにヴィルヘルムを見た瞬間、白き獣は本気の姿勢を見せた。正道らと戦った時とは比べ物にならぬほどの戦意を、殺意を示したのだ。

 それなのにヴィルヘルムは、一方的に白き獣を殴り、粉砕し、殴殺していく。全身を覆う真紅の、血で出来た鎧は何物をも通さない。白き骨は、鎧に触れると熔け、消える。あれは灼熱であり、鉄でもあるのだ。

 先ほどまで鉄壁に見えた白き獣の外装も、『鉄血』が振るう暴力の前には無力。殴る、殴る、殴る、ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ、骨を、肉を、『鉄血』の拳は押し潰す。言葉も出ない。如何なる攻撃も通さず、一方的に殴り続けるような怪物に、誰が勝てると言うのか。一発一発が、正道よりも重い拳である。

 誰も、言葉も出ない。

「ォ、ォォ、オオ」

「おやすみ――」

 骨を無理やり、力ずくで引き剥がし、そこに豪腕を叩き込む。中から飛び出した人物を見て、一同は驚愕した。獣の中には、線の細い少年がいたから。

 黒髪の、紅い眼以外は普通の、少年が。

「義兄さん」

 その四肢を引き千切り、腹を薙ぎ、臓腑をぶちまけながら白き獣の中身を完全に無力化した。だが、彼もどうやら吸血鬼であり、すぐさま再生が開始される。

「……ありがとう」

 ヴィルヘルムは少年を抱きしめながら、首筋に口づけをして、血を吸った。彼がここまで強くなったのは己のせいである。『悪食』と戦う力を欲し、『悪食』と戦うことの出来ぬ自分がそれを与えた。今更血を吸ったところで、そう成ったことに変わりはない。これはあくまで、ただの一時しのぎ。

 それでもヴィルヘルムは、そうすることを選んだ。

 生存可能な分だけ、血を残し、ヴィルヘルムは彼を抱きながら、呆然自失のメダイ機関の面々に足を向けた。警戒する気も起きない。

 戦えば、絶対に負ける相手である。

「ヴァンヘルシング亡き今、義兄さんはきっと『鮮血女王』の祈りに殉じようとするだろう。それは呪いにも似たもの。不可能を可能にして欲しいという願い。君たち人間の大半が、そんなことを願っていないことなど百も承知だ。それでも――」

 ヴィルヘルムは彼らを、睨む。

 幾人かは、それだけで失神を、失禁する者も、いた。

「君たちが掲げた建前、マリーと共に築き上げた都市、ただの幻想、空虚なる水上の都、義兄さんが人間に、怪異に絶望し、諦めるならそれでもいい。そうなるべきだ。だってそうだろう? 異なる者が手と手を取り合う何てこと、ありえないからね。だから、義兄さんが諦めたなら、僕は何もしない。万が一夢を叶えても同じ。だが、君たちが諦めた場合、曲げた場合、僕は君たちを滅ぼそう」

「ッ⁉」

「コンコルド・シティだっけ? 十年になるか、百年になるかわからないけれど、しばらくお世話になるよ。義兄さん共々、ね」

 そう言ってヴィルヘルムはどろりと影に融け、消えた。残された彼らは皆、言葉を失ったまま、立ち尽くす。『鮮血女王』とは異なり、あれは暴君なのであろう。言葉を交わそうという意志すらなかった。

 ただ、彼らに決定事項を伝えただけ。

「難儀だな、これから」

「……『鮮血女王』の祈りとは、何なんだ?」

「……人と異種族の、融和だ」

 黒木は唖然とする。そう言う建前でメダイ機関が動いているのは知っていた。だが、そんなもの本気でやろうとしているなど、思ってもいなかったのだ。いや、やろうとしていたのは創設者や一部だけ。建前と堕しているのは事実。

 だが、あの都市にヴィルヘルムが入り込んだ。

 彼の言葉は、きっと否応なく都市の姿勢を決定づけてしまう。何せ、あの怪物が滅ぼすと宣言したのだ。『悪食』と討ち果たした白き獣を、一方的に蹂躙した最強の怪異が、都市に降りかかるとすれば、選択の余地などない。

 あの獣の中身が諦めるか、夢を叶えるか、二者択一。

「馬鹿げている」

 黒木の言葉に正道は苦笑し、

「本当にな。とりあえず報告は俺がしておく。各員は周辺を捜索し、人が巻き込まれていないかを確かめろ。とにかく今はやるべきことをやろう」

「はい!」

 やるべきことを指示した。ここから先、考えるのは上の仕事である。『悪食』よりもある意味厄介な、手の付けようがない天災を都市は引き入れることになってしまった。戻ったら、大騒ぎとなるだろう。

 それも悪くない、と正道は思う。

「夢は続く、か。その支えが暴力であったとしても、悪いことじゃねえさ」

「あい」

「き、聞いてやがったのか」

「大きな独り言でしたのでぇ」

「……お前さんも捜索に行ってこい」

「あーい」

 これは導を失い、座礁しかけていたコンコルド・シティが、暴力によって襟を正した日の出来事である。知る者は少ない。

 されど、これは間違いなく分岐点であった。


     ○


「ただいまぁ」

「やあ、おかえり」

「……何してるんですか、先生」

 羽佐間一二三が家に戻ると、そこには不自然な格好で床に突っ伏して眠る羽佐間翡翠と、テレビの前でゲームに興じている先生ことヴィルヘルムがいた。

「ゲームがしたくなってね。お邪魔しているよ」

「鍵は?」

「僕にそんなもの必要だと思う?」

「……ですね」

 とりあえず、いつものことなので催眠術で寝かしつけられた翡翠をベッドに運んでやる。家に侵入したヴィルヘルムを前に追い出そうとしたのだろう。大体いつもこうして眠らされ、翌朝憤慨して機嫌を損ねるのがお決まりの流れであった。

「トマトジュースが飲みたいなぁ」

「事前に言ってくれないと買ってないですよ」

「……義兄さんは冷たいなぁ。前は用意してくれていただろ?」

「凄い前の話ですよ、それ。まだ、マリーがいて、先生がやって来て、俺の部屋を二人が占拠していた頃じゃないですか」

「吸血鬼の時間軸からしたら、昨日の話さ」

「都市に来るよりずっと前の話なのに……買ってきましょうか?」

「それよりもゲームの相手をしてよ。昔、最強である僕が負けるというあってはならぬことが起きたからね。それのリベンジをしに来たのさ」

「……なるほど。でも、ゲームでくらいまた勝たせてもらいますよ」

「生意気な眷属だね、義兄さんは」

「義兄でもあるので」

「あはは、そうだね。その通りだ。じゃあ、胸を借りるよ、義兄さん」

「ええ」

 ヴィルヘルムはこうやって気まぐれにやって来て、好き放題して帰っていく。翡翠が家に来てからは頻度が減ったけれど、やはりこうしてひょっこり現れて好き放題していく。そんな暴君を一二三は決して嫌いではなかった。

 かつて三人の中で流れていた空気、今は二人しか残っていないが――

 このひと時だけは、昔と同じように。

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死神は血を啜らない 富士田けやき @Fujita_Keyaki

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